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「神」について。

「神」について思うことを教えてください。 私は、人間の願いを都合良く聞いてくれる全知全能の神は到底信じられませんが この世の全てを統べる法則がもしあるのなら、それを「神」と呼ぶことに異存はありません。

みんなの回答

回答No.17

 今日は。ここは一応哲学カテゴですから、 >「神」については、存在論・認識論・倫理学、と分けて考えないと、 評価を誤りますね。 「神は自分の姿に似せて人を創られた。」→じゃ最初から人の姿? 否定の証明はできないけど、、逆に人に似てもいるという事は、人が先行してる。と普通理性は捉えますね。 「人は自分の姿に似せて神を・・」→神は、人間自身の写像に過ぎない。人の観念に過ぎない。という、。同じ事で、人間中心主義です。   さてでも、人間の発生以前も滅亡後も関係無く、神(非人格の)は存在する。とした場合は、主様が仰る「全てを統べる法則」一つではなく多数の法則の和だと思うけど)、それを神と呼べるでしょう。 ただそれは、全知全能ではなく、神ですら認識・計算・予知不可能な事案が有る事が、数学で証明されてしまいましたね。 完全に決定論だけど原理的に計算不可能。  人間存在とは関係ない神、。では数学は、人間が居なくとも宇宙に存在する真原理でしょうか? 他の宇宙生命体の神は違う数学をお持ち? 微妙です。 でももし生命体の意識=厳密な観念Ideaがその所属する宇宙を解明=創造?するというなら、その考えに乗ってみます。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1121790531 ここのベストAの方は面白い、良く解りませんが。ベルクソンの認識論読んでるのかも、。Y知恵×が荒れてるとは言え学問カテゴには素晴らしく専門的マッドな人が居ます(楽。 認識論・存在論の神法則がuniversal普遍か?、そこはカントのように純粋理性Kritic吟味が必要。哲学の仕事はその限界を精査する事ですね。妄想かどうかを。  実生活にはあまり関係ない話でした。もっかの私には、倫理学(宗教哲学)上の神こそ身に係る重要事です。 スピノザのエチカは全て含んでますが、存在論での神は単純化すると、 <無限>でしょうか、だから思惟と延長(空間性の事)以外の、神の属性は人智の及ばぬ不可知論としてます。でも各備考では倫理学によってこそ、そこを垣間見れる仕掛けのようだ。 アインシュタイン曰く、「スピノザの神なら信じてる。」私もそう、でもアイン博士の神は信じてません。あしからず。  尚、TEDの脳科学者のプレゼン、私も前に感慨深く拝見しました。右脳の事は本当の話ですが、語られる事は<<自分が自分でない、、自他の区別も曖昧、融けて、、万物照応と共生感、存在の一義性、OneLOVE!、。>と良い事だらけのようですが、離人症的・スキゾフレニックな世界です。危険伴う事は承知して下さい。統合機能が不全気味です。 カスタネダの「トナール=左脳、ナワール=右脳」とかと同様。素晴らしい世界ですが病気です。 幼い頃の私は苦しみました、それで。離人症状と小児性癲癇。テンカン治療に、 「分離脳」手術も行われてた時代。危ないもんです。 左右の脳を繋ぐのが「脳(橋)梁」 。女性の方が太いと言われてて、優れた芸術家の脳梁も太く女性的と言われます、ゲイのプルーストとか、。 漱石やアイン博士の脳も保存されてるけど多分それとは一寸違うんでしょうね。 要は仰るようにバランスです。念の為。

alterd1953
質問者

お礼

どうもです(笑) 本当は、私、アンカテでも良かったんですが長老の提言により 哲学カテにしてるだけですので、厳密な分類は別に良いんです。 でも、勉強にはなります(笑) 仰る通り、ヤフーの人、面白いですね。 特に「認識体の仮定断面」って辺りが非常に興味深いです。 あ。 そう言えば、こないだ「ケンブリッジ白熱教室」って間違って書きましたが 「オックスフォード白熱教室」の続編で、ガロワの「群論」の概要を解り易く解説してて 頭が吹っ飛びそうなぐらい興奮しました(笑) それと、私も「スピノザの神」は信じます。 そして「サイコロを振らないアインシュタインの神」は信じません。 いや、絶対振ってますよ。 そんな、人間にばっかり都合良く出来てる訳ないと思います(笑) それと確かに「右脳の威力」を過信するとホントやばいですよね。 まぁ、芸術家は勿論そうですが ひょっとすると、ヒットラーなんかもそうかも知れませんね。 ただ、あの人は旧字体を無くしたり、アウトバーンとか造ってますから 微妙ですけどね。 ではまた(笑)

回答No.16

私の場合は、 いろいろ苦の極限も体験しましたし、楽の極限への道筋^^もたくさん体験し発見してきたのですが、その体験からの結論を言えば、「神」という概念については考えるだけ無駄ということでした。 この宇宙の星々は、ほとんどがガスと岩と砂と火でできていて、水の定着するような要素を持った星はほんとどないらしいですね。 とすれば、地球という星は、どんな確率で生まれたのか?、これ自体が無限という確率の存在を想ってしまうところ、 太陽との絶妙な距離がその水の、生命を生む絶妙な場の条件となったとして、その条件から生命が生まれる可能性もまたその確率は無限のありえないところと想起され、 それがまた、このような進化をとげる確率はと考えれば、確率からはとうてい今のこの私達の意識の世界の存在は、それ自体私たちの計算では計り知れない世界です。 その計り知れなさならば認識可能なのですが、 その因果を人間は到底知ることは出来かねるはずなのです。 物を見る視覚の仕組みは、カメラのレンズと同じような映像が網膜に光として映し出されているところまで解ったとして、その映像をどうやって「見える」という現象に移し替えているのという、神経の刺激と脳でのその統合の仕組みからもまったく解らないままである点も(クオリアとも呼ばれている「感覚質」の問題です) 原子のその中のクオークという最小物質単位が解ったといっても、分子が何故その分子構造であれば、その組み合わせであればその物質の性格をおびるようになるのかという本質自体も、 解れば解るほど、逆に解らないことが解ってきてしまったという感じになっているのではないかと思います。 どうして、この存在が存在していて、その存在の中にいつしか「私」として意識出来る存在がそのように意識出来るようになっていたのか?、そうして今、これを書き、それを読む「友」という関係がここに存在することになったのか? この「?」については、考えるだけ無駄、というよりお手上げの問題というふうに私には思えるということなのです。 》この世の全てを統べる法則がもしあるのなら、それを「神」と呼ぶことに異存はありません。《 私もそう思います^^。 しかし、 その「この世の全てを統べる法則」なる「神」とは、どのような存在かを、 このあってはならない苦しみや、その可能性が続いていて、無くせないでいるこの命の世界の因果のすべてがその法則でできているのであれば、 その「神」こそが悪魔ということになります。 最大の悪魔ということになります。 それどころか、実は、その「神」以外には悪は存在しないとも言えるのです。 自由意志も何も、因果でうごかされていない意志はないからです。 ここまで考える人はなかなかいないのでしょうが、理屈は解るかとおもいます。 で その事ってそれ以上考えても何か意味のあることなのでしょうか? 私の場合は、最後にそのことについて、泣きながら、血を吐いて叫びながら、神よおまえこそ悪魔じゃないか、いやお前だけが とっとっと、それってこんなもんじゃないです。もう絶望というかこの存在のすべてが信じられないというか心の闇の奥深くというか 地の奥のマグマというか、どんなロックミュージシャンのシャウトよりもすごい絶叫^^というか、 悶絶しそうな感じのものであり、 同時に、だからといって頭や神経がなんら異常になった状態とも言えない体験だったのです。 いじめの恐怖症により、とうとう気がふれる体験もしているので、むしろそんな時の頭は普通以上に健康で冴えている状態であったこともわかっています。 でも、最後、朝方力尽きげ、もう動けなくなって倒れ込んでいた時、たった一言私は呟いていました 「わからない、もうわからないよ。もうわからない。わからない。わからない…」 それから数十年経ちましたが、その答えは少しも変わっていません^^。 でも、そんなことは、わからなくていいんだという気持ちには切り替わっているということです。 解らないことを解らないとすることは存在に対する「不そん」なんかではないとわかって来たということだとも思います。 これだけ、存在が解りえない存在であることが科学によっても解って来たのであれば、もうそろそろ、神という概念を卒業してもいい頃だという考えにもそれは結びつきます。 神とはこれこれこういう存在だと、かってに思索しても、その段階で実際の神とはかけ離れているということを、その不可知な実在の世界は示してしまっているからです。 全知全能というふうに説明するのであれば、その内容をよく考えてみてください。 途中でごまかして煙に巻く^^のは哲学の在り方ではないでしょう。 ということは、一番苦しんでいるのは、一番泣いているのは、泣き叫び助けを求めているのは当の神さまだということになるのですよ。 もし、苦しみとう言葉は解っていて、その実態の今苦しんでいる人の苦しみ自体をその奥まで知っていないのであれば人間よりも全知全能なんかではないわけですからね^^。 冗談の話ではありません。 で、これ、全知全能でない私達人間がさらに考えたところでどうなるというのでしょう? ここで,クオークと同じで行き止まりです。 感覚質(クオリア)と同じで、行き止まりです。 こうして、 「神」という言葉を前にする時にいつも思うことなのですが、 もう、解らない事や、解りえないと思われることよりも、解ることで価値的なことは人間の世界には、無限によこたわっているのだから、そこに命を懸けてゆこう、という思いとなってしまうのです。 「隣人を愛しなさい」という道徳がありますが、私達は隣人を愛することなしに、愛がなんであるかを教えられることは無い弱き存在でしょう。 しかし一たび愛が何であるかを知れば、それは生きとし生けるすべての抜苦与楽を願うこころとひとつのものであることが解ってきます。 何時しか知らない間にこの奇跡の星の大地に生きていた者どうし、すべての人が平等に「友」であることは解りえる世界です。 昔し、疲れていて睡眠中に、夢から醒めたと思ったら、そこがまた夢の中で、今度こそやっと醒めたと思ったらまた布団の中で目を醒ますという繰り返しが、えんえんと続いた夢^^を見たことがありました。 何回続いたかはおぼえていませんが、しまいには、布団の中で目が醒めても、起き上がるまえに、目を開けよう目を開けよう!と必死にもがいていたことは憶えています。 まだ子供の時でしたが、 さすがそのあとで、「じゃあ人間の意識もやがて消えてゆくのならばその現実と夢の中の世界とはどのように違うのだろうか?」と考えるようになるのに時間はかかりませんでした^^。 病弱でしたので、たくさんの種類の夢を見ていた頃のこと、夢分析は子供ながら得意だったようなのです。 まずは、夢の中の意識では、現実のそれよりもボケネている点は、特に夢の中では「反省」という意識状態にはならない点に気が付いていたりします。 この「反省」という状態というのは、動物にはほとんどなく(ポーズはあったりしますが^^)、物事を見つめ分類しそれを区分けしてより良い答えを見つけ出すという脳の作業が夢の中のように動かされている意識状態においてはありえないという点が、考察されたのです。実は例外とかもあるのですが、その視点自体は子供にしてはかなり深い考察だと思います。 でも、3年後ぐらいになのですが、それよりももっと重大な夢の意識と、現実の世界との違いに気が付くときがきました。 当たり前にことではあるのですが、夢の中に登場する友は、実際に存在する「友」ではなくて、イメージが映像化されたものでしかないという点です。 そして、その「友」とは、いつしかこの奇跡の星に住んでいたすべての命です。 苦しんでいる人、無上の幸せへの道の途上を歩いている人、やがてその二つしか、わたしには見えなくなってきます。 そうでない世界は、どんなイメージ世界も、思索世界も、夢のようにボケねた世界に見えてくるようになっていったということです。 世界中の子供たちが、早く、一刻も早く幸せになって欲しい、苦しみから抜け出してほしい。これしか見えなくなっていったということです。 神とは「助けてはくれない存在」です。それは確かなのです。 私達しか、同じ大地の「友」を助けることは出来ません。 ちいさく木の葉のように弱い存在であっても、くだけても起き上がり、倒れても立ち上がり、それでも、人間としてあたりまえの愛に生きること、それが現実の大地に生きることであり、そこに神をこれ以上考えている無駄と遊び続けることは、もうできないのです。 神について私が思うところは、変り者ゆえ、以上となってしまいます。 以上。

alterd1953
質問者

お礼

そうですね。 私が「全知全能の神」を否定するのも正にそこです。 凶悪犯罪や戦争等で罪も無い人が亡くなったりしますからね。 そして、全てを統べる法則がもしあるのなら そこに、人間にとっての「悪」が存在する事も自明だと思います。 誠に「神」は残酷でもあるのです。 後、仰る通り、我々は何かを愛することしか出来ないのも事実だと思います。 但し、それが人間の場合は、この世には決して解り合えないと思える考え方のグループが 存在するのもまた厳然たる事実のように思います。 私は、人の心に土足で上がり込んで嫌味を言うような人や 自分より能力の低い人を「クズ」とか「バカ」とか言うような人達を愛することは出来ません。 でも、そんな人達がいる事も何かの法則なんでしょうね(笑) ご回答ありがとうございました。

  • 0fool0
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回答No.15

この世をこの世たらしめている法則が、恐らく貴方の言葉上での神でしょう。

alterd1953
質問者

お礼

やはり、この世には何かの法則が働いているとしか思えませんね。 ご回答ありがとうございました。

回答No.14

神とは『内在しているもう一人の自分の心』です、この者との出会いを『見性』と表現しています。科学的な証拠を挙げるなら次の研究成果で考察出来ます。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” この中の左脳に存在する意識が『自我意識』=『顕在意識』です。 右脳の意識は思春期頃脳の機能分化の完成を持って、『無意識の底に沈んでいます。』意識する自分は『無意識の自分』を意識する事は出来ませんが、脳梁の中では相談しながら毎日の恙無い暮らしが成り立っています。 この『二つの意識』の関係性が或る日、脳卒中になってしまって、崩れた事によって、『神に抱かれるがごとく至福な体験となって、その脳裏に焼きつかれた経験を、熱く語っている脳科学者の動画をコピーしますので、良く観察して下さい、詳しい説明はその後からしたいと思います。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この中で語られている世界は『実際には、誰でもが毎日体験していますが、その関係性を語る場合では、『没交渉』と禅の中では語られていますが、見性体験の後からは『今更お前は誰かと聞く必要など無かった』と全ての体験者は語っています。 至福の体験とは『涅槃』を体験していると言う意味です。 涅槃の反対語は『自分の心の矛盾や対立や分裂』の事です。宗教的な表現をするなら『原罪や業』です。この意味は『深刻な悩みや疑問』と言う意味です。生きている事さえ苦しいと言う意味です。 現代社会での表現方法なら『心を病む事による苦しみ、神経症での苦しみ、自律神経失調症や過敏性腸症候群や原因不明とされている心身症』等での苦しみや生き難さ、と言う意味です。 何処から押し寄せているのか?分けの分らない、漠然とした不安感や恐怖感の事です。是が原罪や業の意味です。 こうなる原因を書いてみます、人間の苦しみは一言で言うなら『心の矛盾』の事です。意識の根底での苦しみと言う事が『深刻な悩みや疑問』と言う意味ですが、この苦しみが『右脳の意識』に関係していながら、又この苦しみからの解放が又『右脳の意識』に関係しています。 人間の苦しみは他の言葉で表現するなら『受入れられない現実を受入れなければならない時』と言う言い方も可能です。すなわち『受入れられないストレスが、心に掛かる時』ですが、このストレスとの向き合い方で、先に書いた『三つの障害』が発症したり完治したりしますので、この意味をもう少し詳しく書いてみます。 此処を説明するために、もう一つ予備知識が必要ですので、先に説明します。 自我意識は自分の心の内の『沸き上がった考えや、感情を処理するシステムです。』或いは、その結果から導き出された結論を処理する方の心です。 右脳の機能は『生命維持機能』が全てです。今現在における全ての情報を五感から取り入れて、脳梁を通じて自我意識という心に送っています。この情報は『言葉以外の伝達手段になっています。』何故ならば『右脳には言葉が無いからです。』 右脳の機能を具体的に上げるなら、三つに大別する事が出来ます。それは『身体の生命維持機能』『行動を通じての生命維持機能』『沸き上がる考えや感情としての生命維持機能』と言う風にです。 この経緯が聖書による『失楽園』と言う記述です。自我意識が『神を疑う事によって天国から追放される。』と言う事です。 始めに書いた『身体の生命維持機能』を疑う事が、自律神経失調症や過敏性著言う症候群や難治性の心身症になって『天国から追放された』と言う意味です。 二番目の『行動を通じての生命維持機能』を疑う事によって、行動が制限されてしまう神経症の症状に悩まされる事が『天国から追放された』と言う意味です。 三番目の『沸き上がる考えや感情としての生命維持機能』を疑う場合では、『感情を沸きあがらせている機能』や『考えを沸きあがらせている機能』に疑いを持つ事が『天国から追放された』、と言う意味になります。 どの場合でも脳の機能にも身体の機能にも異常が見つけられない事が特徴です。しかもどの場合でも『生き難い想いが付きまとっています。』 自身の生命の源からの圧迫を受けている事が『生き難さ』の原因になっています。 この生き難い想いからの開放が、宗教の目的になっています、言い換えるなら有限のこの身が、永遠を求めさせられている理由は、右脳の機能によっています。 人間の深刻な悩みの一つは、有限と永遠の対立です、この悩みからの開放が、これまた右脳の機能によっています。脳梁の中での出会い『見性体験』は動画に在るとおりですが、この体験以後では、『有限のこの身ではあるが、元々永遠の命が備わっていた事』を実感します。 この安心感によって『生にも死にも』執着しない考え方に変わります。死を恐怖する事は『死が受け入れられないストレスとして迫っているからです。』死の受容によって死にも生にも囚われない考えに変わるためです。 動画の中で女史が『一端生をあきらめる場面が在ります。』この諦めによって『右脳の機能=命の働き=仏性=神』との出会いがあります。 右脳の機能とは、生命維持機能の他に、生命発生装置としても働いていました。生命として誕生した瞬間から『細胞分裂をする順番を全て知り尽くして働いていた事実があります。』その証拠が無事な誕生です。 生まれてからは、心臓でも肺でも神経でもホルモンの供給でも発汗作用でも、全てを知り尽くして働く機能ということです。 何も学ぶ事無く、何も知らない筈なのにです。生まれたばかりの赤ん坊が『全てを知り尽くして』生命を維持できている事は『命の働き=右脳の機能=仏性=神』の働きのお陰です。 全ての障害が完治した時、自我意識は女史のように、自我意識の計らいを捨て去っています、そうして自分自身の働きの後から付いてゆくようになります、この事を聖書では『神の僕となる』と表現しています。 簡単な話にするなら、思春期前では『自律神経失調症や過敏性腸症候群』や『神経症』や『心を病む』と言う障害が発症する確立は少ないと思います、何故ならば心が未だ、脳の機能が未分化の為に『見ている自分と言う心が一つしかないためです。』 思春期頃になって、脳の機能分化に伴って、見ている自分の他に『見られている自分』が生まれたためです、その為に自分の裸を隠すようになっています。恥ずかしいと言う感情が湧き上がったり、自分は何者か?と言う疑問が沸き上がるようになります。 こう言った『結論が出そうも無いような問題に悩まされる事を』失楽園と表現していると思います。 幼子は『自分は何者か?』という疑問さえ沸きあがらないからです。

alterd1953
質問者

お礼

とても詳細なご解説ありがとうございます。 あの脳卒中になった脳科学者の動画は凄く興味深かったです。 まず、誰だか忘れましたが仏教のお坊さんが 「心の中に一無位の真人がいる。未だ照顧せざる者は見よ見よ」と言っていたのを 思い出しました。 レゲエの王様、ボブ・マーリーも 「心の声を聞け」と言いましたし フロイトの精神分析も同じような作業な気がします。 また、過去から未来へつながる分析を続ける左脳が停止した時 世界との一体感に包まれたのも面白いですね。 正に「臨死体験」や、シャーリー・マクレーンが「アウト・オン・ア・リム」で書いていた神秘体験の世界ですね。 私は、物事をとことん考え抜くのが好きなのですが 釣りをしたり、バードウォッチングをしたり 公園でサックスを吹いたりしている時が最も生きている実感がある原因が これで良く分かりました。 やはり、右脳と左脳のバランスが重要なようですね。 確かに、左脳で分析している時には苦しみがあり孤独感もありますが どこかで、カチっとスイッチが入り、ジグソーパズルのピースが揃った時には 得も言われぬ快感に襲われます。 私は、両目でしか得られない「奥行き」と言う感覚は 片目でも得られる「形」や「色」等の情報より高次の情報であると言う考えを 支持しますが 左脳と右脳があって初めて立ち現れる世界に目を向けたいと思います。 ご回答ありがとうございました。

回答No.13

神さまは、山です、白い頂き。これを観想contemplatioします。  あの白を頭の中に導き入れる、涼やかな寺院を導入するのです。 一番好きなのはアンナプルナさんIV峰かな。 あとサガルマータ(エベレス街道)手前のタムセルク。  観想は、辞書だと<仏語。ある特定の事物に心を専注して、迷情を除こうとする修行。不浄観や日想観など、。*正法眼蔵・・>。ほんとの修行だと「事物に心を専注」に留まるのではなく、意識をその山頂まで飛ばします、行けるのです(複素空間だと光速で距離0になる)。すると対象意識は無化。上手くできれば欝の時に効きます、頭涼やか。  神様は雲、滝、つまる処「水」ですね。 高山、老荘、仙人、修験道:役の小角~弘法大師:空・海、、 高野山、真言密教のマントラ、{ノーマクサバンダ、ボダノーボロン}シベーテー^ハンダラバシニ、ソワーカー}オンム、アクビラ、ウンキャーシャラクマン}、不思議です、私はフレーズの記憶が殆どできませんのに、これは中年になって一発で憶え、復唱も年に一度程度なのに忘れない。どーして?本当のサンスクリットかパーリ語とも一寸違うのに、語呂が良いからだけとは思えない。 諳んじる事は出来るのに、今書こうとして文字画面見ながらだとフレーズ続けて出て来ない! 私が特殊ですか? <神は言葉=Logosなり。>このロゴスは音声ですね。モーゼも聞いた神の声の現前。父なる父性中心の形而上学。 声は強い、導く、カオスに秩序を齎す。でも人を金縛る!その二律、両義性。 音声ロゴスlogocentrisme中心主義(日本大百科全書)、これを単に否定するのではなく、脱構築を試みたのがJデリダ。 真理・神の声言葉、アルファベットも表音声文字。西欧中心主義。 に反対して。それでエクリチュール。両義的なのでその戦略も錯綜してます。 アルトーが訪れたMexicoタマユラマの山頂に、フ~リー(だったか?)神聖文字ゆらゆらと顕れます。 マントラは文字=エクリチュール、Symbolとして顕れる事も世界中に有るようですね。 その辺は私も研究不足で、若い人に期待します。 では又.

alterd1953
質問者

お礼

どうもです(笑) 「神」は「雪を頂く山」ですか。 確かに清涼で崇高な威厳を感じますね。 神の存在証明を「花」に求めた人がいましたが それも納得出来ます。 後、星雲の写真なんかを見ても 明らかに何かの存在を感じますね。 観想も分かる気がします。 釣りでは木石になれと言いますが それに近いでしょうか。 大体、人間、好きな物を観ようとするようですから 「神」を観る者は「崇高」なものが好きなのでしょうね。 音声も非常に重要ですね。 赤ん坊が母親の言葉を絶対的に覚えますからね。 何か根源的なものがあるんでしょうね。 ただ、ジャズのフレーズならいざ知らず マントラがすっと入るなんて凄いですね。 正に「言霊」が宿っているんでしょうか。 さて、デリダがプラトン以来の形而上学の構築をどうひっくり返しているのかが楽しみです。 ではまた(笑)

noname#210533
noname#210533
回答No.12

ちらりと書きます。 神は数えられるのですか?何人、と。 たった一人ですか? 一人、ということは、人間を例に取ると、物事を知覚したり 認識したり、思考する部分は一か所しかない、ということに なります。 例えば、恋愛中に仕事の事を考えているとします。 それは二つの事を同時に考えているのではなくて、彼女の ことより仕事の方が気になって気が逸れている状態、つまり 彼女の事と仕事の事を同時に考えている訳ではない。 一人の人間が、ある瞬間考えることが出来るのは、基本的に たった一つです。 勿論、意識的に、という意味ですが。 まあ、仮に3つや5つを聖徳太子みたいに考えられたとしても 同じ瞬間に一億はおろか、たった百人の顔を同時に思い出して 夫々の人々の記憶を呼び覚ますことなど到底できないでしょう。 遍く人々を全て見ていてくれる存在を神だと考えて、それは 慈父であり愛情に満ちた聖母であり、と無数の有神論者が 夢想したその姿は、どうしても人間そのものです。 擬人化された超自然的存在だという建前にはなっていますが、 殺して食うために産ませて育てられる沢山の動物たちを救済して くれる神など聞いたことがありませんし(人間を救済する神の中で。) 人間の原罪を問うても、殺して食わねば生きていけない生き物を 造った自らの責任についても語ることなく、また、この地獄を終わらせる ために、募金一つしてくれるわけではありません。 つまり、遍く人々を見つめる、ただそれだけのためにも、「神の意識」は それが思考である限りは、脳、もしくは同等の機能を有する有機的な システムが存在していなければならないのです。 仕組みが無ければ 機能しようがないのですもの。思考は思考する仕組みがあって初めて その成果物として産生されるものですから。 神は超越した存在であるからそんな理屈は無関係に云々、という 神についての論説は、有理を思考してはならぬ、神について科学的に 思考することを止めよ、という思考停止命令のようなものです。 何が言いたいというと、この世界のどこかに、それが宇宙空間内の ダークマター内に、ある種の力場で形成された差し渡し数光年の 光の回廊、という情報処理回路を構成していたとしても、それらは もはや「個人」では有りえないだろう、ということです。 膨大かつ極めて広汎に何かを成す構造体というものは、多くの素子、 エレメントが分化し、階層化し、統一的に動作するために組織化を 余儀なくされます。 書けば書くほどややこしい文章になってしまい、自分でも辟易して いますが、要するに 神が存在したとしても、それは個人というものではなく、行政機関の 様に、巨大な組織になっているだろう、という考察です。 神が、という単語を「神省庁」とでも捉えれば少しは伝わるでしょうか。 無論、中央省庁から末端の村落の公務員に至るまでをそのエレメントと する組織体です。 それが人類の為に何故仕事をしてくれないかと言えば、お役所仕事 だから、と言えば止むを得ないのかも知れません。 そもそも、高々400kmの国際宇宙ステーションからでさえ、個人の顔は 無論の事、家々もビルさえも、野球場だって肉眼では見えません。 広い範囲を見ようとすれば、当然細部への意識は薄れるし、逆に細部を 見つめれば全体は見えない。 意識や思考が、情報を処理するテーブルに乗せて弄繰り回す仕組みで ある限り、この、どこにどのように焦点を合わせるかという問題・・・ 意識のフォーカス、は、レンズが一つである限りは結べる焦点もたった 一つしか有りえないのです。 神は究極の人類の救済を目的に創設された、沢山の人々を魅了する 幻のスーパースターのようなものです。 だから擬人化されているべきだし、 ロックンロールでもあるべきだ。 でも、哲学者が形而上的な存在として模索する神は、全てその時代の 科学を土台にして、その進化する先の無限遠をイメージしようとして 行われますよね。 それは数学であったり物理学であったり、或いは音や音楽、色や光や 芸術と言う分野で、それらをツールとして我々人間を解明しようとする 営みに他なりません。 個人である神は、つまり我々そのものです。 そもそもが「全知全能」位、意味不明な概念もありません。 よくよく考えれば全ての矛盾を合理的に含む存在という意味になります。 親が科学的に「りんご10個とみかん20個、あわせていくつ?」と問いかけて、 子供が「全部!」と答えるような、笑えるナンセンスです。 (そもそもりんごとみかんを合わせることも無茶だし、数を数えるという点だけを 抽出するなら、全部、は誤りとは言えなくなります。 無限を二倍しても半分に しても無限であることと同じなのですから) 「神」という言葉を定義する手懸りを考えていらっしゃるのだろうと思いますが、 とりあえず「神」という言葉しかないから暫定的に使用しているだけで、ことの ポイントは「全知全能」とか「無限・有限」という思考遊びの産物と、理不尽に満ち、 生死一つも平等ではなく、幸不幸さえ簡単には理解できない人間というものの ごちゃごちゃっぷりを一緒に扱ってしまおうとするあたりに無理があると思うのです。 人間について、命について、徹底的に考えることは、そのまま神について考えることと 全く同義語になります。 何故って、人間性もサイエンスも哲学も、全部このしゃれこうべの中に詰まってる重量わずか 1400g程の白子みたいなタンパク質が産生しているものなのですから。 更に言えば、人の営みの、ほんのわずかな一滴について一生を費やして考察しても ただ漠然と全知全能の神についてクラインの壺を出たり入ったりして正気を失うよりは 多くの人々に言語を超えた領域で共感と伝播を可能にすることになるでしょう。 嵐のコンサートに多数のファンが群がり、歌い、叫び、踊る。 十二分に、神を前にした民衆の姿そのものです。 人間のスーパースターを数多の人々が熱狂して見つめるのは、擬神化された人、 これも幻ですが、それは呼応する民衆一人一人の心の中にある音叉が共鳴して 振るえている。 つまり、神を認識し、神を求め、神にアクセスしようとする「器官」が我々の意識にも 肉体にも先天的に備わっている証左に他なりません。 ただ黙々と一つ事に打ち込む者が何故多くの人々に認められ記憶されるのか。 神の事も世界の事も考えたことなどなくても。 職人やアーティストの残した作品も生き様も、考察を超越して神に近い。 神について深く考えることは、結局人の事を考えるのを止める事であり、 それは神から遠ざかることになるのかも知れません。 神を語ろうとするものほど、神から遠い場所に離れていく。 賢いは愚か、愚者は賢者。 ゼロと無限大は同じものの裏表。 こういう問題について考える時には、決して単なる思考ゲームに埋没して自画自賛を せぬように、いつでも言葉も話せずに誰かを想う愚か者としての姿勢も忘れずにいたいと 私は思いながら生きているのです。 私は、つまり、馬鹿だし、馬鹿でいいや、と幸せです。 それが神についての私の答えです。 まる。

alterd1953
質問者

お礼

すみません。 2回読む気力がありませんので漠然とした印象になってしまいますが 取り合えず、私の「神」のイメージは人ではありません。 そして「全知全能」も、ほとんど形容の矛盾ではないかと思います。 強いて言うなら 「神は偏在する」とか「神は細部に宿る」のイメージから 細胞の中のDNAとか、素粒子に重力を与えるヒッグス粒子でしょうか。 言い替えるなら「この世をこう在らしめている究極の原因」でしょうか。 そして、現在、人類は宇宙の始動因やこれからどうなって行くか等は勿論のこと DNAの文法や赤ん坊がどうして言葉を覚えられるのか等の かなり根本的な事すら分かっていない状況のようですから ソクラテスが 「自分が無知である事を知っているのが本当の知である」と言った事や ニュートンが 「私は知識の大海を前にした砂浜で遊ぶ子供に過ぎない」と言った事等は 全くもって真実であると思います。 但し、私にとっての「神」はイコール「この世の全て統べる法則」の事ですから 生きている限り、例えほんの少しでもその中身を知りたいと願います。 それは取りも直さず、最新の科学的知見であり、また哲学的な思索の成果なのです。 ご回答ありがとうございました。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.11

お礼、ありがとうございました。 釈迦についてですが、私見でのお話しです。 釈迦は活動していたとき、あくまでも個人でのことであり 宗教として確立してなかったと思います。 宗教として立ち上げたのは弟子たちであり、そこに違うものが入ってきていると思われます。 釈迦の話しは、私から見れば哲学を語っているものであり ソクラテスと共通するところも多いと思います。 表面的なところは異なって見えますが、本質としてです。 聖書やコーラン等は思想が強いので、自らに問うことより頭から信じること。 つまりお話しを鵜呑みにすることに重きを置かれているかなと。 ソクラテスも釈迦も自らに問うこと、つまりそれは哲学的批判をするということですが それがあるなしで、哲学的追求と言う面でまったく異なるところだと思います。 年代的な物ですが、自らに問えるほど自らを深く掘り下げる人が少なかった時代であり 疑問が湧いたことに対しての、適切な問いの作り方が確立されていない時代であり 問いを作れるほどの深さを体系的に作るより、両人が掘り下げていきながら その重要性を説くことに、力を尽くした方なのかなと最近思っています。 釈迦の言葉を宗教としてしまったために、残念ながら今の日本ではステレオタイプに侵され 表面的には生活に根ざしていますが、本質はどこへ行ったのやらという感が拭えません。 個人的見解ですが、両者の背景と行動を追っていくとそんな風にも思えました。

alterd1953
質問者

お礼

そうですね。 釈迦もソクラテスも現世の欲を離れ深く思索した結果をなんとか伝えようとしたのでしょうね。 ソクラテスの場合はプラトンやアリストテレス等に引き継がれて 大きな哲学の潮流になったようですが 釈迦は原始宗教の偶像崇拝等と結びついて換骨奪胎されたようにも思います。 いずれにせよ、人間が欲から離れるのは至難のようですね。 聖書やコーランは、まだ読み切ってませんので何とも言えませんが 今の所、思索の結果と言うより「神の啓示」と言う側面が強いように思います。 ひょっとすると「こうなんだ」と言い切られた方が 人々にはアピールするのかもしれませんね。 ではまた(笑)

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.10

人間の願望と違うかな、神というのは。

alterd1953
質問者

お礼

なるほど。 そういう全知全能の存在が居ててほしい あるいは、居るはずだと言う思いでしょうか。 ご回答ありがとうございました。

  • msk1003
  • ベストアンサー率57% (15/26)
回答No.9

かなり文系な回答だと思いますが、、 神は心の支えなんだと思ってます。 神様がわたしを見ていてくれる、とか 神様に毎日拝んだから大丈夫、とか。 いるのかいないのかとはか結構どうでもよくて そこにかける気持ちとか、時間や労力こそ意味のあるものなんだと思います。 願いをきいたり、全知全能とか、存在ではなく 人々それぞれに、それぞれの神があるのだと、わたしは思っています。

alterd1953
質問者

お礼

そうですね。 人間がこの世を造ったのではないのは明らかですし 多くの人が、何かしら不安を抱えて生きているでしょうから 支えとしての「神」の存在は大きいでしょうね。 そして、例外も多々ありますが じっと耐えていると、ふっと問題が解消することもありますしね。 ご回答ありがとうございました。

  • kanto-i
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回答No.8

私も、alterd1953さんと同じ考えです。 あまり同じ考えの人に会うことってありませんが。 神仏は、人の創造の最多のテーマでもあると思います。 例え話を使って法則性を表すのはいいのですが 創造というか捏造というか・・・そんなものも多数含まれています。 ゆえに宗教はどれも玉石混合かなと。

alterd1953
質問者

お礼

おお。 同じ方がいらっしゃいましたか。 それだけでも、この質問を立てた甲斐がありました(笑) 同じ宗教でも、シャカの素朴な言葉などには共感することも多いのですが 聖書やコーラン等を読むと合理的整合性においてかなり無理があるように思います。 但し、あの時代ですから「哲学的見地」や「敬虔さ」「倫理性」等において重要な 考えであったろうことは疑いないでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

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