こんにちは。
《価値》と言ったら 人びとのあいだにおいて――降って湧いたようにか それとも誰かが勝手に決めたものが そのままかまたは変容をこうむったかたちで 受け容れられるようになってか―― 決まるように成るその値打ちのことなのでしょうね。
人それぞれの主観にとっての必要や効用とは関係なく 決まるのでしょうね。
その事物がなければ話になりませんが
★ その事物自身から発生する
☆ とは思えません。もしそういうかたちで値打ちが決められ価値だと受け容れられたとしても それは なお局地的で一時的な現象に終わるのではないかと考えます。
★ それともその事物に関与する人間の興味に依存して発生するものか
☆ 人間が多数いなければ話にならないでしょうが またその人間がものごとに《興味》を持つというのでなければやはり話が始まらないと思われますが そのような《人間の存在 また ものに対する興味》が《事物》とのあいだにかもし出す生物化学的なまたたんじゅんに心的な刺激や反応 つまりそういった《関与》によって 価値が発生するのではないと思われます。
そのような事物に対する人間の《関与》があってこそ《値打ち》というものも持たれるのでしょうけれど その値打ちを捉えようとするときにはおそらくすでにその事物に《価値》が発生しているあとなのだと思われます。
社会にその交易のための市場をつくるかたちでそれ相応の長い期間にわたって《価値》が人びとに受け留められ受け容れられるには それがどこかで《発生している》のでなければおかしいわけですが その発生というのは いつしか降って湧いたように現われるのでしょうか どうなのでしょうか。
だって《貨幣》にしても このとき誰の誰べえが発明したというものでもないと思われます。
価値が 貨幣価値としてさだまると 人びとは この価値のかたちは使い勝手がよいと思うように成っているかと思われます。交換が容易にそして便利に成っています。
あとは この貨幣価値をめぐる人間の理性の物語になるかと思います。主役は 価値をどう扱うか どう増殖するかという理性が主役になるのではないかと考えます。(むろん よいわるいを別として事実問題としてです)。
感性がそのような価値をつけ添えられた商品は いやだ 要らんと言っても あるいはその感性にしたがって 意志がそのような商品は買わぬ あっても捨てると言っても 社会全体としては必ずしもそのようには成りません。
この商品は この貨幣価値つまり値段で売るのだ その商売をつうじて 価値の再生産ないし自己増殖を果たすようにさせてやるのだという理性が よしあしを抜きにして 主役となります。王さまと成ります。
そのような合理的な資本の自己増殖の過程が 世の中の仕組みとしてもととのい成り立ったなら 価値はその仕組みにのっとって さらにあたかも新たに《発生》してくるのではないか。――こう考えます。
お礼
ご回答有難う御座います。どちら様にも御礼申し上げます。どうやら「価値とは利害の一表現・一傾向」とのご趣旨が多数意見のようです。せっかくの「哲学カテ」がこの点でやせ我慢して欲しいと願います。私の設問が不備だったようです。みんなのために「より価値がある」「もっと尊い価値がある」というご主張と論点を期待して改めてご質問いたします。面白い価値論をお教え下さいませ。