- 締切済み
神に近づくには
神に近づくとはもちろん精神的なことですが、苦しみを多く経験した人は神になれるという言葉もあります。 もしそうであるとき、困苦が続いたあまり、何も感受しない、感じなくなっているような心理状態というように、精神疾患的に何も感じないことと同じになるのでしょうか? 瞑想的な悟りが神に近付く唯一の方法とは私も思ってませんが…つまりは悟りの精神状態はどうなっているのかなあという質問です。
- みんなの回答 (26)
- 専門家の回答
みんなの回答
- maho_m
- ベストアンサー率6% (7/115)
まず、「神」を定義して下さい。発言者によって定義がマチマチなので 具体的な回答は不可能です。っていうか、ハナシはそれからやね。 厨二病患者の戯言か、まともに哲学的思考を持っているのか。 神と言えば、一神教においてもその他の一般的な用法においても 人間とは一線を画した存在であると定義されている。じゃあ、神に近づく のは無理ですな。数学で言えば連続性がないと表現できる。 実際はその発言者に問うのが無難ですが、神に近づくというのは 現実を直視できない戯言に近いかと思われます。神と悟りは無縁では? どっちかというと仏に近い。
別の質問にも書いたのですが繋がるので引用・・・ までも?IQ・EQ?総合的にほんとの知能を上げる医 学的治療が必要なんでしょうね?、、理屈こねこねして る人達、経年で見ても別に上に進歩してるとこ見た事な いですし? 他でも丁度書いた事ですけど、医療が未発達だった昔は 、大病するとなんの対処法もなく、何十日間ももがき苦 しんでやっと死ねるという状態だったそうですが、霊系 に於いての共有という事からすると、人生が経験・学び だとすると、全て・多くは共有されている筈 数百万年もの間、病1つをとって見ても、人類は夥しい 悲惨で凄惨な経験を繰り返して来た訳ですよね、、人生 が経験・学びだとしたら、それなりに進歩している筈で すよね 現代の人類のレベルはどうでしょう?、夥しい悲惨で凄 惨な経験から学んだ果ての状態に相応しいレベルといえ るでしょうか?、、全くいえませんね 結局、向上・進化というのは秘教にしかないんです、、 もしかすると?科学がそれを達成する日が来るかもしれ ませんが、社会意識がそうであるように、もしも社会が そうなったとしても、人はただ堕落するだけかもしれま せんし、それまでにも無駄な犠牲は続くのではないかと > 苦しみを多く経験した人は神になれるという言葉もあります。 その答えが上記になるかと > つまりは悟りの精神状態はどうなっているのかなあという質問です。 悟り・解脱というのは、思考的な物で達成出来る物では ないようで、何度とない確認と前段階の経験から、悟り ・解脱というのは、現世的に具体的な物理現象だと感じ てます 大前提を完成に近付け(キレイ事ではなく)、もう1つ の未熟な霊体を自分の人型まで発達させ、そして5・4 ・3次元の霊体(肉体)のそれぞれ3体の副体間に繋が りを作り。それを強化する事 ただし?、今生、素養が与えられていない場合、霊界・ 来世の下準備しか出来ないかとは思います
補足
ご回答ありがとうございます。 >夥しい悲惨で凄惨な経験から学んだ果ての状態に相応しいレベルといえるでしょうか? いえませんよね。学ぶ対象は星の数あれど、進歩は遅遅としています。 霊的に進歩した人間とその差がありすぎる人とも、ひとつ同じ地球という土台の上で生きていくわけですから…と思っていたら >結局、向上・進化というのは秘教にしかないんです というお言葉。 なるほど~秘境、密教などのことですか。 >科学がそれを達成する 科学は使いようですよね。科学自体は善も悪もない。それをどう使うかで善悪の道具に取って代われる。 悟りの状態について >何度とない確認と前段階の経験から、悟り ・解脱というのは、現世的に具体的な物理現象だと感じてます >大前提を完成に近付け 以下はもう少し、具体的にご説明いただかないと、素人の私にとってはまったく理解不明です。 「未熟な霊体を自分の人型まで発達させ」とかって言われてもどういう状態?って感じです(^^ゞ >今生、素養が与えられていない場合、霊界・ 来世の下準備しか出来ないかとは思います についても、素養というのは素質のことだと思いますが、それがないと霊界にとどまっても、来世に生まれ変わったとしても、何のための下準備しかできないのですか?
修行とは身体的あるいは精神的に自らを追詰め、脳内で脳内麻薬を生成させる行為です。 この状態を悟りを開くと呼びます。 修行なしに安直にこの状態を得ようというのが直接麻薬物質を投与する事。 これは違法行為であり副作用をもたらします。 脳内で辛い環境から精神や体を守る為に生成されるのが脳内麻薬であります。 この作用で人が通常ではたどり着けないような境地に登れる… 修行でなく辛い人生や不幸な事も一緒です。 大半の人はそれが原因で精神を病んだりしますが、それを乗り越えた人はその辛い過去が修行と同じ効果を発揮する。 登山家や冒険家が極限状態で何かを感じるのも同じ原理だと思われます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 受け入れがたいことも受容して悟ることに対し、自ら受けとりに行くという違いはありますが、脳内麻薬で得るのは瞬間的なもの、物質的なもの。それに対し、なんといったらいいのか難しいですが、哲学(人生)のうえで、その意味(悟り)をおのずと与えられるような真摯な生き方と、単にある物質を得ればよいという短絡的なもの、つまり姿勢の違いということでしょうか。 でなければ薬やってるひとが全員悟れるということもこれまた不条理で。 とはいえ自らの人生(山)が比較的幸福な人が、「哲学的なてっぺんからの風景」をみようとし、そのように精進する方が個人的に好ましいです。もちろん運動だけではなく、仕事や趣味の領域においても努力をする人はそれだけでいい。 がしかし、抽象的なものの中で抽象的なことと戦い続ける方が、真の悟り(であるべき)だと考えます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.1です。 ★(No.1補足欄) そもそもが、精神的なことそれ自体が神であるということですね。 ☆ いいえ。人間という存在は 身と心とから成り それらを超えて 神の領域が――《非経験の場》として――想定されます。 つまり 神は人間を超えています。絶対的に超えています。 ただし だとするとこの絶対的な《非経験の場》というのは 相対的で有限なこの経験世界を ひょっとすると 覆い包んでいるということかも知れない。ということが――単に想像し推論をおよぼしただけですが――帰結されます。 その限りで言えば 神は そのようなナゾの何ものかとして 人間なら人間を包み込んでいる――または いわゆるあまねく存在するというごとく遍在している――とまで想像が伸びます。 つまりは ニュートリノのごとくわれわれを貫いているかも知れないし だれかの絵のように指先でわれわれにそうっと触れているかも知れないし あるいはわれわれの世界いっぱいに遍在している。かも知れません。 このことは あくまで非経験の場であるからには それを仮りに人間が受け容れたとしても あくまで《非思考の庭》においてしか成り立ち得ません。これが 信じるという人間の行為のことです。この行為は 経験的な意志行為です。相手は ナゾの何ものかです。 つまりは もしこの神を誰かが捉えたというなら それは あくまでその人の主観だけの問題だということになります。 主観内面において神に触れられていると仮りに言ったとしても それは 精神でもなければ身体でもない。はずです。非経験と非思考との問題なのですから。 ただし もしその非経験の場なるナゾが われわれの存在を包み込んでいるのなら それを――主観として捉えたという場合には―― 精神としても感性としてもあり得る。ということにまで 想像が広がります。 すなわち ★ 精神的なことそれ自体が神であるということですね ☆ とは成りません。そうは成らず その精神をも超えたところで 受け容れているはずです。 人間の精神は 相対的でうつろいいくものであり 有限です。神は 絶対です。神は 精神ではありません。身の感性でもありません。 次の図式で 神の位置すなわち 精確には 神を受け容れた人間における神〔の信仰〕の位置づけを確かめてください。 ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ) ____________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市) 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ____________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わが心なる非思考の庭で ひとは神を受け容れているはずです。 思考の緑野が 精神であり 感性の原野と合わせて――つまり心と身とで―― 人間の自然本性を成します。これらを超えているのが 神でありその信仰です。 その《非思考の庭》は 《心の明け》としていますが これの意味は こうです。すなわち 明けと言っても 心に必ずしも窓があってそれを開けるということではなく そうではなく 言ってみれば《心を閉じていない》ということ これを意味します。世界の人びとのあらゆる信仰――その名がちがっても とにかく神――に対して 心を閉じていないということ これが 《非思考の庭》の生きたすがたです。《思考に非ず》なのですから すべてに開かれているというわけです。 信仰において 自分たちの神のみを大事にするというのは あくまで 《思考や気持ち》にとっての神のことです。つまり 人間が勝手につくった神のことです。ほんとうの神は そうではないはずです。 ★ ということは、苦も楽も、すべて神の世界のことになるとしたら、なぜお坊さんたちは苦行する必要があるのか? (滝に打たれるとか断食というような物理的な苦しみも悟るには程遠い、むしろ見当違いなことをしているのではないかと昔から疑問でした。荒行ではなく瞑想でも悟れるというのですから、むしろこちらの方が冷たい滝に打たれない分楽ではないかと) ☆ 一般に修行は 荒いものも苦しいものも楽なものもふくめて 人びとの趣味嗜好だと捉えてください。趣味としてやるのは 自由です。そして それだけのことです。 神は遍在ですから その趣味の世界にも 存在するかも分かりません。 ★ つまり、苦も楽も神の世界ということになれば、現実世界がその反映だとすれば、それこそ不条理以外の何物でもなく、あの世に行っても救われないということになります。 ☆ 《苦も楽も 神によって接せられている世界》です。ただし その接し方や接点は 必ずしも人間には分かりません。要は その人の主観の問題です。それに限られます。 ★ としたらやはり不条理の渦中にいて、不条理のやるせなさを味わい、苦行だと自覚し覚悟することで、神の世界に近づくことができるという方が納得できるのですけれど… ☆ 言ってみれば この世の出来事や文書という文書のすべては 神からの手紙であると捉えてみてください。反面教師もあるでしょうし くだらんものもいくらでもあるはずですが それぞれ何を受け留めるかは やはりその人の主観のもんだいに帰着します。 不条理を世の中から取り出して見る場合も そういうメールなのでしょう。神からの。 まさに 本人にはそういう文面が舞い込んで来ているということなのでしょう。 つまり 要するに そういう場合もどういう場合も メールが来ているのなら すでに神の近くにあなたはいるわけです。だいじょうぶだよ と神は語っているのではないでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 昔は因果関係がそのまま業(カルマ)と同じだと思ってきましたが、知識が増えるにつれ、善も悪もないというようなことを知りました。因果関係もただの「関係」それ自体に過ぎないとい、また、カルマも実は存在しないという考え方もあります。 >因果関係から自由 この状態が何かは分からないのですが…もう少し具体的に説明してくださればさいわいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 先ほどの《非思考の庭》についての図式をごらんください。 思考の緑野〔―→田園が耕され都市が建設されていく〕および感性の原野〔―→この原野においてむしろ 神からのメールを受け取っているのかも知れません。ヒラメキの問題として〕 これらが 経験世界を構成しています。 因果関係は 経験的な人間の行為および社会関係ならびに自然現象について・つまりは経験世界において 展開するものです。 《想定》によって成り立っているものですが 《非思考の庭》は これらの言わば《有るか無いか》の世界を超えています。因果関係から自由な庭です。――というような想像と思考とをおよぼしうる庭です。――そういうかたちで この有限な人間にも 多少ともこの世のシガラミから自由な小宇宙があるかに思われる。という問題です。 マボロシであるかも知れませんし ひょっとしたら 人間も捨てたものではなく そういった言わば神の視点をも 多少ともあたえられている。かも分かりません。 なにしろ 思考に非ずとして成り立った信じるの庭です。 カルマのしがらみがあると見ることは そのシガラミから自由な知性をはたらかせることの出来る能力をも 人間は持っている。かも知れない。 どうお考えでしょうか。
補足
>神は人間を超えています。絶対的に超えています。 もちろんそう思いますが、 >《非経験の場》として――想定されます。 イデア論からすれば、この世は神の世界の反映だと言われてますね。でもこの世の不条理も同じく反映だとしたら、神の世界も不条理なのかなと。 >もしその非経験の場なるナゾが われわれの存在を包み込んでいるのなら それを――主観として捉えたという場合には―― 精神としても感性としてもあり得る。 それが、想像しうることはすべて実現可能だ、ということではないかと。イデアを形にするときにはインスピレーションや想像力、または潜在意識を扉としながら、すべての人間はその扉を開くことはできるのですが(動物などはほぼ潜在意識で生きている)、神を感じるのは特別なことではない、むしろ認知できるものはすべて神だといえるでしょう。 >主観内面において神に触れられていると仮りに言ったとしても それは 精神でもなければ身体でもない。はずです。非経験と非思考との問題なのですから。 について、主観は精神を超えているということですか?つまり直感的なものであり、それが非思考ということなのですか? また >非経験の場なるナゾが われわれの存在を包み込んでいるのなら それを――主観として捉えたという場合には―― 精神としても感性としてもあり得る。 もし非経験という場があれば、主観でその世界(非経験の場)があると捉えれば、「精神としても感性としてもあり得る。」ということは、主観によって非経験の有無が分かれる。主観が「非経験の場」があると感じたときにおいて、初めて「精神としても感性としてもあり得る。」ということなのですか?分かりずらいので、もう少し詳しく教えてください。 >ほんとうの神は そうではないはずです。 私も常々そう思ってきました。 私にとっての神は自然です。それをつかさどる「超自然」的なもの。 >その人の主観の問題です。 いろいろな分野で言われてます。「幸福も不幸もその人の考え方、感じ方だ」と。 個人レベルの不幸は変容できますが、でも世界レベルの不条理は許せません。今頭ん中で「神は死んだ」という声が聞こえましたが(笑)そういうことですかねー。 どう捉えるかを >主観のもんだい とおっしゃいますが、善も悪もない、すべてはあるがまま、それが神だという考え方からすれば、主観というのは人間の都合でもあると思います。しかし不条理が存在するその意味もあるはずです。それは主観や捉え方、感じ方、考え方で解決できるようなものではなく、人間がその不条理に対するときの解決策の一つとして捉え方次第という思考を生みだしたとしても、それを超える唯一絶対的な真実(答え)があるのではないでしょうか? 輪廻転生の考えである、本人の為したことに責任を負わせるということは主観次第だという考え方(心理学的にいえば認知行動療法的)と同じだと思いますが、なぜ不条理という概念が存在するのか、その答えを神はまだ(?)人間に打ち明けてないような気がします。 手紙というのは、ヒントや励ましのメッセージであり、神は自分の手の内を明かしてないと思うのです。 >そのシガラミから自由な知性をはたらかせることの出来る能力をも 人間は持っている。かも知れない。 そこから自由になれる術を得たとしたら、それを無償で全世界に告知しなければ本当の賢者ではないと思います。 本を買えだとか、セミナーに来れば教えてやるとか。でもそれが真実だとしても、新興宗教と捉えられてしまいますね。本当の新興宗教があるせいで。 イエスのように実在した(といわれている)救世主は、そんな次元の人ではなかったからあれだけ有名になったのでしょう。本当なら、一人一人持っている力(潜在能力)を発揮できればよいのですが。
- fuukakou
- ベストアンサー率22% (200/870)
あ~、違う違う。 困難を、乗り越えた人がね。 経験したことで、その状況の苦しさ、悲しくさ、痛みとかが分かるし、周りが理解してくれない苦しみとか知ってるのね。で、更に乗り越えたので、どうすれば良くなっていくかも知っていて、伝える事が出来る。 越えて成長したものが、ね。そうじゃないかな? 例えはわるいかも知んないけど AさんがBさんに恋をした。でもAさんは振られた。 で、つぎのAさんの行動ですべては変わるのね。 落ち込んで引きこもるか、世を恨むか、Bさんが悪いとおもうか、今の私ではダメだった。もっとよくなろうと頑張るか。 Bさんとの経験を糧に出来れば「振られた方がいい女、いい男になる」って言葉は正しいのね。 これと類似な事なんじゃないかなぁと思います。 修行 なんかで読んだ話で・・・滝行をした人が言った事で「なんでこんな辛い事しなきゃなんないの?」と泣いてたんだけど、ある日ふと、この流れていく木の葉・・・ この木の葉も、この水も、この足元の小石も、川も滝も土も木も空も すべてがいま私の為に在っていて下さる。こんなに世界が愛していて下さる。と気が付いてもう自分を痛めつける事を止めた。んだって。 まぁ、修行して何に気が付くのかは人それぞれだろうけど・・・気付くために修行してるのかな? そんなことふつう体感しないものなぁ・・・とは思います。 やたらと掃除をするのは、毛づくろいみたいなもの? 綺麗にすることで自分の心の中のごたごたも整理していこう。みたいなもの?と言った人がいたなぁ 毛づくろいすることで猫とかは心を落ち着かせるそうなので・・・一緒にするなと怒られそう。 なんか超えた場所に行こうとしてる。ぐらいしか分かんない。
お礼
ご回答ありがとうございます。 乗り越えるつまり学ぶということですね。 滝に打たれているだけなのは体力を消耗するしかないとも、どこかの本に書かれてました。これ読んだ時私の考えと合致した!と嬉しくなりました。 人生はすべて修行ですものね。 ですが、同じ失敗を繰り返しても学ばない人もいます。それはなぜでしょうか。それは業として来世に持ち越されるのでしょうか。 あと掃除の件は、自分のこと言われてる!?と一瞬ドキッとしましたが、私、どうして掃除や収納、整理整頓に固執するのだろうと掃除をやりながら(笑)自問自答してたところ、過去の嫌なことをすべて洗い流したい、整理したいという気持ちの投影だったと気が付きました。 過去に向き合うことを恐れていたのです。向き合う覚悟は最近できましたが、本当の自分と対峙し、乗り越えたときこそ、代替行為に逃げなくてもよくなるのかなと新たな自分に「期待」しています。 それにしても「毛づくろい」という表現は素晴らしいですね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ひとは 生まれついたそのすがた(自然本性)において 神に近くあります。 それは 人間がどうにかして成ったものではありません。人為と人智を超えています。そういう意味での自然です。(超経験ないし超自然という言い方です)。 ★ 神に近づくとはもちろん精神的なことですが、 ☆ いいえ。神に近くあるというのは 超経験です。非思考です。精神ないし思考は 経験世界に属しています。 強いて言えば 神のもとにあるという状態は 身(感性)と心(精神)とで予感するかたちであるかと見ます。身と心とを超えたナゾの何ものかを受け容れているという状態 これは マボロシとして神のもとにあるという予感をあたえてくれます。 そうして これらはみな 何もしないことにおいて起こることです。 経験世界を超えているということは 因果関係から自由だということです。 因果関係から自由だということは 何をしたから神にちかづいたであるとか かにをしたから神から遠ざかったであるとか そういった因果応報の見方をいっさい受けつけないという意味です。 絶対的に神から われわれにんげんにあたえられるものが さとりです。 ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~ 自然といふは 《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。 《然》といふは しからしむといふことばなり。 しからしむといふは行者のはからひにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。 * 爾(に・じ):しかり。そうである。 ■ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~ 自己を運びて万法を修証するを迷とす。 万法進みて自己を修証するは悟りなり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
ご回答ありがとうございます。 神に近づくには精神的な面でといったのは、宗教的な意味で「知った風なことを言う」ようなことではなく、もっと素朴なニュアンスを伝えたかったのですが、そもそもが、精神的なことそれ自体が神であるということですね。 ということは、苦も楽も、すべて神の世界のことになるとしたら、なぜお坊さんたちは苦行する必要があるのか? (滝に打たれるとか断食というような物理的な苦しみも悟るには程遠い、むしろ見当違いなことをしているのではないかと昔から疑問でした。荒行ではなく瞑想でも悟れるというのですから、むしろこちらの方が冷たい滝に打たれない分楽ではないかと) つまり、苦も楽も神の世界ということになれば、現実世界がその反映だとすれば、それこそ不条理以外の何物でもなく、あの世に行っても救われないということになります。 としたらやはり不条理の渦中にいて、不条理のやるせなさを味わい、苦行だと自覚し覚悟することで、神の世界に近づくことができるという方が納得できるのですけれど… 昔は因果関係がそのまま業(カルマ)と同じだと思ってきましたが、知識が増えるにつれ、善も悪もないというようなことを知りました。因果関係もただの「関係」それ自体に過ぎないとい、また、カルマも実は存在しないという考え方もあります。 >因果関係から自由 この状態が何かは分からないのですが…もう少し具体的に説明してくださればさいわいです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >厨二病 ってぇのはアタシのことかい?でしたらあなたも、人を上から目線でみている限り哲学はできませんよ。(哲学は自らの傲慢さも観るものです) 訊かれたから答えますが、私にとっての神とは「自然」です。「八百万の神」的な神。全世界が自然をうたえば戦争はなくなると考えますね。 >連続性がない >神と悟りは無縁では?どっちかというと仏に近い。 >神と言えば、一神教においてもその他の一般的な用法においても人間とは一線を画した存在であると定義されている 神を定義しろというあなたは、無神論者ではないでしょうか。定義ができる時点で神は神でなくなるのではないでしょうか。 悟りもたらす対象が仏だから悟りが得られ、そうではないなら、悟りとは無縁という根拠はありますか? 神も仏も連続性はありませんよ。形は違えど、本義は同じです。 人は神から作られ、人の中に神は存在するという考えにはまったく同感しますし、私も日々それを感じますし、あっ、悟ったなと直感主観し、それを客観もしますから。私にとってある意味「神とは日常」ですよ。 >神に近づくというのは現実を直視できない戯言に近いかと思われます。 誰もが神に近づいている道を歩いている(ひょっとして神に近い)からこそ、それを問うという場合もあるのでは?ということを考えないほうが「戯言」なのではないでしょーか。