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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《第二の死》と呼ばれる《顔無し》状態はあるか?)

第二の死とは?死が死なくなった状態について

このQ&Aのポイント
  • 第二の死とは、《死が死ななくなった状態》を指します。つまり、第一の死が死ななくなり、固定化される状態です。
  • 第一の死は、認識し自己を失った状態であり、死から再生する循環を表します。しかし、第二の死では、再生しなくなり、第一の死が固まってしまいます。
  • 第二の死は、心のたかぶりによって引き起こされる可能性があります。自身の考えに無謬性の神話を築くか、外への情報の受け入れを拒否すると、第二の死が発生する可能性があります。

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  • Tefu_Tefu
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回答No.2

こんばんは。 人生哲学でしょうか? >ひとつに みづからの考えに無謬性の神話を醸し出しこれを自認したとき。 >ひとつに みづからの思想を外へ発信はするが 外からの受信も輸入もしないという蛸壺哲学に落ち入ったとき。 人は 自己の思想の正しさは認識できないし 他人と対話しないことなどあり得ないので 自殺しなければ 誰でも復活するでしょうね。^^ 山登りと同じようなもので 険しい山程一瞬の喜びは大きいけれど 下山出来ない時が死と云うものらしいですが。幸せだとか不幸だとか人間の判断が鈍った時(安心した時)神のお迎えはくるようですよ。 永遠に苦しみ(何事も自分の思うようにならないからしなければいけないことがたくさんある)こそが生きる糧の人は 神のお迎えは それはそれは遅いような気がします。^^ まぁ 「人を生(活)かしたければ無理難題を問い続けろ」=「貴方は必要とされているよ」と云うことかもしれません。 ブラジュロンヌさんのおっしゃっている対話による記憶かな?(笑)

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 人は 自己の思想の正しさは認識できないし 他人と対話しないことなどあり得ないので 自殺しなければ 誰でも復活するでしょうね。^^  ☆ うむ。だいじょうぶですか。・・・かも知れないですね。  とは言うものの   ☆☆ みづからの思想を外へ発信はするが 外からの受信も輸入もしないという蛸壺哲学に落ち入  ☆ り続けているばあいは あるように見られますが。これは 《独我論》という思想です。  あるいは  ☆☆ みづからの考えに無謬性の神話を醸し出しこれを自認したとき  ☆ というのは 《お上》とよばれるお二階さんが その公民圏の全体として この不可謬性なる神話を誰もかれもがおのが身に羽織り 歴史の度重なるにつれ硬い甲羅で凝り固まったかたちになっていたのは つい最近まで――つまりたとえば社会年金の仕組みの崩壊が目に見えて来たときあたりまでというように最近まで――見られました。  このことが 次のような事例に相当しませんか?  ★ 山登りと同じようなもので 険しい山程一瞬の喜びは大きいけれど 下山出来ない時が死と云うものらしいですが。  ☆ そのむかし 学力優秀・品行方正で人間的な人間である人たちが 志高く《アマアガリ》を目指しました。この《ますます人間的になってアマテラス公民圏の住民となったお二階さん》たちは むろん下山つまりアマクダリも出来ますが 長年のクセ(エートス)の積み重ねをつうじて 《おれは あやまたない。神聖にして侵すべからざる人格者なり》というふうにそのキントン雲に乗っかって 往来を闊歩していませんでしたか?  ★ 幸せだとか不幸だとか人間の判断が鈍った時(安心した時)神のお迎えはくるようですよ。  ☆ これは・つまりこの《神のお迎え》は 趣旨説明欄に規定した《第一の死》が死を迎えて 《われがわれである自然本性なるわれに立ち帰った》ことを意味していましょうか? それとも この第一の死がもはや死ななくなって とうとう第二の死に到ったということをでしょうか?  次の場合は 前者のようですね。  ★ 永遠に苦しみ(何事も自分の思うようにならないからしなければいけないことがたくさんある)こそが生きる糧の人は 神のお迎えは それはそれは遅いような気がします。^^  ☆ 《あやまつ―→第一の死―→われに還る・ゆえに第一の死が死ぬ―→またあやまつ―→・・・》の繰り返しであったとしても そのつど第一の死は死んでいます。つまり その人は生き返っています。から。  ★ まぁ 「人を生(活)かしたければ無理難題を問い続けろ」=「貴方は必要とされているよ」と云うことかもしれません。  ☆ 単純に言って 《反省がある》ということでしょうか。  つまり この質問は 《反省をまったく決してしないという人間は 果たしてこの世にいるでしょうか?》という問いです。  ただし おのが内面においてだけ反省していても ダメです。それは タコツボになります。存在という抽象的な理論上の《人間と人間とのカカワリ(関係性)》だけではダメで 《じっさいに話し合うというマジワリ(交通)》においてその反省を自己表現する場合でなくては 反省をしたとは言いません。そういう定義です。  つまり  ★ 対話  ☆ を忘れ もはやまったく無くしてしまった状態にある人間 こういうひとは いますか? という問いになっています。

その他の回答 (20)

noname#189751
noname#189751
回答No.11

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 止めるんだ 時間を失った人の 時間を呼び覚ましちゃ いけない そうする事が そっとしておいてやる事が 唯一の優しさだという事が 分からんのか 愚か者めが 言う 優しさより 言わぬ 優しさの方が どれほど大きいのか 知らんのか ・ ・ ・ ・ ・ 哲学的に というのなら 感性を持ち合わせた幸せと 感性の無い幸せを 量りにかけて どちらがいい・・・と聞くようなものだ 答えられまい 生きて 今があるという幸せを  何気ない幸せを 再び 量りに乗せてはいけないのだ 幸せという言葉すら 向けてはいけない 意志が振り向ける憐れみ というものは 感性を癒すことは出来ない  と知るなら 止めるんだ その人が持つ 感性という神様に すべてを任せるんだ 人が 人を知り得る という愚かさを捨てるんだ 知らんふり という 精一杯の優しさを 君は知らないのか 祈る ということを 君は知らないのか すべき事をして 祈る ということを 君は知らないのか 祈りが分かつ 償いと 罪の重さを 君は知らないのか ・ ・ ・ 

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★★ 安らぎ という奇跡を得た者  ★ 時間を失った人  ☆ 規定が違って来ています。  ★ 生きて 今があるという幸せを    ☆ 知らない。知っていても こばむ。幸せを否定する。むやみやたらに否定する。つまり 死へ 死へと草木はなびく。  とうぜんのごとく相手は敵であり敵に対しては ののしり貶めるのみ。もうレコードが決まった調べしか響かさない。  ★ 意志が振り向ける憐れみ というものは 感性を癒すことは出来ない   ☆ のではなく そうではなく 《いやされる》ことを極力こばんでいるのです。  という実情を 無慈悲にでも指摘してやるのが 哲学のつとめです。  いやされるのは みづからの自然治癒力によりましょう。     *  そもそも戦争という事態について考えなさすぎです。  愛する人びとを守るために ひとごろしにでも出かけて行って たたかうか。  それとも 政府に抵抗するか。または 亡命するかです。  植民地における住民とすれば 他国の政治方針によるとは言え 自国(植民地となっている自国)を守るために必要だと思えば ひとごろしとしての戦争に出かけます。  いやなら 抵抗するか亡命するかでしょう。  ★ 生きて 今があるという幸せ  ☆ をかみしめられなかった人びとを思うべし。  けれども その人びととても 上官や無能指揮官や国の戦争励起者たちをうらむものではありません。(中に どうしても夜叉のごとき心になったままの者がいるかも知れませんが しづまりたまえと言ってやればよいでしょう)。  要するに人びとは たたかいに散ってちょんなのです。  それでよいと腹を決め引き受けたのです。  うらむわけがありません。  英霊として祀られることなど 屁の河童です。  終わったことです。  これが 戦死者たちの心の声であり 人間たる者の真骨頂です。  ハルモニたちは 何をほざいているのか。何を血迷うたか。  にんげんになりたまえ。  と言ってやらねばならないでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 ▲ (  1 名前:そーきそばΦ ★:2013/05/25(土) 02:57) ~~~  http://fxya.blog129.fc2.com/blog-entry-8843.html  日本維新の会の中山成彬衆院議員が 24日、自身のツイッターに、旧日本軍の「慰安婦」だった韓国女性と橋下徹共同代表の面談が中止になったことについて、   「橋下氏に強制連行の中身を鋭く追及されるのをおそれたか?   化けの皮がはがれるところだったのに残念」  と投稿した。  中山氏は   「(慰安婦の)支援団体側は政治利用される心配もあると説明しているが、   面談を申し入れてきたのもこれまで政治利用してきたのも先方側だった」  とも記した。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういうやり取りは けんかの売った買ったになっていますので ふつうひとはしません。  けれども  ▼ (3 名前:名無しさん@13周年:2013/05/25(土) 02:58) ~~~~   いっちゃった  ~~~~~~~~~~  ☆ なら  ▼ (5 名前:名無しさん@13周年:2013/05/25(土) 02:59) ~~~~   言うたれ言うたれ  ~~~~~~~~   ☆ となります。  また同じく  ▼ (45 名前:名無しさん@13周年:2013/05/25(土) 03:06)~~~~  これを報道するのか?  どういう表現で叩くのか興味深い  ~~~~~~~~~~  ☆ となります。  にんげんの問題に向き合わないのなら こうしたイタチごっこが続くか もしくは戦勝国と敗戦国とのチカラ関係から事態が収拾されるかでしょう。  後者のばあいには 依然として人権侵害が いろんなかたちで 犯し続けられることになります。  犠牲者をひとり出してこれをみんなで叩き 問題が終わったとする態度であり姿勢であり思想です。  哲学が沈黙を決め込む謂われもなければ そうしてもいけないというものです。

noname#189751
noname#189751
回答No.10

安らぎ という奇跡を得た者に それを損なう権利は 誰も持ちあわせてはいない 今日という日を迎えた尊さを 知らぬ者のみが 権利があると思い込むのみである ・ ・ ・ Bさん また 後で 我然 無視 というわけじゃないんで すこし間が空きそうだ ごめん よろしく・・。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  意味が取れません。  ★ 権利  ☆ などという考え方を まだしているのですか。  権利以前。話をしてもいいのです。誰が誰に対してでも。ひとこと お話してもよいかとたずねれば済むこと。  ★ 安らぎ という奇跡を得た者  ☆ なら 怒ってもよいのですが 相手の考えや気持ちについても ひとこと触れる余裕があるというものです。  それがまったく失われています。    被害者という立ち場を推し出すならば 何を言ってもよくて 人びとを加害者の糾弾へと あらゆるののしりの言葉とともに さそいこむというそのひとつのコトのみを生きがいとしている。第二の死なる状態。

bragelonne
質問者

補足

 資料です。  ▼ (元従軍慰安婦、橋下氏と面会中止 謝罪パフォーマンスと反発) ~~~    http://news.livedoor.com/article/detail/7702422/  共同通信 2013年05月24日12時30分  24日に予定されていた日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長と韓国人元従軍慰安婦の金福童さん、吉元玉さんとの面会が、元慰安婦側の意向で中止となった。大阪市が同日、明らかにした。  橋下氏は従軍慰安婦発言を撤回しない一方、面会を公開し「強制連行の有無にかかわらず、元慰安婦に謝らないといけない」と述べ、謝罪する意向を示しており、2人はこれに反発。  24日「謝罪パフォーマンス拒否」とするメッセージを公表した。  ▼ (橋下氏と元慰安婦面会ドタキャン 「なぜ…」準備奔走の市職員がっくり) ~~~   http://news.livedoor.com/article/detail/7703486/  産経新聞 2013年05月24日11時59分  ・・・  市によると、元慰安婦側は橋下氏の13日以降の慰安婦制度をめぐる発言に「傷つき、会いたくなくなった」などと説明している。  面会が決まったのは13日で、市職員の一人は「面会が決まってから2週間近くあった。発言に傷ついたというのであれば、もっと早くに言うべきだ」と憤慨した。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~

noname#189751
noname#189751
回答No.9

短気な つぶやき を すこし・・ 感性が我に与えた地獄は その後にやって来るもののためにあった のだと知らされる 今日という日の訪れを 安らぎと驚きをもって受け入れる時 罪を負うことを いずれに着せてはならぬものだと知らされる 意志という顔を剥ぎ取った者に 罪を負わせても 安らぎの曇りは増すばかり だと 何故に 人は知るのだろう? 知る という事の悲しみの向こうに待っている 安らぎという笑顔 もう一度 取り戻したいと 願わずとも訪れる笑顔 まったく 私の知らないところで 私の内の神様が そうしてくれたのだと 信じよう 今日あることが 奇跡だと それだけが それでいいのだと

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ふたつ反応します。  全体として 今回提示された理論ないし議論の抽象性は 誰にとってどのようにかかわっているのか これが分からないかたちになっていると考えます。  読む者の心に引っかからないように述べられている。のではないか。  鈍感ゆえかも知れませんが このように感じました。つまりなぜ こんなふうな調子になるのかが分からない。  ★ 意志という顔を剥ぎ取った者に 罪を負わせても 安らぎの曇りは増すばかり だと  ☆ 《罪を負わせる》のではなく その発想に沿って言うならば《罪のあることを指し示そうとしている》となります。  わたしの心つもりから言えば ふつうに自由に互いにおこなうところの《批判》をおこなっているのみである。というものです。

noname#189751
noname#189751
回答No.8

Bさん これって 人は たましいを失ったままで生きられるのか? という事を書き替えた質問なんでしょう 精神における 負への変貌、正への変貌 といった実態を明らかにしたい という事なんでしょう ネガティブとポジティブは どうして起きるのか どう推移してゆくのか・・ といった Bさんは ものの・・影 というものを 観たことがあります? ものの形と・・光と影と です 誰でも いろいろな影を見ているんだけど (心象を超えた) ものの形と影を 観たことがあります? もの という存在の顔  自分という存在を失った時に 観えてくる 外界の顔みたいなもの その影を すこしづつ 追っていくと(すこしづつ しか 追えない ) その影の先に 何があるのかが分かる 精神は死んでいるのに 直観だけは働いている・・という 意志と感性がバラバラになったまま 外界を受け入れるという状態 その時に分かる 意志ぬきで 感性が捉えている世界が示される そして そこから抜け出そうとは思わない ものの・・影 は 何も命じないし 命じようともしない 意志は 感性の前に立ち尽くしているだけです 意志という顔が消滅していると 知ることもなくです 第二の死 なんでしょうね 意志という顔が 戻るかどうか・・ですが 私の場合は・・ 影の先に あるものを確かめてから戻った 影を見納めてから戻った なんでだかは・・分からない 感性が知る 一つの区切りのようなものが終わった気がした 感性が 意志の下に スーと入っていったような感じだったと思う 顔無しの世界 って (感覚と)直観だけで見る 化け物の世界 全部 化け物に見える いい 悪いじゃない また そこから抜け出すのに 自力だったかというと それも分からない ただ 気が付くと 周りに沢山の人がいて 話声が聞こえてきた 時間は分からない 正気に戻ったのは 声を掛けられて 言葉を返した時だった 自分を失っていた空白の時間は きっと 妖怪を見ていたんだと思う 全部 妖怪みたいな感じだった・・(ホントだ ) 慰安婦のことは 話したくない そっとしておいてあげるべきだと思う それだけだ 明後日 永田町の壁際で何か聞くかもしれない でも 話さないよ (永田町の)妖怪の仲間話は・・。

bragelonne
質問者

お礼

 なおビミョーですね。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 人は たましいを失ったままで生きられるのか?  ☆ こまかくリクツるとすれば     《ひとは たましいを失った状態になり    それを自覚していつつもなお     その状態をつづけて行けるか。    つづけて行けている人間は 果たして現実にいるか》  です。というのも  ★ 精神における 負への変貌、正への変貌 といった実態  ☆ というような言わば《中立》の立ち場からの人間分析では必ずしもないからです。  むしろ偏見とうたがいを思うにまかせて交えた立ち場からの問いです。  すなわち ここでの《死》は あくまでアヤマチを犯したことから来ています。おのが心に逆らったことの結果という意味です。  精神ないし心が アヤマチの結果として 負の状態に落ち入った状態――それを《死》と表現していますが――から正の状態へ立ち帰るということ。この意味での《正から負へ 負から正への変貌》というその繰り返し――巡礼の旅路――については おっしゃるとおりです。  しかも そこには この問いのコダワリとヘンケンによれば 《アヤマチ》という要因がからんでいます。きわめて――独り善がりになったとしてもの――主観的な意志のあり方つまり価値判断が入っています。これを抜きにしては 問う意味がないという恰好です。  もっともただちに弁明をも述べるとすれば そのアヤマチはやっぱり《主観》によるものであるのですから・つまり本人の価値判断に成るものであるのですから 決して一方的な思惟の片寄りは じつは ないはずです。本人の主観におけるアヤマチの自認と自覚の時点から 問いが始まるものなのですから 《誤解》の入る余地はありません。  つまり したがうならば  ★ 自分という存在を失った時に 観えてくる 外界の顔みたいなもの  ☆ この認識も 中立の視点からのものですね。  なぜなら もし《自分という存在を失った時に 観えてくる》ものは もしたとえ  ★ 外界の顔みたいなもの  ☆ であったとしても それはそこにあくまで《主観としての善悪なる判断》が入っているのでなければ この問いを問う意味がないということになります。《外界の顔みたいなもの》は アヤマチ→たましいの喪失→その回復・・・なる過程において良いか悪いかをさだめなくては 意味がなくなるといった問題なのだからです。  もし  ★ 顔無し・化け物・妖怪  ☆ というのならば それは《わるい つまりわが心への立ち帰りにとって良く無い》という見方をともなっているのですか?  いづれにしても・あるいは だとしても 問題は そのようなノッペラボウの化け物が そうでありつつ・またそのようにおのれが見にくいものとなっていると知りつつ なおそのままにとどまるのだと意志しているかどうか。そう意志しているのなら それは 第一の死が死ななくなった第二の死の状態にある。そのような理論は 果たして現実か? こういう問いです。  言いかえると これは 永遠の地獄のことです。このような―― 一般の人びとから見れば何ごとにつけても思われることに―― A 級戦犯なる《宇宙の身無し児》なる人間は 果たしてこの世にいるか? これが問いです。  かつてやり取りしたときのひとつの回答は たしかにたましいから見て孤児(みなしご)ではあるが それでもその人には配偶者や子どももいる つまり亡くなっているとしても親は必ずいる ことからして その《第二の死》に成り切ったということは言えないだろう。でした。    これをさらに問い求めてみたい。これが 質問のねらいです。      *  ひとは ものごころが着くまでには――そして着いても 中には能天気の状態でいつつ―― 親や周りの人びとに対して無条件に甘える状態にあります。  これは ぎゃくに言えば 環境への依存という甘えは むしろおのれみづからへの無条件なる依存であり自信であるかも分かりません。意識してはいないでしょうが これを《聖なる甘え》と言ってもそれほどおかしな見方ではないと思われます。  言いかえると 聖なる甘えの状態にあっては 環境との和合は言うにおよばず 世界に――感覚として・またたましいにおいて――つうじており 言わば時間も空間も その子どもとしての人間にとって 宇宙の果てまで限りなく伸びており明けられています。  ものごころが着きやがて人は わが心にさからってその意志決定をおこないその行為にもおよぶことがあります。ウソ・イツワリが起こり ゆえにそのあと我れに立ち帰り・・・という循環過程に入ります。  つまりは 初めの聖なる甘えにおける時空間の無限さというものが 寿命なら寿命という要因によって 意識において 限られて来る。つまり 《第一の死》の始まりです。  このとき――このような巡礼の旅路をたどるとき――人によっては 第一の死からわれに立ち帰るということを 意志によって意図として しない ということ。これはおそらく ときと場合によっては 現実に見られることでしょう。  問題は その天の邪鬼のような路線を どこまでも突き進むということ。これは あり得るでしょうか? が問いです。  あたまの天辺からつま先まで 全身全霊において おのが心にさからい尽くし切るという――第一の死 死 死・・・がつづくという――人間の意志行為 これは ありましょうか?         *  橋下氏の発言を受けて 元慰安婦の人が答えて言うには:  ▼ (強制連行「私が証拠」 元「慰安婦」金さん、橋下氏に反論) ~~~   http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-206776-storytopic-1.html  橋下氏の「(旧日本軍「従軍慰安婦」は)軍を維持し、規律を保つために当時は必要だった」という発言について   「本当に必要だと思うなら、自分の娘を送ることができるのか」  と強く反発した。  また、強制連行については   「血のにじむ経験をした私が(強制連行の事実を)証言している。   これ以上の証拠がどこにあるのか。私はここにいる」  と反論した。  一連の橋下氏の発言について   「必要とだけ言って歴史の真実を明らかにせず、   問題を解決しようとしないのは、人間のやることではない」  と批判した。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうです。  わたしの思うには これは 被害者でありつつすでに加害者の側に立ち場を替えて成り切り 人間の聖なる甘えを捨て去り その意味でわが人間としての心にさからうアヤマチを繰り返す第二の死の状態に見えるという問題です。人間と歴史とを見ようとしていない。人間の状態ではなくなりつつあると感じられることです。    ★ 永田町の妖怪  ☆ とは 永田町と言うからには 政治家のことか。  

noname#189751
noname#189751
回答No.7

先生 もう 分かんないよ・・ お手上げだ 死が死なない っていう 言い方 やめようよ まわりくどい でないと 生きて 生きない・・ っていう言葉も使いたくなる 死んで 死なない 生きて 生きない ない ない ない ん~ ・ ・ ・ 顔が 顔無し 化粧が 台無し シワが 32本 と それぐらい いくら引っ張っても 伸びないという 弾力性 いつかはおとずれる 鏡は見ないほうがいいんだって あんた誰? って聞かれるから 何を ブツブツと と 先生に叱られそうだ 先生の血圧が下がるように サービスしよう 顔無し・・の 告白みたいなやつを 古い 告白で・・ 顔が無くなった当時は 柳の下で 小声で 顔をください・・と言っていた けど 誰も 知らんふりだ 毎日 悲しくて 下を向いていた そんな ある日 通りがかった 女の子が これ・・ といって 小さな お面をだしてくれた えっ これ・・ いいの うん あげる ありがとう・・ かわいい 小さな お面を 顔につけてみた でも いくら つけても 合わない 隠れない はは・・ ダメだ お~い これな~ ・ ・ といって 見上げると 女の子が 遠い橋の上に立っている 女の子が 何か言った 「お兄ちゃ~ん !」 もう一度 小さな声で言った 「お兄ちゃん・ ・ ・」 柳の枝が 風に揺れて 音を立てた 二三度 音がすると 女の子の姿は 見えなくなった お兄ちゃん・ ・  聞いたことのある言葉 遠い 遠い 昔 聞いた言葉だった 小さいお面を 見てみると にっこり笑った おかめ のお面 そっか・・ 夜店で 買ってやったな このお面 これがいいって いって 喜んでいたっけ あいつ お兄ちゃん ありがとう と いいながら・・ つけていた 見えないよ・・ って いって ズボンにつかまっていた 手で 顔をさわると 濡れていた お面じゃない顔が 涙で 濡れていた 気がついたら いつのまにか 目も 鼻も 口もある顔になっていた ありがとう お兄ちゃんの ・ ・顔に戻してくれて ・ ・ ・ ・ ・ にっこり笑った おかめ のお面は 見ていると 手の上から す-と 消えていった 顔無しの  お兄ちゃんには かわいい妹がいた 妹がくれたのは 素顔 という お面だった

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 生きて 生きない・・ っていう言葉も使いたくなる  ☆ そうですよ。そのまま 通用するのだという見方です。第二の死は。  顔があっても 生きないから顔がない。という理屈です。  われに還った。第一の死が死んだ。のお話。  だから それまでは 第一の死が死ななかった。  ただし ほんとうに死ななくなったかはまだ分からなかった。  第一の死による顔無しがそのままつづくと 果たしてもその第一の死がそのまま固定して 第二の死へと質的変化を遂げて行くといったことは あり得るか?  まったく無いと言い切れるかと言えば 言い切れない。  だとすれば 第二の死は あるか?  これも あるとは言い切りがたい。言い切りたくない。言い切れないはずではないか。・・・  妹との関係性および交通。これですくわれた。  では 果たして――唐突に突飛なことを言いますが―― 元慰安婦は 第一の死がいまだに いやされることなく 死のままで ありつづけているのだろうか?

noname#189751
noname#189751
回答No.6

第一の死 と  第二の死 と 第三の死も あるの? もしかしたら 第四の死も・・ (勝手な拡大解釈を・・ ) 第一の生 と  第二の生 と・・と 限りなく 限り ない 遠く また 遠く さらに・・  また 遠い いやはや・・ 困った 困る よね 自分は何回も死んでいるらしい きっと たぶん そうなんだろうけど 顔は まだあるみたいだ ある  といえば ある顔 なんだけど・・ だいぶ シワがふえた そろそろ 誰かに くれてもいいんじゃないかと思ってる (ほしがる人はいないかもしれないが・・ ) まあ  結局 たましい が死んだまま生きている という 非常事態は 困った ということらしい でも 思うんだよね 勝手に 人のことを死んでいる だなんて けしからん! って 大いに けしからん! 自分だけが生きていて みんな死んでいる っていうのは やっぱり けしからん! 妖怪のいい草 だ・・ やめよう・・ これ以上 言うと お互いに 血管がきれる 残りすくない血液が出てしまう そうなる前に  やめるように 努力しよう できるだけ あしたは 晴れるかな・・

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 自分だけが生きていて みんな死んでいる  ☆ なんでこういう帰結が出て来ますか?  第一の死を規定し そのつてで 第二の死がひょっとしてあるかも知れない。  と言われている。これについて おおいにご自身の見解をしめして欲しい。つまりたぶんこの問い求めは 多くの人の見方が聞ければ聞けるほど この第二の死についての分析やあるいはイメージやが 捉えやすくなるのではないか。という理解と予測のもとに問うている。  そこからどうして上のような帰結が出て来ますか?  そもそも第二の死は ほんとうにあるのか? というところから問うています。  このように  ★ 自分だけが生きていて みんな死んでいる  ☆ というのであれば すでに第二の死は 現実にあると答えを出したことになる。まづはそれをどのように考えて出したのか? これが聞きたい。これを説明して欲しい。    そういう趣旨で問うているのに どうして《自分だけが生きている》と質問者が思っていることになるのか?  ご回答をありがとうございました。

noname#189751
noname#189751
回答No.5

あ~ あ ・ ・ ・ 死が死なない っていうのは 死んだっきり ということでしょう もう その先を難しく展開する必要はない気がするんですがね・・ 実は 妖怪っていうことには 含みがあります それは Bさんが気付かなければ それまでです 私も あまり難しくしたくない 実存的妖怪の世界のことです 誰も言わなくなった世界を取り上げても仕方がないと思っている また 今回の質問の主旨から外れていってしまうと思っている 私にも答えの出せる世界でもないし・・ 参考までに一言・・ 四生のうちの化生 霊については多くを論じても、誰も化生については言わない、言えない 四生どうしの関わり合いについても・・ (たぶんこの事で私が提供できるのはマンガぐらいのものですよ) (面白いかもしれませんがやめた方がいい・・と思ってる) (馬鹿馬鹿しいと思われるのがオチでしょうから ね・・) もう寝ます おやすみ・・。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 死んだっきり ということでしょう  ☆ 死んだということは 人間にはなれない状態が固まった〔人間として生まれた来た者〕ということです。  そして人間として生まれて来た者であるかぎりは その《人間になれなかった》ことを悔いつづけているとなります。  あとは 妖怪を定義してくれないと分からない段階に入りました。  幽霊の出来損ない・なりそこないの幽霊とわたしは定義しました。  幽霊とは この世に未練を残して死んでしまった(つまり 第一の死が死なずに おとづれた)者のことで これが 遺された者のほうに現われることです。  成りそこないの幽霊を つまりその人の存在や人格の全体としては捉えられずに何だか部分的に現われたと思われるような幽霊 これを見たという感覚を持ったとき それは妖怪と言うと。  幽霊はつまりその本人は 《世界との和解 自分自身との和解》は成っているので 未練をのこすきっかけになったような特定の人物とも和解しているとまづは思われます。  しかもこの和解をいやだという。和解したくない。といった心を残している。  妖怪となると そこらへんの心のことが きわめてあいまいなままである。  たましいが死んだまま なお生きている《第二の死》なる状態は けっきょく《ほかの人びとといっさいまじわりを持たない》という意味になります。ひょっとすると 自分自身ともまじわらないかも分かりません。  世の中にことばが飛び交っている。この言葉のお遊戯には参加している。仕事もしている。外見は ふつうに社会生活をいとなんでいる。といったようなイメージをえがきます。

noname#189751
noname#189751
回答No.4

Bさん・・ まだ妖怪に なりたてだから 慣れてないみたいだけど 人間の顔をしていても 妖怪か どうか がすぐ分かる 結構いるよ・・ 数日後には 永田町の妖怪に会うことに なっているんだが これが つまらない 妖怪劇場会館 というところに沢山いる まあ たまには 妖怪の親分クラスの話を聞くのも悪くはないんだが いつも 決して本音を言わないんで 面白くない かなり 厚くて重い仮面をつけている・・ 道路は警備だらけ という聖域の中 ここにいる妖怪に自由はない まあ そんなところが好きな連中ばかりなんだろう・・ 日本に必要な妖怪が ここにはいる 必要でないやつもいるには いるが・・ いつも最後には 妖怪パーティー というのがあって まずい飯がたくさん出る 割合面白いのは  壁際の方から聞こえてくる ブツブツ声だ 妖怪語まるだしで 唾を飛ばしながらしゃべっている連中の話 知らんぷりをしながら近ずいて聞いていると 面白い いつも思うんだが 下町の賑やかさとは違う 隙あらば 人の顔をペロリと舐めようとするような いたずらな妖怪はいない 言葉の魔術を知りつくしたような妖怪ばかりだ だから つまらん・・ TVで見るだけでいい でも 行かなきゃならない 死が死なない という時間を ここで過ごす妖怪のために 一杯の乾杯を上げるために 行かなきゃならない 歴代の妖怪の親分の写真 を見て思うのは みんな 耐えたんだろうな・・ といった感じだ 死が死なない という辛さに耐えて 全力で生きた肖像画のように見える そんなふうにも見える・・。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  死が死なない という辛さに耐えて 全力で生きた肖像画のように見える  そんなふうにも見える・・。  ~~~~~~  ☆ 《第二の死》をあまく見ている。のではないか。  もしありうると見立てたのなら それは すでに人間性の崩壊を意味します。それがそうかんたんにあちこちにいられたのでは たまったものではありません。  人間の出来そこないですよ 《第二の死》状態というのは。  話し合いが出来ない。こういう特徴を持っています。  たましいが死んでいる。からだ〔とそれに伴う心〕はまだ生きている。  こういう状態の存在です。  妖怪は関係ないと思います。

noname#189751
noname#189751
回答No.3

Bさん・・ 妖怪って 顔無し だよね 顔があったら 妖怪じゃない 顔を見せないのが妖怪・・ だよね 妖怪の顔を見ちゃ いけないよ 大きな舌で・・  ペロリとなめられちゃう そうすると なんだな 自分まで 妖怪になっちゃうんだ 死が死なない っていう言い方 妖怪みたいだ 死んだっきり っていう妖怪の言葉(つぶやき)だ おめでとう どこで妖怪になったんだろう ちょっと 責任を感じてしまう・・ あ あ Bさん・・ そこから先に 行っちゃいけないよ 人間に戻れなくなっちゃう 時々 人間に戻れたほうが幸せだ 人間という仮面をつけたほうが楽しい・・なんて そんな 本当の顔無しの妖怪になっちゃったら おしまいだ まだ 涼しい話は早いから よそうか でも あんがい 面白いよ 妖怪どうしの話 って きっと えっ しゃら く さ い !! てか だろうな・・・ (おれも妖怪だから そう思ってたんだけど・・ )

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 妖怪って 顔無し だよね  ☆ そうかなぁ。  ってよく知らないけれど ここで扱う人間の状態をたとえるなら たぶん ゾンビーかな。  ゾンビー。  すなわち 生きているけれど 死んでいる。  死んでいながら 生きている。    たましいは 完全にお陀仏の状態にある者です。    幽霊は――それが妖怪なのか 妖怪とどう違うのか よく知らないけれど 幽霊は―― 死んでからもまだ未練を残していて 生きたいというその思いや意志が 遺された者たちの前に現われる。    第一の死が――われに還って――死んだにもかかわらず 死んで欲しくない。のかも知れない。  幽霊は おのがアヤマチに気づき すでにそのアヤマチとしての死は死んだ。にもかかわらず そのアヤマチのまま生きていたい。何故なら誰か相手との関係で 言い残したこと・思い残したこと・相手にし残したことを持って 大いなる未練を残している。  アヤマチのまま 生きていたい。つまり アヤマチなる死のまま存続していたい。と言っている。  そう考えてくると 妖怪は どうかと言えば 妖怪は 幽霊の出来損ないとでも言えばいいのかもしれない。  あるいは 幽霊の全体としてはかたちを成しておらず その一部分を捉えて むしろあとに遺された人間が その《部分的な幽霊 もしくは 出来損ないの幽霊》を――その死んだひとをしのびつつ――想い描いた。それが 妖怪。

  • taoyuany
  • ベストアンサー率74% (629/844)
回答No.1

「人にはニ度死が訪れると言います。 一度はこうした別れ、そして二度目は誰も氏を思い出さなくなった時訪れると言います。 」 三谷幸喜(伊藤氏葬式時の発言) 一般的に第二の死と呼ばれるのは「忘れられる事」ではないでしょうか? 例えば我々はアリストテレスを知っていますが、彼の初恋の人の名を知りません。 アリストテレスであっても自分自身を忘却という第二の死から救うことはできても、他人を第二の死から救うことはできませんでした。 「我思う、ゆえに我あり」とすれば我が死んだとき我をまだ想ってくれる人が居れば まだ我は存在するのではないでしょうか そして、我を想ってくれる人が居なくなる時に我は無くなるのではないかと思います。 参考になれば幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 やさしい考えなのですね。  たおゆあにさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  中身に反対するものではありませんが おっしゃるようなやさしさにもとづく思想は どうもわたしは 苦手です。  どう扱って どうお応えすればよいかがわかりません。  いろんな角度からの見解をのぞむと言っておきながら 何を言うかとなりますが そうですね。  まづは どうしてもと強いてお応えしてみるならば:    ひとりの人が袖擦り合うも他生の縁という思いで その人をもし忘れずにおぼえていたとしたら それは 誰れに対しても・つまりは誰にとっても いつまでも人びとから忘れ去られていないということを意味しませんか?  ひとつの事例があれば それがすべてだ。といった安易な見方ではダメですか。  ふうーう。  ということで 質問者としましては――申し訳ないことになるかも知れませんが―― やはりあくまで生きているときに この《第二の死》が起きるのかどうか? これが知りたいところです。  そもそも――いちおう定義のごとき説明をしてみましたが――この第二の死などということがあるのかどうか。これすら はっきりしません。  たぶん第一の死にかんしては 《アヤマチ―→直す―→また ついアヤマツ・・・》といった繰り返しとしては だいたい受け留めてもらえることではないかと思っていますが では果たして第二の死については どうか。どうなのか。これが知りたいところです。    ★ アリストテレスであっても自分自身を忘却という第二の死から救うことはできても、他人を第二の死から救うことはできませんでした。  ☆ これは あくまで死後のことについてのお話ですよね? 間違っていたらいけないので あらためて確認します。  そして第二の死があるとすれば それは第一の死と同じように やっぱり《アヤマチ》の問題だと思っています。《自分の心にさからってマチガイを侵す》場合です。  要するに どこまでもいわゆる悪人であって 反省することなどはいっさい無しといった状態にある人はいますか? という問い求めです。  初恋の相手をどこまでもいつまでも こちらが おぼえているなら こちらも相手も 死をむかえることはありませんね。  ありがとうございました。

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