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「哲学」が無意味な学問だと言われる理由はなんですか
この世で一番無意味な学問によう 哲学 があげられます しかし私にはそうは思えません 解決出来ない心のモヤが晴れれば、この世で大切だといわれている、行動力も出ますし 日々、生きる力になっていると思います 哲学がそこまで無意味と言われている理由はなんだと思いますか?
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私は、哲学とは「現時点で真であるものとして定義できないことに関して思索を深めるもの」だと考えています。結果は出にくく必然的に考えることがメインになります。一方世の中では、往々にして考えることよりも動くことの方が求められます。そうした一般社会の実情と哲学の持つ性質のギャップが、一般社会の側からは‘哲学は無意味だ‘という批判になるのだと思います。
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- v_v-
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主に二つの理由があるかと思います。 1つ目は、対象の問題。特に形而上学はそうですが、神や存在や意味などが対象で、これらは基本的に確かめることができないうえ、多くの人にとっては関心のないものだからです。 2つ目は、発展しない・結論が出ないこと。哲学では誰かが答えを出しても、後世の哲学者がそれを覆してしまいます。そのため未だに2000年以上前と同じ問題を議論しています。 これらが無意味だと言われている理由だと思います。私はこれら無意味な理由にはなっていないと思いますが。というのは、答えは出なくても間違っていること・不整合であることは明らかにできるし、覆されてしまうかもしれないけれど、前提が疑われない学問のような危うさがないからです。
- Nakay702
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かつて哲学は、「諸学問を統合する」という機能を果たしていました。そしてそれは今日でも変わらないはずです。すなわち現代の哲学には、近代以降際限なく細分化し、専門化してきた諸科学を、串刺し統合して、これに指針を与えるという機能があるはずです。少なくともその使命を負っているはずだと思います。 ところが、現代の我々は、あまりに人工化して自然児であることを忘れ、分析することに汲々として、総合するという視点を失ってしまいました。人間は自然の一部なのに、これを忘れて「人間帝国」を造り、身体は一つなのに、これを切り刻んで「部品化」してしまいました。 かつてアインシュタインは言ったそうです。「この世に無限なものが2つある。宇宙の広がりと、人類の愚かさとである」と。さらに続けていわく、「このうち、前者について私は確信がありません」と。つまり、裏返せば、「(宇宙の広がりが無限か否かについては確信がないけれども)、人類の愚かさが無限であることには確信がある」と言っていることになるでしょう。 以上述べたことと、我々が哲学を軽視するようになったこととは、同じ線の延長上にあって絡み合っているように思えてなりません。ある意味では、我々が「進歩」だと妄信(!?)して精出してきたことが、実はとんでもない愚行、大自然を冒涜する反逆だったのかも知れません。いや、私はよく分かりません。しかし、少なくとも、そういうことに「思いを致してみること」が必要ではないか、と言いたいのです。 その意味で、哲学は、本来最も重視すべき学問なのかも知れません。それは、我々が人間として「本当の、本物の幸福」を探求するためでもあります。この意味で、我々は今こそ哲学的学問のパラダイムシフト、すなわち、「哲学的知の枠組みの更新・充実」を、真摯に考えるべきときなのではないでしょうか。 少しご質問からそれたり、余計なことを書いたかも知れませんが、以上ご回答申しあげます。
- TANUHACHI
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それはこの国での「学問の意義」が明治維新以後ず~~っと等閑にされてきたからでしょう。明治維新の到達点は「先進国の形を真似る」ことではあっても「先進国に学び独自に構築し直したり体系化すること」とはかけ離れていたことを示唆してもいます。 イギリス経済学もドイツ観念論もそしてフランス社会思想も全て「人間と社会の関係」それぞれの視座から問い、そして「あるべき形」を求めて現実と向き合ったことにより、それぞれが新たな段階へと進化する術を持っていましたが、日本は「形」にこだわった。目標とする相手と対等の地位を確立するためにハリボテでも形が必要だったとの背景が最大の原因ではなかろうかと僕は考えています。 確かに福沢諭吉というイデオローグを通して、丸山眞男は日本の近代社会をその基底にマントル対流のように流れる意識の古層と西欧のスタイルによって作られたモザイク文化と評しましたが、一方の西田幾多郎に代表される京都学派は「学問と社会の間にある適度な緊張をもたらす距離感」を否定し、小林秀雄・亀井勝一郎等と共に戦争のイデオローグに身を落としてしまうとの失態を演じました。 哲学といえば、アリストテレスに始まり現代の現象学に至る様々な思索家の名前と足跡が思い浮かびますが、この数々の先達は「個」にのみその対象を限定していたわけでもありません。何よりも常に社会と個人の距離感を測ることに腐心していたと僕は考えています。 こうした営みは哲学と同時に政治学や経済学の本筋でも有効な手段です。俗流マネタリズムなどはその足下にすら及ばないといっても過言ではありません。マルクスにせよケインズにせよ、「富と財」そのものではなく「それが持つ意味」を問うた思索であり、如何に金儲けの手段を見つけるかなどの俗物には洟も引っかけません。人間にとって「より良い人生を過ごすには何が必要であり、そのために経済学は何ができるか」と読者に問うているのです。定式化された答に疑問とメスを入れ、果たしてそれが正当な解釈といえるかどうかと考えることはそのまま哲学といってもかわりません。 こうしたことから、僕自身も質問者様同様「哲学は決して無意味な存在ではない」との立場をとっています。むろんそのためには宗教や信仰、盲目的な追随などには疑念の目を向けますが。
- Nebusoku3
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哲学に限らず 「無意味と思う人にはそれは無意味」 だと思います。 ご存知の様に この世は 「淘汰」 の世界です。 無意味なものは自然に世の中から消えていきます。 まだ哲学が生き残っているのは 「その存在に意味があるから」 だと思います。 仮に世界中が 「食糧難」 や 「病気の蔓延」 の真っただ中にあれば 「哲学は無意味だ」 と思う人が 大勢を占めるでしょう。 でもどこかに芽が残っているのであれば人間にとって意味のある学問と思うし、自分もそう思っています。 長岡藩の 「米百俵」 というフレーズも一種の哲学と思うし、人々の向学心をたきつけて危機を救ったとありました。 近くにいる人からの「無意味」 発言を全ての人がそう思っているとは考えなくても良いのではと思います。
お礼
米百俵すら知らなかった私にとっては全てが目から鱗でした 誰かが言った無意味より自分の価値あると信じるものをやりぬく強さを持ちたいです 回答ありがとうございました
- 畑 茂夫(@Flareon)
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欲望を満たさない学問だからだよ。
- alterd1953
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何を隠そう私にはとてつもなく役立っていますが 「物自体を知ることは出来るか」とか 「独我論は成り立つか」とか はたまた「自我は世界の開けの原点である」とか 普通の人には全くどうでも良いことを論じているからだと思います。
お礼
では、普通の人からすればどうでもいいだけで必要な人には重要・・・ かなり虐げられてますが、ただのマイノリティってことでもあるんでしょうかね 回答ありがとうございます
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お礼
何度も読ませていただきました それにしてもアインシュタイン先生は時間以外にも凄まじいほどに色んなことに気付かれるのですね 全てとても納得できる、理にかなった内容で感服しました これからも宜しくお願いいたします!