- ベストアンサー
日露戦争後の日露関係。
1905年9月 ポーツマス条約調印。 1907年7月には、第一次日露協約。 日本は、戦死傷者約20万人、戦費17億円?を費やし、国民の不満は爆発して日比谷焼き打ち事件も起きています。 それなのになぜ、戦後2年間ほど経つと日露両国は、協約を結ぶほどの関係ができたのですか。 何が両国に協約を結ばせたのですか。 仲直りするには早ければ早いほどよいに決まっている、と思っていますがすっきりしません。 なお、1916年2月2日の読売新聞には、「露から続々と軍器の注文があって、砲兵工廠では昼夜の分かちなく大多忙を極めている…」とあります。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
主戦場が中国だったので、双方の国民に悪い感情が残らなかったのでは、と思います
その他の回答 (3)
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
kouki-koureisyaさん、おはようございます。 もちろん日本を侮っていたということを反省したためです。しかしながら、それだけではありません。日本の後ろには英国の影があったのです。そうです。当時日英同盟を結んでいたのです。 当時の英国は世界最大の海軍を持ち、世界の工場として列強の筆頭に君臨していました。ロシアは不凍港を目指して南下しますが、しばしば英国に邪魔されました。 今回はその英国とよしみを通じるためにロシアは英露協商を結びました。また比較的に仲の良かったフランスとも協商を結び、俗にいわれる三国協商が成立します。これをもってドイツを孤立させることに成功します。 ロシアは英国をこちらになびかせるために英国の中東での権益を保証し、当然同盟関係にある日本の中国、朝鮮での権益をも保証したのです。 ドイツを孤立させる理由は、当時日露戦争でロシアの軍備も相当消耗していました。これは第一次世界大戦に参戦した当時も回復していませんでした。特に日露戦争で後半戦力の不足からドイツ国境の兵力を満州戦線に投入したため、独ロ国境が裸同然になってしまったためです。 詳細は下記のURLを参照してください。 日露協約 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%8D%94%E7%B4%84 英露協商 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E9%9C%B2%E5%8D%94%E5%95%86
お礼
ご回答ありがとうございます。 「日本を侮っていたということを反省した」ので、ロシアは日本との話し合いによって、中国における自国の権益を確保しようとした、ということですね。 ロシアは日本と交渉する一方で、英国とも「英露協商」を結んだ。 ロシアの巧みな外交戦略に、莫大な戦費の借金を抱えていた日本が応じたという構図ですね。 ロシアの立場についてはよく分かりました。
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
えっっっ・・・・と・・・・ 純粋に利害関係のみですよ? 個人の付き合いなら兎も角、大多数の意見の存在する国家の決定の基準は、損得のみです。 大体、本当に信頼があれば、幕末の開国時に全ての国と確実に友好国になっていた筈ですが?
お礼
ご回答ありがとうございます。 「国家の決定の基準は、損得のみです」 戦争で解決するより話し合いで解決する方がコストがかからない、ということですね。 戦争するんじゃなかった、と反省。
- loveriu
- ベストアンサー率11% (5/43)
戦争によって互いの国力を認め合うようになったからではないでしょうか? 日露戦争前は、ロシアは日本をライバルとは認めていませんでしたから。 戦争したことによって、互いをよく知るようになり、相互理解が深まったというか。。。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど!そういうことですか。 #2の方のご回答と合わせるとすっきりしますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど!確かにそう言えますね。 「双方の国民に悪い感情が残らなかったのでは」については、調べてみようと思います。