No1の方の回答内容に私は同意していないので、No1の方の回答に関する質問には答えません。
今回の質問は、辞書で定義されている、あるいは定義可能なような日本語ではありません。
極めて最近の日本語となっています。
なので、質問者の文化圏を知った上で、日本の文化、造語の傾向というものを説明する必要が有るように思います。
○○はやればできる子
これは、この20年くらいの言葉です。
試しに、青空文庫(著者の死亡後50年たった著作権が消滅した作品)では、用例が一つもありません。
また、google booksで検索したところ 初出1966年 教育の森という教育関係の専門書。
1980年 永井路子の小説で 歴代の中でも、指折りの将軍になるだろう。— —やればできる子なのだ。
1989年 カウンセリングと心理療法
1999年 アダルトチルドレン 「『やればできる子、頑張ればできる子』と親は信じ込んでしまった。
1990年代に、勉強のできない子に対するモチベーション付として使われるようになったと記憶しております。
なので、その頃以降に育った日本人の子供にとって「やればできる子」というのは、非常に印象深い言葉になりました。
やればできる子と言われたんだけど、やらなかったのよね。
というように、自己弁護なり自己擁護にも使われています。
なので、VISTAはやればできる子という言葉を使っている時には以下の構造になっています
モチベーション付していた親や教師 <=> VISTAを使っていて、子供時代にやればできる子と言われた本人
現在VISTAを使っている本人 <=> OSとして出来がよく、評判の良かった先代 XP 次代のWin7とくらべて、PCのスペックの問題などで、いまいち評判の悪かったVISTA
この構造を前提にして
VISTA がんばれよ おれだって出来のいい兄や弟と比べられてもこうして頑張っているんだから。
という気持ちがこもっているのが
VISTAはやればできる子
という表現には含まれている場合がある。
※ 最近の日本語なので、意味は使われている状況に寄って大きく変わりますが、私の理解は上記の通り。
補足
「可愛いは最強」は意味が分かりますが、「可愛いは正義」は意味が分かりません。なぜ「正義」なのですか?