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とある歴史上の人物の逸話について教えて下さい
その人物には、こういう逸話があったそうです。 彼の親戚筋に、とある少女?がいるそうなのですが、 彼女は、空から雪が降ったりすると、 まさに蝶よ花よと、ことさら大きな感動をしていたそうです。 彼は、そんな彼女の感性を、浅はかで大げさなものとして評価し、 なんらかの歌や文などで、少々批判めいた表現をしたそうです。 この人物の名前が知りたいです。 時代は鎌倉幕府や室町といった、短歌などの文化が旺盛を極めた古い時代のものと思います。 格式の高い血筋で整えられた封建社会のエピソードに感じます。 かなり有名で地位も高い人物だと思います。 僕が、この逸話を聞いた時、子供心に感性というものには貴賤というものがあると教えられました。 しかし最近、話しにでてくる少女にも、共感するようになりました。 幸福の閾値はどんなものであれ、 低いほうが結局得で幸せなのではないかと思うようになったのです。 この人物を揶揄する意図はなく、 優れた文化があって、初めて共有できる感動もあると思います。 しかし、僕も日常の些細なことで感動することも多く、今一度自分の感性について思案してみたいのです。 この逸話」に登場する歴史上の人物の名前は何でしょうか? 宜しくお願いします。
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- あずき なな(@azuki-7)
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式子内親王
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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歴史上の人物のことは存じませんが、明治39年、伊勢の鳥羽に商家の娘として生まれた母は、子どもの頃そして、娘になっても、地域としては雪が珍しかったので、雪がちらちら舞い始めると、みんな前掛けを手で広げて、雪を追いかけて受けたそうです。 私は二二六の頃、東京浅草、花川戸生まれですが、やはり子どもは雪を追いかけました。 犬が駆け回る話は童謡にもありますね。 回答ではなくご参考に。
お礼
ありがとうございます。 確かに、時代というものを超越して、人間が感動を覚える感性に差はないと思います。 僕も、子供の頃は雪が降ったり、台風が来る前の不穏な雲の流れを見て、興奮した思い出があります。 教養を身につけて初めて感じる四季の変化の機微というものは、 今の文明社会において、とても軽く扱われているように感じます。 例えば、ある高名な画家が描いたとする絵が、子供が描いたようにしか見えないものだった時、 それを外から見れば、単なる落書きに億を超えるお金を投資するなんて、と揶揄されます。 僕も、そういったものがどうして、数億を軽く越える金額でやりとりされるのかわかりません。 しかし、それを、金持ちの享楽として捉えるには、躊躇します。 なぜなら、僕は絵画というものに対して、無知だからです。 無知だから見通せる現実の矛盾もあるでしょうが、それが真実に近いと斜に構えたくないのです。 僕は、芸術というものを尊敬しているからだと思います。 現代の大人が、自然の美しさに感動する時、 僕はある種の懸念を持ちます。 僕は、そういうなんでもないものに感動する「大人達」は実は疲弊しきってはいないのだろうか、と。 何か、なんでもないものに涙を流すくらいに、追い詰められているんじゃないかと思います。 ですから、そういった心の状態を超越して、文学という地に足立った視点で、 人間が創りだしたシステムを通して美を追究することは、とても文化的で高度なものだと思うわけです。 その歴史上の人物も、きっとそのような思いで歯がゆかったのだと思います。 わからないものに対して斜に構えることなく、理解を示すことがネットでもっとも大切なやり取りだと思います。 現代の消費意識に適応した享楽的な文化を重んじることは時代を先取りする意味でとても大切でしょう。 しかし、それだからと言って、過去の文化の一切を懐古趣味だと断じる向きが正統とは言えません。 思いのほか、長文になってしまい、すみません。 この人物の逸話は僕にとってはこういう意味を持つようになりました。 改めて、参考になるエピソードを書いて頂きありがとうございました。
補足
遅くなってしまいすみません。 調べてみましたが、どうもそのエピソードが見つかりません。 どういったやり取りがあったのか、軽く補足をつけて頂けると助かります。 宜しくお願いします。