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近世民衆の旅における出国手続き 特に女性について

(私は、近世民衆の女性の旅について研究しています。) 一般に、近世にはいり、参詣や物見遊山の旅が盛んになったと言われていますが、近世(江戸時代)、町人や商人、村人や農民がそのような旅に出る際(他領へ向う際)の出国手続きなどについて知る人はいませんか。 論文中に、藩に願い出が出されたや、許可なく抜け参りしたとあるのですが、出国手続きについてはっきりとよくわかりません。 今分かっていることは、関所を通過する旅路の場合、関所手形の申請が必要で、その際はその身分や出身地によって、手形を願い出るところや発行権者がきまっていたということ、そのほか、当時身分証明書になり、宿屋や各藩の番所通過に必要であった往来手形を申請しそれを持って旅したということです。 この手形の類は、庶民の場合、庄屋に願出ていて、論文中に見える、藩に願い出たという言葉と頭の中でうまく理解できません。 手形の申請とは別に、藩への願い出の必要があったのでしょうか。 それとも、出国手続きは、手形の申請がすべてだったのでしょうか。 また、ややこしくなってしまうのですが、当時、女性が関所破りをすることも多かったのですが、関所手形は、取りにくいものだったのでしょうか。 論文では、関所での改めをわずらわしく思い、また、関所の取り締まりも時代が下るにつれて緩くなったため、関所破りをしたというような文面が見えるのですが、関所手形自体が取りにくいものだったのかどうかよくわかりません。 (それぞれの藩の女性に対する規制や、女性の他出を好まない風潮によって、取りにくかったりしたのでしょうか。) また、往来手形は必ず持参したのでしょうか。 (旅が盛んになり、見た目にあやしくなければ、宿屋は泊めてくれたのではないか、尼の姿になり巡礼などした人は、往来手形のようなものを必要としたのかな…、関所破りのように、藩の番所もゆるかったり、抜けたりできたのかな…など疑問。) 論文で何かひっかかることを読んだわけではないのですが、関所手形について言及するも、往来手形については論文中に現れず、実際往来手形は持参されていたのか、なんとなく疑問に感じました。 また、話が少し戻るのですが、もし、藩への願い出が手形の申請のみであれば、その場合に往来手形を持参せず、関所を通らない旅路の場合、藩には許可を取ってない形の旅になるなぁと思いまいした。 どうでしょうか…?? また、このほか、かなり、あれこれ憶測で話し、話があちこちするのですが、旅日記を残した女性で長い旅をした女性(たとえば山梨志賀子は、裕福な家庭で家事労働からも解放された年齢で息子とともに西国へ長期旅行にでるも)関所手形を持たず旅しており、ここでもまた、関所手形をなぜ取らなかったのか、それとも取れなかったのか、一般に女性は旅に出にくいイメージの中、かなり自由に長期の旅に出ているから、関所手形をもってないということは、藩の許可は取っていなかったのかなども疑問です。 また、筑前?の小田宅子の伊勢詣の旅も、当初予定していなかった善光寺へ参った際の関所破りは別として、当初は伊勢までの予定であったので、関所手形ははじめから持参していなかったようです。 この場合も、藩の許可とってたのでしょうか… うまく言えないのですが、女性の他出がしにくいイメージと、旅日記を残したような女性の自由な行動が頭の中で結び付かないのです。 そこで、出国手続きや、藩の女性に対する他出の規制やその実際の効力の程度をせいりしたいのですが、あまりに無知で頭の中が混乱し整理しきれず、これといった論文も見つけられず、困惑しています。 あれこれ訳分からなくなっていますが、何か少しでも参考になるようなご意見、知識、サイト、論文などご存知でしたら教えてください。

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回答No.2

専門家ではないので明確な回答はできませんが、読書メモを基に書いてみます。 『日本列島に生きた人たち(3)文書と記録』 「幕末を旅した男」 http://www.amazon.co.jp/gp/product/toc/4000265245/ref=dp_toc?ie=UTF8&n=465392 この中の抜書きで、原文のままではありません。 江戸後期になると多くの人が旅に出るようになり、無手形の者が増えてきた。 そこで関所近くの旅籠、茶店で手形を発行することもあった。 新蔵たちも往来手形を持たずに伊勢崎から陸奥国に入り、磐城藩、相馬藩までは支障なく、仙台藩の駒ヶ峯関所から入手形が必要になり、お金を出して買った。 南部藩、松前藩、津軽藩、秋田藩、庄内藩、越後村上領まで入手形要、出るときは出切手を買った。南部藩では往来手形がないと入国できないと言われ、検断役人に3人で銭200文払いやっと入国。 新蔵とは、伊勢崎の森村新蔵のことで、天保12年(1841)に北国周遊した旅の記録を「北国見聞記」としてまとめています。 伊勢崎から水戸を通って松前まで行っています。 『関所抜け 江戸の女たちの冒険』 金森敦子著 http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000030862141&Action_id=121&Sza_id=C0 江戸末期、羽州本荘の商家の奥様方二人が従者二人を連れて、北陸道を上り、善光寺から京都・金毘羅・高野山・伊勢・江戸・日光と見物して秋田に戻るまでの数ヶ月におよぶ長旅の旅日記を綿密に解説してあります。 出国の手続きについては、往来手形を正式に入手して旅に出たと書いてあったと思うのですが、メモに残していません。 ただ、4人は関所手形を持たず、初めから「関所抜け」をする覚悟で旅に出ています。 旅の初めの頃は、関所抜けにおどおどしていますが、慣れてくると平気で通っています。 著者は、幕末近くになると手形がなくてもどうにでもなるということが、知識としてあったのだろうと推測しています。 四国八十八ヶ所めぐりをしていますが、大坂に手形問屋があって女手形を入手しています。 『日本の歴史 (10)徳川の国家デザイン』 http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20081110bk04.htm 「入り鉄砲に出女」の「出女」は、江戸からの逃亡阻止だけでなく、女性の移動・流出そのものを否定しています。 これは領主の人口政策で、藩内の女性が出国するには女手形が絶対必要だが、藩内に入る女性には女改めをしない例もあります。

回答No.1

「入り鉄砲に出女」は有名ですが、これは江戸の話です。対象になるのは武家の特に外様大名に関連する女(人質として江戸屋敷に置かれた女性たち)ということです。町人は関係ありません。それに経済的にも治安上も女性の一人旅なんて可能な時代ではありません。 各藩の場合の人間に対する移動の規制というのは、基本的には生産力としての農民の流出の阻止と職人の流出による特産品等の秘密漏洩や技術者の流出阻止という観点で見るほうが良いと思います。 よって、それ以外の事情の場合、規制を一律に全階級にかぶせていたとは思えません。まあ、入るほうに関してはよそ者(特に犯罪者の)流入阻止でしょうから一律であったかもしれませんが。 伊勢講などは、農民の移動であり規制が厳しくて当然のような気もしますが、ガス抜き的色彩がつよく、農協の団体旅行って感じかな^^ 面白いことをお調べですね。

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