先天的総合判断は果たして可能か?
カントは「純粋理性批判」で、先天的総合判断は可能か?と問いました。
そして「三角形の内角の和」が2直角という例を上げて、可能だと言いました。
なぜならば、三角形の概念にはあらかじめ「内角の和が2直角」は含まれていないから、と。
ここで、分析判断と総合判断に関し、説明しておくと、主語にあらかじめ述語が含まれているのを分析判断と称し、主語の概念にあらかじめ述語が含まれていなくて、新たに付加するものが、総合判断です。
たとえば、「ソクラテスは人間である」という判断は、主語の「ソクラテス」の中にもともと「人間である」ということが含まれているから、分析判断です。
それに対して「庭に桜の木がある」という判断は、主語の「庭」にあらかじめ「桜の木」が含まれていないから、つまり「庭」を観察してそれを言うものだから、総合判断です。
総合判断は、判断に新しいものを付加するから、一名「拡張判断」と言われます。
カントは「純粋理性批判」を来るべき形而上学の「予備」として、それを書きました。
つまり、先天的総合判断が可能ならば、形而上学も可能と考えていたことになります。
ここで、問題は「三角形の内角の和が2直角」という判断が、果たしてカントのいうように先天的総合判断なのか、ということにあります。
というのは、「三角形の内角の和が2直角」というのは、経験を要せず、数学の規則の体系から自ずから導き出せるもので、先天的総合判断とは必ずしも言えない、と思うからです。
総合判断とは、異論があるかもしれませんが、経験判断ということ。
それを先天的というのは、経験を必要としない、と言っているもので、形容矛盾なのではないか、と思うのですが、皆さんの見解をお聞かせください。