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今後の哲学は他の学問に発展しますか?

今後の哲学は他の学問に発展しますか? 例えば、認識論が脳科学に発展した、みたいな感じで… というより、実際的に何かの役にたちますか? 言葉を操る、こねくる以外の意義はありますか? またはすでに、そのような哲学は存在していますか? 書籍など挙げていただけると助かります。 (僕は今のところ入門書のようなもの数冊しか読んで居ないという理由で、めちゃくちゃな事もしくは分かりきったこと言ってしまっているかも知れません。 質問が意図通り伝わる事を願います。 回答お待ちしています。)

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回答No.2

そもそもこの世界を構成する情報に、物理学だの生物学だの哲学だのと いった境界がある訳ではありません。 人類の情報分析力の拙劣さによっり、便宜的に分けて扱っているだけです。 だから、認識の深まりによって、天文学と物理学が融合した天体物理学、 あるいは量子化学(物理+化学)や分子生物学(化学+生物学)といった 境界領域をつなぐ学問が、より真実に迫るものとして、花形になるのです。 哲学が何かに発展するのではなく、全ての学問が1つに融合します。

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  • hanniyagi
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回答No.5

hayniyagiです。追伸が出来ない、ので再回答に変えます。 桜の薗の一節としてあげた文章に、何と書いてあったかなと考えながら思いだせず(40年ばかり昔に見た記憶なので)。「もし人生に意味や重要性があるとしたら」書いた部分ですが。飯を食いに行って、ビールを一杯飲んでいたら。「もし人生に意義や目的があるとしたら」であったと思いだしました。 ついでに(酔ったついでにではありません)哲学を学ぶことが何かの役にたっのか。(御利益があるのか)とのご質問にたいしては。知りません。(達磨が寺を建ててくれた長者にどんな御利益があるか、と聞かれ、そう答えたそうです。) 言葉を操る、こね回すのは。知恵を表現する言葉がない故、でなければ。自己主張をしているの、だけ。多弁に智なし。なのでしょう。 爺のたわごととです。

  • kigurumi
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回答No.4

>実際的に何かの役にたちますか? >言葉を操る、こねくる以外の意義はありますか? 新約聖書を作った人の思想。 作家はイエスという登場人物を使い自分の哲学を表したものだと思えます。 <わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。> 古代では「人間はもともと全くの善の世界にいたが、肉体という有限の中に入ったことで、善がなんなのかわからなくなってしまった」と考えたようなんですね。 イエス作家が生きた時代、ユデアの支配者層には王や聖職者は律法学者たちがいたわけです。 彼らが人々を「これが正義」と導いていたわけです。 で、安息日に腹をすかせた弟子たちが借り入れの終わった麦の穂を拾っていたら、律法学者が「律法に違反している」と指摘したわけです。 さて、狩り終わって地面に落ちた麦を拾って集めて食べたところで、その畑の人を困らせることにはなりませんよね。 従って泥棒だとは言ってない。。 安息日にはは労働も食べることもしてはいけないので、律法をないがしろにする行為をしたと、律法学者はとがめたわけです。 イエス作家は弟子たちをかばいます。 ダビデの一件を持ち出して。 律法は人を正しい方向・幸福な方向に導くための道しるべであって、律法によって人が不幸になってしまっては、律法の存在価値が無くなるわけです。 それでイエス作家は律法は人を苦しめ縛り上げるためにあるのではない と律法の正しい遣い方をイエスを通して語ったようなんです。 ところがピラトは真理・真理というイエスに対して「真理とはなんぞや」と問うわけです。 イエスは無言でした。 イエス作家も「これが真理(人の正義のありかた)」というものがどういうものかわからなかったわけです。 2000年後の現代も、真理がなんなのか言える人は1人もいません。 しかし、それが分かる日が来るという希望を持たず生きることが、どれほど辛いか。 従って人のあり方を考える哲学は古代から今もあらゆる分野を貫いてきているわけです。 例えば医療現場。 医療が進み昔なら死んでいた病気で死ぬ人が少なくなった。 一見喜ばしいことのように思うが、薬には必ず副作用があり、その薬を使ったためよくなっても、他の部分に悪影響を与えるわけです。 例えば医療が進んだことで交通事故で死ぬ人が減ったが後遺症で不自由な生活で苦しんだり、脳卒中で昔なら死んでいたが、今は命は助かる、が、後遺症として言語や身体障害、認知症が残ったりする。 果たして医療という世界は本当に進歩しsたのか、人間にとって善いものなのか ということになる。 医者に「助けてくれてありがとう」と言ったとしても、本当に助けたことなのか、さらなる苦しみを背負わせ生かし続けられたのか 疑問なわけです。 例えば義務教育により子どもが学校で知識を習う。 親は子どもの教育を国に丸投げしたわけです。 子どもを家族から引き離し、国の望む子どもを国が作り上げてきたわけです。 プラスなようで、実はマイナス面もあり、プラマイ0。 例えば環境保護が叫ばれたことで、環境が改善されたが、環境保護をするために環境を破壊しなければならず、それは保護と破壊の量が同じなのでプラマイ0。 lこのように進化したのか退化したのか、全く変わらないのか あやふやな世界。 しかし医療現場ではプラスの面を打ち出しているし、学校も他の国に比べて日本は学力が上だとしたりして 良い面だけみて悪い面に目をつぶるってきたわけです。 日本国憲法の前文が哲学にあたる、日本国憲法はその前文の支配下にあるので他の学問はすべて哲学の支配下にある。 あなたが一つ決断するとき、それは自分にとって利益だから ではなく、人間として正しいものを選んで決断しなければならない。 日本国憲法前文が憲法国憲法を超越したところにあるように、真理や正義は法を超越したところにある。 尖閣諸島問題がありますが、国益を考えた対応じゃなくて、人として正し対応をする。 政治・経済も支配下におき、あらゆるものに対し人としての正しさを希求する学問。 それが哲学なんです。

  • hanniyagi
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回答No.3

哲学が他の学問に発展する、という事はありません。哲学から他の学問が分派分離してゆくものなのです。何故なら哲学は、あらゆる分野に共通する、知恵=考え方、そのものを求める、知恵を高めようとする学問、なのです。それ故に、学問のなかの学問、学問の王、とされるのです。(古代ギリシャでは、の話です)知恵を求めるギリシャ哲学を滅ぼしたのは、ユダヤ教の分派、でしかなかったキリスト教が、広まり、西洋を支配するほどの宗教になった。これは、ギリシャ哲学によって、滅ぼされかけていた 、ユダヤ思想、の復活、であり。5000年前の知恵、思想に逆戻りした意味があります。 近代になって、カントが、批判、として形而上学の見直し、を試み。知恵を模索し。知恵の実践は、自らを構築する、自らを律する事である。と知恵の一方の方向に気付き、へーゲルが、もう一方の哲学の方向、考え方、を弁証法として提示します。ギリシャ哲学の復活、としてのドイツ哲学の誕生と見れます。当然と言えるように、ドイツ哲学には、反ユダヤ思想、の方向がある事になります。 カントやヘーゲルは「神はいない」などと口にするほど、馬鹿?ではありません。 カントやヘーゲルの、思いを感じさせるな。と思わせる文章を見たことがあります。 安心していてはいけませんよ、自分を眠らせてしまってはいけませんよ。 幸せ、なんてものはありません、またあるはずがないのです。もしあなたの人生に意味や重要性があるとしたら、それはあなたの幸せなどの中にあるのではなく。何かもっと合理的なもの、偉大なもの の中にこそあるのです。桜の薗の一節とか書いてありました。 ドイツ哲学にはもう一人、愛は憎悪である。神は死んだ、神はもういない。人間は人間にたいして責任を持たなければならなくなる、(人間はそれほど賢くはない)来るべき20世紀にはニヒリズムの嵐が吹き荒れることになる、とかの。我は心を無味する者、ツァラトウストラである。のニーチェが登場しています。 二ーチェの言葉は箴言的と評されるように、言っていること、答えは合っている、が考え方がない。 借り物、の思想なのです。釈迦の猿、と評したことがありますが。心の反対、対立物が、知恵、である。知恵を得たくば、心を滅せ。は東洋思想、釈迦や老子の思想なのです。ニーチェの言葉、箴言、は仏教や古代中国の書に総てある。と断言出来るものなのです。 歴史家が「ヘーゲル右派(ナチズム)とヘーゲル左派(マルキシズム)がスターリングラードで死の抱擁をした」と表現する。神を否定する者同士、最後の血の一滴まで、の凄惨な戦いの背後では、ナチスによる。 ユダヤ人抹殺が行われていました。 反ユダヤ思想、の意味をはき違えている。ではすまされないアウシュビッシュの悲惨故か。戦後ユダヤ思想に触れる事はタブーとなりました。(またしても?)勝った、勝利したのは、ユダヤ思想、であり、アメリカ、だったのです。現代はユダヤ思想万能の時代、世界がユダヤ思想に支配されている。と言える状況であり。 反ユダヤ思想、心とは逆の知恵を求めざるを得ない哲学は、存在し得ない。知恵のない時代。 になっているのです。 哲学はあるのか。学ぶべき哲学は、哲人は釈迦と老子、しかいない。と思います。 ただし、(日本人のタブー?でしょうが)日本人や西洋人が考えている、仏教、はヒンズー教。の事であり。釈迦の思想、知恵、 とは言えないものである。とは認識しておくべき事だと思います。

回答No.1

脳科学や天文学、数学など科学全盛のこの時代に 哲学のほうから、新しい認識論や存在論などの デカいパラダイムを提出して、それが時代の基盤になることは もうないかと思います。 しかし最近の卑近な例では哲学からオタク学が発生したりしてるので 小さい学問をポコポコ産み出す可能性はまだあるでしょう。

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