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仏典の解釈とその実践における失敗
私は日々の生活の中で、同じ失敗を繰り返すまいと肝に銘じたり、肝に銘じすぎて硬くなったのを戻したり、そしてまた失敗したり、どうもうまく教訓が生かせないと思い、現在は歴史の修練に残った宗教の教えを参考にしようとしています。(生真面目な性格です。) 具体的には、中村元訳の仏典を読んだり、テーラワーダ仏教のスマサナーラ長老の啓蒙書を読んだりしています。しかしやはり読了後は眼光紙背に及ばず字面に影響されて、例えば「犀の角のように歩め」というと、どことなく仏教を学ばない人を見下してしまいます。(いかんいかん・・) そこで、仏典の文献学的な解釈方法やその失敗例を学べばうまく距離が取れるのではないかと考ました。 すでに(物騒ですが)オウム真理教関係の本は何冊か読んでいます。 そういった非日常の事柄から日常の失敗を集めた資料、 そして解釈方法を書いたものがあれば、ぜひご紹介願います。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 ご回答の後に、ANo.2に記したとおり本旨とは少しずれてしまうのですが、ともあれ本職の方に応答いただきありがたく存じます。 >「深心」というものがあります。 この深心とは、二つに分けることができると説かれています。一つは「信機」。二つには「信法」です 実は私はやや抽象度の高い話に食傷気味で、ご提示いただいたフレームを一知半解に取り入れると火傷しそうなので、判断を留保し、七覚支の「念」と「択法」のようなものとあいまいな印象にとどめておきます。 >釈徹宗 著 「いきなりはじめる仏教生活」 釈先生の書かれたものは、インターネット持仏堂というサイトで拝見したことがあります。そこでは読者を意識した対談の形で、やや冗漫なやりとりが私にはしっくり来ませんでしたが、ご紹介いただいた本は読んでみます。 仏教をめぐる思想といわれるような解像度の概念ないしイメージの本は、出版数も多いし私も少なからず読んでおります。 具体的には末木文美士先生、梅原猛先生、 それと、小室直樹氏や宮崎哲弥さんなど学際的なアプローチからの論考も興味深く読みました。 そこで学んだことは、超越的なものばかりでなく人間の学としての倫理学のような視点が重要だという見識や、グノーシス主義のような即超越的なものに近づくという考えは危険という教訓や、さりとて日常を脅かす可能性こそが仏教の生命というこということなどです。 思想という位相での私の弱点が詳らかになることは有意義です。しかし私のバランスとして、1もっと解像度を上げた実際的な解釈とその失敗、そして2解釈書と仏典との間の解像度が得られると助かります。 2は具体的には文(1)に解釈abc・・の相違がどうして生まれるのか、そして文(1)(2)(3)・・の解釈の相違のそれぞれの理由にどのような法則性があるかということです。それが分かれば仏典や解釈書とうまく距離が取れる気がします。 ともあれ、このたびはご回答ありがとうございました。