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石見・出雲を切り取り次第
明智光秀が信長に謀反するきっかけとなった出来事について ・信長からいじめを受けていた ・家康の接待役をはずされた と言うのは後世の資料に拠る根拠の無い事であると判明していますが ・丹波と近江を召し上げ、石見・出雲を切り取り次第 と言うのは「日本史」や「信長公記」には出てきますか?
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制圧後、その領地の支配権を認める切り取り次第 いわゆる未征服地の一職支配権授与に関しては信長は他の家臣にも命じてます 有名どころでは 荒木村重に摂津 佐々成政に越中 彼らは成功例ですが 失敗例としては 天正三年、簗田広正に南部ニ郡しか領有していなかった加賀の制圧を命じましたが 一向衆の猛反撃で逆に大聖寺城に追い込まれ 急を知り駆けつけた柴田勝家、佐久間盛政に救出される大失態でお役免除 この戦いで戦功があり、後の加賀制圧で一向衆から鬼玄番と恐れられ、戦上手を見せつけた佐久間盛政に任される事に ただ光秀に本拠を返上し出雲等切り取り次第を命じたというのは胡散臭いですね あと信長が光秀を冷遇したことをなかったのでは? 天正四年に塙直政の対本願寺攻めの軍に配下として従っていた光秀は 旗頭塙直政が雑賀衆により討たれ天王寺砦で本願寺・雑賀衆1万5千の大軍に包囲されました その急報を聞いた信長は馬廻のみのたった3千の兵を率いて 本願寺の大軍の中を突破して光秀を救出しました その時、信長は太ももに銃弾を受け負傷していました 信長にとり光秀は 例え自分が負傷しようと寡兵で大軍と戦おうとも 救出するに価値のある家臣であったのではないでしょうか?
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- kusirosi
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フロイス「日本史」や「信長公記」には出てない。 これは、元禄年間の「明智軍記」が初出。 作者が、現在では失われた文書から記したとされる。 しかし、吉川英治の「宮本武蔵」程度の信憑性なので、 作者の創作かもしれない。\(^^;)...マァマァ
お礼
ぽいですね ありがとうございます
お礼
ありがとうございます 確かに家臣の中で最も信頼していたのは光秀ですからね