「「「此処に酸素が存在する と言う文が成り立ちます。
酸素が存在しなければ 窒息して死んでしまいます。」」」
ほんとうにそうですよね。
すべての物事のつながり(因縁)の中で、やっと私達の意識の存在にしても、こうして存在していて、それゆえにこうして私の意識と目とメガネとキーボードが^^、これを読んでいる人に「今」という時間存在の中で、これを書いていて、そちらは、時間差の後、その「今」という存在にて、これを読んでいる意識として存在している^^のですよね。
(これを口とお腹の筋肉と声帯等の存在を使って言ったら舌をかみそうになります^^)
仏教思想の中での縁起論は、十二縁起論にしても、分類の仕方も並べ方も組み合わせ方も支離滅裂^^なのですが、肝心な点は、すべてが因果で変化しながらつながっているということですよね。
その奥には、そういう縁起という存在を意識することが、人間の意識をどのように高めてくれるのかという感じな点があるはずでそれを掴まなければ、どんなに深遠にみえる教えも、私達凡人の意識という存在にとってはただの「空理空論」という存在になつてしまうわけですよね。
混沌という意識状態も、時としてそこから必要なアイディアが浮かんだり、私達にとって重要な観点に気が付いたりする意識状態である時もありますが、教えがそのような雑多複雑なものであってはその役目も果たさないまま、神棚にまつりあげているというかんじになってしまいかねません。
科学の発祥の因縁についての科学史のあたりを私は知りませんが、東洋からの科学の発達のエネルギーが史上にみられないのは、そのへんの「あいまいさ」によるところも大きかったのではないかと思っています。
ギリシャ時代の、物質の元素論がそのまま現代科学の引き金となったかどうかはともかく、
現代では、それぞれの物質(「「「酸素」」」もそうであるわけです)を構成する分子とその組み合わせの奥に、原子の存在を見出し、その原子のさらに構成要素として原子核と電子が存在していて、さらにその電子や原子核がクオークとかいうそれぞれ6つの要素からできているところまで解っていて、それはとうとうもはやこれ以上小さな物質は「「存在しない」」というところまでたどりついているのですよね。
そして、それはまさにすごい発見の世界ではあるわけですが、分子というそれぞれの物質がなぜそのような働きを持つ物質なのか?という点は、あの原子の中身である原子核が原子の大きさから言って東京ドームにピンポン玉というスカスカな存在、それがさらに6つまでの小さな構成要素でできていることが計算上わかったぐらいでは、何も解明されていないのと同じわけです。
これはクオリアという感覚質と名付けられている五感などの感じる原因そのものの探求と同じで、答えは不明のままの世界となっている世界です。
このクオリアという概念は、いつかは解りえると考える学者と、いや人間には解りえない限界がありその限界をその概念は示しているという学者(茂木健一郎さんはこちらです^^)と二分しているそうです。
おっと、クオリア自体の説明はもう少し深めておきますね。
例えば、物が見えるとか赤なら赤と認識できるとかいうのが視覚での感覚質(クオリア)」であるわけですが、
目というレンズと焦点を合わせる機能をとおして私達が物を見、形や色を判断しているのであっても、カメラがそこにあったとしておカメラ自体が物を見ているわけでは無いことを考えると、その裏に刺激を受け取る神経の作用があり、そのさらにうらに刺激を瞬間に分析し、判断し理解する、刺激の伝わり方が脳の中で起こり、其のうえで私達は物を「見ている」と認識するというわけなのですが、
はてさて、網膜の後ろに移った映像が、どのようにして生物の中で、「「見える」」という感覚質に変わるのか?、このこと自体は、分子生物学の発達した現在でも、解明度ゼロだということなのです。
逆に、クオークという物質の最小単位まで突き止めたということは、さらにその限界を人類が見てしまったということに近いことなのかもしれませんね。
でも、ここで再び、仏教思想の世界が顔を出してくるのです。
「見る」という一点に絞っても、宇宙の因果のすべてを経て「たった今」それぞれの生物は物を「「見ている」」というのが縁起論というわけですが、
はてさて、いったいこんなふうに物事を、言葉を通して探索し考える意識の世界自体は、どんな因果でこの宇宙に生まれ来ったのでしょう。そこを「「見」」そして「「考えて」」みましょう^^。
まず、この延々とどこまでも大きい宇宙の広がり、何億光年の星たちの存在の中で、現代ではそのほとんどの星がただガスであり、やっと岩石や砂粒と火の塊のような物質は形成されることはあっても、酸素と水素という分子の融合はほとんど定着する形跡が見られないと解っているそうです。
ということは、まずこの地球という水が定着した星の存在自体が奇跡ですよね。
そのための微細な温度ということ、あるいは太陽との距離とかいうことも不思議と言えば不思議ですけど、はてさて、その条件さへあれば、水は定着するのでしょうか?、
そして水が存在すればそこに生物が生まれるのは必然なのでしょうか?
分子生物学もまだまだまだまだ解明度ゼロに近い世界で探求の闘いをしているようなものなのでしょう。
やがて、その生物こそが進化し続け、生きるというたくましい本能を身につけ、哺乳類にいたっては、子どもを谷底に落としてでも生き抜くことを教える姿がみられたり、であって無駄な殺しはしない本能に生き抜く姿が、いつしか人間という存在にまでたどりついたのですよね。
むかし、掃除で屋根の上のゴザをどけたら数万匹と思われるようなアリの大群が全匹こちらに一せいに向かって、片端から私の足もとを上り始めたことがありました^^。映画みたいでした。一匹のアリにかまれた痛さをアリアリと思いだした私は当然ゾゾゾゾゾゾッとしかかって^^いたのですが、なんとアリのどなたかが隠れ場所を発見するとその途端、全匹が其の方向に向かって引いていってしまいました。
ほっとすると同時に、わ、私は、感動で立ち尽くしていました。
こ、こんなふうに生物って生き抜いてきたのか!
ですが、本能に縛られている生物の脳には、それでもなお、その意識の中に「友」という存在はまだ「存在」していなかったはずなのです。(異論はあるところでしょうが、詳しくは略します)
このことこそ、本当は「縁起」という考えにとって最重要なところだと私は思ってます。
むかし、疲れていて睡眠中に、目を覚ましたらそこもまた夢の中で、やっと本当に目が醒めたと思ったらまだそこは夢だったという繰り返しが^^延々と続いたこわあああい夢をみたことがあります。
もちろんそのまま醒めなかったら、今頃体はそのまま衰弱して死んでしまったで笑から、今この実話を書いているとうこともなかったわけ^^ですが、当時は笑いごとではなかったところです;;;。
人間っていつか死ぬ、いつか意識は消える!?
ならば、夢の中とこの命の現実とはどのような違いがあるのだろうか?
ここも詳しくは略しますが、夢の中の意識が特に「物事を見つめ、分類し、反省し、進歩するための意識」の部分でこそ、かなりボケネている^^という点以外に、もうひとつ重大で根本的は意識存在の在り方の世界をそこに見つけたことを憶えています(実際には、それから3年ぐらいの後ですが^^)
当たり前と言えば当たり前ですが、そこには他の人、つまり同じ人間としての「友」が夢という存在の中には、実際には^^存在していなかったわけです。
その「友」という意識が芽生え、人間としての在り方の世界、つまり価値の世界が、同時に生まれたのが、なんと80万年前らしい人類発祥地点での 「見つめる脳」がこの宇宙に生まれた瞬間です。
こころ通じる友がいて、ごはんがおいしい!
そんな当たり前の私達の意識の存在の奥の奥にこそ、私は「縁起」の思想を見、そして仏の真実を見、そこにひれ伏さないではいられなない人間の一人としての自分の存在を見出すのです。
ああ、お互い人間どうし、切実な抜苦与楽に、当たり前の相身互いの存在として、命をすててでも生き抜きたい^^ものです。
存在がどんなものであれ、私達「今」生きています。
そして生きるとは縁起と愛の自覚という存在だと思います。
…
お礼
詩的ですねえ 存在は変化に住む なかなかの名言かも どうもありがとうございます。