いわゆる関所で見せるような通行手形は個人には発行されませんでした。
江戸時代は、宗門改めという制度の延長線上で寺院が戸籍をを管理していました。現在過去帳として残っているものがそれに相当します。
人別と言われ、これは相当喧しく管理されていました。
勘当というのは、この人別帳から名前を消すという意味で、一切の身元保証を受けることが出来なくなります。
働くことも住むことも出来なくなります。
この無戸籍の人を無宿人と呼びました。
船主や船頭が「かこ」と呼ばれる乗務員を雇う場合には身元保証として、このお寺の証明が必要とされました。
乗務員に不正行為があった場合には、内容を問わず雇い主の責任とされていました。
つまり身元の判らない人間が廻船に乗って津々浦々を巡るということはできませんでした。
まぁ~このへんはいい加減にやっていた連中もいたでしょう。
江戸から利根川へ出る小名木川に船番所という一種の関所がありましたが、船の覆いを外して見せるだけで通行していました。
通行手形も今のパスポートのように厳密には運用されていませんでした。
手形改めで有名なのが箱根の関所ですが、三島と沼津の住人は関所を通らずに海岸近くの道を自由に往来していました。
この場合も身元を改められた場合には身元を証明することが求められました。
簡易の証明書は持ち歩いていたようです。
藩境の街道筋には必ず藩所轄の関所がありましたが、町の人が往来する道が関所の建物の後ろにチャントあるといういい加減なものでした。
関所によっては、わざわざ大声で「これこれの裏道を通ってはならんぞ」と言って暗に裏道を教えていたというところもあったそうです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 二つの論文から得た情報を参考に「寺請状」で検索しました。 北海道江差町のHPで「北前船の乗組員に発行された身分証明書」という記事で「寺請状之事」を見つけました。安永7年(1778)の物です。 船に対しては「往来手形」、乗組員に対しては「寺請状」が発行されていたと思って間違いなさそうです。 「寺請状銘々取置候」の“取置”は、他の文例で調べますと「入手」の意味で、寺請状その物は、航海中は船箪笥に保管していたと思います。 通行手形は発行されなかったが寺請状が身元確認の書類だった、と言えますね。 お陰さまで疑問は解消しました。 ここまで書いてきて、#4のご回答に気付きました。 取り敢えず、#2#3のご回答に感謝申し上げます。 ありがとうございました。