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精神の充足というより 存在の自覚的確立ではないか
《精神の充足》というとき たしかに あのときの試練を乗り越えたその充足の度合いのほうが大きかったというように 比べることが出来るかも知れない。ゆえにそれは 量であるという見方が出されうる。 けれども それでは 単なる程度問題であると言われても仕方がない。 問題は 存在の自覚的確立にあるのではないか? 《わたしがわたしである》ことである。 《わたしがわたしであるわたしが わたしすること》である。 わたしは あやまちうる人間であって あやまつなら わたしに立ち帰ること である。 わたしが 一なら わが人生の実存は: 1 = 1 であり あやまつとき ( -1 ) x ( -1 )= 1 としてのように われに還る。かくしてこの自己還帰を繰り返しつつ ( 1 = 1 ) x 1 x 1 x ・・・ x 1= 1^n = 1 という姿を採るのが わたしの存在の動態である。のではないか。 さらに ここからは 根拠のない理論です。文学的な表現で表わすのみの主題(命題)です。 けっきょくわが存在の実存過程は その内なる領域においてユラギとして成っているらしい外なるこの身と心との存在 この存在が 社会や地球や宇宙のウゴキと一体となった状態になること ここに人生のおもしろさ・たのしさがあるのではないか? 人びとのよろこびとともに この世のいやというほどの悲惨な出来事をも このわが存在の内におさめている姿 おさめつつ一緒に――克服して――生きていく姿。これではないか?
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ この人間肯定論は仏教やキリスト教の、善のみを肯定し悪を否定している、事への疑問が源になっていると思っています。(親鸞に惹かれているのはこのあたりが、根拠かと思います) ☆ 人間肯定論についてのご説明を受け容れますが ここでの《みなもと》論については 少し違うと思っています。 親鸞にしても 《義無きを以って 義として》います。義・不義 善・悪 聖・俗などなどの対立する二項を超えたところの義――非義――であるはずです。善悪の彼岸にすでに到っています。 では 《善をも悪をも肯定する》のか? それは 《この存在が 社会や地球や宇宙のウゴキと一体となった状態》を言うからには 善人をも悪人をも おさめていることになります。なりますが それは 行為と存在とを分けて捉えてもいます。 思惟や行為についての悪と 存在〔が善か悪か〕とは 別です。 《罪を憎んで ひとを憎まず》と言うぢゃないですか。 考えやおこないの悪は どこまでも批判し 批難しつづけます。存在を互いにとうとぶゆえです。 ★ 私は思います。釈尊が言ったという「本来、善とか悪とか、そういうものはないんだ」ということと大いに関係していると。 ☆ これは ペテンであるはずです。 ★ 「本来、善とか悪とか、そういうものはないんだ」 ☆ と言って 善とか悪とかに あなたご自身がこだわっているぢゃないですか。そこから突き抜けていないことを その発言じたいが証明しています。気の持ちようで ことは決まるとでも言っているに過ぎません。 けれども これを突き抜けたゆえに 存在をとうとび 思惟のマチガイ・行為のアヤマチについて 批判します。( -1 )に対して ( -1 )を掛けます。突き抜けているゆえに こういう生活態度を採ります。善とか悪とか アヤマチとかは 現実にあるのです。 さとりとは何かを明らかにせず・また し得ずマボロシのうちに《無いんだ》と言われても インチキだとしかこたえようがないように思います。 ★ ・・・☆「私は、あやまちうる人間であって・・・」 ☆ これは 全世界にわたって 普遍的な命題ですよ。