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事実と解釈

事実と解釈に対して、自分の中で一定の解が出たので質問させて頂きます。 事実があった時、人はそれを解釈します。 その解釈は事実とは無関係です。 人は自分が信じたいものを信じます。 例えば幽霊や霊魂の存在を信じている人と信じていない人がいた場合、 双方とも自分の「経験」や「知識」に基づいて意見を言います。 実際に幽霊や霊魂が存在するかしないかは関係ありません。 もう一つ例を出します。 AとBが食事をする約束をしました。 しかしBが急に風邪をひいて来れなくなりました。 この時AがBを疑います。本当に風邪をひいたのか、ひかなかったのか。 しかし事実はBは「食事に来れなくなった」という事のみです。 風邪をひいたか否かは関係ありません。もっと言えば理由さえあれば風邪でなくても良いはずです。 Bがなぜ来なかったかは、Aの解釈次第です。 AとBの関係や人格に様々な前提を持たせれば、更に事実は見えにくくなります。 以上2つの場合を考えた時、事実と解釈の関係が見えてきます。 事実は1か0か、ですがそこに意味を持たせるのは人間です。 事実は解釈から生まれますが、解釈は事実とは無関係です。しかし生まれた解釈から更に事実が生まれます。 この事実と解釈に対する自分の見解が完全とは思えませんが、現状幾ら考えてもこれを超える解が見つかりません。 自分は今新たな見地を見出したいと考えています。 漠然とした質問内容になってしまいましたが、どんな批判・意見・感想でも結構ですのでご教示頂ければ幸いです。

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.11

こんばんは。 >「事実は1か0か、ですがそこに意味を持たせるのは人間です。」 >「この時AがBを疑います。」 >「Bがなぜ来なかったかは、Aの解釈次第です。」

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12512)
回答No.10

「お礼コメント」をありがとうございました。 >私の質問内容を整理しつつ、新たなご提案をして頂きありがとうございます。 >実のところ私は自分の出した「解釈」がどの程度の確実さを持っているのか、という事を知りたかったのだと思います。 ⇒先哲の所論などを参照されながら、ご自分なりの見方を問われたわけですね。There is nothing new under the sun.(新約「伝道の書」)とも言いますが、諸説を消化した上で、自説を組み上げたところが立派だと思いました。これぞ、「間テキスト性」というにふさわしいことだと考えます。つまり、諸説の比較検討を通じて自前の論を展開するという「付加価値」が読み取れた、ということです。 ところで、(直接の回答でなくて恐縮ですが)この種の問題を考える際は、特に留意すべきことがあると思います。それは、議論ないし論拠の「レベルの違い」です。 例えば、(前便で私が準拠したような)一般生活経験論のレベルでは、「事実」か否かを、つまり、Bが「本当に風邪をひいて」来られなくなったのか、それともそれは単なる言い訳だったのか、その真偽のほどはほぼ明確に峻別できます。 しかし、例えば、観念論的認識論のレベルでは、すべては人間の「解釈」であって、そもそも「事実」などはないのだ、あるいは「解釈」こそがすべてだ、となるかも知れません。さらに、懐疑論者(skeptic)に言わせれば、「起こった(と思った)ことはすべて幻想である」とか、さらにそれを「言語(という当てにならない道具)で判断・解釈・伝達できると考えること自体がおこがましい」、というようなことになるかも知れません。 ここまでくるとさすがに極論ですが、申しあげたいことは、この「レベルや論点を混同したまま」考えると、せっかくの考察も単なる「水掛け論」のもとにしかなりません。人は多かれ少なかれ「自己中心的特殊規定」(egocentric particular) 的な面をもつものですが、己の論点のみに立って他を批判すれば、残念ながら多くの場合、「なってない」と映って、論難したくなる傾向があることも否めません。 そこで、大事なことは、いろいろな考え方・論点・判断基準があることを認識して、各種の陳述を、「それが採った考え方に即して」理解することでしょうね。そして、各陳述の内容から帰納法的に考え方を導き、己の知識に加えられそうなものがあれば、それはぜひ「いただきましょう」。さらに、それらを比較・分析・総合・止揚しつつ、判断基準や主義を吟味し、取捨選択し、望むなら「内なる自己」の構成要素の一部として取り込むことも、決して無駄にはならないと思います。 以上、「コメント」へのお礼(のつもりが、長の蛇足を)申しあげます。

回答No.9

 ★(No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ただやはり、事実と事実認識の間にはかなり開きがある様に感じます。  自分の感覚では下記の様なイメージですね。     主観に与える影響:事実<<<<<<<<<<事実認識≒解釈  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう見方にまつわる問題は ひとりだけの――つまりこの場合は A だけの――問題ではないということを示唆しています。  つまり それこそ A は B にしっかりと・きちんと ほんとうのところはどうなんですか? と尋ねてみる必要があります。また 尋ねてみれば 明らかになります。  つまりは ぶっちゃけた話としては それでもなお B が嘘をついているという場合があり得ます。あり得ますが その B の答えが出たなら A はその答えの内容を いちおう真として( B の真実だとして)受け取って対応して何の問題もないわけです。  そういう意味でも 解釈主観の前に 認識主観が来ます。どちらも主観であることに変わりはないとしてもです。

回答No.8

#5の者です。 >今回質問させて頂く切欠の一つとなったのが「二重スリット実験」でもあります 二重スリット実験は、結果から見ると(=事実は) 1個の電子は両方のスリットを通っているが、 観察すると1個=片方のスリットしか通らない、 という事です。 これは階層現象表面的(マクロ)な話だけでなく、 複数の素粒子の関わる相互作用において、複数の 反応経路がある時、当然、いずれか1つの経路しか とれないはずだが、実際その反応の起きる確率は、 複数の経路のそれぞれの起きる確率を全て足し合 わせた確率で起きる=全ての経路をたどるという 「経路積分」にも表れている。 「解釈は、現実(存在)を反映したものである」 とも言えるが、「不完全な理解(解釈)によって 有限な存在(現実)が生じている」とも言える。

daiamon3
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 基本的に抽象理解で済ませてしまうので、あまり付いて行けてなくて申し訳ございません。 >「解釈は、現実(存在)を反映したものである」 とも言えるが、「不完全な理解(解釈)によって 有限な存在(現実)が生じている」とも言える。 この部分はなんとなくわかりました。 逆に言うと「存在は本来無限であり、解釈することで有限になる」ということでよろしいでしょうか。

回答No.7

 No.4です。  《事実⇒認識⇒解釈》の流れを 事例に沿って考えてみます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  (あ) AとBが食事をする約束をしました。  (い) しかしBが急に風邪をひいて来れなくなりました。  (う) この時AがBを疑います。本当に風邪をひいたのか、ひかなかったのか。    (え) しかし事実はBは「食事に来れなくなった」という事のみです。  (お) 風邪をひいたか否かは関係ありません。もっと言えば理由さえあれば風邪でなくても良いはずです。  (か) Bがなぜ来なかったかは、Aの解釈次第です。  (き) AとBの関係や人格に様々な前提を持たせれば、更に事実は見えにくくなります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 1. (あ)の事実については 《互いに約束をした》という事実・つまりそのように認識する事実として はっきりしています。  2. それについて解釈はあるか? おそらく約束が破られたあとの段階で――つまり 事後的に――何か疑ったり考えたりするときには あり得ましょう。  3. (い)は どういう事実であるか? これだけでは 明らかではないですね。  ( a ) 《風邪を引いて 行けなくなったんだ》という知らせが 事前に・またはその約束の時間頃にあったのか?  ( b ) 知らせが何もなかったという場合 まさか A は何も連絡を取らなかったとは考えられないので 連絡を取ったそのとき  B はどんな状態であったのか?  4. ( a )や( b )にかかわる事実――認識すべき事実――を知れば 或る程度は ほんとうの事情が分かるはずです。  ( c ) 疑いなく B は 風邪を引いてしまっていたと分かる場合。つまりは そういう事実として A が認識し判断し〔解釈し〕た場合が あり得ます。  ( d ) そうではないとすると A は勘がはたらいて B は嘘をついていると受け取った場合が来ます。  ( e ) その嘘は たとえば A には分からないが それでも何か なるほどと納得のできる事情があって嘘をついたらしいと A は受け取る場合。つまり 疑いはかかるが それでも A は B を信頼している(し続ける)場合。  ( e-1 ) この場合には げんみつに言って《解釈》がおこなわれています。ただし同じくげんみつに言って その解釈は 事実認識の過程で やむなく推量をおこなって妥当だと判断したというような場合のものです。《認識》作業に属するものです。  ( f ) どうも風邪ではないようだ。ならなぜ嘘をついたのか? と A が疑いを持ち続ける場合。これは 単純に《行きたくなくなった》という事情から 果ては《 A とは付き合いをやめようと B が思った》という事態まで いろんな場合があり得ます。  5. いづれにしても A は もし疑いを持つならば B に尋ねればよいわけです。おかしなことがあれば 問い質せばよい。つまり 《解釈》以前の《事実認識》の問題としてです。  6. 尋ねたり ましてや問い質したりすることは憚られる仲であったなら しばらく様子を見ることになるでしょうね。同じような事態が重なったなら そのとき 仲について考え直すでしょうね。ここで 《解釈 ないし 自分の主観》が入ります。

daiamon3
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「認識」と「解釈」の違いについてよくわかりました。 ただ一つ気になるのは、 > 4. ( a )や( b )にかかわる事実――認識すべき事実――を知れば 或る程度は ほんとうの事情が分かるはずです。 上記の部分です。 この設定の背景は敢えて書きませんでした。 というのは背景を加えた場合、Aの目線でしか状況が見えなくなり、Aの主観に偏ったシチュエーションになってしまう危険があったからです。 本来の事実関係を考慮した場合、事実認識はかなり曖昧になるはずです。 そこでAがBに尋ねるなどの事実認識の一致を図れば、確かに一致はし易くなります。 ただやはり、事実と事実認識の間にはかなり開きがある様に感じます。 自分の感覚では下記の様なイメージですね。 主観に与える影響:事実<<<<<<<<<<事実認識≒解釈

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.6

私は前の回答で、あなたの挙げた「幽霊と霊魂」の問題は論じませんでした。 その理由は「幽霊と霊魂」は事実と解釈の問題ではなく、科学の問題だと考えたからです。 そして科学はそれが事実かどうかを科学的に検証して、事実でなければ、それを否定し、事実であれば、それを認めます。 だからあなたの言うように科学だったならば、それが存在する、存在しないの2つに一つ、です。 科学の問題には解釈なんて入りようがありません。 解釈というのは、人文科学の場合だけです。 人文科学の場合は、事実というのは、解釈次第です。 解釈=事実です。 逆にいうと事実というのは、解釈によります。 そして解釈はいろいろなんですから、事実もいろいろです。 ハイデガーは事実と解釈には「解釈論的循環がある」と言いました。 事実があるから解釈があるのか、解釈があるから事実があるのか、という。 私があなたへの回答で、「幽霊と霊魂」の問題を除外したのは、あなたが、科学と人文科学の問題を混同していると思ったからです。 科学には解釈の問題はないのだから・・・・・ 科学には事実か、事実ではないかの、二つに一つです。 「幽霊と霊魂」は、事実存在するか、事実存在しないかの二つの一つです。 あなたは「実際に幽霊や霊魂が存在するか、存在しないかは関係ありません」と言いますが、大いに関係あります。 なぜならば、すでに申し上げたように「幽霊と霊魂」は科学の問題であり、解釈の問題ではないからであり、そして科学だったら、事実か事実でないかの二つに一つであり、幽霊や霊魂が存在するか、存在しないかの二つに一つであり、関係ないとは言えないからです。 あるいは解釈次第とは言えないからです。

daiamon3
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人文科学がどうとかいうのは学がないので良くわかりません。 また混同していると言えば、そうだと思います。 しかし、科学に解釈がないとは言い切れないというのが私の考えです。 回答者様の仰る様に科学は検証し、証明します。 事実が1か0か、を繰り返し1に限りなく近い1を探します。 しかしそこまで仰られるなら、その科学の不完全さにも気付いていると思います。 科学は1を証明する事は出来ますが、「0が本当に0なのか」これについては証明することが出来ません。 具体的な例で言えば宇宙人は「存在する」という証明は出来ても、宇宙人は「存在しない」という証明は少なくとも現代の科学では出来ません。 よって、魂や霊魂にも同じことが言えます。 我々の事実認識の外にそれら「事実」があると仮定すれば、1か0かを検証する事ができません。 またこの他に1が本当に1であるのか、という検証の余地も存在します。 詰まる所1(科学)はあくまで「現状」から解り得る「確からしい事実」です。 少なくとも現状では科学は幽霊や霊魂を証明する事も出来ませんし、否定する事も出来ません。 その上で幽霊や霊魂の存在に「事実(科学)は少なくとも現在は無関係である」と言えると思います。 長くなりましたが、事実=科学とするなら以上が私の見解です。

回答No.5

「解釈」を「事実」に近づけるために、実験と観測、 分析をします。 その結果、存在の階層現象性(認識(脳)>細胞>分子 >原子>素粒子>クォーク>超弦(量子定常波))に おける、量子=仮想的時空への無の射影として、 存在とは無への還元=「存在とは(不完全な)解釈」 となります。

daiamon3
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 見識が浅くて恐縮ですが、「二重スリット実験」のことを仰っているんでしょうか? であれば今回質問させて頂く切欠の一つとなったのが「二重スリット実験」でもあります。

回答No.4

 ★ 事実と解釈  ☆ とのあいだには ふつう 認識が来ます。  言いかえると 主観が どこまで控えられているかで三つの区別が出来ます。:   事実:主観ゼロ(いわゆる客観。つまり 実際には人間に分かりがたい)    認識:主観をなるたけ控える   解釈:主観を推し出すことを基本とする  事実認識と解釈とを分けるのは たとえば 認識の段階で 事実誤認ということがあり得るからです。  解釈については 主観の内容に違いがあれば それは誤認の問題ではなくなり 見解の相違となります。

daiamon3
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「認識」ですか、確かに見落としていました。 事実を認識し、解釈するという流れですね。 事実認識の段階で他者と一致すれば、解釈に相違があっても受け入れ易そうですね。 逆に事実認識の段階で相違が生じれば解釈に相違があった場合、前提とするものが違ってくるので受け入れることが難しくなりそうです。 その点を踏まえると確かに「事実」「解釈」だけでなく「認識」の段階も含めることで、意見や見解などをより整理し、相互理解のハードルを下げることが出来そうです。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.3

事実とは解釈で、両者は分けられないと思います。 言い換えると、事実というのは解釈によって成り立っている、あるいは解釈によって解釈したものが事実というものだと思います。 だから、解釈次第で、事実もいろいろということになります。 一つの事実があって、解釈がいろいろあるのではなく、(たぶん、あなたはそう考えているのかもしれませんが)、その逆で、一つの解釈に応じて事実もいろいろというべきです。 あなたは「事実があった時、人はそれを解釈します」と言っていますが、「その解釈は事実とは無関係です」というのは、解釈はいろいろで、事実は一つだから、「無関係」と言っているのかもしれませんが、大いに関係あります! なぜって解釈されたものが事実だからです。 解釈=事実。 「人は信じたいものを信じます」というのも、同じですネ? 一つの解釈が事実と一致する、という場合、あなたの考えだと、その一つの解釈は信じるしかない、ということになります。 でも、解釈が事実とすれば、信じる必要はありません。 解釈=事実なんですから・・・・・ AとBが食事をする約束をして、そしてBが来ませんでした。 その解釈はいろいろありますが、風邪を引いたと解釈すれば、Bが来なかったという事実と一致します。 あなたは「風邪を引いたか否かは関係ありません」と言いますが、関係あります。 なぜって、あなたがそのように解釈したからです。 解釈したのに、「風邪を引いたか否かは関係ありません」とは言えません。 確かに「Bがなぜ来なかったか」という事実は「Aの解釈次第で」それに一致するからです。 なぜって事実は一つでなく、いろいろだからです。 あなたは「事実は1か0かですが」と言っていますが、事実はいろいろです。 解釈次第では、事実はいっぱいあります、1つか0かという訳ではありません。 あなたと私の見解の相違は、あなたは事実は一つという偏見があり、それはたぶん、プラトンの真実はただ一つという考えがあるからで、それに対して私の見解は解釈次第で、事実にもいろいろある、事実はいっぱいある、というものだと思います。

daiamon3
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど! 解釈=事実ですか。 事実は1か0というのもひとつの解釈であり、更にその解釈は事実でもある、と言ったところでしょうか。 そうなってくると最早事実は存在しない様な気さえしてきます。 私たちが「事実」を「解釈」する限り、解釈=事実であるなら、私は事実がなくても成立する気がします。 しかし解釈は事実に基づく以上無関係とは言えません。 そこまで考えると抽象的かつ独自の言い方になってしまいますが、「事実と解釈は限りなく遠く、限りなく近い」という表現がより正確に感じられます。 上記を踏まえた上で、私事になりますが敢えて「事実と解釈は殆ど無関係」と言いたいです。 というのはあまりにも自分も含めて多くの人や物事が「解釈」に翻弄されてしまうことが多いからです。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12512)
回答No.2

面白いご質問ですね。私なりに考えたことを、以下のとおり、行間書き込み形式で⇒のあとにお答えします。 >事実があった時、人はそれを解釈します。その解釈は事実とは無関係です。人は自分が信じたいものを信じます。 ⇒そうですね。福澤諭吉も言ってます。「人は私の著書を読んで欲しいようには読まない。自分が読みたいように読む」と。 ただ、「解釈は事実とは無関係」というより、「解釈は、事実と何らかの関連を有するが、事実そのものではない」と言う方がより正確だと思います。私はこの後者、すなわち、「事実に基づいて解釈された事柄」を、ここではカッコ付きで「真理」と呼ぶことにします。 >例えば幽霊や霊魂の存在を信じている人と信じていない人がいた場合、双方とも自分の「経験」や「知識」に基づいて意見を言います。実際に幽霊や霊魂が存在するかしないかは関係ありません。 ⇒この場合、「その人にはそう見えた」というのが「真理」なわけですね。ですから、こういう場面でよくある「水掛け論」を避けるべく、むやみに反論せずに、まずは「なるほど、あなたにはそう見えたんですね」という意味を込めて、一旦相手を受け入れる対応が望まれますね。 >AとBが食事をする約束をしました。しかしBが急に風邪をひいて来れなくなりました。この時AがBを疑います。本当に風邪をひいたのか、ひかなかったのか。しかし事実はBは「食事に来れなくなった」という事のみです。風邪をひいたか否かは関係ありません。もっと言えば理由さえあれば風邪でなくても良いはずです。Bがなぜ来なかったかは、Aの解釈次第です。AとBの関係や人格に様々な前提を持たせれば、更に事実は見えにくくなります。 ⇒確かに、おっしゃるとおりですね。この場合も、特にAの立場としては、Bの言うことを「真理」と受け止めて了解し、「本当はどうだったんだ」などと、「事実」を詮索しないことです。通常は、それを詮索すると気まずいことになるのが普通ですから。 >以上2つの場合を考えた時、事実と解釈の関係が見えてきます。事実は1か0か、ですがそこに意味を持たせるのは人間です。事実は解釈から生まれますが、解釈は事実とは無関係です。しかし生まれた解釈から更に事実が生まれます。 ⇒後半の「事実は解釈から~事実が生まれます」のくだりは、「事実に基づいた解釈から『真理』が生まれますが、それは事実を語るとは限りません。しかし生まれた解釈から更に事実が生まれます」とする方がより正確だと思います。まさに、「嘘も方便」というのがあって、現実は、事実でなく(時に嘘を含む)「真理」の連鎖に沿って進むわけですね。 >この事実と解釈に対する自分の見解が完全とは思えませんが、現状幾ら考えてもこれを超える解が見つかりません。自分は今新たな見地を見出したいと考えています。 ⇒「新たな見地」と言えるかどうかわかりませんが、以下のような「提案」をさせていただきます。 (1)事実と「真理」とは異なる、という実情をよく認識し、必要がない場合むやみに事実を詮索しない、という心的態度を持ちましょう。(2)ただし、自分の行動原理としては、可能な限り、事実と「真理」の一致を志向しましょう。(3)この種の「哲学的探求」は、「ここまで行けば万全」などという正解、ないしゴールはないものと考え、今後も日常的に探求しましょう。「哲学する」というプロセスそのものが大事、と考えます。 この意味で、daiamon3様のこのご質問は素晴らしいと思いました。遅まきながらお祝い申しあげます。 以上、世俗的な「社交上の道徳論」のようになってしまいましたが、ご回答まで。

daiamon3
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私の質問内容を整理しつつ、新たなご提案をして頂きありがとうございます。 まず自分は「事実と解釈は全くの無関係」と捉えていましたが、そうとも言い切れないという事が分かりました。 実のところ私は自分の出した「解釈」がどの程度の確実さを持っているのか、という事を知りたかったのだと思います。