まともに答えると大変なことになりますので、ちょっと控えていたのですが、ポイントを絞って回答させてもらいます。
この話は『碧眼録』、『従容録』、『無門関』などにほぼ同じ内容で載っています。内容について異同はありませんので、まず問題点を以下の3つに整理しておきます。
(1) 雲水たちは何について争ったのか
(2) 南泉の指導の意味
(3) 趙州の行動の真意は何か
まず(1)について。
東西の雲衲が何を争ったのか、というのは、基本的ですが重要なポイントです。これが不明確だと、南泉の接化も趙州の答えも、意味が汲みとれるはずはないからです。
ここでは、「猫の仏性の有無」について論争が起こった、とみるのが妥当だと思います。
これには背景があります。
もともと仏教は「仏」の観念について古来論争のあるものです。特に禅堂では、仏性とは何か、それはどのようなもので、どう表出されるのか、をめぐって常に活発な論議が行われてきました。
加えて、南泉和尚は仏性について平素、「如来は是を知らず、動物は却ってあるを知る」などと説いていましたので、参じていた雲衲が猫をつかまえて即座に仏性の議論を戦わせたことは容易に想像できます。
また、『無門関』では、「趙州狗子」が第一則に挙げられているのはご承知でしょう。犬に仏性があるのかないのか。これが無門の最も重視した本則です。ここでは趙州は「無」と答えていますが、無門は末尾に「狗子仏性、正令を全提す。わずかに有無にわたれば喪身失命せん」とコメントしています。
「お釈迦様の教えがここに丸だしだ。少しでも有無を言ったらもう命はないぞ」と言った意味です。これひとつを見ても、仏性の有無が重大問題であったこと、さらに有無を超えることの重要性が説かれていることがわかろうというものです。
子猫の所有を争ったのだ、といった解釈すらありますが(中学生じゃあるまいし!)、これは単に僧堂の実際を知らず、祖録をまともに読んだこともないせいでしょう。
(2)について。
従って、仏性の有無を争う雲水たちに、南泉は「仏性が有るだの無いだの言っているが、では仏性はこの猫のどこに有るというのか。この猫が死ねば仏性は消えるのか。ならば仏性はどこへ行くのだ。仏性がないならなぜこの猫は生きているのだ…」という万感を込めて子猫を取り上げたのでしょう。
殺す、という指導のスタイルについては色々言われます。ただ禅では、結果的にこのような荒い指導になることも、「異類中行」と呼んで、むしろ指導と修行のために止むなく肯定する傾向があることを知っておくべきでしょう。
道元は、猫を必ずしも殺す必要はなかった、としながらも、この南泉の接化の手法を高く評価しています。そのうえで、もし自分がその場に雲水として居合わせたなら、「和尚は一刀両断のみ知って、一刀一段を知らない」と言うだろう、とも言っています(『正法眼蔵随聞記』2-4)。
道元曰く、一刀一段とはこの猫そのもののこと。猫に仏性という実体があるのではなく、ないのでもない。この生きている姿そのものをまるごと仏性と見るべきであるという含みです。
(書ききれないので、仏性について詳しくは『正法眼蔵』仏性の巻ほかを参照してください)
道元のいうポイントは、南泉和尚が有無の二元論に捕われる弟子を教化するつもりで、結果として猫の体を“二つに”斬ってしまうことになるなら、それは頂けませんな、と機知を利かせた返事をして猫を救ってやろう、というわけです。この道元の理解だけをみても、この本則のテーマが仏性の有無とその超克にある、ということは歴然としていると言っていいでしょう。
(3)について。
ならば趙州はこれに何と答えたのか。
彼は履を脱いでこれを頭に載せたのですが、これの意味するところはもはや明白でしょう。
普段、左右に分かれて対のものである一足の履を(恐らく重ねて一つにして)、考える場所である頭の上に持ってきたのです。有無の止揚、と言うべきでしょうか。これをされたら、さすがの南泉和尚も、猫を切るという殺生を犯す必要など感じないでしょう。
有ると言おうと無いと言おうと、どちらも同じ土俵上の相依的な概念です。これは竜樹の『中論』以降の伝統ですが、禅では特に善悪、美醜、有無、さらに迷悟といった相互依存的な概念によって物ごとを二元論で認識する「対待(たいだい)の二見」を嫌い、これを離れることを強調します(だからこそ竜樹は「悟りを求める人は悟りを見ていない」とまで書いたのだし、竜樹が禅の系譜に重要な位置を占めるのです)。
趙州はこのことを体得していたからこそ、この有無の超越を即座に体に表現することができたのです。まさに、この時はこうするのがベストだったのです。凡百の解説者が言うような、「理知を離れた突飛な行動」では全くないと言えます。
(単に突飛であることを禅らしいと賞賛するのは、往々にしてテーマが分かっていないから、です。道元は、こういった、わかりにくさを「思慮分別を離れている」などと持ち上げる人間を、「杜撰の輩」と呼んで貶めています)
趙州のこういう理解は、他のいろいろな記録でも伺えます。特にはっきり読み取れるのは『従容録』第十八則、「趙州狗子」です。
ここで趙州は、「犬に仏性があるのか」という同じ問いに、ある僧には「有」と答え、また別の僧には「無」と答えています。
これに付した宏智禅師の頌古が素晴らしい。
「狗子仏性有、狗子仏性無。直鉤もと命に背く魚を求む。…」という有名な一節です。
要するに、「趙州は有無どちらにも曲がらないまっすぐな針で釣りをして、有無どちらの餌も欲しがらない本物の魚を待っているのさ」、といった意味です(恐らく)。
これはまさしく、子猫を取り上げた時の南泉の思いそのままであったことでしょう。趙州こそは南泉の教えを正しく受けとめていたのです。
(実際に南泉和尚の法を嗣いだのは、長砂景岑(けいしん)という人物ですが、ある僧が二つに切れたミミズを見て「どちらに仏性があるのか」と問うた際に、岑和尚は一言、「妄想する莫れ」と答えたことが知られています)
ダメ押し(余計?)ですが、萬松老人による同じ十八則の垂示もかっこいい。
「水上の葫蘆、按著すれば即ち転ず。日中の宝石、色に定まれる形無し。無心を以っても得べからず、有心を以っても知るべからず。…」
水に浮かんだ瓢箪のように、こちらを押せばくるりと回って向うへ出る。日中に出した水晶のように、色が移り変わって定まらない。仏性が有るとか無いとか言葉で言おうとしても、何にも掴めっこないんだよ…。
この他にも南泉や趙州、さらにその法嗣を題材にした本則は沢山あります。結局、一言で言えばこの話は仏性をめぐる沢山の問答のうちのひとつ、ということです。
ただ大事なのは、生活のどこを切っても答えが出るように仏性の問題が“生きられて”いたということです。これこそ現代の私たちの汲み取るべき教えであって、何かの謎解きや練習問題のように、ここから公式やハウツーを引き出して終わっては、せっかくの公案が枯れてしまうのでは…と私は思っています。
長文、どうぞご容赦ください。
お礼
最高の回答を頂きました。 どうも有難うございました。 深くお礼申し上げます。