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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:因果応報説は 共同主観にはならない。)

因果応報説とは何か?理解するためのポイント

このQ&Aのポイント
  • 因果応報説は、共同主観にはならない。善悪や苦楽といった主観による規定が含まれるため、善因悪果や悪因苦果の考え方は主観の範囲を出ない。
  • 因果応報説は、神の愛やブッダの慈悲によるエコヒイキが初期条件となる。自業自得であるとしても、主観の範囲を出て有効になることはないため、それを規定することはできない。
  • 因果応報説を理解するためには、人間が勝手に神の愛や慈悲を決めつけることはダメであり、理解できるような仕組みであれば人間が改変することも可能となってしまう。善行の道は主観の問題であり、捨て去るべきではない。

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  • manuke22
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回答No.48

「カントは自然本性について規範のかたちで命題を出します。そこはいただけないと思います」 具体的にどこですか? 引用してください。 「そうである場合もそうでない場合も自由意志にゆだねられています」 つまりどっちでもかまわないわけですか? 生きることはそれ自体で善く、投票の強要に従うことにやましさを感じるなら、投票しないのが「普通」なのでは? 各自とかではなくあなたはどうするんですか? 「人間の言葉を語ったならそれはすべて人間が言ったことである」 オランウータンやヨウムやチューリングマシンは人間ですか? 「基本主観からの逸脱ぶりを示すことが出来ればよいはずです」 逸脱 平均的な基準からの偏向の総称のこと。 一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、その上にルールから外れた望ましくないという道徳的裁定が込められる。 基本主観という「正道」からの逸脱は「望ましくない」のですか? 「《信仰》にかんしてはその定義を提出し、それに合っていなければ批判します」 なら教会に出向いて説法してくればよいです。定義は本質を表そうとする命題なわけですから、「あなた方の信仰は非本質的であり、私が独りでキチンと考えて限定した定義に従って信仰てみてはどうでしょう?」と提案してみては?  「《私》という言葉で自称していることです」 証明と言ったのですが。 あなたからすれば「私という言葉を書いていること」は経験的事実でしょう。私という語を使う者が、私という語を記憶していたり入力されているということまでは言えるでしょう。あなたが言っているのは、「xが私という一人称代名詞を使うならば、xは私という一人称代名詞を使える」ということを述べたのでしょうか? 違うならば、なぜある者が私という語を使うことがその使用者に「私」が存在することを証明するのですか? チューリングマシンやオランウータンにも「私」があり、私という語を覚えた瞬間にオランウータンには「私」が存在するようになるわけですか? あなたの論法をとるなら、私は自分のことを意識や「あたし」と自称したりしないので、私には意識やあたしが存在しないわけですか? あるいは、xが「あたし」や「ウチ」や「私」という語で自分を称するなら、xには「私」と「あたし」と「うち」が存在するのですか? 「やましさ反応はそのように観察された事実です」 あなたが観察したのは赤面であり、これは酔っているときやら恥ずかしいときや怒っているときでも生じます。あなたの言う観察は解釈です。 観察だと言うなら、つまり経験的事実だと言うなら、あなたは他人の身体に生じている感覚内容を感じることができるんですか? 他人が赤面しているとき、他人の恥ずかしさでも悔しさでも焦りでもなく「やましさ」という身体的な感覚を感じたのですか?

bragelonne
質問者

お礼

 § 78 カント  規範としての命題は 例の格率の文でもいいわけでしょう。  ▲(ヰキぺ:イマヌエル・カント) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88  § 2.3.2 倫理学  道徳法則は   「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ   (Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich    als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」  という定言命法として定式化される。  ~~~~~~~  それにしても 次の考え方は どうなんでしょう?  ▲ (Immanuel Kant:Kritik der reinenVernunft)Ich mußte also das Wissen aufheben, um zum Glauben Platz zu bekommen,   ● 私は、信仰を容れる場所を得るために知識を除かねばならなかった(篠田英雄訳)  ☆ なぜ《知識を除く(否定する?)》必要があるか? 《神》を《非経験の場》として仮りにそのまま想定するだけなのではないか?  § 79 脅しにあったときの自由意志  ★ ~~~~~    「そうである場合もそうでない場合も自由意志にゆだねられています」  つまりどっちでもかまわないわけですか?  ~~~~~~~   ☆ 投票しろと脅される場合です。その脅しの度合いや その結果どこまで社会生活に支障をきたすか いろんなばあいがあると思うのですが?  いのちの危険がある場合 これは相手の要求に屈したとしても 自由意志の怠慢でもへそ曲がりでもないでしょう。死をちらつかせるのは すでに無効の行為です。生き延びましょう。  あとは 場合によって どこまで基本主観をたもつか。もしくは譲歩するか。いくつかの場合に分かれると考えます。  § 80 動物のしゃべる言葉  ★ オランウータンやヨウムやチューリングマシンは人間ですか?  ☆ 人間の言葉を――あるいは人間の言葉に聞き間違えることばを――しゃべる動物や機械です。  § 81 基本主観からの逸脱   ★ ~~~~~~~~  逸脱  平均的な基準からの偏向の総称のこと。  一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、その上にルールから外れた望ましくないという道徳的裁定が込められる。  基本主観という「正道」からの逸脱は「望ましくない」のですか?  ~~~~~~~~~  ☆ 《偏向 / ルールまたはそれから外れること / その偏向やハヅレを望ましくないと見ること》 これらをそのまま受け留めて考えるにしても すべては本人の主観内での判断によります。やはり《やましくないことと そこからの逸脱》とです。  § 82 同じく《信仰》からのへそ曲がり  ★ なら教会に出向いて説法してくればよいです。  ☆ ですから 《集団としての宗教》はすべて《個人の信仰が 自殺行為をおこなってその跡に出来た〈信仰の抜け殻〉をオシエとして立てこれをあがめるムレたがり》であると言っています。  ローマ教会を初めとして宗教は すべからく自己解体すべしと言っています。  もっと強烈にまたは実際に教会にまでおもむいて話をせよと言われれば まだまだであるかも知れません。ときを俟ちます。  (まぁ もっとも《ときを得ても得なくても〔一歩一歩すすめていく〕》という考え方もあるにはあるのですが)。  § 83 わたし  ★ あなたが言っているのは、「 x が私という一人称代名詞を使うならば、xは私という一人称代名詞を使える」ということを述べたのでしょうか?  ☆ 必ずしもそうではありません。というのは 《わたし》を自称したということは 自称して何らかの意志を表明したはずであって そこには主観の航跡がうかがわれると言ってよいでしょう。  ゆえにそのような精神の軌跡をたどって行くならば  ★ なぜある者が私という語を使うことがその使用者に「私」が存在することを証明するのですか?  ☆ という問いに答えることができましょう。  ★  あなたの論法をとるなら、私は自分のことを意識や「あたし」と自称したりしないので、私には意識やあたしが存在しないわけですか?  ☆ そこのところは 柔軟に文脈や情況を考慮して その人に意志があるのかどうか 自己表現しているのかどうかを捉えようとしてみれば だいたい分かるようになるでしょう。  たとえば あいさつをしてみるとよいでしょう。こんにちは! と声をかけて どう答え返して来るかです。あいさつを返したならば 《わたし》の動態が見て取れましょう。また そのかぎりで 主観が生きていると受け取ってよいでしょう。そうして 問答をつづけます。  ★ あるいは、x が「あたし」や「ウチ」や「私」という語で自分を称するなら、x には「私」と「あたし」と「うち」が存在するのですか?  ☆ 自称には その人の生きるたましいが存在し動いていることでしょう。  § 84 やましさ反応  ★ ~~~~     「やましさ反応はそのように観察された事実です」     あなたが観察したのは赤面であり、これは酔っているときやら恥ずかしいときや怒っているときでも生じます。あなたの言う観察は解釈です。  ~~~~~~  ☆ そうですが その《解釈》はあくまで本人の主観の動態から来るものだということです。本人がどう思っているかです。  ただただ恥づかしいときと心にやましさが反応しているときとを ひとはだいたい見分けることができます。  《観察》というのは そのようにその人の主観がどのように自分の内なる現象を捉えているかをめぐってです。そのときに《解釈》が入ると言えば 入るでしょうね。他人が観察しているのですから。  ★ 観察だと言うなら、つまり経験的事実だと言うなら、あなたは他人の身体に生じている感覚内容を感じることができるんですか?  ☆ 観察と解釈の結果内容について その本人に対して まちがっているかどうかを問い質せばよいわけです。  ★ 他人が赤面しているとき、他人の恥ずかしさでも悔しさでも焦りでもなく「やましさ」という身体的な感覚を感じたのですか?  ☆ 本人は だいたい無理なく見分けることができましょうし 他人でもその観察において 《やましさ》かどうかをそれほど間違えることもないでしょう。不確かなら 尋ねればよいのですから。

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  • manuke22
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回答No.17

「前者はいづれひとつの選択肢を仮りの共同主観としてでもえらび出します」 わかってないですね。医者が患者の自己決定権を阻害することになるんですよ? 共通主観とか常識だとかの話じゃなく、医者としての責任と患者の自己決定権の問題、対面しているAさんとBさんの問題です。 「共同主観として応用倫理について消極的な行動をえらんだとしてもそれは空論とは呼びません。人びとの総意としての決定があります」 空論なんですよ。常識とかもちだす時点で。あと消極的行動とは患者さんが消極的安楽死を選んだことを言ってるんですか? まず、応用問題について他人がどう考えるのかは自由だと言うならば、消極的という語で評価するのはよろしくないです。また、消極的安楽死は、薬物の投与などで医者が直接に患者を殺す積極的安楽死と対比的に、治療機器を取り外すことで間接に患者を死なせること。つまり手段の問題。それとも消極的安楽死より積極的安楽死のほうがあなたには望ましいのですか? もしそうならその理由はなんですか? 「この批判はわたしの返答した次の内容をわたしの文章のすべてについて全面的にあてはまると解釈しての表明です」 ここでは、って書いてるでしょう。コピペしたうえで言及しているでしょう。議論で事実「だけ」を使ってるとあなたが言ってるのがおかしいと指摘してるんですよ。論理なんですから仮定や作業仮説ぐらい使うのが普通なんです。 「どうお考えになりますか?」 じゃあ先に答えますね。常識ではありません。価値が関わるので事実でもありません。 死刑賛成がまず日本では多数です。かりにその賛成と「命は尊い」という価値判断が両立するとして、今回は「すべての~等しい」があるのでこれまでのような異見は通用しません。日本国民の多数が死刑囚は殺してよいおよび殺すべきだとしている時点で、死刑囚と死刑囚ではない人間への態度に差があります。 また、人は身近な人間により親しみを覚えます。交流は命という一般的なものがするのではなく、人格と人格がするものだから友人や恋人は赤の他人より大事になります。死刑を撤廃した国の人でもそうです。もしあなたが家族や恋人の価値を死刑囚と等しい考えているなら受け入れがたいかもしれません。また、全人口に比して少数のジャイナ教信者がいることは、他の大多数の人間が虫を殺したり雑草を脱いたり内戦をしたりジャイナ教信者と違って水を生物だと見なさないことからも、大した異見にはなりません。 「特定の人、特定の場や情況、あるいは時代等々の条件によります。一時的・局地的な現象を捉えて普遍的な事実だというのはどうでしょう?」 どこに普遍的だと書きましたか? なんにせよ、「特定の人、特定の場や情況、あるいは時代等々の条件」でこうなっている以上すでに、あなたの常識はいつでも・どこても・だれでもという意味での普遍的共同主観にはならないですね。あなたより徹底的な少数のジャイナ教信者がいるくらいです。 「ただ感覚の麻痺だということも考えられます」 ではそうじゃない風にも考えられるんですよね。なんでそっちを採用しないんですか? 嫌ですか? やっぱり自分が信じたい自分が好きな自分にとっての常識を信じるほうが気持ちいいんですか? 「命は尊い」。あなたにとっては言っても聞いても気持ちい善い(好い)言葉なのではないでしょうか? 「やましさ反応はあくまで本人の主観の問題です。それなのにその奥底では人びとに共通の内容が捉えられるのではないかという理論です」 人間はみな好き嫌いも快苦もありますからね。心の奥底にはさらにリビドー貯蔵庫の無意識があるかもですね。 「尖閣をめぐるどこかの国の行動は事実までをねじまげていると考えられ、それは理性によるという見立てです」 中国と名前出しましょうよ。名前を出すのはやましかったですか? 名前を出さないほうがみみっちいと私なんかは思うんですが(隠蔽ですしね)、もしど忘れしてたならしょうがないです。 その理性もじつは下の「広義の」「理性」なんじゃないですか?  「ウソをついたという意識あるいは自覚はあります。(断定しますが)。ではウソをついてよいか?そこでは鉄面皮になっていなければやましいと感じるでしょう」 プレゼントもらって喜んでる子どもの姿や声を見てたら嬉しくてそれどころじゃないですよ。あなたからすれば、鉄面皮にでもなってないとやましさを感じるとしか思えないのかもしれませんが。ところで小さい子どもに「サンタなんかいないよ」と述べることがはたして常識でしょうか? なんにせよ、悪は命ある存在を損傷し殺害することですから、人格をもつ理性的存在を喜ばせることはなんら悪ではありませゆわが。 やましさ反応はカントの定言命法の感情バージョンを想定しているのかもしれませんが、カントの場合は彼の格率から考えると、「嘘をつくことを禁じる規則を我々が破ってよいのは、他人が私と同じ事態に直面したなら、彼もそうすることをすすんで意志するとき」ですから、普通に考えて喜んでる幼い我が子を進んで落ち込ませるような親はいないと考えるのが妥当でしょう。 「これらすべて広義の《理性》のもんだいです。身と心に分けたときその《心》の問題です。《精神》のことです。分けた限りでは《身》が知覚ないし感性のことになりますから」 なりますからて。行動のとこもそうですがもうなんでもありですね。言語的アナーキストって感じです。「私さいきん欲求不満なの」は「私さいきん理性不満なの」。「私は意志する」は「私は理性する」。常識が覆りますね。まさに価値観の転倒。 あなたのそのオリジナル定義は常識ではないですね。広義の理性ってどんな意味ですか? 辞書には載ってないですね。じゃあ広義じゃなくてあなたの辞書の「心」ですね。広義という語も「広義」で使ってますか? そんなローカルな「心」に意味ありますか? 私ならとてもじゃないですが「広義」なんて言えません。やましくて。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  ★ 医者が患者の自己決定権を阻害することになるんですよ? 共通主観とか常識だとかの話じゃなく、医者としての責任と患者の自己決定権の問題、対面しているAさんとBさんの問題です。  ☆ 医師にもその立ち場があります。患者がどうしてつねに優先されるのですか? そんなに死なせてくれというのなら 勝手に死ねばよい。    これは(この問題は) 社会として共通の倫理規約のようなものを取り決めるということではないでしょうか。  ★ 議論で事実「だけ」を使ってるとあなたが言ってるのがおかしいと指摘してるんですよ。  ☆ 空想の話をするときには 空想だとことわるということを言っています。それを否定されたと採ったのですから 反論しますよ。  ☆☆(No.12お礼欄) ~~~~~   ★ では「すべての命の尊さは等しい」は常識ですか、事実ですか?   ☆ どうお考えになりますか?   基礎理論と応用部門とでは 答えがいくぶん変わって来ますと述べておきます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   じゃあ先に答えますね。常識ではありません。価値が関わるので事実でもありません。   死刑賛成がまず日本では多数です。かりにその賛成と「命は尊い」という価値判断が両立するとして、今回は「すべての~等しい」があるのでこれまでのような異見は通用しません。日本国民の多数が死刑囚は殺してよいおよび殺すべきだとしている時点で、死刑囚と死刑囚ではない人間への態度に差があります。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 最後の一文には 現象のみを捉えてそれが 普遍性を持つかのように規定しようとしているきらいがあります。  つまり  ★ 死刑囚と死刑囚ではない人間への態度に差があります。  ☆ というのは その場で見せる一時的な態度のことです。あるいはつまり 《死刑囚》というそのときの状態を捉えて そうでない人間のその《死刑囚にはなっていないこと》と比べているだけのことです。  どちらにも 《いのち・存在・人間・意志・心・善と負の善・・・》があります。    人間どうしなら その《いのちのとうとさ》は互いにひとしいと言ってよいでしょう。   ほかの動物とは 比べるということが 筋違いです。その上でなら ひとしく尊びたいと言う思いを表わしてもよいでしょうが それは もう哲学の問題ではないわけです。  ★ もしあなたが家族や恋人の価値を死刑囚と等しい考えているなら受け入れがたいかもしれません。  ☆ 《価値》ではないのです 問題は。人間がこの世界におかれた初期条件のことです。否応なく受け留めて行かねばならない条件です。その内容としての《生きる》なら《生きる》として これ(つまり《生きる》)は どういう状態にある人間であってもひとしく自然本性において帯びている人間の条件です。    基礎理論だと言ってるぢゃないですか。土俵が同じなどという表面の段階ではなく 土壌が地続きですべてのひとに同じであろうという問題です。  ★★(回答No.12) 少年兵は死体の上に座ってご飯を食べることにやましさなど覚えません。  ★ なんにせよ、「特定の人、特定の場や情況、あるいは時代等々の条件」でこうなっている以上すでに、あなたの常識はいつでも・どこても・だれでもという意味での普遍的共同主観にはならないですね。  ☆ そういった条件によって そうなっているのなら 条件が違えば 違って来ましょう 《いのちのとうとさ》をめぐって。  ★ 心の奥底にはさらにリビドー貯蔵庫の無意識があるかもですね。  ☆ この仮説は すでに葬られたも同然では?  ★ ~~~~~~~~  やましさ反応はカントの定言命法の感情バージョンを想定しているのかもしれませんが、カントの場合は彼の格率から考えると、「嘘をつくことを禁じる規則を我々が破ってよいのは、他人が私と同じ事態に直面したなら、彼もそうすることをすすんで意志するとき」ですから、普通に考えて喜んでる幼い我が子を進んで落ち込ませるような親はいないと考えるのが妥当でしょう。  ~~~~~~~~~~  ☆ 応用部門ですから どうでもあり得ます。基礎領域と応用部門との区別が伝わっていませんね。  やましさ反応は それだけで意志にとっての判断を知らせます。それは もうそれだけで決定であり――それに従うかどうかは別でもあり―― そこで基礎領域はおしまいになります。  ウソをつくことは つねに例外なくやましさ反応に会うという基礎理論は もうそこで終えており そのあと それでも方便としてウソをつくことがあるかも知れないといったような思考の問題になって行きます。そのような応用部門では 場合に応じて人に応じてさまざまな場合が考えられます。部分的な要素がひとつ違っても その場合というのは違って来ます。  それでもそのカントは一般理論を捉えようとしているようですが ひとつに《ウソをつくことを禁じる規則》と言った時点で それは 基礎理論ではなくなっているということです。《規則〔規則化〕》が問題です。  ひとつに 考えてもみてください。《同じ事態》と言っていましょう? そんなことは あり得ないのです。まして 他人が経験する同じ事態のことだと言っています。無理です。《公約数》を考えそれを けっきょく《いのちのとうとさ》にまでさかのぼって取り出して来るだけなのだとわたしは言っています。   * 《公倍数》とどこかで 間違えて言ったおぼえがあります。    ☆☆(No.12お礼欄) ~~~~~~   ★ ~~~~~~~~~~  「子に事実を告げたら悲しむだろう」という理性的推論、「子を悲しませたくない、悲しむ子を見たくない」という欲求、「いずれ知ることになるだろうから、事実は告げないでおこう」という意志、これらすべてが親に隠蔽を選択させるのであり、理性だけを槍玉にあげるならそれは偏った判断です。   ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これらすべて広義の《理性》のもんだいです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ 広義の理性ってどんな意味ですか? 辞書には載ってないですね。  ☆ 《欲求》を採り入れるところの理性を言っています。むろんそのあと意志が判断し決定するのですが 《欲求》がひとり歩きするわけではありません。理性が その欲求の内容を よっしゃ取り上げてやろうと思って その方向その志向をある程度の行動の形式に仕立て上げるのです。    《意志》をも 広義の理性に入れたのは その意志決定の前の段階で 理性が選択肢の中身をお膳立てしているという意味です。  ★ 常識が覆りますね。まさに価値観の転倒。  ☆ !!!!!!!!!!!

  • manuke22
  • ベストアンサー率54% (19/35)
回答No.16

相手の返事に黒星つけて、自分の返事に白星つけるって、やましくないですか? 気にする人もいるんじゃないでしょうか。 「人間が自分ではどうにも出来ない与えられた条件とはワタシは《生まれた》ことです」 動物でも同じでしょう。 「人には人の基礎理論が・すなわち主観があるとまづ言っています。次に、だけれどもその基礎理論は最小限の内容としておそらく《いのちのとうとさ》を共有しているであろうと言っています」 ならそれをあなたが宣言したように論証してください。 ホッブズ「人々を平和に向かわせるのは死への恐怖であり、快適な生活に必要なものごとへの意欲であり、彼らの勤労によってそれらを獲得する希望である」 カント「理性的存在者は常に同時に目的として、すなわち、それ自身のうちにまさに同じその行動の目的を含むことが可能でなければならない存在者として、尊ばれなければならない」 アイン・ランド「自分自身の幸福の達成は人間の最高の道徳的目的である」 ソクラテス「私はむしろ今死んで人生の困苦を免れるほうがあきらかに自分のためによかったのであると思う」 「《存在》に成長するという可能性を見ないのですか?潜在的なチカラは存在から排除するのですか?」 「私」とは力だったんですね。オランウータンやチンパンジーも「私」と自称します。 潜在的な「私」などありません。「私」は潜在しているわけではないですから。それは後天的に形成されるものです。 ところで精子と卵子のどちらに「私」は潜在しているのでしょう。それとも精子や卵子に半々でしょうか。夢精や排卵は潜在的な私を死なせてしまうので悪いことでしょうか? 「応用部門に属しますが胎芽や胎児の段階を経なかった人間がいますか? だから中絶の是か非かについて意見を言ったと取りますか?」 あなたの理論からの論理的な帰結です。論理的な飛躍があれば指摘をどうぞ。 人はかつて胎芽や胎児だったでしょうね。それがなにか? 「不随意運動でも広い意味の《行動》に入れて」 そんなことをしたら随意運動との違いがなくなります。 「《生きる》行為と《生きている》状態とでそれほど隔たりがあるとは思えません」 「生きる」は行為ではないからですよ。 一般動詞に見えるから行為を意味していると考えるなら、「ソクラテスは死ぬ」の「死ぬ」は行為になってしまいますが、実際は「Socrates is mortal.」となるように「死ぬ」は行為ではありません。では状態? 違います。ソクラテスという主語に関する述定です。状態は「ソクラテスは死んでいる」です。 「も《身体の不随意運動による》、大きくワタシの行為として捉えることも出来るという物言いです」 こちらの意図を無視して捉えることができるから何なんでしょう。たしかに「呼吸している」と書いたほうがよかったのかもしれませんが、呼吸を司るのが自律神経であることは私にとって常識だったので気が回りませんでした。 あなたは意図的行為と非意図的な運動の区別を無差別化しています。「私は足を滑らせて崖から10m下の岩場へ落ちた」という文で、主語の私は意図せず足をすべらせたのであり、したがって「足を滑らせた」も「崖から~落ちた」も事故ないしは出来事です。行為ではありません。一般動詞だからといってなんでもかんでもその主語を行為主体にしてよいわけではありません。もちろん「私はわざとこけた」ならば「こけた」は行為です。 しかしあなたによれば「私は落とし穴に落ちた」も私の意図的な行為だとなりそうです。ならば「彼は車を居眠り運転していて人を轢き殺した」は事故ではなく事件ですね。これは奇妙でしょう。 文学表現であり、哲学はこれを基本的に嫌うものですが、ただしこのように《哲学が嫌う》という表現は基本的に言って排除されません。同じことです。 「能力に限界があることは、部活や勉強で苦労したりした経験や、寿命があったりなどの事実、これらを通して把握されます。神は要りません。 「この神は人生経験をふつうにおこなっているだけでは認識したことにはなりません。認識しえないと認識することになるのですが、それはこの経験世界を超えているというその《非経験の場》を想定することなしには無理です」 神もいらないですね。他我も認識できませんから。 「このあと神を《無い神》として無神論をいだく場合もあります。 「つまり《有る神》の有神論と同じように《非経験の場》という同じひとつの内容から成る存在(想定存在)として神を捉えたという場合です」 不可知論や不要論でいいんですよ。ムキになって神はいないとか言うから同等扱いされるんです。 どちらも神という語を材料にした純粋理性の誤りでしょう。 「無神論も有神論とまったく同じく対等に《信仰(つまり非思考の庭およびその動態)》です」 神という語に対する「信じる」という思惟作用cogitatumです。「疑う」をデカルトが「思考する」へ一般化したことを思い出しましょう。信仰というよりは、「神はいると私は信じる」という志向的態度ですから、いわば一種の態度表明です。   「仲間ないし人間どうしのあいだのコミュニケーションから捉えられる神は相対的な概念のみです」 神に限りませんね。人間ひとりに関してもそうです。神が一匹か二匹かもわからないのに。 「主観にとって善いことをするためにはやましさをできるだけ感じなくなることがしばしば役立つようです。 「つまり《できるだけ感じなくなること》と言っているのですから、その前には《感じる》段階があるというわけです。《やましさ反応》についてです」 家や学校でそう教育されるんですから。やましさは後天的な教育や経験の産物ですよ。 「あなたでも屁理屈を言うのですね」 反論をどうぞ。主観にとっての善悪ならこうなります。 「その他人の評価はどこから来ていますか? やましさ反応およびそれが共同主観であるようだと思う推測からではありませんか?」 当人の主観的経験でしょう。やましいという反応はある程度成長した大抵の人にあると思いますよ。私がやましさを感じるのは、命の尊さとは無縁に、たとえば人格をもつ友人に自分にとって都合の悪い事実を言わなかったときでしたね。やましいという反応はたしかに、「うわ、天気悪いなぁ」とか「テストの点数悪かった」ぐらいの意味で悪いものです。いわば好ましくないものですね。それはなんら倫理的善悪とは関係ないし、ましてや命の尊さなんて関係ないです。 「もし本人がその病気ないしからだの状態によってではなく、死期の自覚によって《尊厳死》を欲するということであれば、それは応用問題として人びとの考え合うところとなるでしょう」 それを人々が考え合うところにならないときとは、本人が病気または身体の状態によって尊厳死を欲し、かつ、死期の自覚によって尊厳死を欲しないときだ。 本人が健康面から尊厳死を欲するケースで人々は考え合ってるので、あなたの意見は誤りです。つまり、本人が死期を自覚したことによって尊厳を欲したわけではないときにも、医療関係者や哲学者や学生や市民などの人々は尊厳死を考えあっていることになるので、さらに偽です。 死期や病状はインフォームド・コンテントによって医者が患者に伝える責任があるので、本人がそうしたインフォメーションなしに死期を自覚して決定するなんてのはありません。 それにしても寿命ですかー。宗教が好きなんでしょうけれど、哲学者が文学的な表現を好まないとかにしてもそうですけど、もうちょっと地に足つけて考えましょうよ。あなたの言うようなケースならあなたはこの応用問題を考えるってことでしょう? 

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  ★ ~~~~~   「人間が自分ではどうにも出来ない与えられた条件とはワタシは《生まれた》ことです」  動物でも同じでしょう。  ~~~~~~  ☆ そのように《あたえられた》という条件を自覚しますか?  共同主観について  ★ ならそれをあなたが宣言したように論証してください  ☆ 基礎理論の宣言は それの叙述がそのまま宣言であり言わば証明です。  ひとつに ほかの人がその主観においてどう受け取るか。そこに証明の過程(作業)があります。  ひとつに その結果 少人数のあいだで共同化されたと仮りにしますと さらにその《基本主観》がいかに生きたか。この検証が それぞれにおいて成されます。初めの宣言内容と違っていなければ それが証明の作業になります。  仮説法(アブダクション)によっていると言えると思います。  ★ ホッブズ「人々を平和に向かわせるのは死への恐怖であり、快適な生活に必要なものごとへの意欲であり、彼らの勤労によってそれらを獲得する希望である」  ☆ 基本主観にあっては 初めにわれはわれと和解しており世界とも和解している。と宣言するのが 共同主観です。  つまり《平和に向かわせる》という動きを出発点に取るのではなく・つまりアラソイがあるから平和へ向かわせるかどうかを考えるというのではなく はじめに和解があった。から出発します。  ★ カント「理性的存在者は常に同時に目的として、すなわち、それ自身のうちにまさに同じその行動の目的を含むことが可能でなければならない存在者として、尊ばれなければならない」  ☆ 基礎理論にかんしてその理論認識以前のかたちにおいて=すなわち身と心の一体なる《わたし》としての存在動態においては だれしも《いのちのとうとさ》を知っており潜在意識としてのように自覚している。と宣言したとする。  そのあと ものごころがつくなら       わたしはわたしである。 1=1  と宣言する。この存在をよく推し進めようと思えば    《わたしはわたしである》わたしがわたしする。 1X1=1  と自己表明する。(しなくても そのように行動する)。     もしそのワタシの道から逸れたと――つまりやましさ反応を    感じた――と思ったときには ワタシの《一》が 2に増えた    りマイナスになったりしたその姿を初めのワタシの道に立ち    帰らせる。                          (1X1)X1=1  すなわち ワタシは 初めの自己宣言したワタシにつねに立ち戻る。これは あたかも自己の連乗積をつくってあゆむかたちである。1^n =1  このようなワタシの道程の中身を アマテラス普遍概念を用いて説明したのが カントである。《当為》としての自己表現は 本人にとっても他人にとっても いささか堅苦しいと思われる。  ★ アイン・ランド「自分自身の幸福の達成は人間の最高の道徳的目的である」  ☆ 《幸福》は 初めの共同主観に立つ基本主観を 青年として生き壮年としてもさらに作り上げることが出来れば そのさいわいこの上ないというところでしょう。老年もそうですが おまけといった感もある。  《道徳》は アマテラス人格語として 練れているでしょうが ただの絵に描いた餅です。それに従おうとするのは 自己の思考や意志の放棄にまで到り得る。てめえで考えて生きよと言われるでしょうね。  ★ ソクラテス「私はむしろ今死んで人生の困苦を免れるほうがあきらかに自分のためによかったのであると思う」  ☆ ソークラテースくんよ わたしはまだ分かんないよ あんたの心が。  ★ 潜在的な「私」などありません。「私」は潜在しているわけではないですから。それは後天的に形成されるものです。  ☆ 《後天的に形成されるもの》は 潜在していたという可能性が まったくないでしょうか?  ★ ところで精子と卵子のどちらに「私」は潜在しているのでしょう。それとも精子や卵子に半々でしょうか。夢精や排卵は潜在的な私を死なせてしまうので悪いことでしょうか?  ☆ 前問は 神秘ですね。後問は どういう答えを用意されていますか?  ★ 人はかつて胎芽や胎児だったでしょうね。それがなにか?  ☆ 《わたし》も 同じでしょう。  ★ もちろん「私はわざとこけた」ならば「こけた」は行為です。  ☆ もし体裁をつくろって 《思わずこけた》のが事実であるところを 仮りに《わたしは ちょっとあそこではパーフォーマンスが必要と思ったので わざとこけてやったのだ》と言った場合には どうなりますか?  おそらく 意志なく意図しない場合でも 何か自分に出来事があったのなら それは広く《行為》でしょう。非自発的行為です。  ★ 神もいらないですね。  ☆ ですから それは《無い神》としているということです。神も要らないと表現することにおいて 要るかたちです。さもなければ かみという言葉は死語だと証明しなければ話は 終わりません。  ★ どちらも神という語を材料にした純粋理性の誤りでしょう。  ☆ だから言わんこっちゃないです。理性は 人間のものです。経験事象です。非経験の場が どうして経験事象と同じ扱いになるのでしょう? 精神は神ではありません。哲学・神学のいろはのいです。  ★ 神という語に対する「信じる」という思惟作用cogitatumです。  ☆ 非経験の場が どうして経験思考によって認識され得ましょう? めちゃくちゃです。  ★ 「神はいると私は信じる」という志向的態度  ☆ こんな程度なら その《信じる》は ただただ《思い込む》とか《想念においてじっといだく》とか単なる経験事象のことを言うまでです。つまり 成っていません。  ★ やましさは後天的な教育や経験の産物ですよ。  ☆ ものごころが着くという事件をかんがみるなら 《後天的》なものです やましさは。その以前にあったか? あったに決まってるぢゃん。  ★ ~~~~~     「あなたでも屁理屈を言うのですね」  反論をどうぞ。主観にとっての善悪ならこうなります。  ~~~~~~~~  ☆ 小気味よくガンコですね。    ★ 本人が健康面から尊厳死を欲するケースで人々は考え合ってるので、あなたの意見は誤りです。  ☆ 本人やその周りの人びとから見てですね。  わたしの――応用部門における――意見は どうしても出せというものですから 出しましたが そしてそれで決まりだとは思っていませんが それでも いまのところ それをしのぐ意見には出会っていません。  つまり 今の段階で わたしの意見は誤りだと見る人びとの意見が 間違っていると思っています。言いかえると 本人が気づいていないということも考えられますし 一般には《かみ》のことをまだ知らないで 死や人生について意見を持つに過ぎない状態にあるという理由もありましょうね。  ★ 死期や病状  ☆ 病状についてさえ医師もときには間違えることがある。死期については さらに度合いを増して 医師必ずしも正しからずでしょう。当たるときもありますが 間違うときもあります。  本人がまったく何の医学の知識もなしに死期を知ることは あり得ませんか?  ★ それにしても寿命ですかー。  ☆ これは 応用部門です。

  • manuke22
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回答No.15

第一、「~は悪である」は真理値をとる事実命題ではなく価値判断です。「殺人は悪である」は「殺人をするべきではない」や「殺人をしてはならない」を意味するなら(意味しないならただの感情表現です)、「してはならない」は事実命題ではなく禁止表現です。「殺人をしてはならない」は事実確認的発話(あるいは記述)ではなく、行為遂行的発話(記述)です。「人を殺すな」と「命を大事にしてください」は命令と要請ですが、この文に対応する事実などありません。それは命題ではなく文であり、他人にある行為をしないように促す言語行為です。創世記では「光あれ」という言語行為によって神は「光を創造する」という行為を遂行したわけです。 もし、「命ある存在を損傷したり殺害したりすることは悪だ」という文が、「命ある存在を損傷したり殺害したりすることをすべきだ」を意味するなら、あなたの基礎理論は倫理として成立しないでしょう。「命ある存在を損傷したり殺害したりしてもよいししなくてもよい」というどっちつかずの自由を主張しているわけでもないでしょう。 「自然法において変動しないのは《いのちの大切さ》くらいでしょう」 違います。生への執着、死への恐怖です。ロックやホッブズの自然法はそうした欲求に由来した利害関係です。自然法の「基礎理論」に関しても十人十色でかまわないのでしょうか。 「そのとおりですがだからと言って明日からお天道さまが西から上がってくることはないでしょう」 なぜ?  というよりそれを認めるなら、「この条件はほかにもっと妥当な定義や説明があればそれをえらぶものです」が成り立たないと同意するものです。 「ですからわたしたちは・あるいは哲学はその《有用な信仰》があやまりであることを論証し説得することまでは出来ます」 わたしたち? 複数人でお返事を書いてくれてるんですか? 「普通の神」とか「誤りである信仰」とか、私はそこまで尊大にはなれません。 「というふうにまで人間は他人の人生や人格にまで分け入って自分の持つ見方を表明することができます。それと同じように応用部門では十人十色の意見が出てもよいわけです」 それと同じように? これがなぜ後の文につながるのかまったくわかりません。 基礎理論では多用な意見は出ない、あるいは出てよいとはならないんでしょうか? 実際、自然法では多様な意見が出ますけれど。ジャイナ教の生命観は正しいですか? 有用かつ誤った信仰ですか? 有用かつ正しい信仰ですか? あなたは応用倫理では十人十色でよいと述べる。死刑に関しては では「どうしてあなたを殺してはいけないのか?」と聞かれたら 「ここはじつは基礎理論のもんだいなのですが、それでも誰であってもどんな状態にあっても、認識を持ち得てそれぞれの歴史があり得るということ、このことに例外はないわけですから」 「ですから心臓は動いているとあなたも言い添えているように《いのちの大切さ》という基礎理論はどこまでも有効です。両立すると言ってるぢゃありませんか」 命の大切さは理論ではありません。あなたの主観、すなわち価値判断であり、命に対する態度表明です。あなたが死刑存置に対して賛成し、かつ、命は大切だという価値判断も保持することはたしかでしょう。そしてそれは死刑廃止に対しても言えるんじゃないですか? もしそうならば、あなたがそれらを両立できるのは、あなたが応用倫理の議論には参加しないがゆえです。ロックやホッブズやアクィナスらと違って、どっち付かずであることによって、どっちでもオッケーなわけです。違うならば、比較しないのは私の自由とか言ってないで、死刑賛成か反対かはっきりさせればよいでしょう。 自然法が成り立つには 「《命より教義を重視する》問題は《神》を知らないというもんだいです。ふつうの神について互いに話し合うのが対策です」 「普通の神」。はじめて聞きました。つまりイスラム教信者が信じる神すなわちアッラーはアブノーマルな神であり、異常であり、正常ではないわけですか? 「あなたの神は普通ではない。それより普通の神について話しましょう」なんて日本のイスラム教信者に言うんでしょうか。それとも、あなたの信仰の仕方は間違いだ、でしょうか。だとするなら信仰の自由を理由に対話を拒否する権利がイスラム教信者側にあると思われます。 なぜ間違いなのか。「命を大切にしていない」から?  「《森のひと(オランウータン)》にそれほど――《種差》ではなく《程度差》だというほどに――肩入れをするのなら、脳死者や胎児にもそれに劣らぬ配慮をお願いします。まさか効用主義者ではないでしょうね」 まさかとはどういう意味でしょう? 程度差でしょう。人間には歴史があると言ったからオランウータンには私的な歴史に必要だろう記憶や認識があると述べました。「私」という主語を人間は使うと言ったからチンパンジーやオランウータンもそうだと述べました。肩入れじゃなく事実の報告ですよ。この報告が「肩入れ」にすぎないと言うならば、すべてのオランウータンやチンパンジーは「私」という語をこれまで一度も使ったことはないという事実が必要ではないでしようか。「肩入れ」だと言うぐらいなんですから。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきまして。  ★ 第一、「~は悪である」は真理値をとる事実命題ではなく価値判断です。  ☆ ええっとですね。  1. 文は いわゆる何か分からないが 何かを表出したいというときの自己表現である。とその一面での性格内容を規定します。  2. この文は 自己表出が落ち着いたかたちできちんとした自己表現となれば 話し手(自己のことですが)の判断を表明します。意志のありか。または 意志のあり方・内容です。心と言ってもよいでしょう。     3. この判断の中に いい天気だといった事実認識もあれば 好き嫌いから何かを欲するというような願望内容までをも含めて自己の価値や意向をうったえるような判断の表明もあります。欲するなら 命令法もあれば 否定命令としての禁止法もあります。(法というのは ここで 判断のかたちを言います)。    4. いま問題とされていると思われることは その文の類型区分にあるのではなく そうではなく こちら側の見方としては やはり文が 自己表現としてどこまでも《主観》の表明であるということにあると推測します。  5. 言いかえると 命令法であろうが ただの事実認識であろうが その文を受けた側は それを話し手の主観として受け留めればよい。これです。  6. スサノヲ人間語に発するというのが 原点であると考えます。  7. であるならば 思想および表現は自由なのです。表現する側も受け取る側も 対等な主観どうしの交通として 互いに自由です。アマテラス公民としての地位身分などを削ぎ落としたにんげんとしてのスサノヲ市民どうしとして 対等な関係にあると――公理として――説き起こします。  8. そのとき相手は その文の内容はマチガイであると思うなら マチガイだと答えればよいのですし 分からないところがあれば 問い返せばよく 命令に聞こえていやだと思えば そう返せばよい。という自由です。  引用をはぶき 全体としてこう考えましたが どうでしょう?  ★ ~~~~~   「自然法において変動しないのは《いのちの大切さ》くらいでしょう」  違います。生への執着、死への恐怖です。ロックやホッブズの自然法はそうした欲求に由来した利害関係です。  ~~~~~~~~  ☆ 《ニルワーナ》という用語を持ち出すかどうかを別として 世界には この《生への執着》から自由な境地を自己表現した人間たちがいます。そういう心をおのが判断として表明しています。あんがい多くの人びとが 賛同しているようです。  《死への恐怖》は 《いのちの大切さ》のことだと思います。  利害関係というのは いささか乱暴に言えば アマテラス公民としての職業生活から来ている。確かに仕事を人生から抜きにしてよいわけではありませんが(だから乱暴な議論ですが) では人間語を話すスサノヲ市民にとって 利害関係がその人間語の中に欠かすべからざるものとして入っているかと言えば どうでしょう? おそらく入っているとすればそれは 互いに自由にけんかして(つまり多少の欲を出して何かの奪い合いになるという程度のけんかをして)ツキアイをつづけるときのぶつかり合いくらいではないでしょうか?  スサノヲ市民どうしなら 《互いに生活を大事にするところの――そこには確かに貸し借り関係も生じて来ているけれど それも助け合いだというところの――共存》というような内容として《いのちのとうとさ》は 解釈されて現実となっていることでしょう。  ★ ~~~~  「そのとおりですがだからと言って明日からお天道さまが西から上がってくることはないでしょう」  なぜ? というよりそれを認めるなら、「この条件はほかにもっと妥当な定義や説明があればそれをえらぶものです」が成り立たないと同意するものです。  ~~~~~~~  ☆ ぎゃくだと思います。あたらしい条件があらわれれば――日が北半球で西から上がるようになれば―― それに応じて定義や説明も変えたほうがよいようになるかも知れません。  ★ 「普通の神」とか「誤りである信仰」とか、私はそこまで尊大にはなれません。  ☆ これは すでに基礎理論に伴なわれる《非経験の場》の神学についても 必要な限りで 明らかにして来ていますので そこでの議論につくのがよいと考えます。《ふつう / 誤り》如何についてです。もしそうだとしたら そこから議論を起こしてください。  ☆☆(No.11補足欄) ~~~~~~   ★( a ) 脳死者は認識なんてしませんよ。胎児もそう。胎芽や胎児に歴史なんてありません。   ☆ というふうにまで人間は他人の人生や人格にまで分け入って自分の持つ見方を表明することができます。それと同じように応用部門では十人十色の意見が出てもよいわけです。  ~~~~~~~~~~~~~  ★ それと同じように? これがなぜ後の文につながるのかまったくわかりません。・・・  ☆ この( a )文は 応用部門における発言です。人によって見方が分かれるはずだという部門です。その十人十色の発言が自由に行なわれると言ったまでです。  ★ 基礎理論では多用な意見は出ない、あるいは出てよいとはならないんでしょうか?  ☆ 共同主観としては 人びとそれぞれの主観のあいだの公倍数を求めています。《最大》としても 《いのちのとうとさ》くらいではないかという問題提起です。そのほかにあれば 出てもよいわけです。  ジャイナイズムについては すでにしりぞけました。参照願えればさいわいです。  ★ ~~~~  あなたは応用倫理では十人十色でよいと述べる。死刑に関しては  では「どうしてあなたを殺してはいけないのか?」と聞かれたら  ~~~~~~  ☆ 意志行為が中断されるからです。自分の意志によってさえそのみづからの意志行為の道程を断つことは 存在の保持に反するものと思われます。やましさ反応も出るものと思います。  ★ 比較しないのは私の自由とか言ってないで、死刑賛成か反対かはっきりさせればよいでしょう。  ☆ すでに死刑廃止に向けて ゆるやかに潮は流れ始めています。と見ているだけでよいと思っているからです。  ★ つまりイスラム教信者が信じる神すなわちアッラーはアブノーマルな神であり、異常であり、正常ではないわけですか?  ☆ イスラーム全般については保留します。また アッラーフは 神の名です。《無い神》と同じように そう呼ぶときの名です。  そしてここでの問題は 《教義を神とする》なら それは《神》ではないことです。オシエは律法規範と同じように 非思考ではなく 思考の問題になるからです。  非経験の場として想定するもの そのように雲をつかむようにしか定義できないナゾの何ものか これが ふつうの神です。  ★ 〔オランウータンと胎児や脳死者とのあいだは〕程度差でしょう。   ★★(回答No.11) オランウータンはヒトという種に属さないので人生という語を用いたその質問は不適切です。  ☆ 《肩入れ》ではなく 耽溺でした。

  • manuke22
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回答No.14

ところでキリスト教は殺人や傷害を無条件に禁じてはいませんよね。 創世記 9:6 「人に血を流させる者はだれでも人によって血を流させられる」 出エジプト 21:12 「人を打って死なせた者は必ず死刑に処される」 同:14 「だが、自分の仲間に対して怒り、悪意をもって仲間を殺すに至ったならばry その者を捕らえて死に至らしめるように」 同:16「また、人を誘拐して売り渡した者はry 必ず死に処される」 サムエル1 15:3 「あなたはアマレクを打ち倒し、そのもっているものすべてとこれを滅びに捧げなければならず、これに同情してはならない。あなたは彼らを、男女、子どもに乳飲み子、牛も羊も、ラクダもロバも殺さなければならない」 同情してはならないとさえ言いますね。 出エジプト 21:22 「人と人がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償 を支払わなければならない」 聖書では、魂には魂を、すなわち死には死をという応報主義がよく見られますが、ここでは流産した子は魂として認められていないようです。 命は尊いとか中絶は悪いとかの話題でなぜ頻繁に聖書をもちだすのかわからないので引用しましたが、ぜひあなたの言う「普通の神」と思われるヤハウェのこの尊いお言葉について意見を聞かせてください。 「くみしませんが思想・表現の自由は自由です」 そんなんで合意を語るんですか? 自分はあなたにくみさないからあなたも自分にくみさなくていいですよ、みたいな感じでしょうか。合意不可能ですね。相互不干渉なわけですから。 生命は尊くないと考える人がいるとして、その人を放置する自由を謳歌することは自然法からの判断ですか? なんにせよ、くみさないなら「尊い命と尊くない命があると考える人が多い」を批判すればいいんです。たとえば死刑賛成派の一部が「殺人者はケダモノだ」という感情論を述べるとき、その人が殺人者の命と同じく自分の家族の命を尊いと考えていることを示せばよいわけです。 「つまりヒトをほかの生物から差別するのがふつうだとおっしゃったことになります」 普通だとは言ってませんし、「優れた」は皮肉ですよ。ある考えが普通であることが、それだけでその考えを論理的にも倫理的にも正当化することはありません。 「それを公理だと言うのも何だかヘンですが、おそらくそのような出発点に立つよりほかに世界を見るにあたってない。と帰結されるのではないでしょうか?」 普通だとは言ってませんよ。「優れた」は皮肉です。 ジャイナ教はそうじゃないですからそうは考えませんね。水に微生物が入ってるとわかったら水を飲まないで死にさえする人と、酒を飲み虫を殺す私が同様に普通であるなんてとても言えません。 「そうしたことを考えたりおこなったりするのは人間の自由意志によっています。この自由意志の用い方を変えようと思えば変えられる。でしょう」 ある人が自由意志の用い方を変えようと思えば、自由意志の用い方は変えられる。ある人が自由意志の用い方が変えられないなら、自由意志の用い方を変えようとしていない。自由意志による考えや行為を変えようとするかしないかは本人の自由であり、自由意志を侵害することは悪である。悪いことはしてはならないことだ。したがって、相手が拒否するのに相手の意見を変えようとしてはならない。 自由主義は素晴らしいですね。愚行権も保証してくれるわけですから。当然ながら死ぬ権利も。そして生きる義務はないですし。 「その考えは理性のものです。感性としての生理的心理的反応は――それこそが身と心から成る存在の帯びる人格としての判断になるかと見ますが――《いのちなる存在がとうとい》だと考えます」 「命なる存在が尊いと考える」という言語化された判断や思考が理性とは無縁であると見なすなら、それは誤りでしょう。存在について感性でも五感でも考えたりできません。反応ではなく判断です。 人格は理性的存在に用いられるべき概念です。宗教的にも、哲学的にも。たしか理性は自然法にも関わってたはずなんですが。 「通念はあやふやですが国連憲章のように成文化したもののほうがもっとあやふやでしょう」 なぜ「もっと」と比較可能なのでしょうか。また、成文法を批判を下に見ることはあなたの理論や通念により確実さを与えることにはなりません。基礎理論と言うなら重大な現実問題を支えることができるよう基礎を固めるべきでしょう。基礎があやふやならまさに砂上の楼閣です。 「微妙なことですがそのように《比較》することからは自由だという意味です」 とは言うものの、死体はゴミであり生体はゴミではないわけですから、生体は死体より尊い(価値がある)はずですね。 アリストテレスは植物と動物と人間を比較しましたし、アクィナスはヒトがいつ魂をもつかを論じましたし。比較することから自由だというのは、比較しなくてもよいし比較してもよいわけでしょう。なんでしないんでしょう。やましいですか? 「比べてよいとか悪いとかいう性質のものではないということですが、そう言うとよりいっそう動物差別主義だと言われるかも知れません。けれどもその種差を見ないとすれば――見ても忘れようとするのならば――どうしてそんなふうに動物の機嫌を取らねばならないかという問いを提出します」 機嫌を取るとかの話ではないでしょうに。 なら性差や人種の問題を見ないとすれば、どうして黒人や男(あるいは女)の機嫌をとらねばならないのでしょう? となります。白人に黒人の機嫌をとる義務はありますか?  動物倫理について考えない、なぜなら種差があるから。この時点であなたは種差があるという事実を「生物種が違うだけ」だとは見なしていません。自分がそれについて考えないことを正当化する理由として使っています。 それがあなたの「善く生きる」ですか? 牛や豚の衛生環境にコストをかけず劣悪な環境で飼育することで経費削減をする実利主義に、この点では賛成するということでしょうか。食うための殺害は仕方がないとして、苦痛を与える損傷(断尾、嘴の切除、汚い檻、気絶させるための処置の不完全さ)を抑える努力をするのが、悪に関するあなたの記述からしても悪ではない判断でしょう。生命をもつ存在は尊いとしながらあなたは、なんで動物の「機嫌」をとらなければならないのかなどと言いましたが、機嫌とかそういう次元の話じゃないことは流石にもうわかるでしょう。私としては、あなたよりどんなに哲学に詳しくなかろうが、存在とか基礎理論とかに拘泥して「命は尊い」という美辞を繰り返すばかりではない子らのほうが、はるかに命に対して真摯だと断言します。もちろん安易に人間非難をすることには反対ですが。一時期話題になった反捕鯨団体の主張や行動には不適当なものが多いですし。もし屠殺や家畜の飼育や動物実験や過剰生産や効率重視かつ倫理軽視の実態を知っているうえでそういうことを言っているなら、それこそ感性ではなく理論重視の純粋理性のたまものではありませんか?  ちょっと長くなりました。アニマル・ウェルフェアは動物の「ご機嫌とり」である、是か否か? この箇所に関する返答はこの質問に対してだけでけっこうです。「この箇所」ですよ。 「《無条件に命題が成立する》ことと《その命題が現実にどのように適用されているか》とは別の問題になりえます」 違うでしょう。あなたが言っているのは「自殺であれ他殺であれ、ヒトであれヒト以外であれ、殺すことは無条件に悪である」です。この文全体が無条件に成立するという話ではありません。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ 動物倫理について考えない、なぜなら種差があるから。この時点であなたは種差があるという事実を「生物種が違うだけ」だとは見なしていません。自分がそれについて考えないことを正当化する理由として使っています。  ☆ これは あなたの提起した議論から始まっています。胎児と動物との異同は如何に? と。  ヒトとほかの生物との種差を言ったなら あとは個々の事例で比較などしないと答えたまで。  《動物倫理》って何ですか? 動物をどのように人間が扱うか? ですか。  それは それとして 考えるでしょう。いまの質問にかかわっていますか?  ★ 牛や豚の衛生環境にコストをかけず劣悪な環境で飼育することで経費削減をする実利主義に、この点では賛成するということでしょうか。  ☆ もし仕事のほかに子育てやお年寄りの介護に時間と労力を割いていれば 動物のいわゆる愛護でしょうか そういうことに物理的に割く手間も暇ももうないという場合もありましょう。  問題があれば 社会はまた政府は しかるべく対処しましょう。  いまは話の筋がちがいます。  ★ 一時期話題になった反捕鯨団体の主張や行動には不適当なものが多いですし。  ☆ といった問題を ここでもっぱら話題にするわけには行かないと考えます。  ★ もし屠殺や家畜の飼育や動物実験や過剰生産や効率重視かつ倫理軽視の実態を知っているうえでそういうことを言っているなら、それこそ感性ではなく理論重視の純粋理性のたまものではありませんか?  ☆ あなたは 食肉用の動物をやさしくころせばよいと言っているように聞こえます。誤解でしょうが そうでないと言うためには どうあればよいかを示したほうがよいでしょう。  おとぎ話をもう一例出しておきます。  ▲ (イザヤ書 11:6-10 ) ~~~~~  6:狼は小羊と共に宿り  豹は子山羊と共に伏す。  子牛は若獅子と共に育ち  小さい子供がそれらを導く。  7:牛も熊も共に草をはみ  その子らは共に伏し  獅子も牛もひとしく干し草を食らう。  8:乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ  幼子は蝮の巣に手を入れる。  9:わたしの聖なる山においては  何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。  水が海を覆っているように  大地は主を知る知識で満たされる。  10:その日が来れば  エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ  国々はそれを求めて集う。  そのとどまるところは栄光に輝く。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《大地は主を知る知識で満たされる》( 11:9 )というのが 信仰(非思考の庭なる動態)を別にすれば いまの《基本主観》の共同化を言います。  ★  アニマル・ウェルフェアは動物の「ご機嫌とり」である、是か否か? この箇所に関する返答はこの質問に対してだけでけっこうです。  ☆ 初めからひとつづつ文を取り上げて来ましたから もうそのままとします。  ご機嫌取りではないかというのは 胎児や高齢弱者よりも動物愛護に力点を置かれているようなので それは どうしたことか? と問うたまでです。  ★ あなたが言っているのは「自殺であれ他殺であれ、ヒトであれヒト以外であれ、殺すことは無条件に悪である」です。  ☆ 微妙に でも 基本的に 違います。   《・・・殺すことは 〔一人ひとりの主観において やましさ反応を経て やましさをおぼえるなら〕無条件に〔善の損傷として その人は 殺すことが〕悪である〔と思うであろう〕》  と言っています。  そしてこのように  ☆☆ 「《無条件に命題が成立する》ことと《その命題が現実にどのように適用されているか》とは別の問題になりえます」  ☆ とも言っています。    11:6:狼は小羊と共に宿り      豹は子山羊と共に伏す。    11:8:乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ      幼子は蝮の巣に手を入れる。  というようには まだなっていないという意味です。

bragelonne
質問者

補足

 つづいてです。  ★ ~~~~~  ところでキリスト教は殺人や傷害を無条件に禁じてはいませんよね。  創世記 9:6  「人に血を流させる者はだれでも人によって血を流させられる」  出エジプト 21:12  「人を打って死なせた者は必ず死刑に処される」  ・・・・  ~~~~~~~~~  ☆ これは――と言ってもわたしは水による洗礼を受けず どの教会にも属していませんが・無教会主義でもありませんが この聖書の解釈としては―― 一にも二にも《律法》という規範の問題が横たわっています。  この《規範》のもんだいは 前回(No.13補足欄など)かなり触れ得たと考えます。  一方では 律法規範の一字一句もおろそかにしてはならないといった考えも示されているようですが 基本的には 基礎理論は 律法規範や道徳ではありません。それが共同主観に〔おそらく観念の共同化として 権力とその権威をおそれさせるための規制あるいは抑圧としてのはたらきを持ち得ますが その共同観念ないし共同幻想とは成り得ても 共同主観には〕成ることはありません。  モーセの時代からイエスの登場までの歴史においてのみ――ユダヤイストをのぞけば―― 律法による社会的規律化の制度があったというのみです。  またもうひとつの要因が そこにはあります。これも 共同体にとっての秩序をおもんじた結果なのですが 社会的な規範としての律法は ひとつの前提として 《民族(民族共同体)》という実際があります。要するにひとつの親類仲間の集まりとしての民族としてまとまれという要請があって その規範があるという事情です。    ほかの民族に対しては 特にきびしい。特によその人間には 生命の尊重がおよばない。ことがある。引用してもらったところから:  ★ 出エジプト記 21:14 ~~~~~~~~  「だが、自分の仲間に対して怒り、悪意をもって仲間を殺すに至ったならばry その者を捕らえて死に至らしめるように」  ★ サムエル1 15:3 ~~~~~~~~  「あなたはアマレクを打ち倒し、そのもっているものすべてとこれを滅びに捧げなければならず、これに同情してはならない。あなたは彼らを、男女、子どもに乳飲み子、牛も羊も、ラクダもロバも殺さなければならない」   同情してはならないとさえ言いますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というのが――緊急避難かどうかは議論していただくとして―― 実情です。竹島・尖閣どころの話ではないようなのです。(いえ 民族間の隔絶を見てしまうという問題としては 同じなのでしょう)。  よその人間をふつうに愛するということは いのちがけだったのでしょう。  というわけで――必ずしも理論に沿った議論ではないことを承知の上でですが―― 旧約聖書の時代については 少し割り引いて受け取るというのが よいと思うと言っても それほど牽強付会な話でもないと思うのですが どうでしょう?  応用部門に仕分けするのは 逃げでしかないでしょうか?  言わば待ったなしの(生死にかかわる)事実問題が目の前にあるといった事情です。  ☆☆(No.11お礼欄) ~~~~~   ★ 尊い生命と尊くない生命があると多くの人は考えていると見なすのが妥当です。   ☆ くみしませんが 思想・表現の自由は自由です。  ~~~~~~~~~~~~~~  ★ そんなんで合意を語るんですか? 自分はあなたにくみさないからあなたも自分にくみさなくていいですよ、みたいな感じでしょうか。合意不可能ですね。相互不干渉なわけですから。  ☆ ヒトと動植物そして無生物 これらの区分を言ったことで 基本主観(基礎理論)は済んでいますという意味です。《優劣や尊卑》をうんぬんすることは 別の話だという意味です。《くみするかしないかとも別だ》と言えばよかったようです。  つまり 《尊い生命と尊くない生命がある》と多くの場合表現されるその意味内容は 《種差がある》ということにあって ほかの意味ではない。つまり《とうとさの度合い》という意味では ほんとうにはないであろうと見る。こういう趣旨です。  上の場合は 特には《ことばの表現》の問題だと思いますが それに対して  ★ 生命は尊くないと考える人がいるとして、その人を放置する自由を謳歌することは自然法からの判断ですか?  ☆ これは 放置しないのですが したがって機会をとらえて(また いきなりにではなく あいさつを終えいくらか信頼関係が出来てから) 互いに自由に批判しあってもよいと考えます。  わたしも 《いのちのとうとさ》というふうに表現していますが これは 種差を認識したあとそれとは別に 今度は人間の存在に絞った上で 存在の持続過程における意志決定にはやましさ反応が人間には起きる。この反応にからんで人間は 善と負の善との判別の問題を持つ。というところから出て来ている表現であり主題です。善としては いのちがとうとい。ということであり それだけのことです。  逆に言うと 犬猫が――オランウータンは どうであるか知りませんが―― やましさ反応を持つとは思わないから 種が別だと見ている。というただそれだけのことであり それだけのことなのだから 種のあいだに優劣や尊卑があるなどとは考えようともしていない。となります。  しいてこの問題にからみあって行くならば  ★ たとえば死刑賛成派の一部が「殺人者はケダモノだ」という感情論を述べるとき、その人が殺人者の命と同じく自分の家族の命を尊いと考えていることを示せばよいわけです。  ☆ というときには どちらの側にあっても 基礎理論としての共同主観に おのおの 立ち帰って その基本主観をあらためてとうとぶということがいちばん大事だと見ます。目に見えない出来事でしかないかも知れませんが いつも大事にしていてよいことだと考えます。  ★ ある考えが普通であることが、それだけでその考えを論理的にも倫理的にも正当化することはありません。  ☆ ここは 種差のもんだいです。《ほかの動物より〔皮肉としての〕優れた思考能力をもつ人間》 これで 種差が明らかにされています。種差という事実を言ったか言わないかの問題であって 言ったからその事実認識を《正当化する》ことにはなりません。  ★ 水に微生物が入ってるとわかったら水を飲まないで死にさえする人と、酒を飲み虫を殺す私が同様に普通であるなんてとても言えません。  ☆ いちいちわざわざ感性による知覚のほかに 言葉を用いて概念化し 理論をこしらえて行動する。あるいは そういう行動の仕方もあるかとまでは思うが 自分はそうはしない。これは ヒトなる種として 同じではないですか? けれども《水》なる神々のうちの神なる霊を ジャイナ人は飲んでもよいのでしょうか? 食べ物を食べてもよいのでしょうか?  ★ 自由主義は素晴らしいですね。愚行権も保証してくれるわけですから。  ☆ ですから この質問のように共同主観を問い求めてバカ丸出しで質問しやり取りし愚行権を行使しています。自由であれ。基本主観に立て。と言っています。  ★ 人格は理性的存在に用いられるべき概念です。  ☆ 《理性的存在》と言えば 身と心 身体と精神 感性と理性 その一体となった全体を言っています。  ★ ~~~~~~   「通念はあやふやですが国連憲章のように成文化したもののほうがもっとあやふやでしょう」  なぜ「もっと」と比較可能なのでしょうか。  ~~~~~~~~~  ☆ これは 事実問題です。うつろいゆく情況の一断面を言ったものです。そうでありうるということ。そして そうでありうることを例証すれば 少なくとも理性が感性よりもエライという通念がゆらぐでしょう。それを狙ったまでです。  ★ 基礎理論と言うなら重大な現実問題を支えることができるよう基礎を固めるべきでしょう。  ☆ 固めないでおくことがよい場合 かためる必要がない場合があるという議論を おおむね今はして来ています。そのために《成文法》のだらしなさを指摘したまで。  つねに主題があって焦点が絞られて どのような細かい目的のために表現しているか。こんなことくらい お分かりでしょう。  ★ 重大な現実問題を支えること  ☆ は ほとんどやはり応用領域の学問や経験知にもとめることになりましょう。  ★ とは言うものの、死体はゴミであり生体はゴミではないわけですから、生体は死体より尊い(価値がある)はずですね。  ☆ 焦点が違って来ます。死体は・つまり人間の死は そこでひとまづおしまいだということを言っています それが骸がゴミだという表現です。  生体は まだおしまいになっていない。そのことが ゴミではないという表現にそのまま移行するとは 考えません。焦点をたがえて 何か別の主題を取り上げてから そのような表現の移行・転用をねがいます。  ★ 比較することから自由だというのは、比較しなくてもよいし比較してもよいわけでしょう。なんでしないんでしょう。やましいですか?  ☆ あなたの議論は 胎児や脳死者と動物との《比較》でしょう。それを 大きく種差の存在という見方と直接にからませることは 筋がちがうと言っています。  アリストテレスが具体的に何と言っているか知りません。アクィナスが《たましい》というとき それについて定義しないと話は始まりません。神の霊なら 《それがいつから持たれるか》という問いはあり得ません。時空間を超えているという想定ですから。  (つづく)

  • manuke22
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回答No.13

「そのように自分のことをワタシと称して示すそのモノ。これを別様に《存在とあらわしています。この言葉をしゃべる存在は人間と呼ばれますが、この人間が世界を見渡して広くものごとがあることを、一般にこの存在という語であらわすこともします。人間に近い存在は動物ないし生物です。生命があると見られるからです」 手話を覚えたオランウータンだったかチンパンジーも「I」を用いるので《存在》ですね。 「無生物は同じく存在と言っていても言わば生物の存在に準じてそのようにあらわすのみです」 よくわからないですね。生物の存在を基準にして、ということでしょうね。 1 あるものを基準にしてそれにならう。また、あるものと同様の資格で扱う。 2 あるものを基準にしてそれに見合った扱いをする。 まず1ではありえません。遺体を「ゴミ」だと言ったわけですから、生物や人と同じように扱ってはいません。このゴミ発言から、死体という無生物と生体に違いがでます。たしかに夏場に腐臭を放つ潰れた亀の死骸は尊いというより気持ち悪いですから、ゴミ発言という言い方をするのもありかもしれませんね。つぎに、かつて生体だった死体ではなく、生体ではなかった無生物を考えます。死体はかつて生体だったから尊さが残るのでした。ゆえに、一度も生体ではなかった核爆弾は、死体より尊い存在ではありえないでしょう。このことから、生きている人体は死んでいる人体より尊く、死んでいる人体は核爆弾より尊いとなります。自由を理由に比較をなぜか避けていたので私が代わりに比較しました。採点よろしくおねがいします。 「と言うことはそれは理念のようなことがらとして心に残り、またつねにあるというような思いなのでしょう」 友人などが死んだから悲しいのであって命一般の尊さどころじゃないです。自分と親しかったから悲しいのであって、つまり長年つきあった人格あるいは他我が死んだことが問題であり、尊いのはその人の命ではありません。 「よしと思えば連れて行きます。歯の治療は存在の存続によろしいと考えられます」 嫌だ嫌だと泣く子の自由意志を阻害し強制的に連れていくことはすくなくとも場合によってはよしとなるわけですね。殺人や誘拐はともかく、自由意志の阻害に関しては条件付きで善いこともあるようです。まさに功利主義的な考え方で出された判断でしたが、その判断に反対する人は少ないでしょう。 ではその調子で。害意をもって相手の顔を殴ることと、殺意をもって相手の首をナイフで刺すこと、どっちがより悪いですか? どちらも悪いのはわかってますよ。これぐらいの比較なら答えられるでしょう。 「人為的なことは治療のほかにはしないと思います」 なるほど。予防注射もするでしょうけど、では献血や人間ドックはどうでしょう。 「《生物のいのちもしくは存在を損傷し抹殺することは負の善である》と見ることとは両立します」 無実の人間を同意なしに殺してはならないという規範と、殺人者は刑によって死なせるべきだという考えは両立しますね。 「負の善」が「すべきではない」や「してはならない」を意味せず、したければしていいという自由が保証されている程度ならば、つまり基礎ではあるけどなんら規範的性格をもたないなら、それは無意味な語です。主観の問題だとか言うかもしれませんが、現実問題に応用できる実践的な基礎理論であるには、言語化や規範化は避けて通れません。ジャイナ教の教義は主観ではなく、文章化された規範であり、日常生活という実践の場で人々が共有できる規範です。やましさを基準にし、善悪に行為規範としての性格をもたせるなら、「中絶をやましいと自分が感じるなら自分にとってそれは悪だ」は「自分にとってそれはしてはならない行為だ」となります。しかし別の人にとっては「してもよい行為だ」とかになるわけです。しかもどちらもそれぞれの自然本性とやらにしたがって述べているわけですから、どちらの意見も正しいことになります。相異なる意見がどちらも正しいことに。これは困るでしょう、現実問題に関わる基礎として。 つぎに、痴漢を死刑にしようという人と懲役一年以下にしようという人と罰金一万円にしようという人が対立してしまいました。三者とも本心から言っています(死刑にしようと言っている人は、犯罪者以外の命を誰よりも尊ぶ人です)。これでは三者の言い分がみんな正しい。存在を損傷することは悪ですから、このなかでもっとも損傷の程度が低い罰金一万円を採用すべきでしょうか。 「ほら。《ほとんど》でしょ。いるにはいるんですよ。ジャイナイストたち。ですから基礎理論に反することが現実において取り決めあわれたとしても、理論内容は有効なままです。否定され捨てられたわけではないと思います」 いるでしょうね。ジャイナ教は「あらゆるものに生命を見いだし、動物・植物はもちろんのこと、地・水・火・風・大気にまで霊魂(ジーヴァ)の存在を認めた」わけですから、ジャイナ教とあなたの理論を両立させるには生物のカテゴリーを拡大しなければなりませんけど。火が生きていることが事実であると見なさなければ、あるいは火は生きていないと見なさなければ二重基準でしょう。 火は生きていますか、生きてませんか? これは存在という基礎的問題の範ちゅうでしょう。 ジャイナ教の基礎たる魂に関する考えは間違ってるから論証して説得しなければならないのでは? というのも、ジャイナ教は「動物に襲われたときにも自衛のために動物を傷付けてはいけない」らしいので、緊急避難を容認するあなたの考えとは相入れませんから。これはジャイナ教が間違った基礎理論に依拠しているからではないでしょうか? 断食による死を理想的な死とするジャイナ教は、自殺も他殺も無条件に悪だとするあなたの考えとはやはり根本から違います。 私はなぜジャイナ教信者がいることがあなたの理論の内容を友好にするのかわかりません。断食によって死ぬことを理想的とし(消極的安楽死に該当するでしょう)、緊急避難を認めず、結婚の自由も認めない。ジャイナ教信者のこの考えは、あなたの理論の内容である以下のもの、すなわち自殺や他殺は無条件に悪とし、緊急避難を認め、自由であることを是とする、これらの内容を有効にしますか? あなたの基礎理論より徹底的に命を大事にしているジャイナ教の基礎理論を、あなたはどう考えますか? はたしてジャイナ教とあなたの考え、どちらが常識的な基礎理論になるべきでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ やましさを基準にし、善悪に行為規範としての性格をもたせるなら、「中絶をやましいと自分が感じるなら自分にとってそれは悪だ」は「自分にとってそれはしてはならない行為だ」となります。しかし別の人にとっては「してもよい行為だ」とかになるわけです。しかもどちらもそれぞれの自然本性とやらにしたがって述べているわけですから、どちらの意見も正しいことになります。相異なる意見がどちらも正しいことに。これは困るでしょう、現実問題に関わる基礎として。  ☆ これが 現実です。人間はよわい。基礎理論は よわい。共同主観はこのよわさの上に成り立っています。スサノヲは アマテラスの《無関心(それをアマテラシテなる象徴かつ統治者として ただ装っただけだとしても)》なる態度に接して なすすべなく 暴れ回りました。アマつ罪をおかしました。  おかげで――また イヅモのくにに追いやられ来たって そこで すがすがしい心になって=共同主観に立ち帰って―― もうわたしたちは 必ずしも一揆をおこす必要がなくなりました。その状態や情況は経済的にも精神的にもあるのですが アマテラスお二階さんには もう分かっている。スサノヲ市民主権だということが。  ひとの自由意志を ブルドーザーで引っ張って行ったり ましてや踏みにじることはしないというのが スサノヲのこころです。相手を自分のふところに受け容れて あとは 俟つのみです。何なら このよわさをわれわれは ほころうと言われました。これが 現実です。近道はありません。パナセアはありません。  ★ 痴漢を死刑にしようという人と懲役一年以下にしようという人と罰金一万円にしようという人が対立してしまいました。・・・  ☆ よく話しあって 決めましょう。  ★ 火は生きていますか、生きてませんか?  ☆ それが 常識外の問いだということは 常識です。  ★ これはジャイナ教が間違った基礎理論に依拠しているからではないでしょうか?  ☆☆ (No.11お礼欄) ~~~~~~   ★ 植物や虫を殺すことが悪いと考える人間なんてほとんどいない。   ☆ ほら。《ほとんど》でしょ。いるにはいるんですよ。ジャイナイストたち。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 前文の判断の中の《ほとんど》を例証するものとして ジャイナイズムを出したまでです。これで次の疑問には答えたと思います。  ★ 私はなぜジャイナ教信者がいることがあなたの理論の内容を友好にするのかわかりません。  ☆ ジャイナイズム自体を問うのでしたら 基礎理論として齟齬があります。  《生命》と《霊》とを分けるよう説得しましょう。つまりその意味で  ★ ジャイナ教の基礎たる魂に関する考えは間違ってるから論証して説得しなければならないのでは?  ☆ だと考えます。  細かいことを言っておくべきでしょうか。いのちとたましいの両者が重なっているという場合があるかも知れないと。ブッダター(仏性)やルーアハなどなどの神の霊は 生命を含むかもわかりませんから。  ただしその《霊》にかかわる《非思考の庭》の問題は 経験思考としてのこの哲学の場において結論が出るとは思えないことより やはりそれを生命とも分けて捉えるのがよい。と考えられます。  ★ 断食による死を理想的な死とするジャイナ教は、自殺も他殺も無条件に悪だとするあなたの考えとはやはり根本から違います。  ☆ おっしゃるとおりだと思います。虫をも殺さないといったような部分的要素だけを持ち出したのですから わたしは。そして部分観をもし全体観に当てはめようとしたのするなら(あるいは 部分観を全体観にとって代えようとしたとするなら)それは わたしのまちがいです。  ★ あなたの基礎理論より徹底的に命を大事にしているジャイナ教の基礎理論を、あなたはどう考えますか?  ☆ この理解は 語弊があります。《命》と《霊》とを区別すべしというひとつの見方を持ち出せば 済むことです。生命を霊とおなじものと見なし いわば神格化することは 《いのちを徹底的に大事にする》かどうかとは 別次元の話です。神格化したほうが 徹底性があるというのは まちがいです。    《神》を 人間の認識や理解の可能なものとしていることに間違いがあります。  いのちとその存在までは 経験事象です。霊は 存在だと表現することはあっても 非経験の場のことです。しかもこれを わが心なる非思考の庭に その霊〔の名〕を受け容れるということによって成り立っているのは その動態としての信仰です。  つまり 非経験の場を 経験存在たる人間における心の《非思考の庭》に受け容れている。《思考にあらず》ということで《非経験の場》でありつづけ それを《受け容れる》という行為においてそれは経験事象となっています。  受け容れるのは《名》によってです。つまり言葉という経験事象においてです。  《名》は 経験事象ではないか? と問い返されるなら それは こうです。  神ないしその霊は 非経験の場〔として人間が想定するもの〕です。  これを人が受け容れるというとき――なぜなら人はどの言語でも《かみ》という言葉を持ち合わせているからです―― カミだとかヤハヱーだとかブラフマンだとかあるいはまた《無い神》というような名を受け容れるという経験事象のかたちを採る。こういう事情です。  ですから むろんこのように名によって受け容れるというのは 非経験の場である神(また 無い神)を仮りに代理の表現において受け留めていることになります。そして そこまでです。この神を 生命や火や虫やにそのまま見るのは 神の定義からして まちがいです。  さもなければ 《ひとつの神(つまり 無い神をもふくめて)》の分身としての神々 これを霊と呼んで とうとぶ。神そのものをではなく神々を経験事象において捉えたとしても それだけなのだと説明するならば われわれは おそらく受けつけねばならないでしょう。常識として。言いかえると 火≠神 虫≠神です。分身としての神々のひとつは 神ではありません。  ★ はたしてジャイナ教とあなたの考え、どちらが常識的な基礎理論になるべきでしょうか?  ☆ どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  黒い星・白い星は いちど省みたことがありますが 区別にはよいように思います。色が同じよりも 別々にしたほうが分かりやすい。そして 黒いほうが はっきりしているので 回答者のほう。というかたちで 使いつづけています。  自分の内で 黒白をどちらにするかも考えたことがあったのですが この星じるしで区別するのは そのシルシがあまりにそこら中にあるのは いやだというクレームはもらっていますが 黒白をどちらにするかでは なかったのでした。  当面このようなシルシでの区別をつづけようと思いますが 黒どうしや白だけの場合もおかしく思います。黒星白星というのは 丸ですよね。つまりシルシで示せば ●と○。ということで どうしてもというのでなければ このまま使うことにしたいと考えます。  あなたは使っておられませんが 一般に使われている不等号 つまり > なるシルシは 尖っているのでいやだという声を聞いたことがあります。それに 長い引用だったり改行がおこなわれていたりすると どこまでが引用文でどこから引用者の文が始まるのかが わかりづらくなると思います。  これも 応用問題ですので 見直しも視野に入れます。  ★ 手話を覚えたオランウータンだったかチンパンジーも「I」を用いるので《存在》ですね。  ☆ 生物には ヒトと同じ赤い血が流れているので それはヒトの身としての存在ですねという判断にそれほど遠くないと考えます。つまり 部分観に依拠する議論であると。  ★ よくわからないですね。生物の存在を基準にして、ということでしょうね。  ☆ 舌足らずだったようですが 《存在》という言葉を無生物にも当てはめることがあるというただ表現の問題として言っています。家には庭がある。この庭の存在がどうだこうだというふうにです。  ★ 自由を理由に比較をなぜか避けていたので私が代わりに比較しました。  ☆ 思考と自由意志による判断 これの有無でヒトとそれ以外の生物を種差ありとして分けます。いのちの有無でこれらと 無生物とを分けます。これは 存在のあり方が基本的に――つまり同種ではないという堂々巡りの説明にはなりますが―― 違う。  この分類をしたなら あとは 《比較》は その《基本》についてはしません。する必要がありません。言いかえると 部分的な要素を取り上げて ここは似ているななどと言ってみるだけだという意味です。《その余》としての文学であると。  いのちのあるもの同士としても 存在のあり方で分けているだけで 必ずしもその区分において優劣や尊卑を決めているわけではありません。必ずしもと言ったのは 種差を超えてふたつのものを取り上げ 似ている似ていないのような対照をなすことは出来るからです。けれども それは もう共同主観の基礎理論としての《存在》論ではありません。  ★ 友人などが死んだから悲しいのであって命一般の尊さどころじゃないです。自分と親しかったから悲しいのであって、つまり長年つきあった人格あるいは他我が死んだことが問題であり、尊いのはその人の命ではありません。  ☆ アルジェリアのテロ事件で犠牲になった人びとについて ひとびとは《命一般のとうとさ》をおぼえると思います。  ★ 自由意志の阻害に関しては条件付きで善いこともあるようです。  ☆ ちがいます。子どもが まだ歯の大切さを知らないという要因があるからです。自由意志の阻害には 子ども自身にとっても・長い目でみたら あたらない。と見なすところから 是としているはずです。共同主観としてです。ただし その虫歯の度合いによって 遅らせることもあるでしょう。その度合いの問題は 応用部門です。  ★ 害意をもって相手の顔を殴ることと、殺意をもって相手の首をナイフで刺すこと、どっちがより悪いですか?  ☆ 応用部門として法律や慣習法をどのように取り決めるか これは また別の問題です。そしてもし 善悪のこととしての話であるのならば それは 本人が 基本的にやましさ反応によって判断するものです。  とうぜんやましさ反応が出ますから それらどうしをその基本としては 比べようがありません。ただし やましさ反応につまり心にさからって 行動する場合があります。そのときには あくまで《負の善》という前提の上で あたかも応用部門でのごとくその度合いの比較考量がなされることもあります。いづれにしても 踏みとどまればよいのです。  さもなければ 法律の問題になります。    ★ 予防注射もするでしょうけど、では献血や人間ドックはどうでしょう。  ☆ 存在とその持続が 言うなれば善です。それとしての治療です。つまり広義の治療です。  ★ 無実の人間を同意なしに殺してはならないという規範と、殺人者は刑によって死なせるべきだという考えは両立しますね。  ☆ 基礎理論では いのちまたはその存在を傷つけないという共同主観が成っていると見ます。その応用部門では 緊急避難などの特殊な場合が 問題となり共同主観は(=人びとは) なお具体的にどう応用すればよいかを考えます。またそのときの取り決めは どういうわけか主権在民という原理の上に 国家という存在にも主権があると唱えられていることより 法律という(おもに禁止法による)規範制度においても実現されます。    そこでただし 共同主観としての《いのちのとうとさ》が 法律条文になっていなくても《無実の人間を同意なしに殺してはならないという規範》という形になされたとするなら まづその規範化ということ自体が 問題をはらみます。  基礎理論は 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。自由意志が人間を傷つけようと思ったりあるいは殺そうと思ったりすることはあるが そうはしないものだ》と言います。応用部門では ひとつにこの基礎の基本命題を 《なんぢ ころすなかれ》というふうに規範化します。このこと自体にすでに問題があります。  応用部門が基礎理論に先行することはないからです。規範化した命題のほうが つよい・エライとでも思うくせが人にはあるようですから。  ★ 殺人者は刑によって死なせるべきだという考え  ☆ これは・つまり考えることは 自由です。その《考え》と《規範》とは 同じ次元で比べられません。  ★ 「負の善」が「すべきではない」や「してはならない」を意味せず、したければしていいという自由が保証されている程度ならば、つまり基礎ではあるけどなんら規範的性格をもたないなら、それは無意味な語です。  ☆ だから そこです。そこが違うんです。《規範》は 愚の骨頂でしょう。感性が負の善だと反応し判断しているものを 理性は まださらにその当否を吟味し 疑い深い行動を見せます。そのおのれの猜疑心を休めたいという一心からのように 感性の回答=つまり正解を なおわざわざ文章化(つまりいわゆる文化)しさらに規範命題としたがる。  基礎理論は 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして 身のやましさ反応と共なる心にすなおにしたがい よく自由意志を用いよう》と言います。応用部門では・というより基礎理論のあとただちに 理性は――これを一般にアマテラス理論と言いますが―― 《すなおになりなさい。わがままはいけません。ウソをつくのは わるいことです。・・・》と言い換えます。  言いかえたところのアマテラス普遍語による理論は――ということは 基礎理論は スサノヲ語による人間語の表出です―― じつは・じつに こう語っています。《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと受け取られてはいけません。あたまを使いなさい。ウソは ウソとバレては いけません。上手につくのですよ。また バレたなら うまく振る舞って 秘書の所為にしなさい。・・・》と。  ★ 主観の問題だとか言うかもしれませんが、現実問題に応用できる実践的な基礎理論であるには、言語化や規範化は避けて通れません。  ☆ スサノヲ基礎理論が 先行します。やむを得ず――社会としての当座の秩序の維持や回復のためにやむを得ず―― アマテラス普遍語による規範ないし法律が 持たれます。それだけのことです。  スサノヲ人間語とアマテラス人格語との違いです。アマテラス人格語は 普遍語であるからには アマテラス科学語を研究しそれを駆使します。  スサノヲ語は 身と心の一体なる存在に根差します。感性とその感性にもとづく理性の使用です。理性の使用には むろんアマテラス科学語の開発も入ります。  アマテラス人格語は けっきょく自由意志のその自由度に応じてのごとく 善と負の善とを許容し幅広く自由意志の使用について 応用部門におけるものとして理論化します。  言いかえると 早い話が 二枚舌あるいはダブルスタンダードへと人びとをみちびく要素を持つ。《ウソはいけない。だが うまくつきなさい。バレるようなウソは ダメ。バレたら うまく立ち回りなさい。アマテラス科学語および人格語を散りばめて 相手を煙に巻きなさい。・・・》と成り得ます。  スサノヲは このアマテラスをみづからの懐に受け容れて それの共同主観に立ち帰ることを俟ちます。いつまでか? とりあえず あと二百年。人生百年として いまの世代と次の世代とで 解決にのぞみます。  全体主義ではありません。同感派が三分の一 共感派(浮動層)が三分の一 反感派がその残りを占めるかたちです

  • manuke22
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回答No.12

人にはならない胎芽や胎児を殺すことは悪いことではありません。悪だとしてもなすべきことでしょう。 また、存在は善と負の善の基体だったわけですが、基体は変化する有り様の下にある不変の実体を意味する語なわけですから、存在という基体は動態であるなんて言えはしないわけですが、とりあえずかまいません。 存在と行為はカテゴリーが違うとあなたが言ったはずですね。意志行為が認識や思考といった意識作用を意味するなら、それは存在ではなく現象です。酒を飲めば酔うように、麻薬を摂取すればハイになったりするように、意識であれ心であれ脳を含む身体から派生しています。 「行為は存在そのものではない。言いかえると存在は何ものかから与えられたという初期条件がついてまわるからだと思われます。そういう違いがあります」 行為が存在ではないのは「私は人間である」が行為ではないように、「私は生きている」が行為ではなく状態であるように、単にカテゴリーが違うからです。「眠っているときにも私は呼吸する」、この文の「呼吸する」は私の行為であるように見えるかもしれませんが、眠っているときに呼吸できるのは身体の不随意運動によるのだから、行為ではありません。 人や動物などの行為者はなんらかの行為を「するdo」のであり、行為が「あるbe」わけではありません。それだけのことです。 「行為は――意志行為は――この存在を大前提としたうえでは、思いっきり自由におのれの能力を発揮して生きるでしょう」 行為または意志行為は、生きるでしょう? 行為は生きてません。 「しかも《存在とそして神との関係》について、じつはいちいち表現にあらわさなくても考慮をおよぼしてもいるはずです。なぜなら、じつは人間というみづからを物差しとしていても、その能力に限界があることを知っているからです」 能力に限界があることは、部活や勉強で苦労したりした経験や、寿命があったりなどの事実、これらを通して把握されます。神は要りません。神に関して言えば、神という語と他人がその語をどのように使っているかを経験的に知るから、神について考えることができるわけです。 「自由意志をもった人間は我が心にしたがって殺人はできないとなりますが」 「なりません」 なるほど。生理学的なやましさ反応なく殺害は可能であるなら、殺害は善い場合もあるわけですね。主観にとって善いことをするためにはやましさをできるだけ感じなくなることがしばしば役立つようです。 だとするなら、自由意志をもたない胎芽や胎児を母体はやましさなしに中絶することができ、それを母体が自分で意志決定して実行するなら、それは善い判断です。 「善と負の善という用語を用いずに、プラスとマイナスとのみ言えばだいたいの意志行為についての《やましくない / やましい》の判定が一般性を持つのでは?」 中絶をやましいと感じるのは他人の評価が気になるからとかも関わります。 「プラスとは、存在についてこれを傷つけず維持するという行為です」 終末期医療において「治療・延命を拒否する」という患者の自己決定権を受諾せず、患者の生命維持装置を外さないことが善なわけですね。安楽死や慈悲殺は負の善。これは応用倫理だから放置すると言うならばまさに空論です。 「《事実》を持ち出していますが それ以外の前提で話したことはありません」 比喩、神話、神。これは事実ではありません。「善と負の善の基体としての存在(そういう概念があるならば)」、ここでは事実ではない仮定が使われています。あるかないかもわかっていない概念を。 私は事実以外でも話しています。推論、解釈など。 「こういう話はしていません。ことを承知の上で問題としていますか? オランウータンは学校に通うことにはとうぶんのあいだ成らないでしょうとのみ言っています」 なら歴史とか道徳的思考はなんら人命の尊さを他の生命に優るものだとは言ってない、ということですね。 では「すべての命の尊さは等しい」は常識ですか、事実ですか?  「おまけを添えるなら《情動》ないし感性があえてここで持ち出せば善と悪とをすでに判定しているのに、それがやましい悪であっても何とか理屈をつけ学術的にも間違っていないと文章を作成しいちいちわざわざ善へと転換しようとするのは、じつは・じつに理性です」 あなたの理屈からしてそうなります。ある行為に対してやましくないのならばそれは主観的に善いことです。少年兵は死体の上に座ってご飯を食べることにやましさなど覚えません。自分が生きていることに尊さではなくやましさを感じる子もいます。むしろ一般的に善いとされている行為をしているのに、その行為にやましさを感じる人もいます。しょせん自分は自己満足を求めているだけだから、みたいに。動物虐待をして楽しむ人間もいます。私は蚊という生物を殺すことにやましさなど覚えません。ゴキブリを退治してくれと頼む家族は自分に不快を与える害虫を殺すことで不快をなくそうとしますが、これはなんら悪ではなく正常な反応です。ある行為にやましさを感じず、かつ、それをしたいとかすべきだと判断するなら、その人にとってそれは善い(好い)ことです。その行為をすることが本人の選好充足をもたらすのですから。 「《事実》までをねじまげることさえお手の物なのでしょう。理性は」 事実? あなたはすべての他人に、「やましさを感じるか感じないかを主観的な善悪の基準にしていますか?」とアンケートでもとったんでしょうか。そうでないならば、あなたのように考える人もいるとしか言えません。 事実をねじ曲げるのが理性かどうかはともかく、キング暴行事件ではたしかに事実が恣意的に解釈されていますね。しかし警官らの発言はそれによって無罪や刑の軽減を意欲した発言なわけですから、意志・欲求・理性からそのような発言をしたと見なすのが相応しいでしょう。行為には動機や目的があり、嗜虐性の強い人間は他人を痛めつけることにやましさを覚えることなくその行為をしようwillとするわけですから、その意志willや危害を加える行為は主観的に悪ではなく善であるか、あるいは悪でも善でもないわけです。そうした嗜虐的な行為が主観的に悪でも善でもないなら何かと言えば、たんに好ましい行為です。クリスマスに子へプレゼントを挙げたのは親ですが、「サンタさんがプレゼントくれたー!」とはしゃいでいる子に、「よかったねー」と答える親は事実を告げていないわけですが、事実を隠蔽しているこの親に隠蔽に対するやましさなどありません。「子に事実を告げたら悲しむだろう」という理性的推論、「子を悲しませたくない、悲しむ子を見たくない」という欲求、「いずれ知ることになるだろうから、事実は告げないでおこう」という意志、これらすべてが親に隠蔽を選択させるのであり、理性だけを槍玉にあげるならそれは偏った判断です。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  一般に 要素へ還元して考えるのですね。  不随意運動でも 広い意味の《行動》に入れて――つまりどちらかと言えば 全体観に立って――わたしのほうは ものごとを見ていますし述べています。  その意味は きちんと要素要因あるいは確かに精密な部分観を披露してもらっていますが それらを大体は 全体観のもとに広義の用語を使って述べているとして捉え返してもらえれば それほど違っているとも思いません。ではないでしょうか?  たとえば 品詞の分類を例にとって言えば:   用言(つまり 文の主題に充てられる体言に対して 論述をになうことになる語):     動態用言:つまりいわゆる動詞     状態用言:つまり形容詞・形容動詞  というように捉えるなら 狭義と広義とで全体図が描かれる。それと同じようだと見ますが どうでしょう?  つまり    存在から出発して   《存在は 一般に行為の主体である》   《行為はつまり意志行為は 存在の中核をになう》   (なぜなら 意志行為の軌跡が 試練の過程として 人格を形成する。それは なによりも 《意志による判断》のもんだいである。つまり 判断の軌跡が その人の境地をつくる)   《論述に用いられる語の意味内容が 動態か状態か》   《行為として 自然生成か人為動作かあるいは使役か・・・》  などなどの分類がなされるようにです。  《生きる》行為と《生きている》状態とで それほど隔たりがあるとは思えません。  ★ 「眠っているときにも私は呼吸する」  ☆ も 《身体の不随意運動による》大きくワタシの行為として捉えることも出来るという物言いです。ワタシは 身と心とです。  ★ 行為または意志行為は、生きるでしょう? 行為は生きてません。  ☆ 特にとして言えば 文学表現であり 哲学はこれを基本的に嫌うものですが ただしこのように《哲学が嫌う》という表現は 基本的に言って 排除されません。同じことです。ワタシが生きることを その中核のハタラキにかんがみて 《意志行為は 生きるでしょう》と表現し得ます。  ★ 能力に限界があることは、部活や勉強で苦労したりした経験や、寿命があったりなどの事実、これらを通して把握されます。神は要りません。  ☆ 《科学によってそれとして認識できるものごとにおける因果関係 これからまったく自由な――言ってみれば(たぶん合っていると思うのですが) 特異点のような――ナゾの何ものか》 つまり神 この神は 人生経験をふつうにおこなっているだけでは 認識したことにはなりません。  認識しえないと認識することになるのですが それは この経験世界を超えているというその《非経験の場》を想定することなしには無理です。  このあと 神を《無い神》として無神論をいだく場合もあります。つまり 《有る神》の有神論と同じように《非経験の場》という同じひとつの内容から成る存在(想定存在)として 神を捉えたという場合です。  無神論も 有神論とまったく同じく対等に 《信仰(つまり 非思考の庭およびその動態)》です。  それは 非思考かつ非経験ゆえにです。  言いかえると 非経験の場は 経験世界における《有る・無い》から自由な場として想定されるものだからです。有・無を超えているナゾの何ものかを 有ると言っても無いと言っても 互いに同等の見立てになります。    仲間ないし人間どうしのあいだのコミュニケーションから捉えられる神は 相対的な概念のみです。究極の存在といったことを持ち出しても それは 相対性の世界にとどまりますから。  ★ 主観にとって善いことをするためにはやましさをできるだけ感じなくなることがしばしば役立つようです。  ☆ ポーカーフェイスは 厚かましくなったあとのことです。つまり《できるだけ感じなくなること》と言っているのですから その前には《感じる》段階があるというわけです。《やましさ反応》についてです。  ★ だとするなら、自由意志をもたない胎芽や胎児を母体はやましさなしに中絶することができ、それを母体が自分で意志決定して実行するなら、それは善い判断です。  ☆ あなたでも 屁理屈を言うのですね。  ★ 中絶をやましいと感じるのは他人の評価が気になるからとかも関わります。  ☆ その他人の評価は どこから来ていますか? やましさ反応およびそれが共同主観であるようだと思う推測からではありませんか?  ★ 終末期医療において「治療・延命を拒否する」という患者の自己決定権を受諾せず、患者の生命維持装置を外さないことが善なわけですね。  ☆ これは ひとつに応用部門のもんだいであるということ。ひとつに 人が死ぬのは 必ずしも病気や事故によるのではなく 寿命が尽きたからではないかという見方が むろん仮説として 提出されうる。ので もし本人がその病気ないしからだの状態によってではなく 死期の自覚によって 《尊厳死》を欲するということであれば それは 応用問題として人びとの考え合うところとなるでしょうということ。――これらを すでに述べています。  ★ これは応用倫理だから放置すると言うならばまさに空論です。  ☆ 一概に決められないことと 空論とは 別です。前者は いづれ ひとつの選択肢を仮りの共同主観としてでも えらび出します。共同主観として 応用倫理について消極的な行動をえらんだとしても それは 空論とは呼びません。人びとの総意としての決定があります。  ★ 比喩、神話、神。これは事実ではありません。  ☆ 事実と連動しているという意味です。そして もしまったくの架空の話についてならそれは おとぎ話であるというふうにはっきりことわっています。  ここらあたりでは ちょっと いちゃもんに成って来てますよ。    ★ ここでは事実ではない仮定が使われています。あるかないかもわかっていない概念を。  ☆ この批判は わたしの返答した次の内容を わたしの文章のすべてについて全面的にあてはまると解釈しての表明です。  ☆☆ 「《事実》を持ち出していますが それ以外の前提で話したことはありません」  ☆ 《純粋論理》では そのように受け取ることになるのかも知れません。  《基体》は 主体と言いかえておきます。  ★ では「すべての命の尊さは等しい」は常識ですか、事実ですか?  ☆ どうお考えになりますか?  基礎理論と応用部門とでは 答えがいくぶん変わって来ますと述べておきます。  ★ 少年兵は死体の上に座ってご飯を食べることにやましさなど覚えません。  ☆ 特定の人 特定の場や情況 あるいは時代等々の条件によります。一時的・局地的な現象を捉えて 普遍的な事実だというのは どうでしょう?  ただ感覚の麻痺だということも 考えられます。  ★ ある行為にやましさを感じず、かつ、それをしたいとかすべきだと判断するなら、その人にとってそれは善い(好い)ことです。その行為をすることが本人の選好充足をもたらすのですから。  ☆ やましさ反応は あくまで本人の主観の問題です。それなのにその奥底では 人びとに共通の内容が捉えられるのではないかという理論です。  ★ ~~~~~~  「《事実》までをねじまげることさえお手の物なのでしょう。理性は」  事実? あなたはすべての他人に、「やましさを感じるか感じないかを主観的な善悪の基準にしていますか?」とアンケートでもとったんでしょうか。そうでないならば、あなたのように考える人もいるとしか言えません。  ~~~~~~~~  ☆ 尖閣をめぐるどこかの国の行動は 事実までをねじまげていると考えられ それは 理性によるという見立てです。  アンケートは採っていません。  ★ ~~~~~  クリスマスに子へプレゼントを挙げたのは親ですが、「サンタさんがプレゼントくれたー!」とはしゃいでいる子に、「よかったねー」と答える親は事実を告げていないわけですが、事実を隠蔽しているこの親に隠蔽に対するやましさなどありません。  ~~~~~~~  ☆ ウソをついたという意識あるいは自覚は あります。(断定しますが)。では ウソをついてよいか? そこでは 鉄面皮になっていなければ やましいと感じるでしょう。  感覚の麻痺は ナラワシつまり繰り返しによる慣れから 生じます。惰性と言います。  虚偽によって人は満足を得る場合もあります。と言っておきましょう。  ★ ~~~~  「子に事実を告げたら悲しむだろう」という理性的推論、「子を悲しませたくない、悲しむ子を見たくない」という欲求、「いずれ知ることになるだろうから、事実は告げないでおこう」という意志、これらすべてが親に隠蔽を選択させるのであり、理性だけを槍玉にあげるならそれは偏った判断です。  ~~~~~~  ☆ これらすべて広義の《理性》のもんだいです。身と心に分けたときその《心》の問題です。《精神》のことです。分けた限りでは 《身》が 知覚ないし感性のことになりますから。  

  • manuke22
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回答No.11

「ただし数式ではないのですから」 数式ではないなら等号を用いなければよいわけです。 「《よく生きる》は、いのちを持ったひとという存在としてその存在を損傷せず、維持するという意味です」 存在としてのその存在は意味不明です。 あなたによれば動物という存在者を損傷することは悪いです。なら、死体や貯金箱やモルヒネなどの存在はどうでしょうか。これらは存在ではないんでしょうか。それとも尊くない存在ですか? 命を損傷せずと言いますが、嫌がる子どもを強引に歯医者へ連れていくのは悪ですか? 脳死者から臓器を取り出したり、自分が脳死したさい臓器を提供することに同意するドナー登録は悪ですか? 「応用問題」だから「(自分以外の)人々」が考えればよいという立場でしょうか。ならばこう聞きます。あなたは自分がドナー登録をするべきだと考えますか? するべきではないと考えますか? これなら主観の問題ですよね。 「生物のいのちもしくは存在を損傷し抹殺することは負の善である。ただし生物のうちそのように考えるのはヒトのみである。環境に適応するという行動形式だけで生きるのではないという意味で考えるをおこなう」 それだけならすべての人間の命がほかの生命体より尊いということにはなりません。あなたが言えるのは、ある人間がそういう思考ができる人間ならばその人間は動物とは違う思考ができる理性的動物である、これだけです。すべての人が「生物のいのちもしくは存在を損傷し抹殺することは負の善である」と考えるわけではありません。日本では死刑賛成派が大多数であるように、殺人は場合によってはなすべきだと考える人が多い。植物や虫を殺すことが悪いと考える人間なんてほとんどいない。罪を憎んで人を憎まずは常識ですらない。尊い生命と尊くない生命があると多くの人は考えていると見なすのが妥当です。 環境破壊、戦争、兵器、KKK、魔女狩り、こうしたことをしたり正しいと考えるのは、ほかの動物より優れた思考能力をもつ人間という動物だけです。思考の程度は大した問題ではありません。 また、オランウータンは自分が覚えた手話を子に教えました。共に過ごしたネコが死んだことを知らされて「bad」や「sad」を意味する手話をしました。ヌーの群れは幼いヌーを守るためにライオンに立ち向かいました。カムニャックというメスライオンは草食動物である一頭のオリックスと共に過ごしていました。情報伝達のためのクジラの歌。仲間を呼び求める遠吠え。他の個体とのじゃれあい。いくらでも「環境に適応するための行動」以外の行動があります。 「論理を論理だけとして当てはめればという話でしょう」 事実をもとにしています。命題は真理値などからわかるように事実と関係するわけですが、あなたの言う人間は考えたり伝達したりする者です。これを前提するなら、「脳死患者は考えを伝達する者である」は偽です。事実ではありません。当然ながら「命は尊い」は事実命題ではありません。私からすれば、「人の命は尊いという常識がある。殺人はその常識に反する。だから殺人は悪い」程度のものです。 人が命は尊いと言うとき、人命が尊いと言っている人が大多数でしょう。虫は殺す、害獣は殺す、植物は殺す。子どもは虫などを楽しんで殺します。命は大事だと教育され、命を大事にすることによって親などに褒められるという好ましい経験を経て、命を大事にすることはよいという行動規範が形成されるわけです。 「ぢゃあ市民権をあたえて戸籍をつくりましょう」 事実は認めたみたいですね。しかし話を社会的な取り決めの話にもっていくのは感心しません。私は動物に社会的な人権を与えるのは賛成しませんが、アニマル・ライツは保証されてしかるべきです。 「動物との次元の差を見ることは動物を虐待せよという意味にはなりません。生命のとうとさという共同主観があります」 共同主観(常識)は一般的に受け入れられている通念にすぎません。常識があることは事実ですが、常識の内容は不確実なものです。命は尊いと多くの人が考えていることは事実だとして、「命は尊い」が事実であるわけではない。もっともそれが常識であるかどうかを私は知りませんが。   「このように言い切った表現だけではその存在を定義し尽くしてはいないでしょう」 定義し尽くす必要はありません。受精卵や胎芽は人ではない。「《よく生きる》は、いのちを持ったひとという存在としてその存在を損傷せず維持するという意味」。したがって人ではない受精卵や胎芽を処分することは殺人ではなく、よく生きることの障害にはならない。胎児は人になる者ではあるけれど人ではない。したがって胎児を殺すことは殺人ではないので、よく生きることの障害にはならない。 動物が遺伝的要因のゆえヒトにならないことや大多数の人間が動物にはない思考をもつことは、すべての人間が先天的に動物より優れていることを意味しません。 人ではない胎芽や受精卵を処分することは動物を殺害することより悪い。苦しめて殺すよりは楽に殺すほうが善い。死刑は存置されるべきだ。動物は機械だから虐待してもかまわない(動物機械論)。 殺すことは無条件に悪だと考えるあなたの考えはまったく常識ではありませんし、常識にはなりません。 「《人間とほかの生物との差別という〔ほとんど天与の〕条件》をくつがえすものではないでしょう」 天動説者は望遠鏡から見える事態を否定したり望遠鏡を覗くことすら忌避しました。ガリレイはケプラーの理論を受け入れられずに醜態を晒しました。ミルが主張した女性参政権に関する著作は、当時の人にとってミルを変人だと評価する格好の材料になりました。キング牧師は暗殺されました。今なお地動説ではなく天動説を信じる人もいます。ロドニー・キング事件では証拠のビデオがあるにも関わらず起訴された警官らの陳述が肯定されました。チャレンジャー号爆発事件は事故の可能性を知っていたにも関わらず発射を実行したことで起きました。 「この条件は、ほかにもっと妥当な定義や説明があれば、それをえらぶものです」 より明確にした上で対偶をとります。 「この条件を人間が有し、かつ、この条件を有する人間がそれを選ばないなら、その定義や説明はほかの定義や説明より妥当なものではない」 これは偽です。例示したように、人はかならずしも妥当な意見を選ぶわけではありません。むしろ自分の好き嫌いという選好に適う考えや既存の価値観を守ることを選ぶこともあります。また、すべての人間がそうした条件を先天的に有していることは観察できないので不確実な前提にすぎません。 人間の利益により有用な信仰を人間は好んで捨てはしません。 「人間には歴史があります。人生という時空間をその意識や認識とともに帯びています。植物人間になっても同じです」 脳死者は認識なんてしませんよ。胎児もそう。胎芽や胎児に歴史なんてありません。 「どうしてもそうは見ないという人びとのあいだの取り決めが成るのであればそのとき考えればよいというほどの基礎理論です」 実際、臓器移植法などによって脳死は人の死だとなっています。たしかに脳死者の人体は、不随意筋からできている心臓や肺を医療機器で保存されることによって生命維持活動を続けていますけれど。なんにせよあなたの言うそのときは未来ではなく現状です。もっとも、中絶を実施する病院の医者を殺すような事件もありましたし、自爆テロでは命より教義を重視しているのは明らかです。テロとは違いますがソクラテスもそうでした。 「胎児には人生が待っていますがオランウータンにはどうなのでしょう?」 オランウータンはヒトという種に属さないので人生という語を用いたその質問は不適切です。そのため私は止むを得ず造語し、生史があると言います。一年前の誕生日にアイスクリームをもらったことを覚えていたオランウータンは、誕生日に「アイスクリーム?」と自ら飼育者に問いかけます。オランウータンは意識と認識をもつわけです。オランウータンの時空間を。それは人間の人生とは異なりますが、次元の違いとかではなく相対的な違い、すなわち程度差です。 「人間にはそのことについてすでに与えられた――人間の知解や行動の能力によっては対処し得ないところの――存在にとっての条件があります」 あなたが数十年生きたなかでいつ、どこで、だれに、どうやってあなたは与えられたんですか? 「あなたの《純粋論理》ですが――ちなみに触れますが――言ってみればそれはどこかこの《神》の目を持って来て、人間の理論にその整合性を求めるといった性格のものではないでしょうか?」 私の意見を勝手に純粋論理と名付けていますが、神話だの神だのではなく事実や論理に依拠しています。 「不備もあってそれはつねに応用問題として人びとが互いに考え合って取り決めることとして意図的に放っておいてあります」 応用問題ではなく現実問題です。その「人々」に自分は含まないわけですか? あと応用問題と言いますが、人はあなたの意見を基本として現実問題にそれを応用するわけではないので、その意味でも死刑や中絶は「応用問題」ではありません。 「《存在》は――ここではと条件づけねばならないでしょうか――動態ですよ。ですからそのまま《こころ》のことだとさえ言えるはずです。つまり意志行為のことです」 存在は動態であり、かつ、心であり、かつ、意志行為である。 ならばなおさら胎芽は存在ではなく、認識したり記憶したりする心amimaをもつ動物animalは存在です。 すくなくとも、生後まもなく苦しんで死ぬことがわかっている胎芽は、産むより中絶するほうが善いでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 数式ではないなら等号を用いなければよいわけです。  ☆ これからも用いると思いますが そういうお話でしたら わたしが到りませんでした。  ★ 存在としてのその存在は意味不明です。  ☆ いまこうして言葉をつうじてやり取りをしているわたしたち。そのように自分のことをワタシと称して示すそのモノ これを別様に《存在》とあらわしています。  この言葉をしゃべる存在は 人間と呼ばれますが この人間が 世界を見渡して 広くものごとがあることを一般にこの存在という語であらわすこともします。人間に近い存在は 動物ないし生物です。生命があると見られるからです。  ★ なら、死体や貯金箱やモルヒネなどの存在はどうでしょうか。これらは存在ではないんでしょうか。それとも尊くない存在ですか?  ☆ 無生物は 同じく存在と言っていても 言わば生物の存在に準じてそのようにあらわすのみです。死体という存在の扱いについては 応用問題と位置づけられていると考えます。ここで結論を出す気遣いはないと考えます。  ただしどうも応用問題での答えによって 基礎理論の当否を判断するというような構えでもいらっしゃる。  人は とうとくても それでも 死ねばその身は ごみです。それでも 感情を別にしても とうとさが消えるわけではない。と言うことは それは 理念のようなことがらとして心に残り またつねにあるというような思いなのでしょう。  その上で 目的によっては むくろを解剖することもあるのでしょう。  ★ 命を損傷せずと言いますが、嫌がる子どもを強引に歯医者へ連れていくのは悪ですか?  ☆ 虫歯などの状態や痛みの度合いなどなどを考慮しその子どもの健康状態にも顧慮し 歯医者の評判をも少しは子どものために配慮し よしと思えば 連れて行きます。歯の治療は 存在の存続によろしいと考えられます。  ★ 脳死者から臓器を取り出したり、自分が脳死したさい臓器を提供することに同意するドナー登録は悪ですか? 「応用問題」だから「(自分以外の)人々」が考えればよいという立場でしょうか。  ☆ 脳死者でも そのことが原因となっては死なないという場合には――とにかくそういう見方をするとすればです―― 生き返ると思われますから 臓器を取り出したりして死なせることは成さないことがのぞまれます。  ドナー登録と言いますか 自分の臓器の提供については そのような脳死状態を起因として寿命が尽きるとみづからが前もって判断したと見なしますから 提供するしないは 当人の意志によります。  いのちが 身と心から成る存在として生身の状態では もうこれまでと言うように尽きるというときには おのれみづからがそれを自覚しあれこれとしかるべきことがらについては判断するものと思います。  その判断を いちおうほかの人間はとうとびます。  そして 人によっては その判断に否をとなえても よいと考えます。話し合いのできる状態であれば 話し合ってもよいのでしょう。  わたし自身は 自然の過程にまかせます。人為的なことは 治療のほかにはしないと思います。  ★ ならばこう聞きます。あなたは自分がドナー登録をするべきだと考えますか? するべきではないと考えますか? これなら主観の問題ですよね。  ☆ わたし自身は 登録しません。あとは その人の判断であり しかもほかの人であってもその判断の結果について 意見を伝えることもできると考えます。結論は そのやり取りの結果です。    ★ 日本では死刑賛成派が大多数であるように、殺人は場合によってはなすべきだと考える人が多い。  ☆ ことと 《生物のいのちもしくは存在を損傷し抹殺することは負の善である》と見ることとは 両立します。  ★ 植物や虫を殺すことが悪いと考える人間なんてほとんどいない。  ☆ ほら。《ほとんど》でしょ。いるにはいるんですよ。ジャイナイストたち。ですから基礎理論に反することが現実において取り決めあわれたとしても 理論内容は有効なままです。否定され捨てられたわけではないと思います。  ★ 罪を憎んで人を憎まずは常識ですらない。  ☆ 天皇とて神ではないは 常識ですらなかったときがあります。    ★ 尊い生命と尊くない生命があると多くの人は考えていると見なすのが妥当です。  ☆ くみしませんが 思想・表現の自由は自由です。  ★ 環境破壊、戦争、兵器、KKK、魔女狩り、こうしたことをしたり正しいと考えるのは、ほかの動物より優れた思考能力をもつ人間という動物だけです。思考の程度は大した問題ではありません。  ☆ つまり ヒトをほかの生物から差別するのが ふつうだとおっしゃったことになります。それを公理だと言うのも 何だかヘンですが おそらくそのような出発点に立つよりほかに 世界を見るにあたって ない。と帰結されるのではないでしょうか?  そうしたことを考えたりおこなったりするのは 人間の自由意志によっています。この自由意志の用い方を変えようと思えば変えられる。でしょう。  ★ 〔動物には〕いくらでも「環境に適応するための行動」以外の行動があります。  ☆ 《種の差別》があっても 動物との共存はありえると考えます。    ▲ (イザヤ書 65:17-25・・・新しい天と新しい地) ~~~  見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。  初めからのことを思い起こす者はない。  それはだれの心にも上ることはない。  代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。  わたしは創造する。  見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして  その民を喜び楽しむものとして、創造する。  わたしはエルサレムを喜びとし  わたしの民を楽しみとする。  泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。  そこには、もはや若死にする者も  年老いて長寿を満たさない者もなくなる。  百歳で死ぬ者は若者とされ  百歳に達しない者は呪われた者とされる。  彼らは家を建てて住み  ぶどうを植えてその実を食べる。  彼らが建てたものに他国人が住むことはなく  彼らが植えたものを 他国人が食べることもない。  わたしの民の一生は木の一生のようになり  わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。  彼らは無駄に労することなく  生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。  彼らは、その子孫も共に 主に祝福された者の一族となる。  彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え  まだ語りかけている間に、聞き届ける。  狼と小羊は共に草をはみ  獅子は牛のようにわらを食べ、  蛇は塵を食べ物とし  わたしの聖なる山のどこにおいても  害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むろん このことを人間が――人びとの合意のもとに――おこなって行くという意味です。  ★ 私からすれば、「人の命は尊いという常識がある。殺人はその常識に反する。だから殺人は悪い」程度のものです。  ☆ その考えは 理性のものです。感性としての生理的心理的反応は――それこそが身と心から成る存在の帯びる人格としての判断になるかと見ますが―― 《いのちなる存在がとうとい》だと考えます。    ★ 私は動物に社会的な人権を与えるのは賛成しませんが、アニマル・ライツは保証されてしかるべきです。  ☆ これは 質問の趣旨から はづれます。善行の主題に 動物との共存をどうするのかという主題はからんでいますが 共存の仕方として ではどうするかまでには ここでは踏み入らないほうがよいでしょう。  ★ 共同主観(常識)は一般的に受け入れられている通念にすぎません。  ☆ 通念は あやふやですが 国連憲章のように成文化したもののほうがもっとあやふやでしょう。  このあと 補足欄につづけます。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄からつづきます。  お礼欄へのおぎないが ひとつあります。  《わたしはドナー登録をしない》と書きましたが それは まさに応用部門のことですから もしさらに妥当な見解があってそれに従うようになるなら 見方を変えるかも分かりません。  さて。  ★ 動物が遺伝的要因のゆえヒトにならないことや大多数の人間が動物にはない思考をもつことは、すべての人間が先天的に動物より優れていることを意味しません。  ☆ おおむねヒトは動物よりすぐれていると考えはしますが 種差のあることは 優劣の階級が成り立っているというふうには見ません。まさに生物種が違うというだけだというのが 基本的な見方です。  ★  人ではない胎芽や受精卵を処分することは動物を殺害することより悪い。  ☆ 微妙なことですが そのように《比較》することからは自由だという意味です。種差を見るとしてもです。比べてよいとか悪いとかいう性質のものではないということですが そう言うと よりいっそう動物差別主義だと言われるかも知れません。けれども その種差を見ないとすれば――見ても忘れようとするのならば―― どうしてそんなふうに動物の機嫌を取らねばならないかという問いを提出します。  ★ 苦しめて殺すよりは楽に殺すほうが善い。死刑は存置されるべきだ。動物は機械だから虐待してもかまわない(動物機械論)。  ☆ 種差を見ること そしてそれを見るだけのこととわたしが言う意味は こういったことをあれこれ考えないという意味です。なぜなら種差があると見るからです。  ★ 殺すことは無条件に悪だと考えるあなたの考えはまったく常識ではありませんし、常識にはなりません。  ☆ 《無条件に命題が成立する》ことと《その命題が現実にどのように適用されているか》とは 別の問題になりえます。人間の世界では。  ★ 今なお地動説ではなく天動説を信じる人もいます。  ☆ 公理というべき基礎理論も 変化し得ます。自然法において 変動しないのは 《いのちの大切さ》くらいでしょう。  だからと言って わたしが天動説を支持したとあなたは言わないでしょう。  ★ 例示したように、人はかならずしも妥当な意見を選ぶわけではありません。  ☆ そのとおりですが だからと言って 明日からお天道さまが 西から上がってくることはないでしょう。  ★ 人間の利益により有用な信仰を人間は好んで捨てはしません。  ☆ ですから わたしたちは・あるいは哲学は その《有用な信仰》があやまりであることを論証し説得することまでは出来ます。  ★ 脳死者は認識なんてしませんよ。胎児もそう。胎芽や胎児に歴史なんてありません。  ☆ というふうにまで人間は 他人の人生や人格にまで分け入って 自分の持つ見方を表明することができます。それと同じように 応用部門では 十人十色の意見が出てもよいわけです。  人間の推論のおよぶところまで議論するでしょう。そこからあとは それぞれの主観にまかされます。  わたしは わたしの主観から基礎理論を提示しています。  基礎理論への批判と応用部門での議論とを分けてみてください。  ここは じつは基礎理論のもんだいなのですが それでも誰であってもどんな状態にあっても 認識を持ち得てそれぞれの歴史があり得るということ このことに例外はないわけですから もしそこに例外を見ようとするなら それは 応用部門においてになる。こう述べています。  胎児が狼に育てられ ついぞ 人格を持ち得なかった事例とかの例外です。  ★ 実際、臓器移植法などによって脳死は人の死だとなっています。  ☆ ですから心臓は動いているとあなたも言い添えているように 《いのちの大切さ》という基礎理論は どこまでも有効です。両立すると言ってるぢゃありませんか。  ★ 自爆テロでは命より教義を重視しているのは明らかです。テロとは違いますがソクラテスもそうでした。  ☆ ソクラテスは 申し訳ないですが 分かりません。成案がありません。  《命より教義を重視する》問題は 《神》を知らないというもんだいです。ふつうの神について互いに話し合うのが 対策です。  ★ オランウータンはヒトという種に属さないので人生という語を用いたその質問は不適切です。  ☆ だから 種差ぢゃないですか。これ(種差)は ほとんど事実認識のみの命題です。  ただし《オラン》は マラヨインドネシア語で《ひと》のことですが。《倭人》のワは このオラン( orang )からの転成だという説もあります。余分なお話でした。  《森のひと(オランウータン)》にそれほど――《種差》ではなく《程度差》だというほどに――肩入れをするのなら 脳死者や胎児にもそれに劣らぬ配慮をお願いします。まさか効用主義者ではないでしょうね。社会的な自然淘汰・適者生存説ですか?  ★ あなたが数十年生きたなかでいつ、どこで、だれに、どうやってあなたは与えられたんですか?  ☆ 人間が自分ではどうにも出来ない与えられた条件とは ワタシは《生まれた》ことです。生きたくて生まれて来たという主張も聞かれますが そういう人でも自分は《生まれた》と言うはずです。《自分が自分を生んだ》とは言えないでしょう。  ★ 私の意見を勝手に純粋論理と名付けていますが、神話だの神だのではなく事実や論理に依拠しています。  ☆ 《事実に依拠する》論理はありますし それを抽象化した純粋論理もありえます。間違っていたら ごめんなさい。    ★ 応用問題ではなく現実問題です。  ☆ 《現実問題》の中に 基礎理論と応用部門とがあります。  ★ 人はあなたの意見を基本として現実問題にそれを応用するわけではないので、その意味でも死刑や中絶は「応用問題」ではありません。  ☆ 人には人の基礎理論が・すなわち主観があると まづ 言っています。次に だけれどもその基礎理論は 最小限の内容としておそらく《いのちのとうとさ》を共有しているであろうと言っています。そのあと 応用部門が来ます。  これらぜんぶが 現実問題です。  ★ ならばなおさら胎芽は存在ではなく、認識したり記憶したりする心amimaをもつ動物animalは存在です。  ☆ 《 anima 》には いろんな意味があります。何ものにも寄り憑くというときの原始心性(アニミズム)から――そしてそれは 動物の心性(?)と同じようなものと見なされているのでしょう―― 身と心というときのふつうの心を意味し得 さらには 非経験の場として《霊 プネウマ・スピリット》をも意味させる場合があります。アニマ・ムンディ(世界霊魂)というときなど。  《存在》に 成長するという可能性を見ないのですか? 潜在的なチカラは 存在から排除するのですか?  ★ すくなくとも、生後まもなく苦しんで死ぬことがわかっている胎芽は、産むより中絶するほうが善いでしょう。  ☆ 応用部門に属しますが 胎芽や胎児の段階を経なかった人間がいますか?   だから 中絶の是か非かについて意見を言ったと取りますか?  

  • manuke22
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回答No.10

連投失礼。 「どうでしょう? ほんとうにいまの命題を心にやましさをいっさい覚えずに支持しますか?」 はい。すくなくとも受精卵や胎芽を中絶することは悪くない。夢精や排卵によって精子や卵子が死ぬことはなんの問題もないように。 まず、なぜ中絶の問題を善悪一般まで拡大するのか不明です。中絶を含む殺害や殺人は場合によっては善く、場合によっては悪いと見なすことは、善悪という基準を捨てることではありません。感情に訴える説得話法を採用しているあなたは、この違いを分別できていません。あなたの質問にハイと答えた私はレイプを悪いと判断します。ゆえに、感情に訴えるあなたの説得話法「善とそれの損傷行為という分別が、意志行為においてなくなるという事態を意味します」は完全に誤り。その意味では、さらに善(生きた人体とか仮定上のわが心とか)を傷つける行為が悪だとするあなたの前提に反対しているという意味では、あなたの説得に反対ですね。そして「善悪という分別がなくなる」は論理的に飛躍してますので、「世界観を見直さなければならない」とはなりませんのでご安心ください。 また、新生児や胎児や胎芽や受精卵は人であるか否かはあなたにとって応用の問題らしいですが、そうではなく事実の問題でもあります。事実を抜きに観念や語をいじってもそれは空論です。ヒトという種に属する者の命は、ヒトという種に属さない者の命と比べて絶対的に尊いのか。尊いのだとするならそれは人が人を神格化することです。「自分を含めた」すべての人間を。 中絶や殺害にやましさを覚える人がいることは、すべての人は中絶や殺害にやましさを覚えることを事実だと見なすには足りません。善悪はあなたの言うように評価基準であり、後天的なものです。動物虐待を愉しむ人もいればそうではない人もいる。犯罪者に人権はないと考える人もいればそうでない人もいる。ES細胞を研究することに倫理的問題を認める人もいればそうでない人もいる。 やましさという情動は善悪の判断基準となるものではなく判断材料であり、いわば好き嫌いの問題です。善いではなく好いの問題。人が好いと思うことが善いのではない。もし理性的動物であるすべての人から好い悪いという情動はなくならないという意味なら、それはその通りでしょう。 私としては、オランウータンやチンパンジーが手話によって人間とコミュニケーションできることを知ったうえで、自由意志をもつあなたがなお強固な種差別を貫くかどうかに興味があります。 「主観としてのヤマシサ反応があるからこそよく・ともに生きるというささやかなのぞみを持ってわたしたちは生きています」 その「わたしたち」に私は含めないでください。 主観や感情は議論でも重要ですが、生理的なやましさ反応に関する判断がその判断をする本人の問題は別です。やましさという情動は善い悪いの問題ではなく好き嫌いの問題です。もっとも、人は自分が好いと感じることをあまりに安易に善いと変換することが多いですが。だからこそ人はしばしば、殺人者に対する嫌悪感から「殺人者に人権はない」とかわけのわからん主張をするわけです。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  それほどあたらしい議論であるとも思えません。  というのも たとえば 善と負の善という用語を用いずに プラスとマイナスとのみ言えば だいたいの意志行為についての《やましくない / やましい》の判定が一般性を持つのでは?  プラスとは 存在についてこれを傷つけず維持するという行為です。  また 無記として 中立・中性の意志行為もあると触れています。  あとは やはり応用問題でしょう。  《事実》を持ち出していますが それ以外の前提で話したことはありません。  感情にうったえているということは 事実の問題だと言っていいでしょう。  ★ ヒトという種に属する者の命は、ヒトという種に属さない者の命と比べて絶対的に尊いのか。  ☆ こういう話はしていません。ことを 承知の上で 問題としていますか? オランウータンは 学校に通うことには とうぶんのあいだ 成らないでしょうとのみ言っています。  そう言ったら 人間を・自己を神格化していますか?  ★ やましさという情動は善悪の判断基準となるものではなく判断材料であり、いわば好き嫌いの問題です。  ☆ リトマス試験紙は 自分の役割を果たすのみ。ですよ。  おまけを添えるなら 《情動》ないし感性が あえてここで持ち出せば善と悪とをすでに判定しているのに それがやましい悪であっても 何とか理屈をつけ学術的にも間違っていないと文章を作成しいちいちわざわざ善へと転換しようとするのは じつは・じつに理性です。  もしくは そもそも善と悪という区別などは 要らないという理論を打ち建てることでしょう。  《事実》までをも ねじまげることさえ お手の物なのでしょう 理性は。  そういう意味で《神の視点》に立とうとする場合もあるようです。  次のように議論するあなたは 岐路に立っていましょうか?  ★ ~~~~~~  やましさという情動は善悪の判断基準となるものではなく判断材料であり、いわば好き嫌いの問題です。善いではなく好いの問題。人が好いと思うことが善いのではない。もし理性的動物であるすべての人から好い悪いという情動はなくならないという意味なら、それはその通りでしょう。  私としては、オランウータンやチンパンジーが手話によって人間とコミュニケーションできることを知ったうえで、自由意志をもつあなたがなお強固な種差別を貫くかどうかに興味があります。  ~~~~~~~~  ☆ 種に差があると見ることと チンパンジーを小学生らが教室に入れてやってまなんだり遊んだりすることを迎え入れることとは 両立します。  ★ だからこそ人はしばしば、殺人者に対する嫌悪感から「殺人者に人権はない」とかわけのわからん主張をするわけです。  ☆ この最後の一文が――つまりその判断が―― ホンネをしめしていることでしょう。  殺人行為と殺人者とを分ければよいとつけ添えつつ。

  • manuke22
  • ベストアンサー率54% (19/35)
回答No.9

「まづ命がありそれは人間にとって存在です」 「まず命が存在し、それは人間にとって存在です」。あなたによれば「存在=生きる」なので、「まず命が生き、それは人間にとって生きるです」となります。 「その命をもった存在として生きること・よく生きること・そしてあるいはともに生きること これを基本的に一般に志向すると見て言うなれば善だと捉える」 なるほど。 「いのち≒存在=生きる」および「善く・ともに生きる(≒善)=意志行為」によりこうなります。 「その命をもった生きるとして生きること、善、あるいは善。これを(略)善だと捉える」 「この人という存在が生きるとき」 はこうなります。 「この人という生きるが生きるとき」 無意味な文です。 「生きる存在の中核であると捉えます」 はこうなります。 「存在存在の中核であると捉えます」 「生きる生きるの中核であると捉えます」 さて、理論的に問題はないとのことですが、「善く生きる」が「善」なら「善く」は何なのか。それは未規定であり、等号を用いたあなたの定義通りあなたの文章を読んだならたとえば「生きる存在」は「生きる生きる」や「存在存在」みたいな無意味な表現になります。私には理論的に問題がないと思えません。「生きる存在」とあなたが書いたとき、あなたはあなた自身の定義「生きる=存在」とは違う意味で「生きる」や「存在」を用いているなら、あなたの定義に反するのでやはり理論的に難ありです。 「犬猫はいつまで経っても人にはなりません」 おおむね正しい。しかしそのことは、人ではない動物を殺すことが実際に人ではない胎芽を殺すことより悪いという判断を覆すものではありません。 受精卵は人ではない。胎芽は人ではない。いずれ人になるからという理由で人と「同等に」尊びはしない。「同等に尊ぶべきだ」なんてのは無理です。胎児や胎芽や受精卵は考えないし考えを伝達もしない者なんですから。なら、胎芽や受精卵と同等に、あるいはそれ以上に犬や猫を尊ぶことはできるでしょうか。できます。犬な猫は飼い主に関する記憶(あなたによれば心身の秩序作用)をもちます。飼い主が変装して飼い犬の前に登場したとき、犬はその姿を飼い主として認識できませんが、飼い主が変装を解いたら飼い主として認識します。これは犬が知覚をもつことも意味します。 したがって胎児や胎芽や受精卵と違って、犬や猫には心があるとなります。下で書かれた「存在の基本としての心」からして、犬や豚や牛は存在だとなります。 自由意志に「よく生きる」とか「話し合う」などは余分です。 「実際に自由意志をもっている動物は《生きる;よく・ともに生きる》という意志行為を互いに切り、結び合って、考えつつ話し合いつつ、いとなむかどうか?」 あなたによれば「存在=生きる」は意志行為のようですが、「存在」は行為ではありません。人という存在は行為ではなく、さらに胎芽は行為ではありません。受精卵や胎芽は生きていますが、それは行為ではなく状態です。したがって「生きる」も意志行為ではありません。 「動物は考えることなく――あるいは考えることをおこなっているように見えてもその場その場に適応しようとしているのみだと考えられます――生きています。あるいはつまり、人はおのれが考えたことを相手に・ほかの人たちに伝える」 完全にアウトです。事実に反します。オランウータンやチンパンジーは手話で人間と会話できますから。あなたによればオランウータンは動物ではなく人です。たしかにヒトではないですがそれは問題ではありません。 さらにヒトという種に属する脳死患者は思考しないし伝達もしません。あなたによればこれは応用になるそうですが、しかし「人」という語へ「考えたことを相手に伝える」というような意味を、つまりたんなる種族としてのヒト以上の意味を加えるなら、「ヒトであること」は「人であること」にはなりません。ゆえにあなたの理論の帰結として、脳死者はヒトではあるが人ではないとなるわけです。せいぜい「人だったヒト」です。 「潜在する自由意志をそれが顕在する前からとうとぶ。神にまかすのではなく、人間たちが互いにその自由意志をもちいて共生する」 それならその自由意志によって、神がどうこうという比喩ではなく厳密に考えた結果として、人間は動物と共生するよう運命づけられているのでは? もっとも、運命づけられているなら自由意志の自由なんて実際は自由ではないとなりそうですが。もちろん比喩でしょうけど。 「このふたつの命題は矛盾します。(あ)の《種差別》を非難する同じ声で、(い)のように《家畜に劣る胎児》や《自由意志を発揮できない脳死患者》を差別するのは自家撞着でしょう」 矛盾してませんよ。(い)は種差別ではありませんから。 差別なしに倫理はありません。差別の仕方が問題です。あなたの意見によれば相手の自由意志を踏みにじることは悪なわけですから、じゃあ自由意志をもたない受精卵や胎芽や胎児を処分することは自由意志をもつ者を殺害することにはならないのだから、その意味で悪くないと言ってます。これは差別感情抜きにあなたの理屈に沿った結論です。 「あなたの論旨から行けば、犬やラクダにおうかがいすればいいでしょう」 そんな風にはなりません。自由意志に依拠する思考の問題ですから。あなたの定義や記述からすれば、脳死者は人だったヒトであり、チンパンジーはヒトではない人です。 いずれにせよそんなに投げやりなら、胎児や受精卵に「あなたに自由意志はありますか?」と伺うのがよいとなりますが、こんな売り言葉買い言葉に意味はありません。すくなくとも、この箇所についてあなたは議論を放棄したようですので、この問いは脇に置きましょう。 「というふうに人間としてのまた我れとしての物差しで、誤りかそうでないかを判断なさっています。つまりそれがふつうだという意味です」 あなたの定義がもたらす理論上の問題を指摘した結果がそれですか? 「生きる存在」が「生きる生きる」や「存在存在」になることは普通だからなんの問題もないですか? 違いますよね。 普通だからどんなに奇妙な定義をしてもよいとはなりません。そして私が普通ならば、胎芽や胎児は動物以下だとする判断は普通です。私はあなたの定義や記述に従うことで、あなたの理論が理論上の問題をもつことや、オランウータンが人に分類されることを示しました。私とあなたが互いの物差しで考えることが普通であるなら、神について人間が人間の物差しで判断することも普通であるわけです。だとすれば、 「6.言いかえると神の愛をわれわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。ダメというよりry 可能だとなってしまう」 これをわざわざ問題視しなくてよいでしょう。普通なんですから。私は普通であるかどうかは問題ではないと考えますので、普通であることはあなたの意見を正当化しないし私の意見を不当化しないとする立場です。その物差しが粗悪品ではないか、物差しをちゃんと使ってるかも問題でしょう。 「そういう違いがありますが、そういう意を汲んで解釈してくれればいいのに」 その規定が誤りだと指摘しています。存在は善ではないし、善は存在ではないと。また、私は「存在=生きる」という定義が無意味になるという理論上の問題を指摘しています。「生きる生きる」や「存在存在」という表現が無意味ではないとするなら話は別ですが。 「行為と存在とはカテゴリが別です」 正しい。ゆえに「生きる;よく・ともに生きるという意志行為」もまた誤りです。「生きる=存在」は意志行為ではありません。 「存在は善と負の善との基体――こういう概念があるとすれば――です」 新しい定義、仮定ですね。 「存在の基本としての心にさからうか否かという善如何の問題だとすれば」 存在は善悪の基体であり、心は存在の基本である。基本は基体ではないでしょうが、いずれにせよ心が存在を基礎付けるという考えでしょう。 あなたによれば胎児は自由意志をもたない者、かつ、いずれもつ者でした。脳を含む身体の発育および教育によって自由意志が生じるということになります。つまり心的作用としての意志は後天的な属性だとなり、その属性の基体は脳を含む身体だとなります。ゆえに存在の基体は心ではなく脳を含む身体です。これはもっともで、感情に関わる脳の部位が事故で損傷を受けた人は以前とは人が変わりますし、ロボトミー手術を受ければ同じく人が変わります。人であれ動物であれ、基体substanceは物質substanceであり、心は存在の基本ではなく属性です。したがって、そんな実際には概念はありません。作業概念としてあなたが仮定したもの、という意味では在ります。 「よって人殺しという行為は、わが心にさからって欲した意志行為であると見られ、負の善であり、意志行為の主体は殺人者であっても存在として広義の善です」 なぜ? 自分の反応を自分で判断し、やましさがないなら殺人は自分の心にしたがった行為であり、善です。あなたによれば自由意志をもった人間は我が心にしたがって殺人はできないとなりますが、それは一種の決定論でしょう。我が心によって、我は殺害を善だと判断できないように決定されているわけですから。 しかし、「善もしくは負の善」として判断するわけですから、殺人という行為もまた善もしくは負の善だと判断されるのであり、ゆえに殺人は負の善ではなく善でもありえます。存在は善と負の善の基体なんですから。 「どうでしょう? ほんとうにいまの命題を心にやましさをいっさい覚えずに支持しますか?」 はい。すくなくとも受精卵や胎芽を中絶す

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  基礎としての共同主観を説明するのですから つまりその定義としては 同語反復のようなかたちになっても仕方ないと考えます。  ただし 数式ではないのですから 概念をその説明の順序に応じて説明し その個々の概念の定義をするというよりは 概念どうしのあいだの関係を説明していると採ってください。  その余は 文学です。  《よく生きる》は いのちを持ったひとという存在としてその存在を 損傷せず 維持するという意味です。  ★ 人ではない動物を殺すことが実際に人ではない胎芽を殺すことより悪いという判断  ☆ 生物のいのちもしくは存在を損傷し抹殺することは 負の善である。そしてただし 生物のうちそのように考えるのは ヒトのみである。環境に適応するという行動形式だけで生きるのではないという意味で 考えるをおこなう。幸か不幸か そのヒトが ほかの生物に対して おおむね主導権を持つ。――ここまでを言っているのみです わたしは。  〔読み返して 分かりづらいようですが その後の行論に俟ってください〕  《胎芽をころすこと》は 緊急避難においてか共生における公共のためという目的においてかあったとしても 生命第一の基礎的な共同主観がくつがえされるものではありません。  それと ほかの動物をころすこととは 次元を異にするという前提がすでに派生していますから 比較してどうのこうのと考量はしないものです。  ★ 受精卵は人ではない。胎芽は人ではない。  ☆ このように言い切った表現だけでは その存在を定義し尽くしてはいないでしょう。そこのところを考慮すれば それほど《人間とほかの生物との差別という〔ほとんど天与の〕条件》をくつがえすものではないでしょう。  この条件は ほかにもっと妥当な定義や説明があれば それをえらぶものです。  ★ ゆえにあなたの理論の帰結として、脳死者はヒトではあるが人ではないとなるわけです。せいぜい「人だったヒト」です。  ☆ 論理を論理だけとして当てはめればという話でしょう。くみしませんし 本意がそこにお有りだとは思えません。  ★ オランウータンやチンパンジーは手話で人間と会話できますから。あなたによればオランウータンは動物ではなく人です。たしかにヒトではないですがそれは問題ではありません。  ☆ ぢゃあ 市民権をあたえて 戸籍をつくりましょう。  ★ それならその自由意志によって、神がどうこうという比喩ではなく厳密に考えた結果として、人間は動物と共生するよう運命づけられているのでは?  ☆ 動物との次元の差を見ることは 動物を虐待せよという意味にはなりません。生命のとうとさという共同主観があります。  このあたりは もうおふざけの領域に入っていませんか?  ★ 自由意志をもたない受精卵や胎芽や胎児  ☆ この規定がふじゅうぶんだと言っています。人間には 歴史があります。人生という時空間をその意識や認識とともに帯びています。植物人間になっても 同じです。(どうしてもそうは見ないという人びとのあいだの取り決めが成るのであれば そのとき考えればよいというほどの基礎理論です)。  ★ 胎児や受精卵に「あなたに自由意志はありますか?」と伺うのがよいとなりますが、  ☆ これを純粋論理とでも言っておきましょう。胎児には人生が待っていますが オランウータンにはどうなのでしょう?  ★ 私とあなたが互いの物差しで考えることが普通であるなら、神について人間が人間の物差しで判断することも普通であるわけです。  ☆ これは 根本的なマチガイです。  人間にはそのことについてすでに与えられた――人間の知解や行動の能力によっては対処し得ないところの――存在にとっての条件があります。(クローン人間にとっても 同じ事情です)。  神は もし通念としてではなく定義するならば この人間の条件を超えています。因果関係から自由であり 経験合理性において有る・無いといったふうに認識し得ず規定し得ない存在として 仮りに人間が人間の物差しで 想定するものです。《絶対》ということです。  この仮りに想定したものについてさえも 人間は そのあとあれこれ詮索しますが それは初めの定義から行けば 《判断》でもなければ《思考》でもありません。考えても分かるか分からないかが分からないものとして想定しているのですから。  あなたの《純粋論理》ですが――ちなみに触れますが―― 言ってみればそれは どこかこの《神》の目を持って来て 人間の理論にその整合性を求めるといった性格のものではないでしょうか?  そういうところまでは問い求めない場合には――わたしの理論のばあいにはということですが―― 不備もあって それはつねに応用問題として人びとが互いに考え合って取り決めることとして意図的に放っておいてあります。オランウータンや胎児や脳死状態人間やの主題です。  でも それだけのことだということは あなたには すでに分かっているはずだ。前回もしくは今回から なぜかすねてでもいるのですか?  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~  6. 言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  ~~~~~~~~~~~~~~  《存在》は――ここではと条件づけねばならないでしょうか―― 動態ですよ。ですから そのまま《こころ》のことだとさえ言えるはずです。つまり 意志行為のことです。  〔イデアなどなど観念としての――つまり身と心とは一体ですから 身としてまたモノとして有るものから離れてしまった概念としての――存在は いま扱っていません。動態とすれば 《存在者》と言ったほうがよいのでしょうか。でも イデアとしての存在をあつかうほうが おかしい〕。  〔また 神として想定する存在は イデアではありません。人間によって規定できないものです。そんなものを何故想定するのか? かみという言葉が持たれているからです〕。    それにもかかわらず 行為は存在そのものではない。言いかえると 存在は何ものかから与えられたという初期条件がついてまわるからだと思われます。そういう違いがあります。  行為は――意志行為は―― この存在を大前提としたうえでは 思いっきり自由におのれの能力を発揮して生きるでしょう。しかも 《存在とそして神との関係》について じつは いちいち表現にあらわさなくても 考慮をおよぼしてもいるはずです。なぜなら じつは人間というみづからを物差しとしていても その能力に限界があることを知っているからです。  ですから いちいち神のことを口にしなくても おのれのふつつかさについてきよらかなおそれをいだいている。はずです。  まぁ またも余計な話をしますが あなたのガミガミ理論は あたかもこの神の視点からの物言いなのでしょう。  ★ あなたによれば自由意志をもった人間は我が心にしたがって殺人はできないとなりますが  ☆ なりません。なると見るのが 言わばわたしの理論をさらに神の視点から補強・補正しようとする思考です。(そのままでは 補正にもなりませんが 大きくその一環でしょう)。  神は 人間の意志行為について 決して介入はしません。だから 介入していると見ることも出来る性質のものですが。つまりは 人間の存在はそれがすでにあたえられたという条件から出発しているというそのことから来ていると思われます。  人間は その自由意志によって チカラの及ぶ限りでどんなことをも自由に考え得るし成し得ます。心にさからわないことが善だとすれば 善をも負の善をも 想像し得てこれを実行に移すこともありえます。  負の善を思いとどまるのは 直接に神のチカラによるのではないということを知らせるために 神が肉になったというようなおとぎ話さえ物語られるようになりました。    おまえたち人間は 人間としてだけで生きてゆけと言うために イエスというふつうの人間がキリストと呼ぶ神の子でありみづからも神であるという存在だという物語が編まれました。  人間よ おまえは 神になるのではない。神に近づかなくてもよい。人間として互いに有限の知恵をはたらかせて 自分たちで生きてゆけと。

noname#194996
noname#194996
回答No.8

こんにちはブラジュロンヌ論様 >自業自得という考え方は ゆえに 主観の範囲を出ない。 大変高度なな哲学的会話に水を差すようで申し訳ないのですが、上記の断片に下種の人間がちょっと口をさし挟ませていただきます。 善行に対して自然は必ずしも善果で報いてはくれない。そこに人間の主観的判断”価値観”が入ってくるからだ、ということのようです。 しかし、主観の範囲 の解釈のしかたによっても異なりますが、ひとの善行にたいして報いてくれるのが人間だとしたら、それはほぼ価値観の共有が可能なのではないでしょうか。 金は天下の回り物と申します。ひとが金を使わなかったらデフレになり、負のスパイラルが発生して皆をどん底に陥れます。これは金を天下の回り物と人が認識しなくなった、金持ちたちが自己中でじぶんひとりだけががめつく溜めまくることから発生したことではないでしょうか。 つまり ひとびとがこの真理をよく理解して、かっての江戸っ子のように気前よく進んで金を使い始めたら、結局世界が好景気になって皆がよくなり善因善果が達成できたことになるのではありますまいか。 リーヴァイス、じゃないレヴィ・ストロース は原始社会でも部族単位の善行、贈答の習慣は行われており、それらが必ず自身の利益になって戻ってくることを知っていたというようなことを書いています。 神学の思想とはまったく関係ありませんが、お気を悪くなされなきよう。 勘違いならどうかするーしてください。

bragelonne
質問者

お礼

 こまあすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  じつは 確かに今回は  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~  7. ただし 主観の問題としてわが心の内なる善行の道は捨て去ることはない。と考えてよいか?  善と言うのも 主観による判断なんですけれど。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問題が あらたな出発だと思っての質問です。  因果応報は 一般理論としては 残念ながら 成らない。  ただし ひとりの主観の内に善行をこころがけるということ。これは 捨て去るというわけのものでもない。はずだ。  なら 全体図は どうなるか? でした。  すなわち  ★ 善行に対して自然は必ずしも善果で報いてはくれない。そこに人間の主観的判断”価値観”が入ってくるからだ、ということのようです。  ☆ ではあるけれど  ★ しかし、主観の範囲 の解釈のしかたによっても異なりますが、ひとの善行にたいして報いてくれるのが人間だとしたら、それはほぼ価値観の共有が可能なのではないでしょうか。  ☆ といった見方も とうぜんのごとく 打ち出されて来るはずです。  たぶん問題は――というふうに ただちにわたしなりの結論にとびますが―― 《むくい》を想定し前提することから離れること。にあるのではないか?  ★ ひとの善行にたいして報いてくれるのが人間だとしたら  ☆ そのように他者を おのが主観の中で期待としてにしろ願いとしてにしろ 歴史行為としての結果に想定することは 成らない。となるのではないか?  すなわち 反論するかたちになりますが  ★ それはほぼ価値観の共有が可能なのではないでしょうか。  ☆ というとき おそらくそれは《人間の尊厳や善意に信頼を寄せ 結果を期待し希望する》というような意味合いになる。のではないか?  デフレとリフレの事例で 次のようにおっしゃっています。  ★ ~~~~~~  つまり  ひとびとがこの〔金は天下の回り物という〕真理をよく理解して、かっての江戸っ子のように気前よく進んで金を使い始めたら、結局世界が好景気になって皆がよくなり善因善果が達成できたことになるのではありますまいか。  ~~~~~~~~~  ☆ すなわち空想的社会主義ではないとしたら・ないのですから 《希望的共同主観》というようなご立言であるように思います。  方向および志向性を同じくします。  そうして それには言わば人間革命を経て到達するというふうにも思われます。《人間(現実)が変わる――前史から後史へと移行する――》というふうな革命(突然変異)です。  いまの段階では そうですね。次のようにうかがうなら 《なさけは他人(ひと)のためならず》といったことわざに要約されるように思います。  ★ ~~~~~  リーヴァイス、じゃないレヴィ・ストロース は原始社会でも部族単位の善行、贈答の習慣は行われており、それらが必ず自身の利益になって戻ってくることを知っていたというようなことを書いています。  ~~~~~~~  ちょっと一見いぢわるに見えることを言うとしますと 一般に《贈与》はやはり見返りを欲しないこと あるいはぎゃくに 見返りをむしろその贈与の時点で互いに取り決めあっておくこと。こうすれば 因果応報の理論を超えて しかるべきよき報いが互いに得られる。ということかも分かりません。  いえいえ。まだ熟しません。  打ち出された手放しの相互恩恵論のほうが もっと現実的であるのかも分かりません。  考えをつづけます。ありがとうございました。