死に至る苦痛は恐ろしいものです。
でも、死、そのものは何も感じません。
全て、感じると云うのは生きている脳が感じること。
死ぬ瞬間が機能停止であれ魂魄の体外離脱であれ
それ自体は暗くなり、聞こえなくなり、何も感じなくなり
そこら辺りで意識がスッと消えておしまい。
ひどい苦痛を感じるように悲惨な死に方を避けたいと
願っても、旅行に行く飛行機が落ちた、車が突っ込んで
来た、船が沈んで渦に引きずり込まれた、犯罪に巻き込まれ
滅多刺しにされて殺された、どんな恐ろしい死に方を
考えても、どれも突発的で避けられないことに
気づかれるでしょう。
全く、考えてもどうしようもないことです。
いつ、どのような惨事が起きるのか、どんな死に方を
するのか。 そもそも惨事がこの身に起きるのかさえ
何一つ決まったことなどなく、従って避ける準備も
出来ません。
ということは、どうしようもないことをわざわざ自分で
想像し、忘れぬようにし、その恐ろしさをよりリアルに
シミュレーションすることで、益々自分を脅えさせ、
震え上がらせている。
なぜ、わざわざそんな恐ろしい妄想をしなければ
ならないのか。
かさぶたを、痒さに耐えきれず搔き毟ってしまうように
何故わざわざ自分で自分を脅えさせるのか。
その理由の方が追求する価値があると思いませんか?
自分の意識が消失することだって、毎日寝る度に
それを繰り返している訳です。
目が覚めないことが恐ろしいのか、自分がこの世界の
どこにもいなくなってしまうのが怖いのか。
それを追求していくと、自分が完全に否定されて
無くなってしまうことが理解出来ずに強い不安を
感じるのだということが浮かび上がってきます。
余りの苦痛に苛まれれば、死は忌まわしい苦痛から
永遠に自分を解放してくれる安息に思えてくる。
耐えがたい肉体の激痛のさなかに、殺してくれ!と
叫ぶのは、死、それ自体は苦痛と別なものだと
理解する手掛かりになります。
苦痛を緩和する方法はあるし、一瞬で体を粉々に
引き裂かれるような事故ならば、凄まじい苦痛を
感じて理解する時間も殆どないでしょう。
即死、というのは自分の身に何が起きたのかさえ
どのような激痛なのかさえ、判らぬまま死ぬのです。
一瞬で引きちぎられた腕が折れようと燃えようと
それについてはもはや痛みは感じません。
でも引きちぎられ、黒焦げになった遺体は悲惨で
惨たらしく、被害者が感じずに済んだ激痛まで
想像してしまう。
中々、言いたいことがまとまりませんが、苦痛と
切り離された死は、意識消失であり、それ自体は
苦痛ではない、ということならば、目覚めない
眠りと同じですから、苦痛を恐れるのとは訳が
違います。
目覚めないこと、というより、自分が消滅する、という
たった一度きり自分の身に起きる究極の破壊を
恐れる気持ちが、心の底の方にあります。
自分がこの世界のどこにもいなくなる。
なくなってしまう。
その理不尽さは確かにとても恐ろしいと感じるのが
普通です。
全ての人は、死ぬ。
その当たり前のことが、自分に関しては感情的に
理解が出来ない。 だから、拒否する。
でも、それらの恐怖は全て、自分のことしか考え
られない、世界の中心は自分、自分が認識しているから
自分にとっての世界は存在している、と本気で考える程、
人間として実感しているのは自分だけ、という未熟、孤独。
それが死を病的に恐れる心理の裏返しにあります。
他人を自分と同じように喜怒哀楽があり、自分が世界の
中心だという感覚を持ち、死を恐れ、プライドがあり・・・
頭では誰でもわかるでしょう。
でも、感情的に、気持ちで他人の心を自分の心と同様に
捉えることができるようになるには、相応の経験を積まねば
ピン、と来ません。
自分本位の感じ方、他人との付き合い方などで散々に
傷つき、考え、自分は別に特別な存在でも何でもなくて、
目の前に途方もない数生息している、この「他人」という
ものの、自分も一人に過ぎない、ということを思い知った時。
自分のはかなさ、自分のちっぽけさ、自分の無意味さ。
そういうものに打ちのめされた後で、やがてやってくる
感覚があります。
自分の幸せとか、自己実現とか、自分のことを世界で
一番大切なことだと考えなくなってくると(つまり、そういうのは
つまらないと感じるようになる、ということですが)
自分が死んでいなくなること自体は別にどうでもよく
なってくる時が来ます。
誰かのために、自分の命を使う。
それは臓器移植みたいなヘビーな話ばかりではなく
誰かと睦まじく過ごすだけでも、その人の笑顔や幸福感に
自分が重要な存在として「たった今、ここにある。」ことを
疑うことなく腑に落ちるようになるのです。
無数にいる人の群の中で、本の本の僅かな人々や世界の
わずかな切れ端に、自分が日々生きて成すべきことがある。
自分が消えても、自分と仲良く語らった友の記憶の中に
自分が消滅することはない。
自分が成した、取るに足りない仕事だとしても、それは
この世界の一片を間違いなく構成し、それは変質したり
崩壊したりするけれども、それがあったことで、それに
影響されてまた、何かが誰かに生み出され、世界は
生き物のように変化を続けていく。
そのほんの一瞬の刹那に、自分の命がキラッと燃えた。
あるいは光を放って、そして消えた。
ただそれだけのことだと理解出来てきます。
自分が世界で一番重要な存在だと感じている限り、
それが消滅する恐怖からは逃れられません。
でも、途方もない巨大な命の海の、自分はホンの一滴の
滴に過ぎないことが心で理解出来てくると、そんな小さな
滴が飛び散ってしまうことなどどうでも良くなります。
何だ、海に戻るだけじゃないか、とね。
他人が自分とまったく同じように「独立した意識の存在」だと
いうことを、頭ではなく、心で、感情で、納得できるように
してみることをお勧めします。
絶対視している自己という存在を、世界の中で相対的に
見ることが出来たなら、そのちっぽけさ故に、人は孤独に
苦しみ、肩を寄せ合って愛し合う理由もわかってきます。
そうして、愛し合うことができる僅かな数の人たちと
命は連なって互いに連動し合いながら震えている振動
なのだと理解できたなら、
命は、本質的に、消滅しない。
ということも理解できます。
自分という一滴の命の滴の形は失われても、もとより
それは一瞬の形に過ぎません。
命の海から分かれて、その身に様々な空気中の汚れを
まとい、やがて海に落ちて、滴の形は消えてしまう。
でも、命という水は、何も本質的に変わらずに
海の中の水であり続けるでしょう。
我々は、雲の合間で生まれてから、つかの間 落下
し続けているだけの、小さな雨粒のようなものです。
自分、というちっぽけな存在から、他人へ、そして社会へ。
そして、途方もないこの巨大な世界に想いを馳せて
見て下さい。
あなたも私も、ただ、それだけの滴です。
だから、何も怖がることはないんですよ。
これが、私の世界観の根っこの一つです。
お礼
なんと美しく、荘厳な世界観なのでしょうか。形は人間であっても、我々は周りと融合し、響きあい、振動しあう雨粒のような一瞬の存在であり、そこに個は存在せず、大きな美しく偉大な世界があるのみ。 感動しました。うまく表現できないですけど。 自分がこの美しい自然の調和のなかで、自然体として生きていける気がしました。 おこがましいですが、ベストアンサーとさせていただきます。