大雑把に言うと寺は今で言う市役所の戸籍課ですね。
人別帳の管理をし、生まれてから死ぬまでと婚姻・離婚をチェックしていた訳です。
賄賂については個別にはちょっと判らないのですが、実は「役得」として特に罪の意識等は無かったと思われます。
つまりお役目の副収入であり、正当な実入りなのですね。
例えば長崎奉行等は個人貿易(脇荷貿易)が認められており(!?密貿易じゃん!)、其れによりお役目の費用を捻出する訳です。
そもそも江戸期の役職は基本的に全て無収入であり、持ち出しで行うものなのです。
武家の収入の家禄は代々決まっており、その中で家格(要は格式ですね)を維持し且つ役目を全うするものでありました。
ですので家格の低い武家が分不相応の役職に付く事は、前提として出来なかった訳になります。
その中でどうしても役目遂行に必要な費用は「現場で何とかせい」となった訳です。
それが様々な権益で、それが無ければそもそも人を使う事も出来ない(だって家禄は元々格式を整えるだけで殆どが無くなります)と言うのですから、賄賂を取るのは常識であり、儲かればいいけど、やり様によっては家が傾いてしまいかねないものでした。
だって米相場で毎年収入額が上下動をする上に、出るもの(人件費・実費)は物価に連動して上がってしまいますからこれはキツイです。
江戸城内での出世の為に運動費を使うと言う表現はありますが、いわゆる『実弾』では無く、御中元・御歳暮等で、しかもそれは「献残屋」を通して、回り続けるものでした。
つまり高価な贈り物を「献残屋」で購入し、受け取った方はそれを「献残屋」に売る、と言う形がメインだったようです。
今で俗に言う「生臭い話」は武士はしなかったようです。
藩によって違いがありますが、基本的に武士は現金に触れる事すら嫌う傾向があり、現金で直接買い物をするのは身分にそぐわない卑しく下賎な行いでした。
ですので藩によっては小者を雇えない下級武士は夜中に頬かむりをして生活必需品を隠れて購入していたりした話があります。
そうした徹底した経済観念の無さが、貨幣改鋳というインフレ一直線な政策を行い続け、自らの首を力いっぱい絞め続けてw幕末に突入していく事になります。
この様に支配階級が清貧なので、大きな失策が無かったといえるでしょうね。
江戸期の改革と言えば、田沼時代を除いてほぼ全て倹約令で、収入が無いのだから使うな、と言う極当たり前の政策でした。(正しいとは私には言えませんが)
今の政治の様に借金を膨らまし続けるのを良しとはしていないですね、結局は豪商に借金しまくりの藩ばかりでしたがw