• 締切済み

人間の価値とはどのようなものか

私は人間の価値とは、いい大学に行って、いい所に就職して、いい配偶者に出会って、素敵なマイホームに住んで、子供にも恵まれ、家族睦ましく、よい友人に囲まれ、素晴らしい老後を迎えることだと思っていました。 ところがアインシュタインが「人間の価値はその人が自分自身からどれだけ解放されているかによって決まる」というニュアンスの言葉を残しているのを知って、そんな事なの?と拍子抜けしてしまいました。 「自分自身から解放されること」という意味深な言葉、私の頭ではなかなか理解できませんが、理解する為のヒントになるような言葉に出会いました。 それはマザーテレサの「自己からの解放」という祈りです。 要訳するとこうです。他人のためと思っていたが、本当は自分が愛されたい感謝されたいという気持ちからではないだろうか、思い上がりや妬みでふくれあがっていたのではないか、主よ私が自分自身から解放されますように。といった内容の祈りです。 私はこれを、どれだけ自分を客観視できるかが人間の価値だというように解釈しました。 人間の価値とはどのようなものだと考えられますか?

みんなの回答

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.17

#16です。嫌みなんかではありません。ちょっと、大人っぽく反応したのです。回答とは、理路整然と論理を展開する方法ばかりではなく、比喩で答えたり、謎を残したり、ヒントや皮肉を混ぜたりしながら、相手の脳みそを刺激して、答えを他人から聞くばかりでなく、本人に自分の頭で考えさせる方法もありますから。相手に分ってもらうためには可能な方法はどんどん使っても良いと思っています。 俗人が見た人生の価値ってのがありますよね。貴方の質問から私なりに興味を持ったのは、誰でもが人生の価値とはそんな俗なものではないと思っているはずなのに、何故皆は、この世にはこんなに多くの俗人ばかりがいるんだと、考えているのかと言う点です。私はアメリカに住んでいますが、アメリカ人の価値観は新明解国語辞典の俗人の定義そのものなのです。そのような考え方が何故そんなにも根強いのでしょうか。たぶん、その考え方は何か人間の脳みその奥底、あるいはDNAの中に組み込まれてでもいるのでしょうか。 孔子様に言わせると、六十にして耳従う、とのことです。 孔子様も60前までは貴方のように苦しんでいたようですが、やっと60歳になって俗人から解放されたようです。

aya_ene
質問者

お礼

ご返答ありがとうございました。大変失礼致しました。本当に申し訳ありません。必ずお礼と締め切りをしますので、しばらくお待ちください。取り急ぎお礼まで。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.16

含蓄があり考えさせられる辞典として、   新明解国語辞典 三省堂 は役に立ちます。特に第四版が定評です。その辞典の、「俗人」の項を見て下さい。俗人の考えている人間の価値が良く判るように書いてあります。ただし私はこれを読んで、アメリカ人の定義かと思いましたが。 アインシュタインもマザーテレサも我々と同じような典型的な俗人では無いようです。我々俗人がどう考えるのか、その辺も興味があります。 この問いには無関係ですが、序でにこの辞典の「女」の項を引いてみると面白いですよ。

aya_ene
質問者

お礼

これ嫌味ですか?

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.15

回答になっているか分かりませんが。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3345789.html

aya_ene
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。遅くなって大変申し訳ありません。 無視しているわけではないのですが、返答に少し戸惑ってしまいました。 私の質問は価値があることが前提でした。(思い込みですが) 以前に社員研修で 「自分の価値を見直してみましょう」という研修を受けてきたのです。 これを「キャリアビジョン」というそうです。 これは社員教育なので、もちろん社会人が対象ですが…。 それ以来、ちょっと広げて考えるようになりました(考えてない時間の方がほとんどですが) 自分の考えが思いつかなかったので、ネットで検索しましたら、 「人間の価値は自分自身から解放されること」という言葉を拾いました。 その中の「自分自身から解放される」という言葉の意味がわからなくて更にネットで調べてみました。 そうしましたら、マザーテレサの「自己からの解放」という祈りの文章を見つけたのです。 この文章を読むかぎり、どうやら「自己からの解放」というのは、自己を客観視することなのでは?と思ったのです。 他の人はどう考えるか聞いてみたくなったのです。 参考URLを紹介してくださってありがとうございます。 「価値を問うのはバカらしいのでは?」~ということですね。 「自分(又は宇宙、命、人生)のことは、価値や意味という尺度で問えるものではないのでは?」 ということですね? ‥つまり科学の尺度では測れるが、測る以前に「在るものは在るんだから考えても仕方ないでしょう」ということでしょうか。 それから 「メンタルヘルスや心理のカテでこの種の悩みの質問が多い‥自分の価値を自問して、わざわざ苦しみ悩むのはバカらしくないか?」 ということですね? おっしゃるとおりですね。 わざわざ自分の価値の無さを探して、それをつついて“卑下して悩む為の問い゛なら、問わない方がいいですね。 私は下の段のお礼欄で「子供のうちから哲学はやったほうがいい」と、ちょっとわけがあって書きましたが、私自身哲学を解っていません。矛盾していますね。 私はこの質問は哲学のカテゴリーでいいと思い込んでいましたが、shift-2007さんのおかげで、 私の質問は哲学の中のどの部門にあたるのかも解っていない、もしかしたら哲学にさえあたらないかもしれない、ということが解りました。 下の回答者の方々もそれを踏まえたうえで回答して下さったのですね。 親切な方ばかりで助かりました。ありがとうございました。 哲学には興味がありますのでshift-2007さん、これからもいろいろ教えてくださいね。

  • usijima
  • ベストアンサー率22% (17/74)
回答No.14

「私は人間の価値とは、いい大学に行って、いい所に就職して、いい配偶者に出会って、素敵なマイホームに住んで、子供にも恵まれ、家族睦ましく、よい友人に囲まれ、素晴らしい老後を迎えることだと思っていました.」 あなたは幸せな人生を送るために、必死に努力されるでしょう。 でもそれは幸せになるために生きているのではなく、いつの間にか幸せであるかないかにかかわらず、前述した目標をかなえるためだけに生きているということになっているのです。  それは目標に縛られて生きているということです。 人間社会ではさまざまな制約があります。法律だったり、一般の価値基準だったり、常識だったり、自己の感情だったりします。 その中で完全な自由を手に入れるには、絶対的な価値を見つけ出すしかありません。  絶対的な価値を見つけ出したときさまざまな制約から自由になり、自己からも解放される。本当の真理は自分の内部にではなく外部にある。 (神がいない日本人には理解がしずらいですが、科学者や宗教家にはとても理解しやすいとおもいませんか?) アインシュタインやマザーテレサが言っているのはこういうことです。 こういうのを形而上学とかっていいます。ちょっと実存主義かな。 現在では絶対的なものがないという上で、人間と人間の違いにおいて悪という存在が薄れてきた(ゲイが悪ではなく個性に変わったように)ので絶対的な他者性(唯一のもの)が価値だとみなされています。 僕自身はそれが盆百のひとつであろうとも挑戦し続けること、過程において人間の価値があると思います。平穏という言葉がとまるという意味ならそこに価値はないと思いますが、それは誰にも判断できないことだと思っています。

aya_ene
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳有りません。 >それは目標に縛られて生きているということです。 そうなんですよね、実際は思い通りにいかず、沢山の不満と他人への嫉妬が多かったです。私だけではなく周囲もそう思っている人が多いです。やはりその中にいるとそういう価値観にひっぱられてしまいます。そんな時にアインシュタインの突拍子も無い言葉を見つけて驚きつつも内心ほっとしました。「自分自身から解放されること」と聞いて、愛されたい褒められたい非難されたくない嘲笑されたくない云々…という様々な要求に振り回されずに自由になることだと思ったのですが、他の人はどのような捉え方をするのか聞いてみたくなり質問いたしました。 >絶対的な価値を見つけ出したときさまざまな制約から自由になり、自己からも解放される。本当の真理は自分の内部にではなく外部にある。 これ以上大切なものはないというくらい大切なものが見つかる感覚でしょうか。キリスト教なら「神」といったように。 >現在では絶対的なものがないという上で、>絶対的な他者性(唯一のもの)が価値だとみなされています。 人であるというだけで価値があるという事ですね(違っていたらすみません) >盆百のひとつであろうとも挑戦し続けること、過程において人間の価値がある そのように考える人が多かったら嫉妬や足の引っ張り合いも減るのではないかと思います。子供のうちから哲学はやったほうがいいと思いました。 検索するのを忘れてしまい、質問を立ててから検索もしてみました。人の数だけ価値があり、これが一番とは決められないことがわかりましたので良回答なしで締め切らせていただきます。皆様のお考えは似ている様ですが微妙に違っていて一つ一つ光っていました。大変勉強になりました。

回答No.13

人は平穏無事であることが一番幸せであると思いますが その中にあっても自己からの解放は起こりえるものなのではないでしょうか。 自己は成長過程において様々な思い込みや思い違い、思考の浅さをもって成長しますがある時期ふとそうした築き上げられた価値観が偏狭であることに気が付いたりします。ある宗教では左手は不浄とされますが手をきれいに洗ってしまえば実際には不浄も何もないわけで、右手を失えば左手で食事もするのです。そうした固定化された観念というものは地域が変わればいとも簡単に崩れたりします。定説化された学説のブレイクスルーもそうした中から産まれていくのだとアインシュタインは言いたかったのではないでしょうか。 自分自身からの解放は祈りによってではなく気付きによるのではないでしょうかね。 そうした囚われから解放されながら平々凡々に平穏無事で生きられるのは人や社会の理想とするところのように思われます。

aya_ene
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳有りません。狭い価値観の中で生きていても平穏無事であればよしと止まるのではなく、思い違いや浅はかさ偏狭さに気付いて価値観を広げて進化させていきながら平穏無事であればなおいいということですね。自身からの解放を「気付き」に置き換えることもできるということですね。

noname#78143
noname#78143
回答No.12

真面目に考えればそうですが、不真面目に考えると 何事にもあまり気に病まない性格になることも 人の価値としては高いって事ですかね? 自分から解放されるんだから。

aya_ene
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。お礼が遅くなって申し訳有りません。気に病まないというのも自分から解放されている状態ではないかということですね。

回答No.11

「自己からの解放」とは、懺悔=自我の放棄です。 仏教では、我執=「私の~」「私が~」からの解放を目指します。 自我が居ては、神も仏も入る余地ありません。 懺悔=自分を捨てきってからが求道です。

aya_ene
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳有りません。自身からの解放を「どれだけ懺悔したか」にも置き換えて考えられるということですね。

回答No.10

そうですね。個人的には「客観視」という言葉ではなくて、「自己管理」という言葉で"幸せ"を捉えています。 仏教でもキリスト教でも、"幸せ"の為に大切なのは他人の価値観や夢ではなく、「自己管理」だと、最近そのことに気がつきました。哲学チックな言葉を探すならば…アポロン神殿に刻まれた言葉で、ソクラテスが行動の指針とした言葉。「汝、自身を知れ」ということです。古今東西あらゆる地域や宗教において、共通の思想だと思います。 自己管理のキーワードに客観性が上げられるかもしれませんが、意識的に客観性を保てなくても自己管理が出来る人は苦しみません。自分の名誉の為に人を助けるキリスト教徒は苦しいでしょう。煩悩を無くそうと修行に励む仏教徒は苦しいでしょう。 自分の為の「解放」に固執するあまり自己を見失って客観視できていない…つまり自己管理が失敗しています。 見ていても見苦しいでしょう。自己管理ができた人でないと、他者に対する慈愛や施し、人の価値を尊重することはできません。あなたの言葉で思考プロセスをめぐるならば、 客観視つまり、自己を知る → 自己管理 → 自己の価値に気がつく → そして、他者の価値を信じることができるようになる。つまり、人の価値を知る。  自らの自尊心を正しく知らずにいながら、他者への尊重を生まれません。アインシュタインとマザーテレサが言いたいことは、おおよそこのようなことでしょう。これを適切にできるようになるのが、大人だと私は思います。自分自身の解放とは己を知るということであって、欲からの解脱ではないと思っています。 マザーテレサがそこまで悩んでいたことは知りませんでしたが、個人的には浄土真宗の親鸞が好きです。マザーテレサと同じく極限まで自分の愚かさを追及した姿勢が、評価されているのかもしれませんね。 個人的にはこのような、思想の統合化が好きなのですが、マザーテレサもアインシュタインもソクラテスも親鸞も、ついでにブッダもキリストも孔子も、実は同じ事を探していたのではないかと考えています。色々と教えていただいて、どうもありがとうございました。

aya_ene
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳有りません。なるほどです。どれだけ自己管理出来るかということですね。客観視よりも進歩したかたちですね。>自己を知る → 自己管理 → 自己の価値に気がつく → そして、他者の価値を信じることができるようになる。 自己のみから他者の価値へと目を向けられるようになったら素晴らしいですね。つい自分の事ばかり考えてしまいますから。 >ソクラテスが行動の指針とした言葉。「汝、自身を知れ」ということです。古今東西あらゆる地域や宗教において、共通の思想だと思います。 そうなんですか。ソクラテスがそんなことを…、勉強になります。こちらこそ、次へと広がっていくアプローチをしていただいてありがとうございました。

  • code1134
  • ベストアンサー率20% (703/3370)
回答No.9

>いい大学に行って >いい所に就職して >いい配偶者に出会って >素敵なマイホームに住んで >子供にも恵まれ >家族睦ましく >よい友人に囲まれ >素晴らしい老後が迎える 全てを具現化できる自信と強運の持主と質問者さんが自負されているなら、それも選択肢の1つでしょう。 但し、 ・いい大学に行っても卒業出来るか? ・いい所に就職して、その就職先が倒産するリスクは幾等でも潜んでいます ・いい配偶者に出会って、その後上手く夫婦生活を送れるか? ・素敵なマイホームに住んで?、見た積りでも耐震偽装された物件はゴロゴロと残念ですが流通しています ・子供にも恵まれるか?(中には安倍前首相の如く、子に恵まれぬケースは現実に起こり得ます) ・家族関係が宜しくなく、どちらかと言えば悪友が少なからず含まれるものです ・(素晴らしいか否かもさりながら)老後を仮に65才以上とした時、64才以下で他界する人は実在しました。(小渕元首相や高円宮etc) 上述の全てをクリアして"いい大学に行って(中略)素晴らしい老後を迎える地点迄、質問者さんが無事辿り着けるか?かなりの困難さを伴 い"易々と問屋が卸さぬ!"のが常でしょう。 これらの諸点を含め十二分な覚悟は出来上がっておられますか?、又、どれか1つでも欠けた時、耐えるだけの意志の持主ですか? 前者後者ともにYES、ならそれも大いに有でも差支えありません。 1点だけ私が質問者さん着想で頗る疑問に思い、スンナリ同意出来ぬのは"では大学に行く前の年齢で他界した人はどうなる?無価値と括って良いのか?"との点でした。 もし、無価値説に従うなら例えば風見しんごさんの長女のえみる嬢の一生も又然り、となりかねず少なくとも私は全く同意出来ぬのです。 それは(細く長く派が多いかも知れませんが)"太く短く的生き方も是認される"べき、との捉え方が私の頭を過ったからなのですが。 http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20071116AT3K1600G16112007.html

aya_ene
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳有りません。私が例にあげた「いい大学に行って云々…」というのは20代のころまで本気で思っていました。でもcode1134様がおっしゃられているように現実は易々と問屋が卸さぬでした。私は大学に行っていないのでのっけからもうダメです。30代過ぎから何か違うなぁと思い始めてアインシュタインの言葉を見つけてグッときました(単純なおばかです)。 >大学に行く前の年齢で他界した人はどうなる? そうですよね、気付きませんでした…考えが浅はかでした。打たれ弱いので優しく教えてくださってホッとしています。参考URLも拝見いたしました。ありがとうございました。

noname#80187
noname#80187
回答No.8

日々、いや瞬間瞬間に沸き起こる気持ち、知識としての気持ちでもなく、記憶としての気持ちでなく、感じる感覚、気持ち、それがその時に価値を決めるのではないでしょうか? 悩み…それは欲が根源 逃避…それは欲が根源 節制…それは欲が根源 我慢…それは欲が根源 生きるすべての意志の行動は欲が根源 欲を満たす、その時にその欲の価値を知る。そして、小さい価値なら大きな価値を求める。 小さい欲から大きな欲へ上がっていけば良い。 だが、小さい欲から小さい欲へ移り、苦しみの欲から苦しみの欲を求めて、苦悩する。苦悩から逃れるために現実逃避をする。  それでは駄目だと現実と向き合い考える。その時の虚無感、迷走感は、言葉に尽くしがたい。 ただ、自己の感覚で価値を決める。その感覚とはいったいどのように決まるのか?謎。

aya_ene
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳有りません。 欲次第で、日々瞬間的に価値は変化するのだというのですね。欲を満たせばきりがなく、困ったものですね。でもその欲もまた生きるすべての意志だというなら価値がありますね。難しいですね…やはり中庸がいいということでしょうか。