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生活世界

生活世界 世界内存在 環世界 の違いを教えてください。

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回答No.2

やあ。 私は実在する仮面ライダー黒き明星だ。 初の男子プリキュアでもある。 現在43歳だ。 生活世界、仏教では娑婆と言われていて、これは日本では定着している。苦しみの世界だ。 世界無い存在、救いを待つ限り、救いはけして訪れず、自らが自らを昇華することで解脱する、六道輪廻をさまよう亡者どもだ。仮面ライダーの弟子はこれをインベスと定義して戦っておるね。 カン世界、、世界が結実した真実のみの姿だ。君達が完全消滅し、滅びた後、赦された物だけに到来する地球の本来の姿だ。

回答No.1

「生活世界(あるいは生世界)」というのは後期のフッサールが唱えたもの。 「世界・内・存在」はハイデガーが「存在と時間」で唱えたもの。 「環世界(あるいは環境世界)」はフォン・ユスキルが「生物から見た世界」で述べているもの。 その三者がどう違うのか、あるいはどのように似ているのか、ということだと思いますが、最初にフッサールがなぜ「生活世界」ということを言い出したのか、それから始めたいと思います。 初期のフッサールはデカルトの道に倣い、「われ思う」という主観性、あるいは彼の言い方でいえば超越論的主観性から世界を構成する、ということを考えていました。 その超越論的主観性を取り出す方法が現象学的還元で、外的世界の存在に対する判断を停止し、宙づりにすることで純粋意識を取り出し、世界をその純粋意識による志向性で構成するというデカルトと同じ方法を取ったのですが、後期の「経験と判断」での前述語的世界の発見と「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の付録につけられた「幾何学の起源」で、ガリレオによる自然の数学化による学問の危機を論じる中で、デカルトの道を放棄し、発生的現象学に転じました。 発生的現象学というのは、世界を明示的な志向性によって構成されたものとする前期の思想に代えて、世界を見えない志向性である「能作」によって作られたものと見なすことです。 つまり、私たちが意識によって世界を構成する以前にすでに世界は「能作」によって、あらかじめ構成されている、その構成された世界を私たちは受動的に受け入れて、それに基づいて世界というものを考えているということ。 フッサールに言わせると17世紀のガリレオによって、世界、そして自然は数学化され、私たちはその数学化された世界を自然とか世界だと考えている。 その結果、本当の世界、生活世界がガリレオによって「隠ぺい」されてしまった。 では本当の世界とは何か、数学によって人間から独立の客観的な世界があるとすれば、生活世界は主観的な世界、いわば私たちが日常的に生きている世界のこと、前述語的世界のこと、私たちがそこから生命を得ている世界のこと。 ガリレオが隠ぺいしてきた、そのことで学問を私たちとは無縁なものにしてきた、本当の世界をもう一度見出し、自分たちの考えの根源である生活世界から、その「能作」として、あるいは発生として世界を再建しなければならない、そうして私たちと世界との生き生きとした絆を取り戻さねばならない。 だいたいそれがフッサールの生活世界の考えだったと思います。 いわば、反デカルト、反ガリレオ、そして近代の数学的自然科学による自然支配に対するプロテスト。 それに対してハイデガーの「世界・内・存在」はフッサールからその生活世界の考えを受け継ぎ、人間は世界の外に外在的に存在しているのではなく、世界にあらかじめ組み込まれている、そして人間は世界に組み込まれている「被投性」だという点で、デカルトのいう自我とか主体性に対して反対します。 人間的実存は「被投的」実存です。 かれは「存在と時間」の実存論的分析から「不安」とか「気分」の分析を通して人間がいかに、あらかじめ存在する世界の中で生きているかを明らかにします。 「不安」とか「気分」はその対象がないという点で、「恐怖」などと違います。 「不安」も「気分」も対象が明確ではなく、漠然としていることが特徴です。 そして人間は自我とか主体である以前に、「気分」や「不安」の中に否応なく「投げこまれ」ている。 それこそハイデガーのいう「世界」です。 人間にとって「世界」は自分とは無縁に外在的に存在するモノではなく、否応なく巻き込まれているもの、何らかの「気分」として浸されているもの、人間的実存は被投的、受け身です。 しかし、人間は受け身では満足せず、それからの脱出を求める「脱自的実存(エクスターゼ)」です。 いいかえると「被投的投企」、それが人間です。 次にフォン・ユスキルの生物的な環境世界は生物の世界との在り方から導き出されたもので、生物にとっても世界は独立の客観的なものではなく、自己の生存と一体のもの、不可分離なものです。 動物は環境の中で生きている。 自己と環境が分離されていず、環境はそのまま自己の世界です。 その点ではハイデガーの世界とよく似ています。 人間と同じく動物も世界に対しては受け身で、被投的です。 世界は意識によって構成されたものではなく、あらかじめ存在し、その中で生きて行かざるを得ない。 選択の余地がありません。 しかし、動物は世界を超出することができない、人間だけが世界にあって、その世界を超出することができます。 人間は自己を自然から切り離して客観的に見ることができる、そのことで自然を対象化することができます。 世界を意識によって再構成し、その再構成された人為的な世界を自分の周りに作り出すことによって、新しい環境を作り出すことができます。 今の私たちは自然の中に生きているのではなく、人為的に作られた世界の中で生きています。 自然も世界も、その人為的に作られた世界の単なる道具とか手段に過ぎない。 極端なことを言えば、バーチャルな世界に私たちは生きています。 これが動物と人間とを決定的に分けているところ。 まあ、そんなところでしょうか。 ちょっと漠然としているかもしれません。

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