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船乗りの通行手形
船乗りは、津々浦々を巡りますが、通行手形を持っていたのですか。 東廻りや西廻り航路の廻船には、船1艘ごとに往来手形が発行され、船頭が所持していたそうです。 関所を通ることはないので、船頭以外の乗組員には通行手形は発行されなかったのですか。 よろしくお願いします。
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時期・航路にズレがありますが、下記の二つをあわせて考えてみますと、 通行手形と呼ぶ呼ばないは別にして、 船頭並びに各水主は身分証明書としての「寺請状(寺証文)」 (有効期間はふつう1ヵ年、毎年証明の交付を受けることが原則)を 航行中の船内に所持していた可能性が高いように思います。 あくまでも一例に過ぎませんが、 下記の「文政七(1824)年六月廿一日付加子(※かこ)請状之事」には、 「一、右之加子国所宗旨万事慥成者ニ而、寺請状銘々取置候、…」の一文があります。 〇「<論文>近世讃州直島の廻船業/柚木学」 『經濟學論究 28(2)/関西学院大学/1974-09-28』(439-464頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110000405474 III直島堺屋平蔵と隆徳丸 <9~11/26> 1.船往来手形 船往来手形は、廻船が諸国津々浦々を往来するための廻船乗組員の通航証明書であり、 いわば一種の航海許可証でもあった。 したがって船主が所轄浦役所に申請して交付を受けるもので、 これは沖船頭以下水主にいたるまで乗組員全員が切支丹宗徒でないことを 証明されていることが必要であった。 この有効期間はふつう1ヵ年であり、毎年証明の交付を受けることが原則であった。 <11・12/26> 2.水主請状 水主(加子)請状とは、水主の雇用契約書であるが、その契約の方法は、 雇用者たる船主・沖船頭と水主との間でとりかわされ、 それに請人(保証人)との連署のもとになされた。 前掲の船往来手形は船主に交付されるのに対し、 水主請状は沖船頭に対して乗組員たる水主全員が明記された契約書で、 水主に対する船員としての義務や海上法規を遵守すべき宣誓書でもあり、 またここでは賃銀契約もなされている。 この水主請状のなかには、 各水主の身元証明書たる寺請状を所持すべきことが義務づけられており、 海上法規を守るべき旨が記されている。 上記の「寺請状銘々取置候」につきまして、「各水主(※かこ)の身元証明書たる寺請状を 所持すべきことが義務づけられており」と記述されていますが、これがはたして 航海中に船頭又は各水主が所持すべきとの意味なのか、地元で取り置くのか、 ド素人の私にはハッキリしません。 そこで、他を当たってみますと、(なお上記とは時期・航路とも別ですが) 〇「近世後期における塩の流通と廻船商業活動 ─伊予多喜浜塩と尾張野間廻船─/末永国紀」 『経済学論叢 20(6)/同志社大学経済学会/1973-01』(巻末1-40頁) http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00000619&elmid=Body&lfname=2060004.pdf&loginflg=on (万一、上記URLが開かない場合には、御指摘下さい。) 嘉永六(1853)年三月の浦賀番所の取締り高札に対する請書之控「差上申御請証文之事」には <16/40> 「一、於諸浦々ニ日和待仕候内、船頭水主内病死変死等ニて人数相減候ハバ、 其所より寺証文持参差上可申候、沖合ニ而溺死等者着船野之所より是又証文取持参可仕候事」 の一文があります。 船頭又は水主が病死・変死にて船往来手形の人数が減った場合には、 「寺証文持参」の必要があったようです。 以上 あくまでも都合のよい部分を組み合わせた ド素人発想の一つの可能性に過ぎませんが、 疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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- dayone
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No2.の dayone です。再々度お騒がせ致します。 せっかくの御質問板を、再び汚すカキコミに過ぎないため、 先にお詫び申し上げますm(_"_)m 既にお気付きのことと思いますが、 No2.投稿後半部の「其所より寺証文持参」「着船之所より是又証文取持参」などの 「其所より」「着船之所より」を、ド素人発想で単に地点を表すだけのことと捉え カキコミしてしまいましたが、仮にそうなら不要な言葉と思え、 気になって改めて他を当たってみますと、船の立ち寄った浦々などで発行される 寺証文、証文などと捉える方が自然のようですね。 残念ながらド素人ゆえ明確な裏付け資料等は提示できませんが、 例えば航海中に水主が亡くなった場合の文書のやりとりにつきましては 下記「本田(誠)文書仮目録」などが参考になりました。 http://imano.comm.fukuoka-u.ac.jp/chiikishi/PDF/honda_mokuroku.pdf <6・7/29>の「25-1~25/9」の中の「25-1/送り手形」「25/2/浦状」など。 これらから、寄港先の浦の寺や名主・五人組等が発行する文書が該当すると考えるのが 妥当ゆえに、No2.投稿の前半部「寺請状」と後半部「寺証文」とは別物のようですね。 よって、恥ずかしながら、 No2.投稿の前半部「寺請状」が船内所持なのか地元保管なのかに逆戻りしてしまいました。 以上 現時点では幸か不幸か 何方様からも誤りの指摘や反論が寄せられませんでしたので 独り相撲をとってみました、笑ってやって下さい(><)
お礼
ご丁寧に訂正の回答を頂いて恐縮です。 「寺請状」と「寺証文」とは別物であることは分かりました。 資料「本田(誠)文書仮目録」で、航海中に亡くなった水主の事後処理について、16年後の弘化4年(1847)にその船の乗客の「往来願請置き候哉照会」があって、その返事を出していますね。 公文書がきちんと保管されており、信書が確実に届くという制度に驚きました。
- dayone
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No2.の dayone です。再度お騒がせ致します。 夕食前に慌てて編集して間違えました(><) 訂正削除の件 削除を要する箇所 冒頭の「(有効期間はふつう1ヵ年、毎年証明の交付を受けることが原則)」 部分。 「寺請状(寺証文)」のこととしてカキコミしてしまいましたが、 当該箇所は「船往来手形」に関する有効期間に関してでした。 謹んでお詫び申し上げますm(_"_)m
いわゆる関所で見せるような通行手形は個人には発行されませんでした。 江戸時代は、宗門改めという制度の延長線上で寺院が戸籍をを管理していました。現在過去帳として残っているものがそれに相当します。 人別と言われ、これは相当喧しく管理されていました。 勘当というのは、この人別帳から名前を消すという意味で、一切の身元保証を受けることが出来なくなります。 働くことも住むことも出来なくなります。 この無戸籍の人を無宿人と呼びました。 船主や船頭が「かこ」と呼ばれる乗務員を雇う場合には身元保証として、このお寺の証明が必要とされました。 乗務員に不正行為があった場合には、内容を問わず雇い主の責任とされていました。 つまり身元の判らない人間が廻船に乗って津々浦々を巡るということはできませんでした。 まぁ~このへんはいい加減にやっていた連中もいたでしょう。 江戸から利根川へ出る小名木川に船番所という一種の関所がありましたが、船の覆いを外して見せるだけで通行していました。 通行手形も今のパスポートのように厳密には運用されていませんでした。 手形改めで有名なのが箱根の関所ですが、三島と沼津の住人は関所を通らずに海岸近くの道を自由に往来していました。 この場合も身元を改められた場合には身元を証明することが求められました。 簡易の証明書は持ち歩いていたようです。 藩境の街道筋には必ず藩所轄の関所がありましたが、町の人が往来する道が関所の建物の後ろにチャントあるといういい加減なものでした。 関所によっては、わざわざ大声で「これこれの裏道を通ってはならんぞ」と言って暗に裏道を教えていたというところもあったそうです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 陸に上がって飲み食いして、何かのいさかいが生じた場合、役人の処置は 「乗務員に不正行為があった場合には、内容を問わず雇い主の責任とされていました」ということですね。 であれば、個々人に通行手形は要りませんね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 二つの論文から得た情報を参考に「寺請状」で検索しました。 北海道江差町のHPで「北前船の乗組員に発行された身分証明書」という記事で「寺請状之事」を見つけました。安永7年(1778)の物です。 船に対しては「往来手形」、乗組員に対しては「寺請状」が発行されていたと思って間違いなさそうです。 「寺請状銘々取置候」の“取置”は、他の文例で調べますと「入手」の意味で、寺請状その物は、航海中は船箪笥に保管していたと思います。 通行手形は発行されなかったが寺請状が身元確認の書類だった、と言えますね。 お陰さまで疑問は解消しました。 ここまで書いてきて、#4のご回答に気付きました。 取り敢えず、#2#3のご回答に感謝申し上げます。 ありがとうございました。