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「犀の角のように、独一人、歩め」

こんばんは。 仏教についても造詣が深いご回答者の皆様に、またご教示頂きたく。 「犀の角のように、独一人、歩め」と言いながら、 「とらわれるのは、愚である」と説く。 そのこころは?

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noname#181644
noname#181644
回答No.11

少し追記です。 "厳しい"というのは、私の個人的な感想ということにとどめておいてください。 "聖者の生き方"については、例えば、「○◯という長老は、長い間、忍堪を説く聖者であった」とか、「人や神々の見解は◯◯であるが、聖者たちの見解は△△である」といったような記述が原始仏典にあることに即して述べたものです。

kurinal
質問者

お礼

raintalk様、私の疑問にお付き合い下さり、ありがとうございます。 >「"厳しい"というのは、私の個人的な感想ということにとどめておいてください。」 なるほど。 >「"聖者の生き方"については、例えば、「○◯という長老は、長い間、忍堪を説く聖者であった」とか、「人や神々の見解は◯◯であるが、聖者たちの見解は△△である」といったような記述が原始仏典にあることに即して述べたものです。」 なるほど。 そうですね、私の感想を申しあげるとすれば「「あるがままに見る」が出来れば、(長い間、忍堪を説く)「聖者」(の見解)足り得る」。どうでしょうか

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noname#181644
noname#181644
回答No.14

争いは、堪え忍ぶことによって息む。これは不滅の真理である。 この様に語られる事柄が堪え忍びです。 また、あるがままに見るのは有情の見方、見ないのでは無情、見て見ぬ振りをするのは惰情、誤って見るなら非情であり、堪え忍ぶことはそれらのいずれでもないと考えられます。

kurinal
質問者

お礼

reintalk様、ありがとうございます。 >「争いは、堪え忍ぶことによって息む。これは不滅の真理である。 この様に語られる事柄が堪え忍びです。」 「相撲」ですかね。 >「また、あるがままに見るのは有情の見方、見ないのでは無情、見て見ぬ振りをするのは惰情、誤って見るなら非情であり、堪え忍ぶことはそれらのいずれでもないと考えられます。」 「堪え忍ぶ」は、どれかと言えば「非情」(あるがままに見るのは有情の見方) うーーーん なんで「非情」なの

  • mmky
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回答No.13

「犀の角のように、独一人、歩め」と言いながら、 「とらわれるのは、愚である」と説く。 そのこころは? ○目標を決めれば、寄り道しないで目標を目指しなさいということですね。 これには、例えがありますね。 主人から用事を託された下僕が、旅に出ます。旅先の宿でドンチャン騒ぎをしてすっかり主人に託された用事を忘れてしまうという話があります。 この話での宿で騒いでいる内に主人に託された用事、つまり旅に出た目的を忘れてしまう愚かさですね。 賢者は目的を忘れず、旅途中での誘惑にも負けないので目的を果たすことができる。愚者は誘惑に負け目的を忘れる。この「誘惑」を言い換えると「とらわれ」なんですね。 賢者は、「犀の角のように、独一人、歩め」、「とらわれるのは、愚である」と説く。ですね。 人生とはそういうものですよ。人生の本当の目的を忘れて、ものや金や地位や小さな家族愛にとらわれているでしょう。心というものは本人にしか管理できないものです。何があろうが心の王国を築きなさいというのが「犀の角のように、独一人、歩め」という意味なんですよ。わかるといいね。

kurinal
質問者

お礼

mmky様、ありがとうございます。 >「○目標を決めれば、寄り道しないで目標を目指しなさいということですね。」 「とらわれ(愚)」を「寄り道」と言われる。 >「忘れてしまう(愚かさ)」 人間、場合によっては、「忘れてしまいたいこと」も、あるものです。 >「心というものは本人にしか管理できないものです。」 さすがに、「コレ(は、いいね?)!」という一文がありますね。 仰る通りと思われます。

回答No.12

#1の者です。 >「ひとり」なら、何故わざわざ「独(り)歩め」などと言ったのでしょう 「宇宙は『ひとり』である」などとは、一般には思われて いないからです。 自己の必要(自我仮説(記憶=過去)と時空仮説(予測= 未来)の相補分化)としての宇宙の自覚化ができず、 周囲の評価に依存して自我を成立させる結果、虚栄心や 自己主張といった短絡的自己チューに陥りがちだからです。

kurinal
質問者

お礼

psytexさん、ありがとうございます。 >「「宇宙は『ひとり』である」などとは、一般には思われて いないからです。 自己の必要(自我仮説(記憶=過去)と時空仮説(予測= 未来)の相補分化)としての宇宙の自覚化ができず、 周囲の評価に依存して自我を成立させる結果、虚栄心や 自己主張といった短絡的自己チューに陥りがちだからです。」 なるほど。 ですが、No.2のご回答者にも申しあげたのですが、 「とらわれると苦しい」についてのお触れが無いようです。 これでは、ご回答として50点しか差し上げられないということになります。

回答No.10

 No.3&7です。  ひとつには  ▲ (スッタニパータ <3、犀の角>) ~~~  37  朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この一文だけを取り上げた場合 ほかのご回答を見ると   ○ 《友だちとの親しさには 何か人間としてとうとい宝のようなものを失うきっかけがある》と言っていたとしても 友だちとのまじわりを断てと言っているわけではない。《囚われる》ことがなければ・またそのことに注意していくなら 友だちをつくってもよいのだ。  このような趣旨だと見られていますね。したがって 《犀の角のようにただ独り歩め》というのは その注意を怠るなという意味なのだと。じっさいに《独りになって生きようとする》ことではないのだと。  ならば このスッタニパータの文章は 舌足らずであると ひとこと解説を加えれば済むことだと考えます。  あるいはまた  ▲ 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。  ☆ というのは どういうことか。《おのが利を失う》とは どういうことを言っているのか。これについて さらに解説をほどこせば済むことです。  どうしてこういった話し合いをしっかりとしようとしないのでしょう?  つまりわたしなどがゴータマの語っていることはおかしいと言った場合 それはこうこうこうなのだよと答えれば済むことを そうしない。  つまりは じつはわたしの言うそのおかしさについて ほとんど誰もがそれについてうなづいている。そこから ゴータマ派は 気持ちの整理がつかぬまま ああだこうだとぐちゅぐちゅ 文句を言う。話になっていません。  といった愚痴をもまじえまして。・・・         *  今回は  ★(No.7お礼欄) ~~~~    >「すべての人の「奴隷」になりました」  あきらかに、おかしいですね。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにのみお答えします。つまりは  ▲ (パウロ)~~~~  9 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、    すべての人の奴隷になりました。  ~~~~~~~~~~  ☆ です。  もし 皮肉のような表現を用いるなら 次のようになります。    わたしは つねに犀の角のように独りあゆんでいます。    しかも つねにひととまじわることを怠りません。    だれとでも いつでもどこででも。    ひととはつねに話し合いを持ちます。    どこまでもつづけて 行ないきります。  こういう意味ではないでしょうか?  古代人には 残念ながら《奴隷》は そこら中にいるのが分かるという情況があったから その言葉を使ったのでしょう。その舌足らずさについては 大目に見てやってくださいませ。  ☆☆(回答No.7) 少なくとも 《犀の角のように独り歩め》は すでに高い次元に揚げて棄てられていましょうね。  ☆ これが ゴータマ派の方たちにとっても 言わんとするところなのではないでしょうか。  《高い次元》は 何かどこかおのれの立ち場だけを主張するときの事態ではなく どの立ち場や〔宗教の〕派閥であっても 誰もが妥当だと思うそういう人間の境地としての次元がある。と言ってよいのではないでしょうか。  ★(No.7お礼欄) ~~~~    >「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」  ・・・それじゃあ、「奴隷」も認めるのかと。まさに、ここには信教の自由の問題があるとも、思われてしまいます。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 最初は――つまり イエス・キリストが歴史に登場したのだと伝えようとした最初の時期では―― パウロ自身が言うように《宣教という愚かな手段》が用いられました。つまり 《福音のためなら》です。  これは いまでは――先ほど上に見てみようとしたように―― すでにどの宗派どの立ち場かを問わず 誰でも話し合いに臨み話し合いをつづけていくという姿勢があればよいとする考えだと見ます。  そのような人間にとって共通の《高い次元》に向けての《どんなことでもします》だと受け取っています。が どうでしょう。  ▲ わたしは、だれに対しても自由な者ですが  ☆ の前提があります。教義や教会組織などを背景に持った誰に対してもいっさい自由だというところから出発していますから。

kurinal
質問者

お礼

bragelonneさん、ありがとうございます。 >「スッタニパータの文章は 舌足らずであると ひとこと解説を加えれば済むことだと考えます。  あるいはまた  ▲ 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。  ☆ というのは どういうことか。《おのが利を失う》とは どういうことを言っているのか。これについて さらに解説をほどこせば済むことです。  どうしてこういった話し合いをしっかりとしようとしないのでしょう?  つまりわたしなどがゴータマの語っていることはおかしいと言った場合 それはこうこうこうなのだよと答えれば済むことを そうしない。  つまりは じつはわたしの言うそのおかしさについて ほとんど誰もがそれについてうなづいている。そこから ゴータマ派は 気持ちの整理がつかぬまま ああだこうだとぐちゅぐちゅ 文句を言う。話になっていません。」 前提として、私と、「ゴータマ」とは、別です。「「ゴータマ」は、こうだったんじゃないかな」とは言えても、それ以上は言えません。 「ゴータマ派」・・・別に、ゴータマについて、「おお、よしよし、ゴータマちゃんは、こうだったんだよね」と、そんな筋合いは(多分、誰にも)ありません。 >「わたしはどんなことでもします。」 このように実践されて居られる。素晴らしいと思います。 一方で、「どんなことでもする」というのが、やはり、「「信教の自由」の限界に抵触する、場合がありうる」という認識が、現代においては、必要でしょう。

noname#181644
noname#181644
回答No.9

 犀の角のようにただ独り歩むことと、とらわれないということは矛盾しているわけではないので、質問の文意の全容を把握できないでいます。しかしながら、思うところを綴ろうと思い、再回答いたします。 囚われについて:  とらわれると、苦が生じます。それは譬えば、画家が、良い絵を描こうとして、却って下手になるようなことで、余計な気負いなく筆を運んだほうがいい絵が描けたりする、といったようなことです。 仏教について:  仏教はニヒリズムや虚無主義と勘違いされがちですが、例えば仏教では、生きるなと言っているわけではなく、生存の執着を離れようと言っているのです。  犀の角の話にしても、自分よりも優れた人に出会えば付いて従い共に行け、とか、自分よりも優れた人に出会えなければ、犀の角のように一人歩めと、時と場合に応じた説話が存在しています。これは、ある程度人生を生きた人なら経験からも分かる話だと思います。  常軌を逸した発想や解釈では、仏教に関しては誤った見解に堕ちてしまうこととなるでしょう。  気をつけて、人間を理解した上での解脱であるのですから、人間の本来性を逸した見解を無理に仏教に当てはめても、自ら生じた言葉による迷妄に陥ってしまうだけと考えられます。 原始仏典について:  原始仏典は、簡潔な表現の多い、わかりやすい経典の一つだと私は見ています。後の、法華経や維摩経、あるいは金剛般若経などでは、喩え話の連続、出てくる数も天文学的で常人の感覚を遥かに超えたものであり(それが狙いでもあるのだとは思いますが)、普通の人から見れば小説やファンタジーの類に見えても仕方ないところもあると思います。その点、原始仏典は、厳しくも簡潔に人生についての諸々、聖者の生き方についての諸々が綴られており、素朴ではありますが迷いのない言葉で浮き立つことなく淡々としていて、その面では好感が持てます。

kurinal
質問者

お礼

raintalk様、ご回答ありがとう御座います。 >「犀の角のようにただ独り歩むことと、とらわれないということは矛盾しているわけではないので、質問の文意の全容を把握できないでいます。しかしながら、思うところを綴ろうと思い、再回答いたします。」 いや、別に、そうなんですよ。矛盾していない。 そこに二つのテーマ?があって、、、しかし「苦」を望ましい(!)とする見解があったりすると「別」ですが >「気をつけて、人間を理解した上での解脱であるのですから、人間の本来性を逸した見解を無理に仏教に当てはめても、自ら生じた言葉による迷妄に陥ってしまうだけと考えられます。」 なるほど。しかし「人間を理解」とは、専門家でもどうなんでしょう、か >「原始仏典は、厳しくも簡潔に人生についての諸々、聖者の生き方についての諸々が綴られており、素朴ではありますが迷いのない言葉で浮き立つことなく淡々としていて、その面では好感が持てます」 厳しい、ですかね。また「聖者の生き方」???

回答No.8

 久しく笑点を見てないので“形”を忘れてましたが、思い出したのでそれに合わせて回答しなおします。  「犀の角のように、独一人、歩め」と掛けて何と解く?  「スカイツリー」と解く。  そのこころは?  どちらも足下で蠢いている。  こじつければ・・・・・  犀の角は鼻先に、と言うべきでしょうが頭上に押し戴くように“在り”生きるために活動している身体には、われ関せずといった雰囲気が、独り我が道をゆくと云った感じがあります。  スカイツリーも同様に、足下では一日中老若が蠢いているけれどそれらを懐に抱えながらも、泰然自若と云った感があります。  「犀の角のように独り歩め」と言う修行者へのメッセージは“捕らわれるのは愚である”と言っているのだと思います。  ☆ 修行者へのこうしたメッセージに接する我々はどうしても自身の生き方を批判されているように受け止めてしまいがちですね。    

kurinal
質問者

お礼

ご回答ありがとう御座います。 >「修行者へのこうしたメッセージに接する我々はどうしても自身の生き方を批判されているように受け止めてしまいがちですね。」 ・・・「そんなもん、ありゃしねー」の世界です。 凡人ならともかく、哲学者が「批判されているように受け止めてしまって」、どうするのですか。 ま(当たり前ですけれど!!)、ご回答者様の生き方どうこう、までは問うていません。 >「「犀の角のように独り歩め」と言う修行者へのメッセージは“捕らわれるのは愚である”と言っているのだと思います。」 ん、別に「修行者」なんて、質問の何処にも出していませんし、そもそも想定もしていません。 「修行者」を想定してしまった、ご回答者のそもそものミス・リーディングですね。

回答No.7

 《愛》をめぐって この上なく抹香臭いこちこちの思想をかかげます。  その前に ゴータマ氏は 次のように・例の《はすのはな》のたとえに触れています。  ●(スッタニパータ) 845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。 ☆ ひとつに《固執するなかれ》とは 《かかわりを絶対的な前提として まじわりを持つ。対話はおこなう》のであろうと見られます。  もうひとつに 《はすのはなのように 欲望にも世間にも汚されることがない》のであれば その《かかわりにもとづくまじわりと話し合い》は むしろとことんまで行ないきる のではないのでしょうか? どこかでブレーキをかけるのでしょうか。  さて その話し合いは言うにおろか とことん人格と実存の全体で相手とまじわると言っている男がいます。  ▲ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~~~~     19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、     すべての人の奴隷になりました。     できるだけ多くの人を得るためです。  20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。     ユダヤ人を得るためです。     律法に支配されている人に対しては、     わたし自身はそうではないのですが、     律法に支配されている人のようになりました。     律法に支配されている人を得るためです。  21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、        キリストの律法に従っているのですが、     律法を持たない人に対しては、     律法を持たない人のようになりました。     律法を持たない人を得るためです。  22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。     弱い人を得るためです。     すべての人に対してすべてのものになりました。     何とかして何人かでも救うためです。  23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。     それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 他方では:  ●(ヰキぺ:涅槃) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83  無住処涅槃   釈迦が一切を無常・苦・無我であると説いたのは、単に現実を否定したのではなく、かえって現実の中に解決の道があることを自覚したからである。  この立場で、のちに無住処涅槃という。「さとり」の世界では、無明を滅して智慧を得て、あらゆる束縛を離れて完全な自在を得る。そこでは、涅槃を一定の世界として留まることなく、生死と言っても生や死にとらわれて喜んだり悲しんだりするのではなく、全てに思いのままに活動して衆生を仏道に導く。  このような涅槃は、単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩が転化され、慈悲となって働く積極的な世界である。その転化の根本は智慧の完成である。ゆえに「さとり」が智慧なのである。  この点から菩提と涅槃を「二転依の妙果」という。涅槃は以上のように、煩悩が煩悩として働かなくなり、煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、智慧の障害であったものが転じて慈悲として働く。それを菩提(ぼだい)という。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この解説にすべて満足ではありませんが どうなんでしょう けっきょく《かかわり(社会的な関係性)》を大前提としての基礎に見て どこまで現実の・実存としてもの《まじわり(社会的人間的交通)》を敢行し遂行していくか? どこまでなんでしょう?  少なくとも 《犀の角のように独り歩め》は すでに高い次元に揚げて棄てられていましょうね。  

kurinal
質問者

お礼

bragelonne様、ご回答ありがとう御座います。 >「《話し合い》は、とことんまで行ないきる のではないのでしょうか? どこかでブレーキをかけるのでしょうか。」 それは、「とことんまで、行いきる」でしょうね。 それは、「一方的に説教を垂れる」というようなものでは、ないでしょう。 >「すべての人の「奴隷」になりました」 あきらかに、おかしいですね。 >「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」 ・・・それじゃあ、「奴隷」も認めるのかと。まさに、ここには信教の自由の問題があるとも、思われてしまいます。 >「少なくとも 《犀の角のように独り歩め》は すでに高い次元に揚げて棄てられていましょうね。」 だから、同じ事です。それを、信仰的には「高い次元」と称するのかもしれませんが、 >「どこまでなんでしょう?」 だから、「とことん」としか、言いようが無いでしょう。 ・・・むしろ「とことん」を許さないのが、「原理主義」ではないですか。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.6

関わりと囚われは違うんですよね。。。 世界は関わりそのものなんだけれども、それは一個の人間の自由と拮抗して生成してくる。 いつくしみ、想像し、共感することと、 他者を愛すること、求めること、親しむことのあいだに、すっと線を引くわけでしょう。 世界の隅々を浸すような心持で観ながら世界の一局面に没入しないでいられるという具合。 愛は目隠しの帯であるのです。 まあどうかな、 人間が存在するとき愛はすでにそこに最初からあるもので、といってもさまざまな形でですが、 いずれにしても、惑わされたり迷ったりするのは愚かしいという考えの上のことで、 「愛された、または愛したなら、断ち切れ」という心でしょうかね。

kurinal
質問者

お礼

amaguappa様、ありがとう御座います。 あまりにの大所・高所から、局地を見た場合、というような感想を覚えました。 それはそのまま、貴女様と私との違いでしょうか? >「関わりと囚われは違うんですよね。。。」 いかにも女性らしいご意見として承っておきます。

回答No.5

こんにちは、kurinalさん。 そのこころは… 「迂直の計」

kurinal
質問者

お礼

littlekiss様、ご回答ありがとう御座います。 >「迂直の計」 古の「孫子の兵法」に曰く、「遠回りに見える方法を以って、自身の短所をも長所に変える」、そのような方策 そうですねえ、なるほど。 問題を、光の当て方とか、物の見方、あるいは大局的な価値の転換、ということで考える。 そうですか。

回答No.4

そのこころは、 スカイツリー。

kurinal
質問者

お礼

yy8yy8az様、こんばんは。ご回答ありがとう御座います。 「どのような企ても、ある意味、独尊であり、愚である」 そんな感じでしょうか。

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