• 締切済み

人を傷つける主張と行動の矛盾

どうも一昔前の人は「いじめてるやつって、かっこいい!」と思う人が多数派だったようなのですが(あくまで知っている一部分の人、ワルってカッコイイという流行だったのでしょうか)、現在ではイジメやセクハラ、パワハラが深刻な問題となっており、世間的に悪とされていますよね。 まったくイジメや差別やハラスメント、暴力、暴言を受けてこなかったという超強運な人ももしかしたらいるかもしれませんが、教育として「イジメは悪だ」「差別はいけない」と教えこまれたからという以前に、「自分がされて苦しかったから、人にはしない」という感情が、普通は芽生える…と思いながら生きてきました。 しかし、「イジメは最低」といったそばから「お前なんて死ね」と平気で言う人、「みんなが過ごしやすく、仲良く」といいながら、片っ端からパワハラをするような人がやまほどいます。 ただのいい子ぶりっこで、本当は性格が歪んでいる、という人もいるでしょうが、私が「なんで?」と思うのは、「いい子ぶり」で言っている人よりも本心から言っているように思えるからです。 彼ら彼女らは、世間的に正しいと言われているからしょうがなくカッコつけて「いじめは最低だ!」と主張しているようには見えないのです。イジメは最低の人間がやることだと身にしみてわかっていながら、平気で人を傷つけて何とも思っていないように思えるのです。 言っていることの矛盾が、言うこともやることも完全に悪いヤツよりも私の頭をややこしくしてくるんです。 「結局こいつの本性はイジメの加害者と変わらないんだな」と思ってしまえばそれまでなのですが、まっとうなこと(「いじめや差別は最低だ!」)といったことと、平気で人を罵ったり差別をしたりして傷つけることを同時に行う人の心理とはいったいどんなものなのでしょうか。 私は「表も裏も人を傷つけることを日常的にするような、わかりやすい悪」と、「攻撃性のない一方的にやられる人間」の中間にいて、自分より上の悪を本気で憎み、その一方で弱い人間を自分より低いいきものとして、人間とも思わずに傷つけているのかな?と思いながらやりとりを見て「?」となっているのですが… 話す相手によって人を傷つける心理の解釈は千差万別でして、この私が説明した「正義を語りながら人を平気で傷つける人」の類は、私が彼らの行動を疑問に思うこと自体がクレイジーであるようです。 「え?俺ら何か悪いことした?」とけろりとしています。 上手く説明できていないと思うのですが、彼らの心理はどういったものだと思われますでしょうか。

みんなの回答

  • dropyork
  • ベストアンサー率15% (13/85)
回答No.11

心に関することは、頭ではわからない。 頭でとらえている者の意見を聞いてもわからない。

noname#210533
noname#210533
回答No.10

追伸です。 水の中に潜ってみると、アジやゴンズイなどの小魚が数千、数万匹と 群れている処に良く出くわします。 大型の捕食魚類に周囲を回遊されながら、巨大なボールのように 固まった彼らを見ていると、あたかも人間社会の縮図のような 暗喩的に思える動きを垣間見ることが出来ます。 何故、この魚たちは言葉も使わず一斉に、同じ動きをすることが できるんだろう? 一匹一匹の魚達に自分達の群れの全体像など見えるはずがないのに どうしてバラバラにほぐれずに、変形しつつもひと塊でいられるの だろう? どうして綻びてほどけてしまわないのだろうか? この群れの外縁部と中央部では魚の種類に何か違いがあるんだろうか? 階級のような、何らかの能力的ヒエラルキーや役割分担のようなものが あるんだろうか? 良く見ると、この群れの中で魚たちは全体が渦を巻くように動いて いました。 でも、鍋の中の蕎麦が湧き立つように、中央部と 外縁部が入れ替わっているようには見えませんでした。 もし、見えた通りなら、一見同じアジですが、そこには何らかの 分担や階層化によって全体で一つの群体=大きく見せかけて 外敵から身を守るための疑似社会構造=を成しているとも 言えるでしょう。 非常にぼんやりしたものではありますが、全体で一つの 意思や恐怖感を持っている亜生物のようにも捉える事が 出来そうです。 これを人間社会に当てはめてみると、同じ遺伝子から ほぼ同等の肉体を持って生まれてきても、何らかの 差異によって分担と階層化の高度な形態=社会化、が 薦められてきたわけですが、進化、とまでは言えないに しても個体の脳としてはこれ以上の大容量化が困難な 中で、個人という個体の進化ではなく群体が高度に 有機的かつ生命的な進化形態を模索する過程に、現在 我々はいるのだ、という(大分手垢は付いていますが) 古典的な進化論に結びつきます。 人間性、というものを生物の機能として捉えなおすと、 それは当然社会と言う巨大な有機体をスムーズに (内部崩壊を起こさないための)自己安定を目的にした 仕組みだろうと言えるでしょうけれど、同時に 短い人生を生きる我々にとって、死の絶対性を前にすると 人間性という規範は心の安寧だけでなく、凶暴な自由を 制限する強力な「枷」としても機能しますね。 どうせ人生は一度きりだから、欲望の赴くままに生きてやる。 そういう考えの人は少なからずいますが、彼らの考え方の 基本は、この「枷」を外すこと、あえて言うなら、欲望充足、 それ以上に社会倫理規範を逸脱し、破壊することに自己実現の 強い満足を感じるということになります。 ただ、これは自分の心を手探りしてみると、規範的な人でも 必ず「解き放たれたい」という根源的な情念はあるはずです。 先ほどは魚の群れを引き合いに考えてみましたが、原子核反応に なぞらえてみると、原子核である個人が、他人から中性子を ぶつけられたり他人に向かって放出したりを繰り返して全体として 核反応を起こしている訳ですが、緩やかに「枷」で制御すれば 熱エネルギーを安定的に取り出すことで発電が出来ますが 急激に臨界を超えさせれば核爆発も起きる。 社会で言えば、大掛かりな核反応はクーデターによる政変、 小規模なものは新大久保のヘイトスピーチデモなどにその 類似を見ることが出来ます。 つまり、エネルギーとしての人間は内部留保の限界を時々 超えた部分を「枷」を解いて放出している、とも考えられます。 それでも基本的には「枷」を高い次元で並列動作させることで 社会機構の様々な部位を、あたかも人体の各器官のように 整然と制御しながら全体で一つの有機的な疑似生命体のように 維持しているわけです。 ここまで考えると、いずれも群全体を捉える事、その中の自分の ポジショニングと果たすべき役割や期待される機能などの一つと して、 人間性=自律制御機能 と考えるベクトルと、もう一つ、 短い人生を有益に生きる(ここでは述べませんが、 社会という疑似生命体の血液に相当する、価値の 流通は、実にこの「益」であるわけです。)ために、 自分及び自分に直接連なる人々を含めた小さな 「仲間ユニット体」に様々な「益」をもたらすべく 言動を制御する者こそ、「人間性」という心の アルゴリズムの優劣を問われるべき、とも言えるでしょう。 我々は無数の種類が存在する小さな小さな素子であり、 家族や地域社会と言うマイクロ・ユニットに属している 存在なわけですが、社会システムを構成するデバイスで あると同時に、そのシステム内を流通する情報そのもの、 血液でもあるのです。 いわば、回路であり、同時に信号電流でもある。 プログラムであり、同時にデータファイルでもある。 だからこそ、個人の思考も記憶も、個人の人生 そのものが小説であれ、映画や音楽であれ、 人と人とが関わり合う時に交わされる僅かな やりとりでさえも、個体同士を結び付けて 流通する価値そのものです。 それらは他者に転写され、アレンジされて「共有される」 ことで、社会全体で初めて「意味」を与えられて広がる。 別に特別ハイパーなものでなくとも、むしろ平凡なものごとを 共感が得られるリアルさで語られたり、表現されたりすること それ自体が皆から評価され、真似されたり着想の源泉となったり する。 そうして皆が自分の人生という儚いものを抱えて暗闇の中を 彷徨するようなこの世界で、自分だけじゃない、誰もが同じ 不安ややりきれなさを感じて生きているんだ、と頭ではなく 心で判るからこそ、誰かと一時でもいいから結びつこう、 ささやかな優しい言葉でも構わないから、誰かにあげよう、 自分も人から何かを得たい、それを自分なりに咀嚼して、 小さくてもいいから「益」を産みたいと切望する。。 自分を主語にした利己的な思考から、群全体と小さな 所属ユニット、その中の自分の位置や有様。 このスケールで社会も自分も捉えるスタイルを身に付け られれば、自分が死んで忘れ去られても、自分が生きた 命そのものが、誰か違う主語の語られる人生の中で、 ちゃんと生きていけることが漠然と理解できて来ます。 ああ、それで宗教は来世を説き、攻殻機動隊の素子さんは 電脳の海に埋没して行ったのか、と腑に落ちるのです。 それが、魂は滅びない、ということか、と。 主語が「自分」である必要など、そもそも最初から 無かったのか、と。 自分の魂が自分と言う姿をしている間に、精一杯 そのありようを全うして生きて死んで、それで 充分なのだ、何も欠けても失われてもいないのだ、と。 脳内麻薬にどっぷり浸かった脳みそを、現実世界に 戻して、今日も一日がんばろー!と思うのでした、まる。 長々とお付き合い頂きまして、ありがとうございました。 あなたも水のように流れていて下さいね。 さらさら。

  • birth11
  • ベストアンサー率37% (82/221)
回答No.9

「行動」は"言葉"より雄弁。 「あなたの嫌いな人、苦手な人に注目する」。 あなたにとって「イヤな人」というのは、あなたに、 何かのメッセージを運んできてくれる、 とってもいい人なんです。 だから、逃げても同じなんですよ。 と書いてる本があります。 言葉の暴力をしてくる人に対しては、我慢しようじゃないですか。 つまり発言だけの人に対しては、ということです。 「私たちは相手の発言だけでは暴力を振るうことは許されません。そこで我慢することが必要になってきます。」という考えから言っています。 「発言という行動」という意味に捉えたのだと思いますが、 ここでは発言と行動は別物と考えてください。 問題なのは、行動に出ることだと思います。 (1)恐怖感を与えてくるだとか、物を壊すだとか、 文章にして見せることで、人の心を傷つけるとか。 手を出してくるとか。 つまり暴力団的行動に出ることです。 ものを投げてくるだとか。 物を盗んだりするとか。 そんな行動をする人に対して戦おうじゃないですか。 (2)ただ、好き嫌い、苦手な人って(1)の部類に直接は入ってこない。 ここでもう一度、(1)と(2)と比較してもらいたい。 (1)は行動に出る人に対して戦おうと言っているのです。質問者さんの言っていることと一致するのではないでしょうか。 (2)は生理的であろうとなかろうと好き嫌い、 苦手な人っていうことです。 だからこのような人の場合は、 何かメッセージを持ってきてくれているいい人だ、 と思うことだと言っているんです。 私の周りには(1)の部類に入っている人がいますが、 そんな人に対しては、私は無視することにしています。 ロッカーに鍵がついていない学校の場合は、 盗難とかあると思うんですが、 そういう時は大事なものは常に持ち歩く、 もしくは学校に持ってこないという選択ができると思うんですね。 (2)の人に対しては自分に問題がある、っていうか根本的に変えた方がいい何かがあるということです。これって考えることは楽しいことだと思いませんか? もう一つ、発言だけの場合も根本的に変えた方がいい何かがあるということを書き忘れました。 いかがなものでしょう。

noname#210533
noname#210533
回答No.8

例えば、同じ日本人、同じ学校の同級生、更に言えば親子兄弟でさえ。 人間は他人の心を自分の心の一部として直接に感じる能力を持ちません。 全て、表情・言葉・態度などの観察結果と、これまでの記憶や経験に 照らし合わせて推測しているに過ぎないのです。 だから、好きな人がいれば その人の気持ちを知りたくなり、 自分を好きかどうかを確かめたくなり、その証拠が欲しくなります。 でも、あくまで推測した仮想の人格でしかないので、推測する人の 能力が高ければ、本人さえ気づかない深層心理まで推し量ることが 出来る反面、その能力が乏しい人の場合は恐ろしいことになります。 判らない物を判らないとせずに、こういう人間だ、と決めつけて 推測を補おうとするのです。 人間、自分に都合の良いように考える習性がありますから、 その決めつけ方も、当然自分に都合よく考えます。 自分に自信が無い人、自分の生き方に確固とした強みを持たない人は いつも自分には大した値打ちが無い、という強い不満を抱えがちです。。 格闘技でも商売でも、自分の道を見つけることが出来ていない人は、 一気に成功して良い気持ちになろうとする射幸心が強いものです。 だから地道に努力を積み重ねるような廻りくどい方法は嫌がります。 ずっと前から努力している人や才能のある人には敵わない。 今更何をしたって結果など出やしない。 そう思うからです。 積み重ねる努力をしないから益々頑張る人々との差は開く。 イライラして腹が立つ。 だから憂さ晴らしでそのイライラから 逃れようとする。 だから益々努力から遠ざかり・・・悪循環です。 その憂さ晴らしの、もっとも簡単なものが、自分より弱そうな 人間を見つけて痛めつけること、蔑むこと、否定すること。 それはあたかも、自分の弱い本質を物言わぬ人形になすりつけて それを壊すことで自分は強い価値がある崇高な存在だと 信じ込もうとする、宗教的な妄信者のようです。 だから、人形が意思を持って自分に刃向うことは、受け入れがたい 現実そのものであるのです。 だから、殺してもいい。 そのような考え方を現実にする人間は検挙の有無を問わず 枚挙に暇がありません。 そして、もう一つ恐ろしい心の現象があります。 それは、人間は、どんなことにも慣れる、ということです。 他人を傷つけることに対して僅かな罪悪感も、他人を傷つけて 快楽を得ていくうちにどんどん麻痺していきます。 そして、もっと強い刺激が無ければ不安を払しょくできなくなる。 習慣性と依存性、そして人格の荒廃を招き被害妄想や攻撃性が 高くなっていく様子は、まさに麻薬の脳への働き方そっくりです。 それでも、どんな人間でも自分より強い人間の前では抑圧される しかありません。 そのため、自分は値打ちがあるはずだと思いたい不安な心を 安定させるトランキライザーとして、日常的に貶したり虐めたり を常態化させてしまう。 つまり、いつでもどこでも悪口を言い続け、意地悪する対象を 探し続けないと一時も落着けない、という慢性症状に陥る。 正義や悪ではなく、彼らは精神安定剤として他人を批判し 毀損するのです。 まるで、サプリにはまっている女性が、しょっちゅう錠剤を口に するようなものです。 だから、悪いことをしている、というような自覚は、恐らく極めて 乏しいでしょう。 彼らの心は、人間の心の高機能な部分が劣化してしまい、 正常値をアウトプットできる健康を有していません。 だから、図星を突けば人が変わったように怒り出しますし、 逆手に取れば、コントロールすることで操ることも出来るのです。 人の姿をして知識も知能も人ではありますが、実際には その心はかなりのジャンキーであったり、人格に重度の障害が ある人も少なくないはずです。 目に見えませんから、その存在も言わば闇の中にあります。 人の姿をした、人でなし。 だから、ホラー映画では人の姿をした人ではない物を極限まで 追及する作品が生み出され続けているのです。 サイコパスと言われる、「心が無い」とされる人にも、自分を 守り快楽を得ようとする情動はあるのでしょう。 身体と頭脳は人間で、心は昆虫。 そういう人間もいるようです。 恐ろしくて身震いしてしまいます。 同じ人間だと思うと、人を信じられなくなる怖さがあります。 私は、ある程度、この世界には動物人間や爬虫類人間、 昆虫人間などが混じっている、と思いながら人々を一歩引いて 見ています。 自分の心の中にさえ。 もしかしたら。 何か 得体の知れない

totoko213
質問者

お礼

非常にぐっとくるところまで来た回答だと思いました。 私も、トラウマ持ちで心の弱い人間でして、デパス等の軽い精神安定剤を飲んでいます。 薬は心を持たず、命もないのですが、これを人間にすり替えている人がいるという比喩は、とてもわかりやすく、非常に恐ろしく思いました。 行動のメカニズムが少しずつわかってきました。根本には、「怠け」があるように思います。 より自分を高めようとする努力をする気力がなく、下へ下へ落ちるしかできなくなった人。そしてさらにそんな自分にも尊厳があることを証明したくて、今度は弱い人を探して餌食にする。それで一時的な快楽を得たら、またさらに努力する必要を感じなくなる。最悪の悪循環ですね。 自分の自信のなさをどうにか埋めたいと思うことは人間以外の動物には強く見られるものではないと思います。だからある意味人間らしさが招いているんじゃないかと感じます。一体何が人間らしいのか、わからなくなってきました…。

  • daiamon3
  • ベストアンサー率20% (7/34)
回答No.7

恐らく、錯覚しているんじゃないでしょうか? 例えば、 「私は完成した人格者だ」 と錯覚していれば欠点を指摘しても自分に問題があるとは考えないし、 「私は史上最高の上司だ」 と思っていれば業績が悪くても自分が悪いとは感じないし、部下が思うように動かせなくても周りが悪いと感じるようになります。 その錯覚している、というのを前提に考えれば 「いじめ反対!」 と言いながらいじめている人は例え注意されても 「俺なんかした?」 と言えるわけです。 要するに自分を客観視することが出来ないのです。 自分を外側から見つめて状況を把握出来ないからこそ、自分の弱点・欠点に気付く事が出来ないし自分がある程度完成していると錯覚してしまうんだと思います。 もちろん他の回答者様の言う様に相手の立場に立つ事もできません。 心の大部分が自分で完結していて他人の事を考える余地がないのです。 人が完全になることはないし、いつでも私達は誤った方向に向かってしまう可能性が大いにあります。 ただ彼らにはそれが本質的に見抜くことが出来ないのです。 そこには人としての大きな隔たりがあります。 一生気付かない人もいるし、何かがきっかけで変われる人もいます。 世の中気付けない人の方が大半です。 ですが気付く事の出来ない人達を少しでもより良い方向に補佐するのが、気付けている人達の役割だと私は思います。

totoko213
質問者

お礼

>「私は完成した人格者だ」 >と錯覚していれば欠点を指摘しても自分に問題があるとは考えないし、 >「私は史上最高の上司だ」 >と思っていれば業績が悪くても自分が悪いとは感じないし、部下が思うように動かせなくても周りが悪いと感じるようになります 自己愛性パーソナリティ障害を思わせますね。 なんだか不思議です。探れば探るほど、「自分は自信がない…弱い人間をつかって不安を和らげなければ」と思っているのか、「自分は完璧だ!他人なんてゴミ同然だ!」と信じこんでいるのか… 表裏一体ということなのでしょうか。 >心の大部分が自分で完結していて他人の事を考える余地がないのです。 なるほど…。 一体何が人をそんなに自分100%にさせてしまうのでしょうね。 やはり育った環境なのでしょうか…。 >一生気付かない人もいるし、何かがきっかけで変われる人もいます。 >世の中気付けない人の方が大半です。 >ですが気付く事の出来ない人達を少しでもより良い方向に補佐するのが、気付けている人達の役割だと私は思います。 そうですね、一生気づかない人のほうが圧倒的に多いです。 だからといって、住み分けるということも極端に難しい人たちなので、回答者様が言うように頭の良い人がうまく導くことが大切だなと思います。

  • TbLK
  • ベストアンサー率41% (13/31)
回答No.6

#3です。 >すごくわかるようで、引っかかる部分もあります。 >というのは彼らは「人の痛み」はわかりませんが、空気を読んだり、同じ考えの人間とかたまることは瞬時にできてしまうからです。 類は友を呼ぶというように、人は、同じ考えの人間といると心地がいいものです。 人によって、気が合う合わないがあるのは当然だと思います。 人は、自分と同じ考えの人のところに集まるように思います。 自分が考えたことのあることや経験したことは、他人のこころが分からない人でも分かることがあるのです。 しかし、経験しても分からないこともあります。 ちょっと分かりにくくなってしまいましたが、 要するに、同じ考えの人と集まるのは、自分が共感したことと経験から、できるのです。 場の空気を読むことも、その人にとって得意なことなのでしょう。 しかし、いじめられた経験があっても、いじめられた側(自分とはジャンルの違う人間)の気持ちを分かるのが苦手なのかもしれません。 自分の苦手なジャンルのことは、良く分からないものです。 質問者様が、彼らの心理を良く分からないように、彼らも、いじめられた側のこころはよく分からないのではないでしょうか。 こころの優しい、悩む人ほど、人のこころが分かると思います。 しかし、人間ですので、全ての人のこころを理解する事は不可能に近いでしょう。 質問者様の人のことを理解しようとする姿勢や、物事を固定観念にとらわれないようにするアンテナ(感受性)は素晴らしいものだと思います。 偉そうに評価するようなことを言ってしまい、申し訳ありません。 私自身、人の気持ちを分かりたいと思っても、自分の経験していないことは、想像しかできないため、本当の理解はできないと思っています。 相手の表情から読み取ろうとしても、本人に毎回確認したりできないので、難しいものです。 長くなってしまいすみませんが、この回答が、質問者様の引っかかっているものが取れる手助けになれれば幸いです。

  • birth11
  • ベストアンサー率37% (82/221)
回答No.5

明日早いので、参考文献を示しておきます。それについては後日時間のある時にお話できればいいなと思います。 参考文献:心屋仁之助の 今ある「悩み」をズバリ解決します! 王様文庫 三笠書房 600円(税込) P58からP62の部分です。 おやすみなさい。

  • birth11
  • ベストアンサー率37% (82/221)
回答No.4

「行動」は"言葉"より雄弁。 「あなたの嫌いな人、苦手な人に注目する」。 あなたにとって「イヤな人」というのは、あなたに、 何かのメッセージを運んできてくれる、 とってもいい人なんです。 だから、逃げても同じなんですよ。 と書いてる本があります。 言葉の暴力をしてくる人に対しては、我慢しようじゃないですか。 問題なのは、行動に出ることだと思います。 (1)恐怖感を与えてくるだとか、物を壊すだとか、 文章にして見せることで、人の心を傷つけるとか。 そんな行動をする人に対して戦おうじゃないですか。 (2)ただ、好き嫌い、苦手な人って(1)の部類に直接は入ってこない。 だからこのような人の場合は、 何かメッセージを持ってきてくれているいい人だ、 と思うことだと言っているんです。 私の周りには(1)の部類に入っている人がいますが、 そんな人に対しては、私は無視することにしています。 ロッカーに鍵がついていない学校の場合は、 盗難とかあると思うんですが、 そういう時は大事なものは常に持ち歩く、 もしくは学校に持ってこないという選択ができると思うんですね。 (2)の人に対しては自分に問題がある、っていうか根本的に変えた方がいい何かがあるということです。これって考えることは楽しいことだと思いませんか? いかがなものでしょう。

totoko213
質問者

お礼

「嫌いと感じる人はメッセージを与えてくれる人」 という話はどこかで聞いたことがあるような気がします。 発展的な考えだとは思うのですが、気になるポイントがあるのでよかったら教えてください。 なんだか少し揚げ足をとっているように思えるかもしれませんが、「変わりたいから知りたい」という意思だと思ってもらえると嬉しいです。 >言葉の暴力をしてくる人に対しては、我慢しようじゃないですか。 ・「我慢」は良いことなのでしょうか。 我慢はただ苦痛に耐えるだけで、傷は癒えませんし進展もないように思えてしまいます。 言葉はいいものに思えて、とても薄っぺらいものではあります。しかし言葉ひとつで人が大きく動くことも事実です。口から出ても手をあげても暴力としての卑劣さは同等に思えます。 >(2)ただ、好き嫌い、苦手な人って(1)の部類に直接は入ってこない。 私はこれがちょっとわからないです。 私は(1)=(2)になります。(1)のように行動に移してしまう人を無視し、(2)(おそらく生理的にスキ・キライ)からメッセージを読み取る、というのは逆のように思えてしまうのですが… (2)って、よいわるいではなく、個人の好み、遺伝子レベルで避けようと判断しただけの感覚で、解決する必要はなにもないのではないでしょうか。 一方の(1)は自分の心を傷つけ、周りに迷惑を与えるなんとか処理しなければならないものです。無視や我慢を続けることは正しい選択ではない気がします。 うーん、皆さんの回答を読んでいて、つくづく私は感受性が人と違うなと痛感してしまいました…。

  • TbLK
  • ベストアンサー率41% (13/31)
回答No.3

人の気持ちが分からないのが、まずあるのではないでしょうか。 会社や学校といった特定の社会の中では、そこでの風習や、価値観があると思います。 それは、その場にいる人で形成されることが多く、今まで生きてきた倫理観が大きく出ます。 日本に暮らしていても、この倫理観は、家庭環境により変わってくると思います。 親の背中見て育つので、親がやっていることは、子どももやってしまいます。 今のいじめはいけないと変化してきた日本の社会では、あって当然なのかもしれません。 いじめが当たり前の親の元で育った子供は、いじめをやってしまうと思うのです。 しかし、日本社会はいじめをいけないとしている。 言葉は変えることは簡単なので、いじめはいけないと言う事は簡単です。 いじめがいけないと分かることも、納得すれば簡単です。 では、行動はどうでしょう。 意識せずの行動というのは、簡単に変更することはできません。 人にはプライドがあるので、ここに気付き、行動を改めることは簡単ではありません。 教育現場を変え、家庭環境が変わらなければ、この現状は変わらないと私は考えています。 もし、テレビで、「いじめをいけないと言っている人がいじめをしている」ということが当たり前のように流れるようになれば、意識の範囲が変わってくるので、社会も変わるかもしれませんが。

totoko213
質問者

お礼

ありがとうございます。 >人の気持ちが分からないのが、まずあるのではないでしょうか。 すごくわかるようで、引っかかる部分もあります。 というのは彼らは「人の痛み」はわかりませんが、空気を読んだり、同じ考えの人間とかたまることは瞬時にできてしまうからです。 それはまた別の能力なのでしょうか。 親の背中を見て同じ人格になってしまっているというのは納得です。 親世代には「こういう人間はいじめられてしかるべき」というような悪意のないルールを持っている方が多いように思います。

  • mukutii
  • ベストアンサー率23% (14/59)
回答No.1

あなたみたいに物事を深く考えていなくて その場の雰囲気やのりみたいな。 正義の心が疼いたら「いじめはいけない!」 むかついたら「死ね」 言葉の意味は考えず、「感情」で話をしているので 彼らの心理は その時のその人の感情 つまり 雰囲気 と のり なのではないでしょうか

totoko213
質問者

お礼

ありがとうございます。 その場のノリですかー… 私はあまり感情がすぐに変化するタイプではないので、理解しづらかったのかもしれません。 でもそんなに極端にコロコロと感情が変わるものなのでしょうか。 感情の起伏が激しい人もいますが、そういう感じには見えない人も多いのですよね…

関連するQ&A