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「幸福」とは?
こんばんは。 仏教についても造詣の深い、ご回答者の皆様に、またご教示いただきたく。 「幸福」とは?
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例えば政治的な目指す方向性を考える場合に、『幸福の定義』は必要ですよね。 これが『自国民の幸福』であれば、「自国の優位性を保ち易い条約の締結」「その前提としての絶対的軍事力」とかです。 これはアメリカや中国やイスラエルの目指す幸福の方向性。 しかし幸福の定義が『万人の幸福』であるなら、自国のみの繁栄は無意味なので、 「世界平和」や「他国への完全無償援助」となります。 さらに仏教的ともなれば、『あらゆる生物の幸福』を求めるので、 「生物としての普遍的な幸福」が目指す方向性になるでしょう。 たぶんそれは「子孫繁栄」「生物の多様性」「選民思想のない世界」となるはず。 そう考えると選民と殺戮の一神教は除外し、「みんな違ってそれがいい」世界でなければいけません。
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- nToTn
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No.6です。 >「コレ=「絶対の幸福」」というのがあったとして、どれくらいの人を説得し得るでしょうか? 説得できるかどうかは、不明ですが、機会があれば、匿名で説明しています。 現実社会でこんな話をすると、頭を疑われますので。 かなりの数のスピ系の本と、少しの仏教系の本を読みましたが、だいたいがNo.6の内容に行き着いているようです。 実は15年ほど前、あるきっかけで、まるまる1ヶ月間、この上もない幸福感に包まれたことがあります。 自分では頭がおかしくなったのではないかとも思いましたが、周りからの評価は非常に良く、別におかしいところは無いと言われました。 逆に、急に仕事が良くできるようになった、との事。 心がシンと落ち着き、何も恐れるものが無い。 どんな人に会っても、相手に対して慈愛の気持ちがわき起こる。 多分、その時の脳波を測ると、アルファー波だったでしょう。 以前は何をするにも、うじうじと優柔不断に悩んでいたのが、すっぱりと行動ができる様になりました。 ある人は、私が、なにか急にすっきりした顔つきになったと言いました。 また、ある取引先を訪問中、そこの社長さんが、今まで話をしたことも無かったのに、急に私を呼び出して、話をしたがりました。 地方線の電車の車掌さんが、なぜか私に話しかけて来たりもしました。 科学的に言えば、単に、脳内麻薬が多めに出ていただけかも知れません。 しかし、躁状態との違いは、底抜けの落ち着きと安心感でした。 残念ながら、それは1ヶ月ほどで終わりました。 その状態が普通になって慣れてしまったのか、それとも魔法が解けたのか。 多分半々でしょう。 その半年後、職を辞して、タイ人と結婚してタイに渡り、さらに1年半後に現地で起業し、今に至ります。 その幸福感以前の自分には、とてもじゃないが、考えられないような行動でした。 当時は、その幸福感が、何の事やらよく分かりませんでした。 しかしその後、色々な本を読みあさって、自分の経験と似た内容を探し当てたのが、No.6で述べた「絶対の幸福」です。 ちなみに、私自身は、自分が悟っているなどとは、口が裂けても言えません。 全く普通の人間です。 しかし、15年前のあの幸福感を再び味わいたいというのが、人生の目標の一つになりました。 以上、特に、信じて頂かなくても結構ですが、興味深い話ではありませんか?
お礼
nToTn様、ありがとうございます。 Ano.4様との応答をご参照下さい。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
まずは、快食快眠快便が達成・維持できている事。 そのうえで、家族や隣人が屈託なく笑っている姿を観ることが幸福です。
お礼
ありがとうございます。 立派に頼もしいお姿です。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
物体の持つエントロピー増大(無秩序な方向に進む)は淘汰として、 生物の進化(存続性の追求)を導く。 それは我々において、根源的な生きる本能として先入化している。 それは脳の発達による環境情報の処理において、生きる意志の 充足を欲する=快楽の追求となる。 認識の発達において、そうした短絡的な衝動の充足から、深い 認識性に基づいた長期的な目的の達成としての、幸福感へと 昇華される。 短絡的な「快楽の追求」は、即物的な刺激への反射的な対応 として、複数の充足が対立し、また刹那的であって断片的で 小さな充足感となるだけなく、それを感じる基盤となる意識自体 の希薄さにおいても、充足量の最大化の目的に反する。 その「充足量の最大化」を、人生の通算において最大化し、また 環境条件との調和(環境との物質循環、人々との助け合い)に おいて対立や障害をなくし、またその「人生を通算した」目的に おける深い認識における一貫した強い意志の達成は、真の 充足量の最大化を可能にする。
お礼
psytex様、ありがとうございます。 >「「人生を通算した」目的における深い認識における一貫した強い意志の達成は、真の充足量の最大化を可能にする。」 なるほど。「人々との助け合い」これがですね、額面通り可能かどうか?・・・「助けろ!」という命令形の応酬になってしまわないか? 仰る「一貫した強い意思の達成」が、人権侵害を引き起こしてしまわないか。
- nToTn
- ベストアンサー率28% (28/99)
仏教ではないかも知れませんが... 全ての生命が、根源でつながっており、たった一つの大いなる存在であることを、知識としてではなく、自分自身で体感すると、絶対の幸福が得られるという。 それが悟り。 自分を愛する事は、全ての生命を愛する事と同義であり、その逆もまたしかり。
お礼
nToTn様、ご回答ありがとう御座います。 >「全ての生命が、根源でつながっており、たった一つの大いなる存在であることを、知識としてではなく、自分自身で体感すると、絶対の幸福が得られるという。 それが悟り。 自分を愛する事は、全ての生命を愛する事と同義であり、その逆もまたしかり。」 「絶対の幸福」ですか。 「コレ=「絶対の幸福」」というのがあったとして、どれくらいの人を説得し得るでしょうか?
- バグース(@bagus3)
- ベストアンサー率29% (1973/6719)
たとえば、色というのは存在しません。 光の波長の違いを色として捉える目や脳があるだけです。 犬などは、それができないので色は識別できませんが、 劣っているということではなく、捉えかたが違うということです。 色は存在せず、人間の脳が光の波長の違いを光というイメージとして 作りだしたのです。 幸福も同じです。幸福は存在せず、ある状況に出会った脳が幸福という イメージ(幻想)を勝手に作ったにすぎません。
お礼
bagus3様、ご回答ありがとう御座います。 幸福=「ある状況に出会った脳が、勝手に作った、イメージ(幻想)」 「ある状況に出会った脳が、勝手に作った、イメージ(幻想)」 コレは別に、必ずしも「幸福」と名付けられなくてはならないものとは限らない、という気がします。 何でも「ある状況に出会った脳が、勝手に作った、イメージ(幻想)」ではないでしょうか。 で、「理論→実践」というようになるのでしょうか。
- obrigadissimo
- ベストアンサー率23% (1613/7000)
仏教用語に幸福という言葉があるとは思いませんでした。 相対的幸福と絶対的幸福に分けて考えているようですな。 まぁそれは、仏教の専門家にお任せするとして、私は 橘曙覧の『独楽吟』を考えるヒントとして 提示することにします。 他、『Le Marchan de Bonheur(=幸せを売る男)』という シャンソンがあります。you tube で聴けます。 何のご研究かは不明ですが ご成功を祈っています。 Good Luck!
お礼
obrigadissimo様、おはようございます。 とりいそぎ、お礼まで。 いやぁ、それほどでも。 >「何のご研究かは不明ですが ご成功を祈っています。 Good Luck!」 「~と、ともにあれ!」みたいな表現も、あるんですね。
English-Pali Dictionary by Metta Net, Sri Lanka http://www.budsas.org/ebud/dict-ep/index.htm#top happiness : (nt.) somanassa. (m.) ānanda. (f.) pīti; sampatti; samiddhi || bringing happiness: (adj.) sukhāvaha. happy : (adj.) sukhita; santuṭṭha; pamudita; dhañña; bhāgyavantu. これで、とりあえずのあたりをつけて、調べていけばいいのかもしれませんが。 ところでkurinalさんの「あわれ」の質問のほうに回答しようかと思ったんですが、 仏教に慈悲というのがあって、私が今のところ気になっているのが、 悲(karunā)なんです。 karunā Buddhist Dictionary by NYANATILOKA MAHATHERA karunā:'compassion',is one of the 4 sublime abodes (brahma-vihāra,q.v.). http://dictionary.online-dhamma.net/ 調べてみると、karunāは英語でcompassionと訳されているようなんです。 それでcompassionで検索するとたくさんサイトが出てくるんですが、 こことか 煩悩(passion)と慈悲(compassion) http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/kuru/compassion.html それで、さらに調べていると、「共に苦しむ」という意味があるようで、 compassionはキリスト教でもけっこう、使われているようなんです。 共苦(ミットライト)の思想といえば、哲学だとショーペンハウアーだし、 同情するなといえばニーチェだし、 どうも悲(karunā)が気になる。 さらに大悲(マハーカルナー)なんていうのもあるわけで。 私は、共に苦しむことが幸せとは言いませんが、 生きとし生けるもの、全人類の罪と苦悩を背負うなんてのが幸せともいいませんが 苦しみを無くすよりも、共に苦しむことを理想と考えた人たちもいるようです。 というわけで、カルナーについては現在、調べているところなので、 これ以上はなんとも。
お礼
kazamidori365様、ありがとうございます。 >「私は、共に苦しむことが幸せとは言いませんが、 生きとし生けるもの、全人類の罪と苦悩を背負うなんてのが幸せともいいませんが 苦しみを無くすよりも、共に苦しむことを理想と考えた人たちもいるようです。」 そうですか。 >「ところでkurinalさんの「あわれ」の質問のほうに回答しようかと思ったんですが、」 ありがとうございます。 >「カルナーについては現在、調べているところなので、これ以上はなんとも。」 ありがとうございます。
仏教を知りませんが、 個人的には「愛すること、愛を受け入れること、愛を感じること」です。
お礼
88i88444様、21世紀的ご回答ありがとうございます。
お礼
o-sai様、ご回答ありがとう御座います。 「「信教の自由」にも限界はある」と考えております。 また、政治的には、「公的機関」なるものは民主的憲法を度外視したりは出来ないわけですね。