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きれいな絶望への憧れ
それは そこで終わりにしたいという願いである 感情を絶望とともに失いたくないという 人らしさかもしれない 絶望の先に待っているものを見るためには 絶望を美しく飾らねばならない 美しく飾って 美しく酔って 絶望は終わると 人は絶望の風景を忘れない 生きた証として忘れない いつまでも語りかけてくる その風景を忘れない きれいな絶望への憧れは もう一度生きたいという願いに通じている ああ・・ 冬景色 津軽海峡 いいんだな・・ これが どう思う・・?
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歌手、石川さゆりの歌「津軽海峡・冬景色」の世界の事だったんですね。 aboutさんのこうした世界はファジーなのだから、回答もファジーが良いと思います。 そこで、石川さゆりに聞いてみるのがベストかと思いますが、成り代わって、成ったつもりで、思いを巡らせてみれば・・・・・ 最愛の人との別れ、 それは心に大きな傷を負う。 その傷を癒すために、 自身を孤独の世界に置く。 「逃北」 書店に出ている「逃北(北へ逃げる)」を書いた著者の心境とは違う(深層では繋がるかも)と思いますが、この「逃北」という表現を使ってみたいようにも思います。 “もう一度生きたい” 津軽の冬の大地の底から聞こえてくる、地鳴りを聴く耳を持つ人は、絶望から這い上がる。 その時、その人にとって『絶望』は美しく輝く。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★ 絶望 ☆ という事態について互いに別の内容を思っていては 話がかみ合わない。 1. 絶望とは コミュニケーションの不通を言います。 2. 意志疎通がかなわない。これが 希望の途絶えた状態です。 3. 相手に 言葉も心も通じない状態 これです。 4. 情況が自分〔たち〕にとって不利である。その不利な状態をしのぎ切れない。といった絶望は そのような事柄としての問題で済みます。兵糧攻めは きびしいですが その絶望は いちいちわめくほどのことでもない。――そうではなく 人間であることが 共同性を持たないという状態に落ち入ったとき ひとは絶望をあじわいます。 5. この絶望の状態を噛みしめるとか反芻してピークに達してそれは きれいだと言うとか そういう事柄は 文学の問題です。その表現を言いかえたりすることで 多少は気休めになるのでしょうがといった分野の問題です。 6. 絶望が好きだと言ってもよいでしょうし それに憧れを持ったとしてもよいのでしょう。ただし そこにうつくしさを見るとか見ないとか言うのは 哲学の問題ではありません。哲学は この絶望の状態も あくまで時間過程としてあるものであり 変わりゆくという前提において扱い取り組みます。 ★ ~~~~~ 人は絶望の風景を忘れない 生きた証として忘れない いつまでも語りかけてくる その風景を忘れない ~~~~~~~~ ☆ このような絶望の取り扱いというのは ただそのとき《自分にとっていやなことがあった。忘れられない》と言っているに過ぎません。 もし絶望がこわいというのであれば それは 志半ばでの挫折のことを思うときです。それは 相手のあることではない場合です。これを あれこれいじくっても 何も出て来ません。相手がない場合には そのこわさを 夢をえがくことの中に解消しようとすることが起きます。けれども ★ きれいな絶望への憧れは もう一度生きたいという願いに通じている ☆ これは 願いでもなければ文学的自己表現の追求でもありません。《こころざし半ばでの挫折を思うこと》において 時間がとまっている状態です。夢は夢でも すでに初めの一歩から儚いものだと自分で決めてしまったかたちのものです。 わたしたちは それぞれ 時間的な存在です。この存在がうつくしいと 自分にもひとにも明かしするということ これもひとの取り組むべき夢のひとつです。
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ありがとうございます。 コミュニケーションの不通による諦めといったものは日常茶飯事でしょうね。 無理をしないで諦めてしまう、 もういいや、といった感じですけど でもこれが愛する人との事だった場合 簡単に、もういいや では済まされなくなってくると思います。 悲しみと怒りが沸き起こってくる で喧嘩になる 活断層に亀裂が入って、修復不可能の事態に陥る という事にもなってくる このへんから絶望が生まれてくるのだと思います。 愛は時には絶望を招く、という 愛が深いほど絶望も深い、という 見方もできると思います。 単なるコミュニケーション不通だけでは絶望は生まれてこないと思います。 津軽海峡冬景色という、この歌は、愛別離苦の実写版みたいなものだと思います。 そこが多くの人の共感を呼ぶのだと思います。 >わたしたちは それぞれ 時間的な存在です。この存在がうつくしいと 自分にもひとにも明かしするということ これもひとの取り組むべき夢のひとつです。 絶望の極みにおいては、美しいものは何も無いというのが本当でしょう。 でも、その何も無いという事が逆に たとえようもなく美しいような気がするのです。 時間さえも無いその中において人が見るものとは 間違いなく自分がここにいる、という自覚のはずです。 嘆くことによって、もう一度自分の存在に気付く事のように思います。 それを美しいと見てはいけませんかね・・ >☆ このような絶望の取り扱いというのは ただそのとき《自分にとっていやなことがあった。忘れられない》と言っているに過ぎません。 これはもうそのままには違いないのですが その、なぜ忘れられないのか、という点に惹かれてしまいます。 風景が絶望を表す絵に、なぜなるのか なぜその絵はいつまでも消えないのか・・ まあ、すこしだらだらな感じになってしまっていますが 分析というか、やっておきたい気がするんです。 そんなところです。
>それは そこで終わりにしたいという願いである 違う。終わりたくないのに終わってしまいそうだから、絶望する。終局からの出口が見えないから絶望する。 出口があるんだったら、感情なんか失ってもいい。絶望の先には何もないと感じるから、絶望する。出口があるのだったら、人でなくなったってもいい。絶望を美しく飾れるなら、まだ絶望していない。その状況を楽しんでいる。 人は絶望の風景を忘れないが、人生の汚点として忘れたい。きれいな絶望などない。もう一度でなく、いま生きたいと願うからこそ絶望する。それでも死ねないのは、ビルのてっぺんから飛び降りる度胸がないだけだ。ただそれだけだ。 津軽海峡冬景色がいいのなら、まだその状況を楽しめている。
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ありがとう。 >津軽海峡冬景色がいいのなら、まだその状況を楽しめている。 羽田から飛行機に乗って北海道に行ってしまえば簡単に済んでしまいます。 それをわざわざ夜行列車に乗り、連絡船に乗り、帰ってゆくわけですが なんでか・・ 来た道を戻ってゆく 来た道の風景を辿ってゆく 時間をかけて、確かめるように辿ってゆく という事じゃないでしょうか 絶望には必ずその前後があります 夜行列車に乗る前から、すでに絶望していたはずなんですが 絶望のピークではなかった 連絡船に乗って海を渡るとき、涙が込みあげてきた 本当の別れだよ と言っているように見える風景 その時がピークだったように思います 絶望の中の一時、絶望の中の絶望といったもの 言葉にならないほどの深い悲しみと涙 でも、それはあらかじめ予期されたものではなかったか と思うのです 泣けるだけ泣くことのできる時間と場所が必要だった と思うのです 過去にピリオドを打つためには、そうしなければならなかった 人の死は絶望をもたらさない、人との別れが絶望をもたらすのだと思います 愛する人との別れという絶望を何かに刻んでおきたいという気持ちは自然だと思います 冬景色は、そうした過去の見納めの風景だったのでしょう 絶望の中の絶望、深い嘆きの一時を きれいな絶望 とつい言ってみたくなるのですが・・・ いけませんかね・・・
- Y Y(@yy8yy8az)
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津軽の冬景色はそこに佇む人の心を内省へと誘い込む。 浮わついた心は凍てつき、心の奥の声を聞く。 人は自身で自分の心を癒す事をするんです。 そしてその力は、、、、、
お礼
ありがとう。 >・・冬景色はそこに佇む人の心を内省へと誘い込む。 ですよね どんどん内へ入っていっちゃう 色彩の無い孤独の世界へ入っていっちゃう かすかな彩りや かすかな声に すがろうとしても すがりきれない だから泣く と まあ ある方が 心の氷点 と仰ったが そんなところなんでしょうね・・ >そしてその力は、、、、、 自然治癒力というもんなんでしょうけど この歌から感じるのは、やはり女性の力なんだと思いますね。 明確でドラマチックな絶望の嘆きという まあとにかく女性の持つ激しさ、強さみたいなものが感じられます。 虚無感なんか どこかにいっちゃってる 終わりのない暗くジメジメした感じがないんですよね。 泣くときは泣く 泣けるだけ泣けばいい といった感じで 女心 男は じっと我慢 終わりのない暗さを抱えて表には出さない だから 泣けるのが羨ましい ああ 男は損だ・・
- tonimii
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絶命ですか?よく意味が分かりません。 最高に幸せなときに「もう私は死んでもいい」と思うことと似たようなことを仰っているのでしょうか? それとも人が絶望する瞬間が人間として最も人間らしい部分だというところでしょうか? 後者だった場合、破壊衝動の一部として凄くよく分かります。 完成されたトランプタワーやドミノ、美しく描かれた絵画などをぶち壊してみたいと、思うことはたまにあります。 あなたはそれを人間でやってみたいと思っているだけでしょう。 破壊衝動としては気持ちがすごくよく分かりますが、人間を対象にするのでは私は共感できません。 なぜなら復讐が怖いですからね。
お礼
ありがとう。 「それは そこで終わりにしたいという願いである」 絶命じゃないですよ。 絶望の視覚化という整理は、絶望との別れなんだと思います。 見てしまった絶望は、絶望ではなくなるんでしょう その時の風景は激しく涙をさそう・・ ああ 切ない・・ >破壊衝動 復讐・・ 絶望に込められた 悲しみと憎しみ 消えぬ 悲しみと憎しみを抱いたまま 何も壊さず去っていくという あわれ こごえそうな鴎見つめ泣いていました・・ ああああ・・
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 《絶望》《あこがれ》 これらはいいとして それらにからめて《きれいな・美しく》を表象したところで おしまいです。 ひととしてのほこりを捨ててしまった。そういう意味です。 存在じたいが うつくしさだ。このほこりに立つほかにありません。
お礼
おおっ Bさん しばらく・・ まあ きれいでも いいじゃないですか・・ 津軽海峡冬景色というこの曲には、女性のドラマがあると思うんですよね 激しい絶望のようでありながら、どこかしら あっけらかんとしている さっぱり系の絶望と言ってもいい ジメジメ ドロドロ系の絶望とは違う 見方によっては 女性の持つ強さみたいなものがあると思う 感情的で狭い と言っては失礼になるんだが そこんとこがドラマチックで惹かれてしまう 絶望という感情のドラマを 美しいと言ってはいけないのだろうか・・ Bさんも聞いてくれ・・ 津軽海峡冬景色 ああ これは女が歌う歌だ・・ だからいい
- obrigadissimo
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私は、 《人が希望に至るのは絶望に導かれてです》 という言葉が好きなのですが……渡辺淳一さんの 『阿寒に果つ』の死も好きです。 質問者さまの憧憬の津軽海峡は どこから見た光景なのでしょうか。 私は関東人で 厳冬期の竜飛岬に佇んだことがあるのですが、 残念なことに、ロマンチックな印象も 絶望感もありませんでした。
お礼
ありがとう。 実は自分も若い時に一度 竜飛岬に行った事がありました。 その時の印象は特別残っていません。 まあ なんちゃなく行ったわけで 遠くへ行きたい というジェリー藤尾だった。 >人が希望に至るのは絶望に導かれてです 絶望があって希望がある という なんと 人生って むごいんでしょうね・・ 希望や夢だけの人生って ないもんでしょうかね 愚痴かな・・
それは一つの生まれ変わりかもしれないと思いました。 情には柔軟性があって、受け止めざるを得ない現実から、クッションのように自己を防衛してくれます。津軽の厳しい冬にも、なんとか精神的な逃げ道を与えようと美しさを作り出して、人を慰めようとします。 絶望についても、カタルシスを生じさせて、本当の絶望に陥らないように働いてくれるのではないでしょうか。一つの終わりがあって、また新たな始まりがあって、通過点としての絶望にも、何かしらの充足感を与えて、次へ踏み出すステップとするのかなと。
お礼
ありがとう。 >それは一つの生まれ変わりかもしれないと思いました。 だよね 目に見える形で絶望を整理してしまおうという 自然な働きかもしれないよね 絶望の視覚化による整理から希望が生まれるという ああ 俺はまだ生きなければならない・・
石川さゆりに聞いてください。
お礼
ありがとう。 それがいいかもしれない・・
お礼
ありがとうございます。 >その時、その人にとって『絶望』は美しく輝く。 いつかはそうした時が訪れるのでしょうね 優しいです。 涙が涸れるまで泣く絶望は美しい きっとその後には、明るい時間が待っているのでしょう。 中途半端だと・・ 都はるみの北の宿から、みたいな 未練がましい世界になってしまう気がします。 どうもこっちはフワフワした感じで見えてくるものがないですね・・