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明治時代にあった国語伝習所とは
東京に明治40年代にはあった国語伝習所について教えて下さい。 多分私塾だったと思うのですが、塾の設置者、教師、塾の場所、塾生、卒業生など、わかることだけでもよいのですがお教えください。女子も受け入れていたようです。
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No1.です. 貴追加質問「国語伝習所は誰でも教えを受けられたのか、いつまであったものか」のこと。 ------------------------------- 先の回答でご紹介した www.nicol.ac.jp/~hatano/profile/two%20schools.doc をご覧になりましたか。 以下の記述があります。 前者: 脚注11「大成中学校がいわゆる一流学校ではなかったという事情とも関わっている」 から類推すると、大成中学校に併設の形であった国語伝習所も似た状況であったのではないか。 ⇒生徒募集の条件は厳しくなかったと考えて良いのではないか。 むしろ当時の社会事情からは授業料と生活費を賄う資力の方が問題だったと考えます。 …想像にすぎません。 後者: 脚注8に「大成学館と国語伝習所も大成中学校の校舎に同居していたが、前者は太平洋戦争のころ、後者は昭和初のはじめころに消滅した。」とあります。詳細年月は分かりません。 *レポート作成などで必要ならば、参考資料が豊富に記載されていますから、 図書館や現・大成学園などで直接原資料に当たるべきです。 おまけです: 文部科学省 学校系統図 (明治以来の学制の変遷図) http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318188.htm ついでに: 現・大成高校の卒業生に俳優水谷豊 野球オリックスの戸田亮 なども。
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- yanhua
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『林巨正』の著者 洪命憙(ホン・ミョンヒ1888~1968・朝鮮 )が東京で学んだ学校の調査資料があります。 ここに当時の大成中学校(現・大成高等学校 三鷹市)が登場しますが 「杉浦鋼太郎は名古屋出身の教育事業家である 。明治21(1888)年、官立学校受験生のための予備校「大成学館」を九段中坂に設立し、翌年そこに「国語伝習所」を併設した。」とあり。 「大成学館」と「国語伝習所」の生徒数が増加したため、後に移転改称を行う →「大成学館尋常中学」→「私立大成中学校」→「大成中学校」→「大成高等学校」。 設立の経緯・数名の学生の氏名・当時の学科目・学業の水準 なども。 脚注に関連資料も豊富。 なお「女子教育のために通信教育用「女子講義録」を刊行し、明治36(1903)年には友人とともに東京高等女学校を創立」とも。(現・東京女子学園 港区芝)。 以下でダウンロードできます…Wordファイル60kb程度。 www.nicol.ac.jp/~hatano/profile/two%20schools.doc 洪命憙が東京で通った2つの学校 ―東洋商業学校と大成中学校― 波田野 節子 ■『大成七十年史』 刊行 大成学園, 1967.10 タイトル別名 大成七十年史 タイトル読み タイセイ シチジュウネンシ *ざっと検索した範囲で蔵書のある図書館は 静岡県立大学 附属図書館 377.3||Ta 24 KO007666 名古屋大学 附属図書館中央教職 376.48||Ky36-3||タイセイガ 11379952 ■東京女子学園高等学校 http://www.tokyo-joshi.ac.jp/ 創立日 明治36年4月 創立者 棚橋 一郎・山本 宜喚・小川 銀次郎・實吉 益美・杉浦 鋼太郎・高津 鍬三郎・吉岡 哲太郎の7氏 法人名 学校法人 東京女子学園
お礼
詳細な資料を紹介してくださり、ありがとうございました。 杉浦鋼太郎によって明治22年、九段の大成学館に併設されたこと、落合直文を中心に著名な国語国文の講師陣だったことなどを知ることができました。 国語伝習所は誰でも教えを受けられたのか、いつまであったものか、などもわかれば嬉しいのですが。
お礼
お教えくださった資料は眼を通して積もりでしたが、消滅については読み落としておりました。 伝習所について「生徒募集の条件は厳しくなかったと考えて良いのではないか」とのお考えに納得できました。 直接原資料にとの諭し、身にしみます。ヒントを元に少し当たって見る積もりです。 本当にありがとうございました。