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ひとは やわらぎを得ることができるか

 (あ) あやまちを犯したひとを 存在としてとうとび あやまちについて 赦すことも赦さないこともしないし 出来ないし してはならないという境地になるとき ひとは やわらがしめられる。か。  (い) 赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。 (犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。    (う) 社会との――世間との・そしておのれみづからとの――根本的な和解が成るか? ということ。  この不案内のまま 問います。自由なご見解をお寄せください。

みんなの回答

回答No.4

>自己経営が 愛というものではないでしょうか。 また一人ぼっちの結論www  で それが愛www ちがうだろおおwww こんな簡単なことも理解できない人が、 自分が知らないことを 何か説明しようとしてるwww 彼女いない歴=人生 のひとに愛を語る資格はないんじゃないの? なんとかしようとしてるのはわかるんだけど・・・ 婚活すれば? www

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  よけいなお世話。  自己経営が 愛である。だよ。  自治。自治どうしの地道な関係とまじはり。が愛。  自分の理論はないのかよ。  

回答No.3

#2の者です。 先の書き込みの最初の行の「報復のための受刑」は、 「更生のための受刑」の間違いです。 申し訳ありません。

bragelonne
質問者

お礼

 うけたまわりました。

回答No.2

日本の法が、報復のための受刑であって、報復のための 罰ではないように、過去のために罰するのではなく、 未来に悪影響があるから矯正するのである。 過去の悪行を許されるには、将来にわたって繰り返さない 事を証明する、明確な自己批判(過去の分析を伴う)と これからの改善を表明し、確約する必要がある。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 日本の法が、更生のための受刑であって、報復のための罰ではないように、  ☆ そうなんですが――そして のっけからご回答への物言いになりますが―― 質問の趣旨は その発想の問題としては 少し見方が違っています。:  ☆☆ (趣旨説明欄) (い) 赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。 (犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。  ☆ が その問題です。  すなわち それが 文字通り仕返しとしてにしろあるいは過去の振る舞いから自由になるためににしろ《むくいをあたえる》ことは しないということ。その思いや発想から自由になるということ。  社会は法治国家の仕組みとなっているのですが 言わばその現状をも超えて 《さばく(捌く・裁く)》ということを一切しないという基礎を敷くということ。  これを問うています。  言いかえると 法律制度はあってよいのであり その意味というのは まづかんたんな事例としては 原状復帰の原則です。盗んだものを返す。そのつぐなひをする。  あるいは あやまちを犯した者が自主(自首?)的に つぐなひの期間を広く公共奉仕に充てたいと思います そのように過ごさせてくださいと言って申し出る。  こういった情況を想定します。  まぁ いま言っていることは ただちに実現すると思ってでないことは あたりまえであって現状としては:  ★ 過去のために罰するのではなく、未来に悪影響があるから矯正するのである。  ☆ といった考え方がされているのでしょう。  もっとも それでもただちに言えることは――言いたいことは―― やはり《ひとが人を矯正する》という考え方は 人間の自然本性になじまない。のではないでしょうか。やむを得ず必要であるという言い分は もっともだとも思いますが。(特にそれは 子どものときにだと考えます)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  過去の悪行を許されるには、将来にわたって繰り返さない  事を証明する、明確な自己批判(過去の分析を伴う)と  これからの改善を表明し、確約する必要がある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ やはり考え方の上で 物言いがあります。  (え) 《悪行をゆるされる》ということ・つまりは《ひとが人の行為をゆるす・ゆるさない》ということ これは いまいちどしっかりと哲学はその人間論の主要なテーマとして考えて行かなければならないことなのではないか?  (お) それというのも 《ゆるさない》と叫んでいる人間は 自分のあやまちについては――なるほど些細なことであったのかも分かりませんが それでも おのれがあやまちを犯したとみとめたことについて――いとも簡単にゆるしている。自分は 無条件にゆるしている。のではないだろうか。  (か) ひとはおのれがかわいい。普遍現実である。ならば ここを出発点にしたほうがよいのではないか?  (き) ひとは自分をゆるした範囲では 他人のあやまちについても ゆるすという心の状態に成れる。だから ゆるす・ゆるさないの問題から自由にも成れる。のではないだろうか。  (く) 生まれてこのかた あやまちというあやまちはおかしたことがない――という人は むしろ容易に 他人のあやまちについて ゆるすという感覚になるまでもなくすでに初めに あわれみをおぼえていて 何とかそのひとが自然本性としてのわれに還って欲しいという気持ちと考えでいっぱいである。のではないか?  (け) あやまちを:  ★ 将来にわたって繰り返さない事を証明する、  ☆ なんてことは 人間 どだい 無理でしょう。  (こ) ★ 明確な自己批判(過去の分析を伴う)  ☆ と言いますが あいまいな自己批判とそのあやまちをおかしたことへの悔しさとだけであっても その後の人生をあかるくしっかりと生きる場合もあるのではないでしょうか。  (さ) ★ これからの改善を表明し、確約する必要がある。  ☆ 約束しても 相手が・むしろ相手のほうが 気が狂ったようにやぶる場合もあるようですし。つまり 約束する人間を信用しないし それまでと同じように 《いや ゆるさん ゆるせん。ゆるすもんか。千年あやまれ》という場合もあるようです。  (し) ですから 哲学としては 視点をあるいは力点を別のところに置く。《われのわれとしての自治 あるいは あやまちを犯したことをわが身に引き受けて大きくわが自然本性に立って人格を深めて行くように 人びとと共同自治する》といった自己経営なること一点に 重心をうつすということ。  どうでしょう。自己経営が 愛というものではないでしょうか。