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魯迅の作品について
魯迅の作品で「孔乙己」「白光」「秋夜」「狂人日記」を読むことになったのですがこれらは全て同一人物についてのお話なのでしょうか。 短編ものでお話は続いているのですか?そうだとしたら流れの順を教えてください。 また主人公はどこかで発狂して死ぬと聞いたのですがそれはいつ何をしたときですか??
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もしこれがレポートの課題であるならば、その結論はあなた自らで導かねば意味がないと話させていただきます。 仮に芥川龍之介の短編が連作の形ならば、それは作品の内部に綴られているはずですね?。にもかかわらず作品に登場する下人も禅智内供も全くの別人です。 では芥川が短編を数多く書き残した理由を考えねばならないとの話になります。それは芥川の短編全作品を読み終えた後で、話が続いているかどうかを検証せねばならず、彼が着目したテーマをどの様に分析した形が作品に取り込まれているかを考えることになります。 幸いにして魯迅の『孔乙己(クン・イーチー)』『百光』『秋夜』『狂人日記』もさほどの氏幅の作品でもありません。処女作としての『狂人日記』は周囲がカニバリズム(人食趣味)の持ち主であり、彼等がやがて自らをその手中にしようなどの誇大妄想に取り憑かれた男の話であり、『百光』は官吏登用試験である科挙合格を目指しながらかなわず、池に身を投げるとの初老の男の話です。 竹内好の訳によれば、「次々と試験を突破する…そうなれば郷紳たちが、八方から縁談を申し込みに来るだろうし、そうなれば人々はまるで神をあがめるように畏れかしこみ…地位をのぞむなら中央の官吏になればいいし、そうでなければ、いっそ地方官になったほうが得だ」と自らの願望が全て叶うとの夢想に陥った男の心情が浮き彫りにもなっています。まるで現代にありがちな地方の学校秀才が陥りがちな誤謬とも映ります。 逆に『孔乙己(クン・イーチー)』は科挙にむしばまれた落魄(らくはく)の知識人の姿を風刺的に描いて余ますところがありません。風刺のかげに、なお幾何かの同情を感じさせもしますが、そのことが逆にゆがんだ人物を生み出した社会への批判を一層効果あるものにしているともいえます。 ここまでで3つの作品についてお話ししてきましたが、何れも背景にあるのは「科挙」やそれに合格した知識人と呼ばれる人物と社会との関わりの問題が浮き彫りにもされています。社会の矛盾やそれを受け容れないことには生きていくことも難しいステロタイプとと化した秀才達が直面する社会構造との軋轢、といったところでしょう。このことが何を意味するかといえば、それは魯迅が五四文化運動に向けた眼差しともいえます。 今、久しぶりにこれらの作品に目を通して僕が感じたことは、何時の時代もさして変わらないとの印象です。何が何でも一流大学に入らねば、落伍した人生になってしまうなどの根拠のない病理に振り回されている姿は滑稽でしかありません。「学歴」の裏付けであると誤解されている「科挙」や「大学の名前」などといった要素と「それらと個人に対する評価のあり方の違い」がキーワードになるかと存じます。
お礼
回答ありがとうございました。 アドバイスや作品の背景など参考にさせていただきました。 ありがとうございました