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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:因果応報説は 共同主観にはならない。)
因果応報説とは何か?理解するためのポイント
このQ&Aのポイント
- 因果応報説は、共同主観にはならない。善悪や苦楽といった主観による規定が含まれるため、善因悪果や悪因苦果の考え方は主観の範囲を出ない。
- 因果応報説は、神の愛やブッダの慈悲によるエコヒイキが初期条件となる。自業自得であるとしても、主観の範囲を出て有効になることはないため、それを規定することはできない。
- 因果応報説を理解するためには、人間が勝手に神の愛や慈悲を決めつけることはダメであり、理解できるような仕組みであれば人間が改変することも可能となってしまう。善行の道は主観の問題であり、捨て去るべきではない。
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- manuke22
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noname#194996
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お礼
§ 78 カント 規範としての命題は 例の格率の文でもいいわけでしょう。 ▲(ヰキぺ:イマヌエル・カント) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88 § 2.3.2 倫理学 道徳法則は 「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ (Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」 という定言命法として定式化される。 ~~~~~~~ それにしても 次の考え方は どうなんでしょう? ▲ (Immanuel Kant:Kritik der reinenVernunft)Ich mußte also das Wissen aufheben, um zum Glauben Platz zu bekommen, ● 私は、信仰を容れる場所を得るために知識を除かねばならなかった(篠田英雄訳) ☆ なぜ《知識を除く(否定する?)》必要があるか? 《神》を《非経験の場》として仮りにそのまま想定するだけなのではないか? § 79 脅しにあったときの自由意志 ★ ~~~~~ 「そうである場合もそうでない場合も自由意志にゆだねられています」 つまりどっちでもかまわないわけですか? ~~~~~~~ ☆ 投票しろと脅される場合です。その脅しの度合いや その結果どこまで社会生活に支障をきたすか いろんなばあいがあると思うのですが? いのちの危険がある場合 これは相手の要求に屈したとしても 自由意志の怠慢でもへそ曲がりでもないでしょう。死をちらつかせるのは すでに無効の行為です。生き延びましょう。 あとは 場合によって どこまで基本主観をたもつか。もしくは譲歩するか。いくつかの場合に分かれると考えます。 § 80 動物のしゃべる言葉 ★ オランウータンやヨウムやチューリングマシンは人間ですか? ☆ 人間の言葉を――あるいは人間の言葉に聞き間違えることばを――しゃべる動物や機械です。 § 81 基本主観からの逸脱 ★ ~~~~~~~~ 逸脱 平均的な基準からの偏向の総称のこと。 一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、その上にルールから外れた望ましくないという道徳的裁定が込められる。 基本主観という「正道」からの逸脱は「望ましくない」のですか? ~~~~~~~~~ ☆ 《偏向 / ルールまたはそれから外れること / その偏向やハヅレを望ましくないと見ること》 これらをそのまま受け留めて考えるにしても すべては本人の主観内での判断によります。やはり《やましくないことと そこからの逸脱》とです。 § 82 同じく《信仰》からのへそ曲がり ★ なら教会に出向いて説法してくればよいです。 ☆ ですから 《集団としての宗教》はすべて《個人の信仰が 自殺行為をおこなってその跡に出来た〈信仰の抜け殻〉をオシエとして立てこれをあがめるムレたがり》であると言っています。 ローマ教会を初めとして宗教は すべからく自己解体すべしと言っています。 もっと強烈にまたは実際に教会にまでおもむいて話をせよと言われれば まだまだであるかも知れません。ときを俟ちます。 (まぁ もっとも《ときを得ても得なくても〔一歩一歩すすめていく〕》という考え方もあるにはあるのですが)。 § 83 わたし ★ あなたが言っているのは、「 x が私という一人称代名詞を使うならば、xは私という一人称代名詞を使える」ということを述べたのでしょうか? ☆ 必ずしもそうではありません。というのは 《わたし》を自称したということは 自称して何らかの意志を表明したはずであって そこには主観の航跡がうかがわれると言ってよいでしょう。 ゆえにそのような精神の軌跡をたどって行くならば ★ なぜある者が私という語を使うことがその使用者に「私」が存在することを証明するのですか? ☆ という問いに答えることができましょう。 ★ あなたの論法をとるなら、私は自分のことを意識や「あたし」と自称したりしないので、私には意識やあたしが存在しないわけですか? ☆ そこのところは 柔軟に文脈や情況を考慮して その人に意志があるのかどうか 自己表現しているのかどうかを捉えようとしてみれば だいたい分かるようになるでしょう。 たとえば あいさつをしてみるとよいでしょう。こんにちは! と声をかけて どう答え返して来るかです。あいさつを返したならば 《わたし》の動態が見て取れましょう。また そのかぎりで 主観が生きていると受け取ってよいでしょう。そうして 問答をつづけます。 ★ あるいは、x が「あたし」や「ウチ」や「私」という語で自分を称するなら、x には「私」と「あたし」と「うち」が存在するのですか? ☆ 自称には その人の生きるたましいが存在し動いていることでしょう。 § 84 やましさ反応 ★ ~~~~ 「やましさ反応はそのように観察された事実です」 あなたが観察したのは赤面であり、これは酔っているときやら恥ずかしいときや怒っているときでも生じます。あなたの言う観察は解釈です。 ~~~~~~ ☆ そうですが その《解釈》はあくまで本人の主観の動態から来るものだということです。本人がどう思っているかです。 ただただ恥づかしいときと心にやましさが反応しているときとを ひとはだいたい見分けることができます。 《観察》というのは そのようにその人の主観がどのように自分の内なる現象を捉えているかをめぐってです。そのときに《解釈》が入ると言えば 入るでしょうね。他人が観察しているのですから。 ★ 観察だと言うなら、つまり経験的事実だと言うなら、あなたは他人の身体に生じている感覚内容を感じることができるんですか? ☆ 観察と解釈の結果内容について その本人に対して まちがっているかどうかを問い質せばよいわけです。 ★ 他人が赤面しているとき、他人の恥ずかしさでも悔しさでも焦りでもなく「やましさ」という身体的な感覚を感じたのですか? ☆ 本人は だいたい無理なく見分けることができましょうし 他人でもその観察において 《やましさ》かどうかをそれほど間違えることもないでしょう。不確かなら 尋ねればよいのですから。