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江戸時代あたりの 小規模な寺について
今、江戸時代の事についていろいろ調べているのですが。。。江戸時代になると檀家制度が開始されて、寺が地域とピッタリくっついてしまったようですけど、そうなると地域によっては小さな寺しかない所とかありそうに思ったんですけど、どんな小さなお寺にも立派な御本尊だとか鐘があったんでしょうか? 大きな寺ならいっぱい資料があるのですが、いかんせん小さな寺となるとどうも資料が少なくて困っています。 質問のまとめ:昔(江戸時代あたり)の小さなお寺にも立派な御本尊や鐘があったんですか? そもそも、寺の建物自体もみんな立派な物だったのでしょうか? 回答どーーぞよろしくお願いします
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本尊が立派なのかどうか、その価値はそれこそ信心次第ですから、建物中心に回答します。 寺の建物は、檀家制度が施行されてから少しずつ立派になってきたと言えます。 檀家制度(寺請制度)が施行されたのが確か寛永年間、1638年あたりだったと記憶していますが、それ以前の地方の寺というのは、おしなべて小さなものです。 もちろん藩主の菩提寺だとか祈祷寺といったものはまた別の話ですが、そういう例外を除けば大体どこも立派な本堂を持つものは少なく、4坪から8坪、せいぜいで10坪程度の“お堂”とか“かまや”といった程度のものが主流です。掘建て小屋もようなものも多くあったでしょう。 そもそも意外と歴史の深い寺というのは少ないもので、転宗も含め、現存する寺の大半が16世紀から17世紀前半頃(新寺建立禁止令が徹底する頃)にかけて創建されたものだと思われます。 その成り立ちにはいろいろのパターンがありますが、代表的なのは、村の中の清浄な場所に段々と詣り墓が集まって建つようになり、そこに僧が住み付く格好で自然とお堂が建てられるようになるといったケース、それから庄屋とか長者といった上層農民が持仏をまつるお堂を建て、僧を住まわせて自分の家の法要を勤めさせていたりしたのが発展して村の寺になったケース、などが挙げられると思います。 いずれにしても、当初は小さなものからスタートしたのがほとんどでしょう。生活が安定しないわけですから、僧のほうもかたわらで農業もやっているような例がざらにあったようです。寺になりつつあるがまだ正式な寺ではない、といった状態の小さな建物が村にひとつはある、といった状態が寺請制度導入の前後の状態です。 やがて「寺院法度」が制定され、本寺と末寺の関係が規定されたりするなかで、徐々に「寺」というものの全国的な枠組みが整えられていきます。その後にいよいよ檀家制度が確立し、つまり寺の経済基盤が安定するようになってから徐々に伽藍が大きくなり、整えられていきました。 特に全国で安定的な発展をみた18世紀以降は各村落に大工が定着する時期でもあるそうで、この時期に家屋敷のみならず寺院のほうも専門的に間取りをした建物ができ始めたと言われています。大型化したのも当然この頃以降が主ではないでしょうか。 鐘の方は、伽藍に比べるとかなり重要性は低いわけですし、現在でも地方寺院で鐘を持たない寺は沢山あることからもわかるように、まず伽藍の整備が優先され、追って村の気運や有力者の存在といった要因次第で整っていったのでしょう。
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- sigino
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#4の回答のとおり、詳細をしるには古文書が一番です。 どうも定期的に村の規模をお上に報告していたようで、「○○村記」のような表題が多いですかね。 寺院の詳細もかいてあります。 ○○寺 本尊×× 堂△△間 除地田*反 てな感じで。 資料館の目録であたりをつけ、閲覧を申請してみては。 また「○○市史 資料編」などにも載ってることがありますよ。
お礼
回答有難う ございますー 資料の閲覧申請一度して見るつもりです がんばります・・・はい
- ooyatyako
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愛知県の山の中にある町の歴史をひもとくことになり、古文書等を良く目にします。 小さな寺でも、本尊はあります。鐘も、経本もあります。これらはすべて檀家の寄進によるもののようです。梵鐘の製造を鋳物師と交わした契約の文書や、寄進の旨を刻んだ銘文などが残っています。多くは檀家の中の実力者が多くの財を出している場合が多いようです。本尊の場合には記銘が像の内側にあるため見ることはできませんが、同じような形ではないでしょうか。 檀家数が100軒に満たないような小寺では寺の運営も厳しいものがあったようで、「祠堂金」という名で寄進された金銭を積み立てて、それを原資に貸し付けをしたりする制度を運用して、寺の運営費に充てているような例も見られました。 また、村内では寺も一人の百姓として農地を持ち年貢を払い、自分の食い扶持を耕作しています。また、除地や朱印地といった免税地をお上から授かり、その土地を小作人に貸して小作料を取り、賄いに充てるといったことも記録にあります。ある寺は15石余の土地を免税地として持っていましたが、これは当地の普通の百姓の5軒分の石高にあたります。また、小さな村では寺の建物も今のように大きなものではなかったと思われます。 小さければ小さいなりに、工夫していたようですね。 研究される資料は江戸時代ですので古文書か鐘の銘文などの金石文によらなくてはなりません。市町村史誌編纂のための基礎調査が済んでいるところであれば、その役所の担当課で把握していると思います。そうでなければ、原史料のまま寺にあるんではないでしょうか。また、寺の史料でなくとも村文書といわれる藩政村の公文書でも関連する史料はあります。実際にあたりだすと、結構膨大な史料の中から抜き出すことになると思います。頑張ってください。
お礼
回答ありがとうございますー こういう事って調べ出すと芋づる式に答えと疑問が出てきて、面白くもなかなか気の遠くなる作業ですね。。
祖父の頃ですね。当時の寺の大きさは.6畳2間.その他に日常生活用の8畳6間+馬屋+物置(稗倉)があったようです。 本尊は.木彫り仏で1尺か2尺ぐらい. 鐘はないです。 当時としては.立派でしたよ。桜の敷居を全部使っていましたから。その他変な特徴があるのですが.寺名を特定できるので省略します。
お礼
回答ありがとうございますー その他の変な特徴というのは気になりますね。。。あー 気になる あ、ここはお礼の蘭でしたね。 ありがとうございます
- bumin
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具体的な例はちょっとないのですが… まず、鐘や社殿などは、基本的に檀家の寄進によるものですので、寺がどれだけ有力な檀家を集められるかに掛かっています(有力な寺でも鐘のないところは多く有ります) 本尊は、僧が寺を興す時に拠り所として用意する者ですので見た目の派手さは特に問われません ただしこれは、寺の隆盛とともに別の物になったり、追加されたり、入れ物など周辺物を豪華にしたりしますが 結局、寺は、僧が思い立って手持ちの宝を拠り所に興し、僧自身や本尊の”有り難さ”で檀家を集め、その檀家の寄進で大きくなって行くという図になりますね
お礼
回答ありがとうございますー 本尊っていうのは僧が持っているよりどころにしている物だったんですね。。。これまた新しい事を知った。。
お礼
回答ありがとう御座います 新寺建立禁止令なんてな物があったんですね。知りませんでした・・ 最近のお寺を見ていると、なんだか寺がどうやって出来てきたかと言うのが全く見えなくて。。。そんな展示会とか無いもんですかねぇー それにしてもインターネットっていっぱい情報あると言うけど、探すのってホント難しい。。最近痛感しております