- ベストアンサー
GHQが志賀義雄、徳田球一を釈放
日本で共産主義が浸透し、拡大していくことを米国は阻止したかったのではないのですか。 なのになぜ、共産主義者を解放したのですか。 フランスのジャーナリスト、ロベール・ギランがGHQに釈放を要求したことがあったにせよ、なぜその要求に応じたのですか。 その後GHQは、共産党や左翼の動きを郵便を検閲してまで監視していることから、これはGHQの失政ですか。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
No.4です。 前回の回答に、 >一部分からない個所がありますので、よろしければ教えてください。 とありましたので・・・ >天皇を絶対視する帝国憲法の「天皇制」が染みついた国民の考えを打ち砕くために共産主義者を利用したと解釈すればよいのですか。 大まかに言えばそうですが、ただし「打ち砕く」とまではいきません。国民の一部に「一石を投じる」程度です。 日本の占領政策において日本国民を平穏に支配するには「天皇」という存在は不可欠と考えられました。 しかし、だからと言って、戦前、戦中からの国の主権が天皇にあるような、天皇が神格化された制度というものは、民主化を進めていく上でGHQには許容できません。また、再び日本に天皇をトップに軍国主義が復活する事も許せません。 GHQは天皇の身を戦犯として処分するような事はしませんでしたが、その存在意義を格段に低下させる手を打ちます。 敗戦から約4ヶ月後、1946年1月1日に天皇陛下は「人間宣言」の詔勅を出し、自らその神格化を否定します。この「人間宣言」の草案はGHQが作ったものです。GHQの影響下に新たな日本国憲法も作られます。 そのように天皇の国に対する影響力を低下させ、民主化を進めました。 政治犯釈放の理由の要因にもそれがあります。 GHQの共産主義者ら政治犯釈放の「人権指令」については、政治犯釈放にばかり目を向けがちですが、GHQはこの時「天皇に関する討議の自由」という権利も許可しているのです。つまり、それまでは許されなかった天皇への批判も可能となったのです。戦中なら逮捕されていた事が許される事になったのです。 ただ、日本の共産主義者が天皇制打倒を主張していたからと言って、すぐに共産主義者がそれを成功させるなどとは、GHQも考えていません。今まで神格化し敬ってきた天皇を共産主義者の主張どおりに、日本国民の大半がすぐに打倒に傾くとは考えていません。 そもそもGHQの「人権指令」により釈放された共産党員は約220人にしか過ぎません。その他に警察の監視下にあった共産主義者も二千数百名程度です。 それは当時の日本国民の数からすれば僅かな数です。 つまり当時のGHQでは、 日本の共産主義者はGHQに敵対していない。 日本の共産党勢力は小さく、これまでの日本での天皇制の歴史から見れば、共産党員を釈放しても国民への影響力は限定的にとどまる。 これまで天皇制批判など許されなかった国において、共産党のその主張は一部の国民に一石を投じ、民主化向上に繋がる。 程度の判断でした。 民主主義の根幹は「話し合い」です。戦前、戦中、天皇制を批判する事は許されず、敬う事を強制された国民に対して共産党の主張は正反対のものです。その主張が表舞台に出て、他の政治勢力と政治の場で戦う(話し合う・議論する)事は民主主義の向上と捉えられます。 そして、GHQにとって日本の共産主義者は大きな敵対勢力、政治勢力とはならずに、民主主義を日本に根付かせるのに、小さな影響力を発揮する存在になるだろうとの判断から釈放しました。 ただ、結果的に共産党は予想以上に勢力を伸ばす事になりました。
その他の回答 (4)
- DieMeute
- ベストアンサー率70% (571/807)
>なぜ、共産主義者を解放したのですか。 ●回答・・・日本から天皇制、軍国主義を払拭し民主化を進めるために共産主義者も必要な範囲で利用するためです。 天皇制を否定し獄中にあった日本の共産主義者はGHQを敵視する事はなく、米軍を解放軍として認識していました。 そして、獄中からの解放後、すぐに日本の共産党が打ち出したのは「天皇制の打倒」であり「人民の総意に基づく人民共和政府の樹立」であり、米帝国主義の打倒では無かったのです。 ここで米国の話になりますが、戦争で米軍の捕虜になった日本軍兵士を尋問した時、軍上層部や指揮官を批判する者はいても、ただの一人も天皇陛下を批判する者はなく、尋問した米国側を驚かせます。 それだけ深く日本人の中に根付いている天皇陛下、天皇制というものを押さえ、米国は日本を民主化の道に進ませなければなりません。 そうした状況において、戦前から天皇制を批判し敵とする日本の共産主義者は、民主化の一助に使うのに都合のよい存在でした。 GHQは日本の民主化を促進するために一定の範囲で、共産主義者を利用する事にしたのです。 1946年4月の戦後最初の総選挙でも日本共産党は天皇制の打倒を訴えていました。 ただ、国際情勢が大きく変わって来ます。大戦中、枢軸国を打倒するために米国と英国はソ連と手を結びましたが、戦後にその関係が悪化の一途を辿ります。 1946年3月には英国のチャーチル首相が「鉄のカーテン演説」を行うほどになりました。 また、日本国内でも状況が変わりつつありました。 日本の共産党はいたるところで労働組合を結成したり、他の労働組合を容共派にして勢力を拡大し、企業経営者には「生産管理闘争」で望みます。 そして、1946年5月1日に戦後初めてのメーデーが行われ50万人の民衆が集まります。 5月19日には「食料メーデー」が行われ、このデモには25万人が参加しました。 こうしたメーデーには多くの共産主義者、容共派の人達が参加します。 ここにきてGHQも共産主義の勢力増大に危機感を抱き、5月29日についに対日理事会でのアチソン米代表の「共産主義を歓迎しない」という反共声明が出されました。 つまり、当初は日本の民主化のために共産主義者も利用したけれども、共産主義者が許容範囲を超えて力を付けてきたから、切り捨てにかかったというのが、戦後のGHQの日本共産党への対応です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 一部分からない個所がありますので、よろしければ教えてください。 >戦争で米軍の捕虜になった日本軍兵士を尋問した時、軍上層部や指揮官を批判する者はいても、ただの一人も天皇陛下を批判する者はなく、尋問した米国側を驚かせます。 そこで米国(GHQ)は、日本を占領・統治するには天皇の存在が絶対であると認識し、 天皇を退位させることなく、そして天皇が戦犯にならぬように画策したと理解しています。 もしそうであれば、天皇制打倒を掲げる共産主義者をなぜ釈放したのか、今一つ合点がいきません。 天皇を絶対視する帝国憲法の「天皇制」が染みついた国民の考えを打ち砕くために共産主義者を利用したと解釈すればよいのですか。 釈放を決めるには十分検討したはずで、何かメリットがあったに違いないと思っています。
- blackhill
- ベストアンサー率35% (585/1658)
お礼への補足です。 連合軍総司令部GHQが設置されたのが10月2日、そこで早速発せられたのが10月4日の指令です。もう一度引用すると「連合国軍最高司令官総司令部は、まず軍隊を解体し、思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、山崎巌内務大臣の罷免、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放など、いわゆる「自由の指令」を出した。さらに、政治の民主化、政教分離などを徹底するため大日本帝国憲法の改正を指示し、財閥解体、農地解放などを指示した」(WIKI)ということです。 連合軍にはソ連も入っています。軍国主義解体という大仕事の中で、18年間も拘束されていた非転向の共産党員についてその是非を検討する時間があったとは思えません。第一、ソ連が賛成するでしょうか。まだ陸軍省、海軍省が残っていて、いつ武装蜂起が起こるか油断できない時期でした。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 全体の流れとしてはよく分かりました。 ソ連が関与してくる可能性や陸・海軍もまだまだ不穏な情勢だったということですね。
- wy1
- ベストアンサー率23% (331/1391)
米国はいわゆる”民主主義”を掲げて戦前の軍国主義日本帝国をつぶそうと考ええいたのでと思います。その為には、表向きでも治安維持法などで収容されていた政治犯を釈放しないと、”格好”付かなかったんじゃないでしょうか。その後、ソ連などのいわゆる”共産主義国家”が影響力を持ってきて、米国の世界支配の目的に邪魔になり、当時の影響力を被っていた、 日本共産党を弾圧し始めたと、私は解釈しています。米国は(=GHQ)は自分に都合の悪い勢力や思想を、なんてもかんでも 抑圧する、世界支配者を目指していた(現在でも全く同じ姿勢を取っている)のでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 民主主義とはこういうものだ、ということを見せつけるために治安維持法などで収容されていた政治犯を釈放したのですね。 共産主義者を釈放するデメリット以上の効果があると判断したのでしょう。 “格好をつける”という言い回しが絶妙ですね。なるほど!
- blackhill
- ベストアンサー率35% (585/1658)
徳田、志賀は昭和3年に治安維持法違反容疑で逮捕されて以降18年間、獄中にあって忘れられた存在でした。昭和20年10月10日、在日歴の長いフランス人記者ロベール・ギランは記録を調べて府中刑務所に収監されているのを知り、ニューズウィーク記者らとともに進駐軍を装って刑務所に入り、徳田らを救出したといわれています。 敗戦にもかかわらず、政府は治安維持法の存続を主張したため、10月4日、GHQは「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」を発して廃止を要求しましたが、東久邇内閣はこの人権指令を拒否して総辞職し、10月15日になって後任の幣原内閣が治安維持法廃止と特高の解散を決定しました。徳田らの釈放にはこうした背景があり、GHQの指令は共産主義者だけを対象にしたものではありません。 出所した徳田、志賀らは進駐軍を解放軍と称賛し、翌春、中国から帰国したの野坂参三は「愛される共産党」を目指すといいました。進駐軍と共産党の仲が決定的に悪化したのは2,3年後のことです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >GHQの指令は共産主義者だけを対象にしたものではありません。 そうです。疑問はこの個所です。 共産主義者を除くこともできたはずです。 トルーマンは反共の塊でしたが、マッカーサーはそうでもなかったのですか。 あるいは、「進駐軍を装って刑務所に入り」までしたジャーナリストとGHQには何かがあったのですか。 例えば、共産主義者を泳がせて、後で一網打尽にしてやろうとか。 そんな疑問です。
お礼
私のあつかましいお願いに、時間を割いて下さって誠にありがとうございます。 大変よく解りました。 「GHQの共産主義者ら政治犯釈放の「人権指令」については、政治犯釈放にばかり目を向けがちですが、GHQはこの時「天皇に関する討議の自由」という権利も許可しているのです。つまり、それまでは許されなかった天皇への批判も可能となったのです。戦中なら逮捕されていた事が許される事になったのです。」 そうですか!ここが重要ですね。納得しました。 >大まかに言えばそうですが、ただし「打ち砕く」とまではいきません。国民の一部に「一石を投じる」程度です。 確かにそうですね。納得しました。 ご教示に感謝申し上げます。