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自己暗示 神
自己暗示や薬物で幻聴や幻覚をコントロールすれば自分の好きな世界が創れるのではないでしょうか。欲しい物もその物の知識が完璧にあればそれを幻覚や幻聴で完璧に再現すればそれを手にいれたのとまったく同じことではないでしょうか。幻聴や幻覚を自分でコントロールすることができれば人は神になれるのではないでしょうか。
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なれますよ。 私はなれました。
外から何も干渉してこなければ、そういう『感覚』に浸れます。瞑想もどきもそうです。昔々、『超越瞑想』なんてものが流行ったとき、インスタントに瞑想の効果を得るため、薬物を使用する外道もいました。 瞑想を止めた途端、現実に戻るのです。自己暗示も五感について同じです(長期効果は否定まではしません)。現実に直面したら役に立たない。 瞑想中に得られる、静かに高揚したとか、今までの自分を超えたといった感覚が本当だと思うのは、野狐禅、魔境などと呼ばれます。 論より証拠、そういう感覚を得ても、今まで抱えていた現実の問題は何一つとして解決できません。何も瞑想から覚めたら解決しているといったことではありません。瞑想して、解決する知恵が出るかどうか、少なくとも取り組む気持ちが高まったです。あるいは、どうにもならないと悟って受け入れる気持ちになるか。 そうはならないのです。むしろ、瞑想中の感覚に逃げ込みたくなります。そうなると、先浸りと同じです。瞑想して依存心を増しては、何にもなりません。 瞑想が悪い習慣ということではありません。適度な運動、適度な食事と同じく、適度ならいいものです。さらに、運動ならプロスポーツ選手がいるように、瞑想の高みを求める瞑想者がいてもいい。そういう自己実現もあるでしょう。 これらのことは、外界ではなく内面のことです。人は神になれます。既になっています。ただし、自分一人に対してだけです。外界は、そんなことはお構いなしに干渉してきます。干渉だけではなく、こちらも外界に依存しています。 食べ物がないと飢え死にするし、水がないと乾き死ぬし、適切な空気がなければ窒息死します。 現実に無いものに依存することを、たとえば仏教では『無明』と呼びます。いろは歌では『浅き夢』と言っています。 インドの伝統的観念では、内面と外界を区別しないで描写する傾向があります。『人は神に成れる』は、ブッダ以前の概念です。ブッダはそれを否定しました。どちらが正しいということは無いんですけれども。ブッダの生まれたインドでは、ブッダが否定したバラモン教に代わってヒンズー教になっていますしね。 西洋でも揉めているようですよ。絶対主義と相対主義なんかですね。万人を超えて万物が依るべき遍在にして不変不朽の真理があるか(絶対主義)、それとも人間は個々人の内面だけで全てを決着すべきか(相対主義)。 私などは、一般人の1/3くらいの能しかないせいか、どうやら人間みたいだ、で満足していて、神に成れるかどうかは、正直どうでもいいんですけれども。人間以下にならないように腐心している毎日のせいかもしれません。
そう、あなたは現人神であり、創造主です。尤も「あなたという世界」に限った話ではあるけどね。本来、人は誰もが神であり、創造主です。尤も「自分という世界」に限った話ではあるけどね。 今まさに、人の数だけ世界が創造され、破壊されている。同じ世界は二つとなく、世界同士は決して重なり合う事もないけれど、恍惚と孤独を背負って、今日も神々は生きている。 幻聴や幻覚を自分でコントロールする必要なんかありません。だって、思考の内容や五感を通じた認識そのものが、全て幻覚なのだから。
- ukiyotonbo
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知らなかったの。既にそうなってるんだよ。 ま、楽しんでくれお。
- 雪中庵(@psytex)
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その考え方の行き着く先は、麻薬は気持ちいいし、人に迷惑 かけないのだから、悪い事じゃないはずだ、というパターンです。 実際、精神だけ操っても、現実=肉体的にはその通りにはならず、 その精神的充足感がいかに大きくとも、時間的延長において 短くなり、「人生を通算した最大充足」という点での真の利己にも 反する。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、 相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互 作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)と しての宇宙を認識するのです。 潜在的認識可能性(感受表面=現在=光速)からの、自我 仮説(記憶=時間の流れ=過去=超光速)と時空仮説(予測 =空間の広がり=未来=光速下)の相補分化(階層現象表面 的定性化による非光速性)として、宇宙が派生している場合、 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで 遡った)補完だと言えます。 全宇宙の全てが「あなたが存在するための必要」だとするなら、 なぜ、意志の通りにならないのでしょう? それは、そうした自己存在の本質に根ざした自覚ではなく、 階層現象表面的な定性化による物質的な自己(肉体)に 拘束され、即物的な欲望や短絡的衝動に支配される時、 「自己矛盾」として対立(外的存在性)するのです。 存在とは、疑問としての時空の広がりへの無の射影であり、 物理とはその「何かあるんじゃないの?」という意識を、 無へと還元させる過程に過ぎないのです。 この世界そのものが脳内を参照しているに過ぎないという 事実において、もし物理に基づく幻想=現実を遊離して、 幻想に基づいて現実に対応するならば、自己矛盾による 死を招く。
自論ですが。 それこそがヨガ(本来のヨガは日本で流行っているスポースヨガとまったく異なるものである)や瞑想の達人、宗教の涅槃の果てにあるもの。 しかしそれは達人でもほんの僅かな者にしか辿り着けぬ境地です。 (本当のヨガや瞑想を実践した者において精神の器ができていないと発狂すると言われています。) 麻薬(鬱病の特効薬として開発された類)でもそのような境地の一旦を垣間見ることができますが、使用者の精神の器が整っていないことからやはり発狂してしまっています。 加えて身体そのものにも損傷をきたしています。 私的には、幻聴や幻覚をコントロールすること、それは精神の器が整っていることだと思っています。 上記のようなことを書きましたが、私は涅槃(あなたの言う人は神になれる)とは苦行によってのみ得られるものだとは決して思っていません。 人が神に至る道は、さまざまなルートがあり、苦行はその一つでしかないと思っています。