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天王山はいつから呼ばれた?
「天王山」とは、勝敗の分目という意味合いでよく使われますが、「天王山」は、秀吉軍と光秀軍が戦う以前から「天王山」と呼ばれていた山でしょうか。それとも以前は別の山名であったものが、山崎の戦いによって、以後この名に変更したのでしょうか。 Wikipediaには「天王山は元は山崎山と呼んでいたが、当社にちなんで天王山と呼ばれるようになった」とあり、天王山の頂上近くに中世ごろよりあった天神八王子神(牛頭天王)を祀る「山崎天王社」が由来とあります。 知りたいのは、「山崎の戦」のときには、すでに「天王山」と呼ばれていたのかどうかという点と、それを確かめる文献、もしくは伝承です。 教えて下さい。
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>山崎の戦いによって、以後この名に変更したのでしょうか。 享保二十一<1736>年ころ成立の地誌でも、 下記のとおり「山崎山…俗呼(=)天王山(-)…」と記述されている様子から、 「天王山」呼称の普及度までは定かではありませんが、 当時でも俗称扱いの様子も伺えます。 ・『五畿内志.上巻/並河永著/日本古典全集刊行会/昭和4-5』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179429/62 「日本輿地通誌 畿内部山城國 享保丙辰(※二十一<1736>年)夏新鐫」 五畿内志 上卷 <62/117>(106頁)[日本輿地通誌 卷第三 山城國之三 乙訓郡] 【山川】山崎山 山崎村上方山頂有(=) 神社(-)俗呼(=)天王山(-)… >「山崎の戦」のときには、すでに「天王山」と呼ばれていたのかどうか >という点と、それを確かめる文献、 いつ頃からかまでも定かではありませんが、 遅くとも「文明四<1472>年八月」頃には、 既に「天王山」の表記が登場していた可能性があるように思います。 確かに、「應仁記」「應仁別記」等の成立年、作者ともに不詳であるため、 No.2の tanuki4u 様の御回答でも躊躇いがちに述べられていますように、 軍記物語ゆえに繰り返し書写された結果、「應仁記」「應仁別記」などに 書写年以上の根拠を求めるのは無理があるのかもしれません。 (『應仁記』『應仁別記』などの山名記述も成立当初のままのように思いますが、 成立年が?なのが残念です) 〇『群書類従. 第拾參輯/塙保己一編/経済雑誌社/1893-1894』 ・「應仁記」(407・408頁)<208・209/381> http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879780/208 ・「應仁別記」(501・502頁)<255・256/381> http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879780/255 そこで、たとえば、 東京大学史料編纂所> http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html >データベース選択画面>できごとを主題に> 大日本史料総合データベース キーワード:「天王山」 対象:「綱文」「書名」「本文」「索引」[全選択]にて検索。 「綱文」の4件のうち 「No.1/文明4年8月2日/畠山義就の兵、山城天王山を襲ひて之を取る、 守将浦上則宗等、直に攻めて之を復す、/大 8 5 0 635」などが出ますので、 右端の[刊]をクリックして「大日本史料8編5冊635頁」を開きますと、 文明四年八月一日二日(635頁)には 〔宗賢卿記〕乙 八月大一日、八朔之儀公私停止、亂以後如此、 二日、丙寅、畠山義就ノ兵、山城天王山ヲ襲ヒテ之ヲ取ル、 守將浦上則宗等、直ニ攻メテ之ヲ復ス、 と文明四(1472)年八月時点で〔宗賢卿記〕では、 「山城天王山」の表記がなされていたようです。 続いて〔宗賢卿記〕とは何か?となりますが、下記によれば ・史料リスト・室町時代-記録- 日記、公記録、旅行記 http://www.nagai-bunko.com/shuushien/siryou/mur/kiroku/mur-kiroku.htm 『宗賢卿記』は「船橋宗賢」によって、「1450(宝徳2)~1479年(文明11)」 公武の儀式、諸書物の講義や書写、将軍の動向、応仁の乱などを記す。 刊行本は『歴代残闕日記』とあり、 また「船橋宗賢」は下記にて 公家類別譜~公家の歴史~ 半家(船橋) http://www.geocities.jp/okugesan_com/funabashi.htm 家譜・知譜拙記よれば[永享3(1431)年 ~ 文亀3(1503)年]の生没、 ただし国史大系公卿補任の校訂〔九条侯爵家所蔵本所収追記〕によると、 没年は永正10(1513)年だとか。 刊行本『歴代残闕日記』自体は、宇多天皇御記以下江戸末期に至る各種の日記 約340種を集大成したもので、須坂藩主堀直格の命により、 黒川春村が塙保己一の協力を得て1858(安政五)年に完成させたものですから、 後年の書写・刊行など『應仁記』『應仁別記』等と同様の問題は残ります。 ただし、都合の良い解釈とのお叱りを受けるかもしれませんが、 広く流布された様子の作者・成立年不詳の軍記物語よりは、 日記形式で作者の生没年も概ね明らかな『宗賢卿記』の山名記述を 後年の書写・刊行時に敢えて変更・改竄すべき合理的理由も見出せませんから、 『宗賢卿記』の「山城天王山」表記は当時のままのように考えられますが、 如何でしょうか? あと、再び大日本史料総合データベースに戻って、 「索引」の2件のうち、 「No.1/延徳二年十二月十二日/大乗院寺社雑事記/ 日ノ第一条ニ、義就ノ兵、山城天王ヲ襲ヒテ之ヲ取ルコト、同四年/ 大日本史料 8編40冊179頁」などが出ますので、 これを手懸かりにネット上にある『大乗院寺社雑事記』などを 鋭意(じゃなくて鈍意)検索中ではありますが、 なかなか「天王山」に辿り着けません(><)
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- dayone
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再々度、失礼致しますm(_”_)m 『大乗院寺社雑事記』の記述に関しまして、 大日本史料総合データベースの「索引」2件のうち、 「No.1/延徳二年十二月十二日/大乗院寺社雑事記/ 日ノ第一条ニ、義就ノ兵、山城天王ヲ襲ヒテ之ヲ取ルコト、同四年/ 大日本史料 8編40冊179頁」と出ますが、 「延徳二年十二月十二日」は8編40冊179頁~193頁と枚数が多く そのうち「187頁5・6行目」に下記の記述を見出しました。 …同(※文明三)年十二月二十日ノ第一條ニ、義就ノ兵、 山城天王山ヲ襲ヒテ之ヲ取ルコト、… 『大乗院寺社雑事記』は、興福寺の大乗院の門主尋尊(1430~1508)、 政覚(1453~94)、経尋(1498~1526)の三代にわたる公式の日記類約190冊。 宝徳二(1450)年~大永七(1727)年まであり、興福寺、春日社の諸行事、 大乗院領諸荘園のこと、大和の衆徒、民の動向や畿内の武士同士の衝突など、 記事が豊富なようです。 改めて「近代デジタルライブラリー」での検索も試みましたが、 何しろ素人ゆえ日付等の関係が?で四苦八苦状況です(><) 以上のとおり「天王山」呼称の普及度までは定かではありませんが、 当時大きな影響力をもっていた門主の自筆日記では「山城天王山」表記、 とすれば少なくとも当時(1400年代後期)の上位階層には 普及していたとも考えられます。 以上 疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
dayone様 改めて御礼申し上げます。 どうやら1400年代後期には〝天王山〟と、上層階級には認知されていたものとしてよさそうですね。 今回のご教示をもとに、面白い論考へと導きたくおもいます。 またの機会がございましたら、なにとぞ宜しくお願いします。敬具
- dayone
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再度、失礼致します。 入力ミス (誤) あと、再び大日本史料総合データベースに戻って、 「索引」の2件のうち、 (正) あと、再び大日本史料総合データベースに戻って、 「本文」の2件のうち、 以上、お騒がせしましたm(_”_)m
- oska
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>「天王山」とは、勝敗の分目という意味合いでよく使われますが その通りですね。 決戦時には「この戦いが、天王山だ!」と、今でも受験生や企業の営業が入札時に用いますね。 >「天王山」は、秀吉軍と光秀軍が戦う以前から「天王山」と呼ばれていた山でしょうか。 確実な回答は、歴史家・専門家でも分かりません。 ただ、山崎の戦い前から「天王山」だったと思いますね。 質問者さまも記述している通り、山頂には鎌倉時代から「天神八王子社(天王社)」が祀られています。 正式名は「山崎山」、通称として「天王山」という事でしよう。 京都・大阪・奈良地域では、正式名称よりも俗称・通称の方が通りやすい場合が多いです。 また、天王山は京都・山崎だけでなく神戸・岐阜など全国各地に存在しています。^^; 秀吉と光秀が神戸で決戦を行っていれば、「天王山が六甲山」になっていたかも? >それを確かめる文献、もしくは伝承です。 山の名前でなく、神社仏閣の存在から調べると多くの資料を見る事が出来ますよ。 詳細を書くと文字数が足らないので・・・。
お礼
有難うございました。
- tanuki4u
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http://lakuyukai.blog.fc2.com/blog-entry-234.html 応仁別記 http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/atomi-koku-5-2.pdf?file_id=19599 16世紀後半の成立 なので、16世紀後半には、天王山という表記は成立していたと思われる 応仁別記で出てくるというのは、 「畠山義就の兵、山城天王山を襲ひて之を取る、守将浦上則宗等、直に攻めて之を復す、」 文明4年の出来事 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2546243?tocOpened=1 [2] 25ページに 天王山とあるので、江戸時代初期には天王山と呼ばれていたらしい。 ※ 天王山が有名になったのは 日本外史からだと思われます
お礼
tanuki4u様 早々のご教示有難うございました。
- kyo-mogu
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天王山の麓におりますが、どうやらウィキの事のようです。京都新聞の洛西の大山崎地区限定のチラシではそのような事らしいと書かれていました。今分かっているのがウィキの内容程度かもしれません。 今度出来る阪急電車の新駅近くの看板の解説でもそうですね。 もしかして、歴史資料館にあるかな?阪急大山崎駅徒歩3分ぐらいの所にある。私は近くは通るけど。
補足
それはよいところにお住まいですね。 アリセプトが承認されて以来、近年は朗報が滞っておりますが、次世代の開発を錚々に希求する次第です。 周囲の交通状況に十全な注意をはらいながら徒路されるよう申し上げます。
お礼
No.4 dayone様 今回は詳細かつ丁寧なるご教示を賜り、真に有難うございます。 『宗賢卿記』に山名が書き記されていることから考えると、ほぼ確定できる気がします。 たしかに、形式と文面から勘案しても、ご指摘のとおり改竄すべき理由は考えにくいと思慮します。 それにしても些か悩ましい思いは払拭できませんが……。 訂正投稿含めて拝読いたしました。 大変助かりました。重ねて御礼申し上げます。