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因果応報説とは何か?理解するためのポイント
- 因果応報説は、共同主観にはならない。善悪や苦楽といった主観による規定が含まれるため、善因悪果や悪因苦果の考え方は主観の範囲を出ない。
- 因果応報説は、神の愛やブッダの慈悲によるエコヒイキが初期条件となる。自業自得であるとしても、主観の範囲を出て有効になることはないため、それを規定することはできない。
- 因果応報説を理解するためには、人間が勝手に神の愛や慈悲を決めつけることはダメであり、理解できるような仕組みであれば人間が改変することも可能となってしまう。善行の道は主観の問題であり、捨て去るべきではない。
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「カントは自然本性について規範のかたちで命題を出します。そこはいただけないと思います」 具体的にどこですか? 引用してください。 「そうである場合もそうでない場合も自由意志にゆだねられています」 つまりどっちでもかまわないわけですか? 生きることはそれ自体で善く、投票の強要に従うことにやましさを感じるなら、投票しないのが「普通」なのでは? 各自とかではなくあなたはどうするんですか? 「人間の言葉を語ったならそれはすべて人間が言ったことである」 オランウータンやヨウムやチューリングマシンは人間ですか? 「基本主観からの逸脱ぶりを示すことが出来ればよいはずです」 逸脱 平均的な基準からの偏向の総称のこと。 一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、その上にルールから外れた望ましくないという道徳的裁定が込められる。 基本主観という「正道」からの逸脱は「望ましくない」のですか? 「《信仰》にかんしてはその定義を提出し、それに合っていなければ批判します」 なら教会に出向いて説法してくればよいです。定義は本質を表そうとする命題なわけですから、「あなた方の信仰は非本質的であり、私が独りでキチンと考えて限定した定義に従って信仰てみてはどうでしょう?」と提案してみては? 「《私》という言葉で自称していることです」 証明と言ったのですが。 あなたからすれば「私という言葉を書いていること」は経験的事実でしょう。私という語を使う者が、私という語を記憶していたり入力されているということまでは言えるでしょう。あなたが言っているのは、「xが私という一人称代名詞を使うならば、xは私という一人称代名詞を使える」ということを述べたのでしょうか? 違うならば、なぜある者が私という語を使うことがその使用者に「私」が存在することを証明するのですか? チューリングマシンやオランウータンにも「私」があり、私という語を覚えた瞬間にオランウータンには「私」が存在するようになるわけですか? あなたの論法をとるなら、私は自分のことを意識や「あたし」と自称したりしないので、私には意識やあたしが存在しないわけですか? あるいは、xが「あたし」や「ウチ」や「私」という語で自分を称するなら、xには「私」と「あたし」と「うち」が存在するのですか? 「やましさ反応はそのように観察された事実です」 あなたが観察したのは赤面であり、これは酔っているときやら恥ずかしいときや怒っているときでも生じます。あなたの言う観察は解釈です。 観察だと言うなら、つまり経験的事実だと言うなら、あなたは他人の身体に生じている感覚内容を感じることができるんですか? 他人が赤面しているとき、他人の恥ずかしさでも悔しさでも焦りでもなく「やましさ」という身体的な感覚を感じたのですか?
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- manuke22
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「ということであってもその《考えている(想像している)》そのことはいま現在のものです」 想像しているという働きはもちろん現在進行形の事態ですよ。私が繰り返し言っていることです。四角い三角にしても。 「こんな概念は知りません」 知らなかったんですか? 間主観性とかデリダとかフッサールと関係する語を用いているからてっきり知っているかと思いました。そんなにマイナーじゃないどころかむしろ哲学界隈ではメジャーだと思っていたんですが、哲学のイロハを知っているらしいあなたが知らないということは、イロハを知らない私の思い込みだったようです。 「いまわたしが《他我》という名詞を口にしたらあなたが言っているそれだとなります。明確に対象を指示しています」 私が言っていること、現象学をはじめ現代哲学でよく出てくる言葉、我が経験不可能な他人の我そのもの。これらを他我という語が文脈上で意味しているからと言って他我という語が指示対象referentをもつことにはなりません。他我という語へ文脈からそういう「内容」を代入できるだけです。意義Sinn(意味内容)と意味Bedeutung(指示対象)は違います。 「指示対象を持たない名詞は基本的にありません。話し手が使った語であるなら少なくとも文脈がその指示対象を浮かび上がらせます」 アウト。100%断言できます。内容をもたない名詞を考えるのは私も困難に思いますが、指示対象をもたない名詞は山ほどあります。時間、空間、一時間、イデア、物自体、肥満、マクゴナガル先生、雰囲気、存在、輪廻転生、四角い三角、価値、善悪、擬態語、百年後の世界、現在、過去、未来。キリがありません。 言わば「それ」という指示代名詞へ文脈から様々な語を代入できることから、「それ」という語が指示対象をもつとあなたは考えているようです。しかし「それ」に指示対象referentなどありません。ただ文脈から「それ」という指示代名詞の「内容」を代入できる。たとえば「それは正しい」という文では「それ」が「あなたが言っていること」になったり、「それなぁに?」という疑問文では「あなたが手にもっているもの」になったりするだけです。後者の場合ではその使用のさいに「それ」という代名詞が「あなたが手にもっているもの」というリアルな事物をたしかに意味しています。 シニフィエと指示対象は違います。「それ」という代名詞にはたしかに「三人称単数の指示代名詞」とか「基本的には人に使わず物や事に使う」などの内容があります。しかしこうした内容は「それ」の指示対象ではない。また、たとえば発話者が自分から200mほど離れたところにある東京タワーを指さしながら「それは東京タワーです」と言えば、聞き手が「それ」という語にもつシニフィアンと齟齬をきたします。この場合は「それじゃなくてあれ」などのように、「あれ」を使うのが適切であることを教えるでしょう。 このように指示代名詞には文法上および使用上のシニフィエがあります。名詞ではない「なぜなら」にも「結論と理由を繋ぐ言葉」というシニフィエがあります。しかしもちろん「なぜなら」に指示対象はありません。シニフィエは指示対象ではありません。 「それ」に話を戻します。たしかに文脈上は「それ」という代名詞が意味する「内容」を特定できます。「他我は経験できないんです」「それはどういう意味ですか?」というやりとりでは、「それ」が「あなたが言ってること」のように読めます。このとき「それ」は、相手の発言の内容である「他我は経験できない」を意味しています。しかしこれを指示対象だと考えるのは誤り。文章の上で「それ」が「他我は経験できない」という文について言及しているreferしていることは、つまり言及の目的格になることは、他我という名詞がリアルな指示対象referentをもつことにはなりません。文面上にある「それ」という代名詞が同じく文面上にある「他我は経験できない」という文を指していることは、「それ」という代名詞が指示するなにかが私に経験可能な具象として存在することにはなりません。 あなたは他我という術語を知りませんでしたね。それと同じことです。あなたは指示対象という術語をわかっていません。それは仕方ありません。 「コップは経験事物であり、割れるというのは経験事象です」 コップは五感で経験できる。割れるという事象もそう。そういう意味では経験できる事象です。実際に私も経験してきました。しかし「このコップを落とせばこのコップは割れるだろう」というのは、実際にそうすればそうなるだろうということ。あくまで経験できるであろう事象であり、実際に私がこの推量のさいにコップを五感によって経験している事態とは異なります。以前に私がこのように推量していたのは事実として私の記憶にありますが。 「イワシの頭」は指示対象をもちます。文字通りリアルに指し示すことができる事物なんですから。 「赤子が母親に無条件になつくのはわたしの言葉で《聖なる甘え》です」 母子はどうでもよい。なつくどうこうの問題ではないんですし。他我が存在するというのは原信憑であり、他我は経験できないにも関わらず、他我は存在するということが自明の理として受け入れられているにすぎない。先入観であることにさえ気づけない。こういう話です。 「対人の恐怖など何もないところにやましさを覚えるとともに顔を赤らめるのです。むろん対面恐怖などいろんな状態もあり得ますが根本的に《やましさ》の問題です。言葉が出て来ずしどろもどろになるかたちと同じでしょう」 焦燥や緊張や混乱やテンパってるでもなんでもよいです。ある嘘が自分の利害に関わるとき、嘘がバレて自分に害や損が生じることを危惧して慌てるわけです。このとき言葉が出ないとは限らない、むしろ冷静になることさえあります。人間の感情は単純ではない。 赤面や発話が判断材料にならないなら、主観の問題なら、やましさを観察可能な振る舞いを伴うとかはとやかくしないほうがよいです。 「本人が感じたならやはりやましさ反応だと言えましょう」 やましさを感じたならやましさを感じている、そりゃそうです。 あなたの疚しさという主観主義の問題は、個人が倫理的判断において不可謬だとする点です。疚しさと呼ばれている感覚は「善の損傷」という一義的な意味をもつ。それに従えば人は自然と善い行動をする。するとこんな問題が出ます。どうせ応用問題で片付けるでしょうけど。 ある人は安楽死に疚しさを覚え、またある人はなにがなんでも生命維持装置をつけることに疚しさを覚える。どちらも疚しさ反応に従属して判断しています。疚しさ反応に従属して判断するかぎり、個人は倫理的判断では不可謬です。だからどちらも絶対に正しいことを言っているとなります。そしてあなたはどちらか一方の判断が「疚しさにちゃんと従っていない」と判断することはできません。なぜなら主観の問題なんですから。 あなたの主観主義は個人の相対主義を招くだけ。また、自分が疚しいと感じていることは不可謬だとして、疚しさが一義的に「善の損傷」を意味するとはならない。 もし「基礎理論における疚しさに従っていれば慈悲殺はしない」とか、「基礎理論に従うと人は疚しさがないかぎり他人からの嘘で傷つかない」とか言って、他人の感情を踏み躙るならばそれは基礎理論がある一定の目的をもって機能していることになる。 「《ひとを憎まず罪を憎む》ということわざから理解してください」 罪を憎んで人を憎まず、ですね。極めてどうでもいい俗語です。それにしてもなぜあなたは論述にしてもアブダクションにしても指示対象にしても意味内容にしても、自分の手を加えずにはいられないのでしょう。 「《行為》よりも《存在》をおもんじているのみです。存在は行為がなくても存在しますが行為は存在がなくては成り立たないのですから」 比較来ましたね。行為よりも存在を。もっとも、個人と個人を比較しているわけではないから問題ないということでしょうが、やはり比較は不可避のようです。しかし次では人間は悪人であるというより、通常の人とは異なる悪い人を想定しています。「基礎理論としてはウソ・イツワリをついてばかりいることです」。行為と悪人は不可分なようですね。 「《悪人》も人間存在であってこそその悪行をあらためることが出来ます。更生し得ます」 あらかじめ基準となる人間や生を前提し、「悪人」は更生(精神的、社会的に、また物質的に立ち直ること。好ましくない生活態度が改まること)によって好ましい生き方をするようになるという。 すでに規範になっています。当たり前です。自然法でありながらいかなる規範もないというのがありえないんです。「べき」や「しなければならない」といった語をどれだけ避けようが、自然法であるからには標準的なnormal在り方を想定せざるをえない。
お礼
§ 44-8 ことば・指示対象 ★ 意義 Sinn(意味内容)と意味 Bedeutung(指示対象)は違います。 ☆ なるほど。この区別は おっしゃるようにわたしは知りませんでした。言いかえると どちらも《意味》として捉えていました。 けれども ★ 内容をもたない名詞を考えるのは私も困難に思いますが、指示対象をもたない名詞は山ほどあります。時間、空間、一時間、イデア、物自体、肥満、マクゴナガル先生、雰囲気、存在、輪廻転生、四角い三角、価値、善悪、擬態語、百年後の世界、現在、過去、未来。キリがありません。 ☆ いま急ごしらえで言うのではなく こういう場合には ということは分かりやすい例として《四角い三角》を取り上げますが この場合には語句の意味は 《具体的な意味を持たない》という意味を持つ想像語だということになります。 《指示対象》として特定しようと思えば 個別のものを例として出せばよいのではないですか? 《輪廻転生》は 生まれて生きて死んだあと さらにまた生まれて来ることと言えばそのことを指示していませんか? 《存在》なら わたし(=ぶらじゅろんぬ)がわたしを指して このような人間も存在ですよと答えればよいでしょう。 ですから もしそのようなドイツ語の区別の存在にあえて異をとなえようと思えば 《指示対象》もとうぜん《意味》のひとつのあり方であると見ることになりましょう。 別の見方からすれば 《物自体》は 指示対象がないというよりも もともとそれとして意味を想定する語である。ということになります。想定は 観念でよいということではありません。観念は 具体的な経験事象から一たん離れた意味をもつ語としてあり しかもその想像世界にあること自体は 経験事象です。そう(経験事象)ではない何かを仮りに意味する語として想定する場合があります。 なぜなら 《ディング・アン・ジッヒ》と言うのなら 何か具体物のことを しかも抽象的に 指すということはないのか? と問いたくなるからです。そうではないとするのは それとして定義を決めて想定する語だからではないですか? 《善悪》にしても ちゃんと定義を決めればよいわけでしょうし 指示対象は何かと問われれば たとえばからだの治療だと具体的に示してやればよいはずです。 《指示対象をもたない名詞》 こういう分類の仕方には いささか理論性が少ないように思われます。 § 44-9 指示対象のつづき ★ しかし「それ」に指示対象referentなどありません。 ☆ 《それ》という語は 二人が話し合っている場合 共通に知られているものごとを指すはずです。 あるいは 一度出て来て共通に知っていると見なされるものを指すはずです。 そしてこの語などは 意味はあまりなく むしろ指示対象を持つ語として使われているのではないか。 どれ? という問いに対して もし これだと答えるなら それは答える側のそばにある何かでしょう。 もし あれだと答えるなら それは 二人のどちらからもある程度遠いところにある何かを指していましょう。(いま思い出す あれだ あれ というような場合もあります)。 もし それだと答えるなら 何を指しているか? すでに一度二人が一緒に触れて(述べて)いた何かであるか。あるいは 尋ねる側のそばにあって その人が知っているはずのそのものだよと指示している何かであるはずです。そこ そこ そこにあるそれ というような言い方です。 つまり いわゆる こそあどは 指示対象の区別とその分担をしているとさえ考えられます。 ★ たとえば「それは正しい」という文では「それ」が「あなたが言っていること」になったり、「それなぁに?」という疑問文では「あなたが手にもっているもの」になったりするだけです。後者の場合ではその使用のさいに「それ」という代名詞が「あなたが手にもっているもの」というリアルな事物をたしかに意味しています。 ☆ この事例のように その《それ》は 《あなたも知っているとおり あなたがいま言ったことや いまあなたが手に持っているもの》を指示するものと思われます。既知のもの・共有しているもの。またそう見なすものを指示するのではないか? § 44-10 《それ》の指示対象 ★ たとえば発話者が自分から200mほど離れたところにある東京タワーを指さしながら「それは東京タワーです」と言えば、聞き手が「それ」という語にもつシニフィアンと齟齬をきたします。この場合は「それじゃなくてあれ」などのように、「あれ」を使うのが適切であることを教えるでしょう。 ☆ このばあい聞き手があれっ おかしいと思うのは たぶん《自分が知らないものなのに》ソレという語を話し手は使った。からではないか? 聞き手が知らない場合なら アレではなく コレによって指示することも出来ます。遠い近いの問題によってでは必ずしもなく 《ともに知っているかどうか》で使い分けるという要素もあるのではないか? ★ シニフィエは指示対象ではありません。 ☆ なるほど こういう分類もあると初めて知りましたが 考えてみれば ソレの指示対象も シニフィエなる意味に含めても別にわるくないと思われます。 § 44-11 他我 については この用語じたいが わたしは知らないのです。嫌いなのです。使いたくないのです。 § 44-12 イワシのアタマ ★ 「イワシの頭」は指示対象をもちます。 ☆ むろん そうして 意味をも持ちます。 わたしがこの語を例として出しているのは そうではなくどんな意味や指示対象を持っていようと それらをすべて捨象して ただのシルシとして使えば 非経験の場を仮りに代理として意味させることもできる。と言っています。神という語と同じ役目を果たすことはできるということです。 § 44-13 ふたたび他我 ★ 他我が存在するというのは原信憑であり、他我は経験できないにも関わらず、他我は存在するということが自明の理として受け入れられているにすぎない。 ☆ それは 《他者》のことです。 § 45 やましさ反応 ★ ~~~~ 「本人が感じたならやはりやましさ反応だと言えましょう」 やましさを感じたならやましさを感じている、そりゃそうです。 ~~~~~~ ☆ それでじゅうぶんです。 § 45-1 同じく ★ もし「基礎理論における疚しさに従っていれば慈悲殺はしない」とか、「基礎理論に従うと人は疚しさがないかぎり他人からの嘘で傷つかない」とか言って、他人の感情を踏み躙るならばそれは基礎理論がある一定の目的をもって機能していることになる。 ☆ ここで《他人の感情を踏みにじる》ということに どうしてなるのか? 分かりません。 § 45-2 ★ 「《ひとを憎まず罪を憎む》ということわざから理解してください」 ☆ これは 《ひと〔という存在〕を憎まない》ということを先に言いたかったからです。 § 45-3 ★ ~~~~ あらかじめ基準となる人間や生を前提し、「悪人」は更生(精神的、社会的に、また物質的に立ち直ること。好ましくない生活態度が改まること)によって好ましい生き方をするようになるという。 すでに規範になっています。 ~~~~~~ ☆ 《善や悪》という語によって判断をなしている部分が大きいと思われます。 基礎理論を共同主観として心得るところの基本主観 この軌道をあゆむか逸れるかであり また逸れたならば 元の道に戻るかどうかです。 《あらかじめ基準となる人間や生を前提し》ているのではありません。わたしがわたしを眺めてみると どうもそういう過程をあゆんでいるらしい。と言っているのみです。 この基礎理論を 公表しますが あとは 同感する人は さらにこの基礎理論の現実性について――具体的な経験から―― さらなる理論化や修正やまた 具体的な体験談などをも発表して共有しあおうとも言っている。のみです。社会全体の中で それに同感する者が三分の一いればよい。という展望です。 《規範》ではありません。
補足
二件 おぎないます。 § 46 = § 44-2 同語反復しうるからこそ ワタシである。(=No.36お礼欄) この議論に次をおぎないます。 すなわち ★★(回答No.34) 単に外界に対する比較がなくなり、内面に比較の場が移っただけ。 ☆ この見方ですがそれは 同語反復しないから 外界におけるものごとについての比較考量を 内面へ持って来るという結果になるのではないか? あやまつならば我れありというごとく あやまちに気づいたなら人は我れに還ります。つまりこのコトは すでに自分の意志によって意識的におこなっているのではないはずです。そういうワタシへの立ち帰りであるならば とうぜんのごとくその《わたし》について受け留め受け容れるかたちにおいて同語反復するのですし してもよいのですし して当然です。 《わたしはわたしである》。また《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》。この同語反復による自分の自覚 これでよいのです。いえ そうするのが ふつうなのです。意識的に欲する意志行為をむしろ超えて自然本性のハタラキによって 《我れに還る》事態が起きるのですから。 § 47 = § 44-8 ことば・指示対象 〔★ 意義 Sinn(意味内容)と意味 Bedeutung(指示対象)〕 以下の議論をおぎないます。 § 47-1 日本語の《それ》の《意味》 《それ》は 相手とのあいだにすでにその情報を共有しているという意味合いを帯びているという用法について。 用例に沿って見て行きます。 (あ) それにしても 困ったもんだ。 たとえ相手がいない場合にしても 何かの問題を自分のほかに共有する人がいるという前提(つまりそれが仮想だとしても)でこのソレを言っている。だから 認めはするのだがのニュアンスがあります。 (い) それはそうと じつは こういう問題があるんだが・・・ 相手も自分もすでに出ている問題をともに共有したということを ソレという語に託している。次の用例も同じであろう。 (う) じつは それなんだが 思うに・・・ (え) そおれ それそれ お祭りだ・・・ さあ みんなお祭りの始まりだというふうに 事態の共有をうながしている。 (お) ほれ(=それ)! ほら(=そら)! § 47-2 西欧語の《 id / Es / it 》は 《それ》か? その理論を支持して言うのではないが ムイシキにおいてうごめく欲動を《イド / エス》と呼ぶのは どういう意味合いがあるか? 無意識と言うからには 自分は意志してもおらずその欲動の起因については知らない。《なんでこうなるの?》といった場合である。 それは 日本語ではたぶん《あれ》と言う。イド=エスがうごめくのは 《あれ》がまた起きたとでも言うのではないか? 必ずしも《それ》とは言わない。 何か思ってもみぬことが起きたとき (か)あれっ? / ありゃりゃ!? と言う。不意を襲われたとき (き) あれえーっ! と言う。あるいは (く) あれはなあ・・・。確かにそうなんだが・・・。 というアレの用法は ソレに似ているが・そして同じように《相手との情報の共有》をも示しているようだが それにしても このアレの場合には じつは共有したくないというニュアンスがある。つまり イド=エスを無意識だとするならば それと同じように《得体の知れないもの》というニュアンスがあり これをいくらかは避けている。或る程度遠いところにいて欲しい。 こう考えて来ると 意義 Sinn(意味内容)と意味 Bedeutung(指示対象)とは どういう違いを言おうとしているか? § 47-3 《意義 Sinn(意味内容)と意味 Bedeutung(指示対象)》との区別は 何を意味するか (47-3-1) 語義はそれぞれ 《センス(感覚)》と《言わばやまとことばで言えばこれこれだという表現》をそれぞれ表わしていましょう。 そうすると 言語学でそういう区別をしたのでしょうか? 言語学で見落としていたのか わたしは気がつかなかった。それとも 論理学で説くのでしょうか。 そもそも《意味》は その語が何かを指し示すというそのことでしょう。 (47-3-2) ですから 次の命題は 専門用語として問題があるということでしょう。 ☆☆ 「指示対象を持たない名詞は基本的にありません。話し手が使った語であるなら少なくとも文脈がその指示対象を浮かび上がらせます」 少なくとも日本語の《それ》については 当てはまります。《指示する対象》をも帯びていますから。《相手とこちらが共にいるひとつの世界の内側にあって 互いに共有している〔と見なす〕何か》を指し示します。その何かが何であるかは定まっていないのですから そういうかたちにおいて見れば 《意味内容》はないのです。一定の体言をそれに代わって指し示す体言(準体言)といったところでしょう。 (47-3-3) ちなみに体言とは そのモノがコトとして特に論述として用いられていない段階での言葉です。動態ないし状態に用いられたなら それが用言と呼ばれます。 《あは!( Ah ! / Oh ! )》というのは まづ文の素と言うべき《超文条件》ですが――《間投詞》というわけは 文の外から 語句と語句の間に それらから独立したかたちでこの《文の素(表出詞)=超文条件》を投げ入れたものという意味です―― これを 親愛称というべき子音の / r / を用いて あは‐れ につくります。わ⇒ わ‐れ。か⇒か‐れ。のごとく。そして このアハレのままでも体言相当になりますが 用言につくれば あは‐れ‐み / あは‐れ‐む となります。動態用言の概念法(連用形)である アハレミは 概念法に活用していると言うごとく 体言となります。 (47-3-4) 文〔の元素〕の自己表出および文としての自己表現 ここに使われる語に《意味》が まだ〔考えの混乱によって〕定まらないことはあっても 無いということは考えられません。無意味の語や文を発したとしても それには 無意味という意味があります。 この《意味》に 意味内容と指示対象とのふたつに分類される要素がある。か? そもそも意味内容にしても その内容を指し示しているのではないか? 指示した対象は 意味内容のことではないのか? (47-3-4) ★ 言わば「それ」という指示代名詞へ文脈から様々な語を代入できることから、「それ」という語が指示対象をもつとあなたは考えているようです。 ☆ そうではないことは すでに説明しています。 ★ しかし「それ」に指示対象 referent などありません。 ☆ 日本語では 当てはまりません。イド=エスについては どうでしょう? よく肌で感じるようなニュアンスは 残念ながらわたしは分かりません。 ★ シニフィエと指示対象は違います。・・・名詞ではない「なぜなら」にも「結論と理由を繋ぐ言葉」というシニフィエがあります。しかしもちろん「なぜなら」に指示対象はありません。シニフィエは指示対象ではありません。 ☆ 《なぜなら / だから》は わたしの用語では《文条件詞》です。文と文とを何らかの意味合い――たとえば原因と結果や理由と結論の関係――をともなって条件づけるからです。接続詞というのは 条件を示して二つの文の接続をになっていることからです。 言いかえると 体言や用言のほかの語は 文や語句にかんして何らかの条件を示すものです。ハ格やガ格・ヲ格などなどは 体言と用言とのあいだの意味連絡をにないます。文ヲ語ルでは 述語用言のカタルの客体として ブンが表現されたことを ヲ格〔という論述条件詞〕が示します。 というのと同じように ナゼナラ / ダカラは 文の付属成分として 何らかの条件づけのハタラキをになう広義に条件詞です。 ナゼの語源は 必ずしもつまびらかにし得ませんが なにそ(何‐そ)→なにぞ→なぞ(謎)につながりがあることは見て取れます。つまり そういうことを言い出せば 《意味内容》もあると言えばある。(何セムから 何ゼ→ナゼ になったか)。 カラは 東京から大阪へ行くのカラですが――つまりたとえば起点格ですが―― もともとトモガラ(友から)・イエガラ(家柄)などと言うように 血族ないしそれに準じた関係を言う語だったという説もあります。つまり そういうつながりや関係を意味することによって ダとともに理由を示す文条件詞として用いられるようになった。(起点格カラは 起点と着点とのつながりという意味を指し示そうといています。理由格に用いても同じようです)。 (47-3-5) このように捉えれば 意味内容と指示対象とを広義の《意味》の基本的な分類に当てるという見解に必ずしも それこそ意義があるとも見られない。 言いかえると もし指示対象のない語があったとしても それは 文表現においてそれなりの事由によってそれとしての成り立ちと用法を持った語として存在している。のであって 指示対象がない場合を取り立てて 文法の話として持ち出すことに どれほどの意義があるのか? まだ説得されません。
- manuke22
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「これは墜落の可能性を自分がつくったという意味です」 予測できたか否かが問題のようですね。滑落の可能性を彼が作った、それは意図的行為でしょうか、自発的行為でしょうか。どちらでもないように思います。彼は意図せずその可能性を作ってしまった。これがより適切な表現だと思われますが、同時にまだ不十分に思われます。そして私にはまだ「彼が崖へ向かったという自発的行為の後に、彼が崖から落ちるという事故が起きた」という前後関係しか見当たりません。あなたは因果関係が見てとれるかもしれないと言いますが。 なんにせよ、今回の例に因果関係を当てはめることには積極的ではないようですし、実際そうであればその点は同意です。 「落ち着かなければ《判断》が定まらない場合もあります。とにかく意味がつかめなくて《ん? / ええっ?》と問い返したり」 発話者が落ち着いていても聞き手の解釈が定まらない場合がありますので、落ち着きはケースバイケースです。聞きての耳が悪くて聞き取れなかったり。場合があるを連呼するならこういう場合があるのも当然です。 「《ん?》もひとつの文です。《それは何ですか?》という意味を表わします」 そんな一義的ではありませんし、それは内容ではありせん。「今なんて言ったの?」「それおかしくない?」「なぁに?」など、文脈と話者によって容易に解釈の仕方が変わります。あなたのように解釈するのが適切な場合もあるでしょう。 さらに言えば「ん」は次のような場面でも観察できます。了承の返事、機器の不具合を見つけたときの違和感、物を差し出すとき(映画『トトロ』でそんな場面がありました)、傷口を薬品で消毒されたさい思わず出た声。 これは単なる文章上の文脈だけでなく、 「物事の背景」という意味での文脈によっても「ん」の解釈の仕方が左右されることを意味します。そして解釈はそれゆえに一義的にはなりません。ましてや文脈に影響されている文から自分が解釈したことを、文脈に左右されるという前提を無視して「その文の意味内容だ」なんて言えるわけがないわけです。 間投詞、感嘆詞。これはたしかに文になりますが(「Yeah.」「うわぁ!」など)、主語と述語からなる文にはなりません。これらを解釈した文に主語と述語が含まれているからといって、「Yeah」や「うわぁ」が主語と述語からできていないことに変わりありません。 「おっとっと」「げ」「うわぁ……」、これらは句点や疑問符や感嘆符を付ければ文になります。しかし内容をもちません。 「たとえ無効の内容――たとえば金をやるからおれに投票せよ――であってもそれが力学上有力であるならそれに従わざるを得ない場合があります。仕事がなくなり社会的生命が消されるおそれがある場合などです」 そうでしょう。危険性でしょう。結局は利害です。生きることが善いことなら社会的にどうなろうが生きていけるでしょう。ホームレスや乞食は生きてますよ。コンビニの廃棄をわけてもらったり空きカンを集めたりして金は稼げますし、生活保護やなんやもあります。生きることが善いことなら、社会的生命とかより疚しさ反応の命ずるままにその他人の命令を拒否すればいいんです。 やましさ反応はあくまでその人じしんの現実における現場での事件として起こり その場におけるその反応の自己自身としての取り扱いがすべてです。 「《とうとさ》は《善》と同じように二次的な価値判断に属します」 尊さがどの領域に属するかはわかりました。「尊さ」の内容の定義をお願いします。尊ぶではなく。 「命は尊い」が「命は○○」となるように、無内容な語を含む文は無内容な文になります。 価値が高いなど一般的な意味でいいでしょうか? それとも「人命は尊い」とは「人命バンザーイ!」のように、人命に対する好意という情動を表出した擬似命題なのでしょうか? 「けれども命一般をとうといと見ることにつながります。というよりも《死のおそれ》には《わが命のとうとさの自覚》がふくまれます」 尊さの自覚はわかりませんが自分の命と関わることは確かでしょう。それにしても動物にも自覚の能力があるんですね。 「追体験ないし疑似体験、そういう――観念をも介した――体験がすでにもとからある《死の恐怖》つまりその先天性を物語っていると見ます」 実際のところ死への恐怖は先天的でなくてもよいでしょう。ほとんど誰もが身近な人や生物が死ぬ事態に出くわす。そこから死という語が恐怖や忌避感と結びつきます。恐怖を感じる生理的機能は先天的、あるいは人体に共通だと思われますが、それが死に結びつくには後天的に観念連合が生じなければなりません。草食動物はたしかに生まれてすぐ立てたりしますが、群れの一員が食われたり死体を見たりしない限りは、死への恐怖はなくただ捕食者への恐怖があるだけでしょう。 「この超越論的統覚者はワタシであるとして特定し得たとき、すべてそのワタシのもとにおさまります」 者と擬人化するのはよくありません。統覚はあくまで機能なんですから。 収まりません。十年後の私を今の私は統一できません。その意味では十年後の未来の私は他者です。 また、一時間前の私は現在の超越論的統覚によってたしかに統一できた気になれますが、それは記憶があるからです。記憶がないころの私を統覚によって統べることはできません。だからこそ記憶喪失者にとって喪失した記憶は重要になります。 「同語反復で説明される主体こそが超越論的統覚をおこなうただひとりのワタシなのです。これで 要が足ります」 無内容な私ですね。 「その事実をそのまま受け止めればそれで済むのではないかという意味です」 どの事実ですか? 神秘だという事実? 私は精子や受精卵に「私」があったとは見なさないです。脳を含む身体がないわけですから。 「これは一般の定義ではないでしょう。消極的な行為(《或る行為をおこなわなかった》)という内容も行為に入ります」 我慢する、座ったままでいる。これらには動作がないですが、たしかにあなたの言う消極的行為に該当するでしょう。しかし撃とうとして引き金を引いたのに銃の不具合が原因で「撃てなかった」場合、銃弾が発射されなかった場合、行為ではないと言っています。 「相手の自由意志を無視したならそれは何故だ?と問われます。答えるという責めに任じなければなりません。互いにその行為内容やそれの責任についての答弁を考慮して納得の行くように話し合います」 では自由意志から質問に答えない場合、答責性を果たしていないのでしょうか。「なければなりません」という義務はレトリックなんでしょうから、説明責任という一般的な責任をこそ果たさなければならないというわけではないでしょう。 「行為の途中で起きた事故(事件)でしょうね。そしてその夜道の情況に応じて責任や原因が自分にあるか。あるいは不可抗力であったか」 歩く行為の途中で起こった事件。ほとんどすべての事故や事件がそうですし、責任どうこうはともかく「レイプされた」が行為ではない点は間違いなさそうなのでとりあえずよしとします。 「いのちを生きることはそれ自体でよきことでありとうとい。と基本主観は心得ている。誰がより多くとうとく誰がより少なくとうといというふうな比べっこをすることはあり得ない」 まさか。それ自体で善いことだとか考えたりしません。すくなくとも私は。 尊い犠牲、無駄死に。尊敬に値する人。あなたが尊敬する人は?→パパ! あいつはクズだ。生きるに値しない。万死に値する。死刑囚に人権なんて要らないし拷問でもすればいい。ただ殺すのはもったいないから臓器とって他人に役立てればいい。 現に色んな風に人は価値付けしています。ありえないなんてのはありえない。と言うと、それは主観であり更に下にある基本主観では「本当は」、と言うのかもしれません。それに対しては、「ありもしない無意識」とのフロイト批判を逆手にとり、「ありもしない共同主観(および基本主観)」と返しましょう。治療の成果をあげたり臨床から理論を絶えず洗練したフロイトの無意識は駄目で、あなたの基本主観はオッケーだとはならないでしょうから。
お礼
§ 41 行為の意志とその行方。 ★ 彼は意図せずその〔滑落の〕可能性を作ってしまった。これがより適切な表現だと思われます ☆ 同意します。この表現で 因果関係のどちらかと言えば不成立がふくまれると見て これでよいと考えます。 § 42 文とは何か ★ ~~~~~~ 「《ん?》もひとつの文です。《それは何ですか?》という意味を表わします」 そんな一義的ではありませんし・・・ ~~~~~~~~ ☆ このくだりは ふつうに妥当なことが書いてあると思いますが この上の個所一点に細かくこだわるとしますと: わたしの文は 《〈ん?〉が ふつうに意味を表わす文のひとつだ》と言おうとしています。 あなたの文は 《そこに表わされる意味が ひとつに限られるわけではない》うんぬんと続きます。 § 42-1 文の種類 ★ 間投詞、感嘆詞。・・・主語と述語からなる文にはなりません。 ☆ 《あは!》と言ったとき 《わたしは世界と和解することができた》と言っていることがあり得ます。 それも・あるいはそれが 文です。自己表現です。 主格と述格の構成は その文の意味連絡を取る(理解する)ために用いるようになった概念であり分析道具です。 もともとは 《山よ》というような呼びかけ(それが 意味連絡としては 呼格になりますが)でも一文です。 《海。》というようにひとつの主題を提示したものも じゅうぶんに文です。 言いかえると 主題を次から次へ――自己表出の必要に沿ってですが――羅列して行くのが 文としての自己表現の発生だと考えられます。 文として生成したと言えるのは 自己表現としてわが意志をひととおり言い終えたところで 主題群をまとめたときでしょう。 文への自己表出: T1・・・T2・・・T3・・・Tn 文 の 生 成: T1-----T2------T3=P。 註 T:主題(問い) P=論述主題(答え) このあと 各主題が 論述の述格に意味連絡の上で収斂して行くと分析する。 文例:文‐ハ( T1 ) 人‐ガ( T2 ) 語る( T3=P )。 分析:文‐ヲ(対格) 人‐ガ(主格) 語る(述格)。 《文を》も《人が》も 《語る》に意味上収斂して行くという恰好です。 ですから 《主語と述語からなる文にはならなくても》 文の種類はほかにもあるから 構わないとなります。 § 42-2 ★ 「おっとっと」「げ」「うわぁ……」、これらは句点や疑問符や感嘆符を付ければ文になります。しかし内容をもちません。 ☆ 何でやねん? § 43 いのち。生きる。 ★ 生きることが善いことなら、社会的生命とかより疚しさ反応の命ずるままにその他人の命令を拒否すればいいんです。 ☆ いのちがとうといと言い 生きることが善だと言っても すべては相対性の世界での出来事だとも言っています。ゆえに 応用領域では――そしてきびしく言えば基礎領域においても―― 絶対に守らねばならないものはないという見方も出て来ます。 そして一般にウソつきの常習犯たる人間は そこにつけ込んで悪行を為します。五十歩百歩なんだから いちいち細かいことは言うな 説教などしなさんなという逆襲のすべを持っています。 あなたの上の命題は 分かりにくいですが どうも全か無かの思惟形式であるように思われます。 § 43-1 前項を承けて ★ ~~~~~~ 「《とうとさ》は《善》と同じように二次的な価値判断に属します」 尊さがどの領域に属するかはわかりました。「尊さ」の内容の定義をお願いします。尊ぶではなく。 ~~~~~~~~~ ☆ 生きることが好ましいなら それを大事にしたいと思います。とうとぶのであり そのものはとうとい。 § 43-2 死の恐怖 ★ 《死への恐怖》はなくただ《捕食者への恐怖》があるだけでしょう。 ☆ 同じだと思いますよ。 § 44 ワタシ ★ 十年後の私を今の私は統一できません。その意味では十年後の未来の私は他者です。 ☆ というかたちで この今のワタシにおさめています。過去のワタシを含めてですし たとえ《他者》だと見ていたとしてもです。 § 44-1 現在のワタシに収斂する ★ 記憶がないころの私を統覚によって統べることはできません。だからこそ記憶喪失者にとって喪失した記憶は重要になります。 ☆ そのように《記憶が欠けた状態でのワタシ》としていまのワタシが いま取り収めます。 § 44-2 同語反復しうるからこそ ワタシである ★ ~~~~~ 「同語反復で説明される主体こそが超越論的統覚をおこなうただひとりのワタシなのです。これで 要が足ります」 無内容な私ですね。 ~~~~~~~~ ☆ 《同語反復》の重要さが分かっておられない。ワタシは 自己同一性においてこそ 《わたしはわたしである》という自同律においてこそ その同語反復性によって存在が確定します。 そうしないから 未来のワタシは 他者だなどと言うのです。 § 44-3 わたしの時間性は ★ 私は精子や受精卵に「私」があったとは見なさないです。脳を含む身体がないわけですから。 ☆ なぜ時間性を見ない? なぜ可能性を排除する? § 44-4 行為について ★ しかし撃とうとして引き金を引いたのに銃の不具合が原因で「撃てなかった」場合、銃弾が発射されなかった場合、行為ではないと言っています。 ☆ 《失敗》した行為です。 § 44-5 責任について ★ では自由意志から質問に答えない場合、答責性を果たしていないのでしょうか。 ☆ 文脈によります。あるいは そのふたりの人間関係という文脈が この場合 ものを言うかも知れません。夫婦の場合には 答えがなくても わかる場合があるかも知れません。 そういう場合でも 説明責任を果たしたかたちになるでしょう。(具体例を欠かしますが)。 § 44-6 いのちのとうとさ ★ ~~~~~~~~ まさか。それ自体で善いことだとか考えたりしません。すくなくとも私は。 尊い犠牲、無駄死に。尊敬に値する人。あなたが尊敬する人は?→パパ! あいつはクズだ。生きるに値しない。万死に値する。死刑囚に人権なんて要らないし拷問でもすればいい。ただ殺すのはもったいないから臓器とって他人に役立てればいい。 ~~~~~~~~~ ☆ これが 《飾りやゴミ》としてのシガラミを重視して人を判断している例です。基礎理論では そのような比較はないでしょう。 § 44-7 そのつづき ★ それに対しては、「ありもしない無意識」とのフロイト批判を逆手にとり、「ありもしない共同主観(および基本主観)」と返しましょう。 ☆ 《死の恐怖》は 共有されていました。
- manuke22
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「神はもし通念としてではなく定義するならば、この人間の〔その能力の限界性という〕条件を超えています」 そりゃ神なんですから超えていますよ。通念としてではなくどころかそれこそ通念です。 「絶対者:擬人化された」 聖書でははじめから擬人化もとい人格をもつとされていますし、神が人格をもたないとも言えないわけでしょう。者をつけようがつけまいが「絶対」もまた規定です。 「それは信じているのではなく《神を信じるということがあるのだなぁと思ってそのことをそのまま受け容れている》だけです」 その人が信じているなら信じている、それだけ。 「神だとどうして分かるのか? 本人の主観によります。その人の心です」 わかるんですか。可知なんですね。主観は不可謬だとしているようです。 「どちらの志向性もそれは思考でありハカラヒです。人間のそのような――理性よりも知性を用いましょうか――知性によって捉えられる何ものかであれば、それは神ではありません」 意識の志向性を知性だの計らいだの図らいだのと見なすのはいただけませんし、受動的総合についても「捉える」という記述で能動態を用いるのもよろしくないですが、とりあえずあらゆる信仰がもつ反証不可能性ゆえに反論はできませんので、あなたにとってはそういうものなんだなとしておきます。 「現実の応用部門ではカーストなどの事例のごとく実際の生活に大きく影響する社会力学であり得ます」 それは正しい。能力は程度問題ですが階級の違いは程度問題ではありません。きっちり区分けされてます。 しかし種差別主義speciesismは階級差別とは別です。たしかに階級はカテゴリーですが種ではない。 「基礎部門が理論と言えども《空想》であるのはじっさいでしょう。公理としての自由や平等と同じです」 自由は公理なんですか? 私の行為がすべて自由なら、私は自由にしか行為できないので不自由ですし、私が自由に行為できないなら、それもまた不自由です。自由意志はどこにありますか? 私はすくなくとも見たことはないんですが。あなたの言う反応が、つまり刺激に対する反応が基本的だと思いますよ。 「ですから学校へ通って掃除当番をやれるようになってから話をふたたび起こしましょう」 なぜ思考の有無や人格の有無が学校へ行くか行かないかの問題になりますか? 学校へ行ってなかろうが現代の貧困国の子どもや古代の奴隷には思考も人格もあるでしょうに。 奴隷が学校に行ってから奴隷の社会的地位について考えるなんてのは、そのとき通学するなどの社会的地位を得ていない奴隷へ、社会的地位を与えるべきか否かを議論することを放棄しているにすぎない。動物は観念論体系(ハイデガーの基礎的存在論、プラトンの『法律』、ルソーおよびデカルトの動物機械論)にとって潜在的に、ファシズムにとってのユダヤ人と同じ役割を果しています。 「人間の主観は十人十色だけれど考えてみればその《いのち》と《いのちとしての存在であること》はどうも共通であるらしい。人は一般にこの存在を受け容れ大切に思い保持して生きる。そのことを同じく共通として互いに同等の関係性を持つ」 「一般に」、ですか。日本のようにライフラインが整っていればそうでしょうね。 人間が生きているのは事実。しかし親子、男女、老若、様々な非対称的な関係がある。それこそ男女なんて生来の有り様で、男でも女でもない中性的な人間なんてこの世にはいない。 そして生きているから大事にするのではなく、親や友だから大事にする。人間が死んだからではなく親が死んだから悲しむ。 「このように生きることは言葉で言い表わそうと思えば善だとなる。その命や存在を傷つけることはしたがって負の善である」 なぜ? たんに好ましいだけでしょう。 そのように生きることが善ならばそのように生きないことが悪であり、べつに生体そのものが善であるわけではない。そのように生きることが善であることから、生体が善だとは導けない。 「でも火は神だと言いました。ジャイナ信徒にとっては」 「神」なんて言ってません。あなたの解釈では神であり、私が言ったとしたら誤りです。そこらへんはアジーヴァなどが関わりますね。ジャイナ教と言っても一枚岩ではないので、かつて気まぐれにちょっと本を読んだことがあるだけの私にはこれ以上はわからないと認めます。お手上げです。 「オランウータンが温度計を見るようになったら議論を再開しましょう」 通学にしてもそうですが、なぜ思考の有無や人格の有無に温度計が重要になるんですか? 言語を用いていることは明らかですし、オランウータンは数字や図形といったものを認識します。 「わざと無くして考えるのではなく共通性をさがした結果《いのちとその存在》だと言っています」 意図的に探したわけでしょう。「探した」が意図的ではない、故意にではないと言うなら自動的に探したんですか? というより、発明したと言ったほうがよいでしょうけど。 「それでもあなたは《感性におけるやましさ反応》としてどちらにしても存在をないがしろにすることは《よきことの損傷》だと感じる」 すくなくとも「よきことの損傷」だとは間違いなく解釈しません。 たんなる不快の一種です。善くも悪くもない赤の他人を殺すことはたしかに嫌な行為、死体とか血とか気持ち悪いので殺したくはありません。強制する状況や人間への怒り、恋人のまえで他人を殺してその後の恋人との関係が気まずくなることへの心配、様々な感情が出てくるでしょう。 私が誰を殺すにしても嫌悪感が生じるとして、それはすべての人間を等しく見ていることではない。また、その嫌悪感を人間一般の基礎だとも私は思わない。私がそういう風に感じることができるような社会で生まれ育った、それだけです。誰を殺すにしても程度の差こそあれ不快だという事実から、人命一般に対する「尊敬」だのを導くのは誤り。 「それゆえにも文は話し手の判断をつたえる自己表現です」 あなたが言ってる自己表現は、ある発話に発話者がいるならその発話には発話者がいる、これだけです。それならたしかに賛成ですが至極どうでもいい内容ですし、メタ文なんて大仰なものは要りません。 「おもしろい。あははは」 あなたはすでに「?」がその文を疑問文にする記号だと言う慣習にしたがっているから可笑しく思えるんでしょうね。しかしノーマルな反応だと思います。間違いではありません。普通は文末の「?」を発音したりはしないですから。 しかしなぜ発音しないのか? 「?」をたしかにハテナと読んだりするのに。「?」という記号に「文末にある場合は発音しない」という意味はない。そういう慣習だから、そういう規則だから、としか言えそうにないですね。 「みんなが生還する方法をどこまでも模索します。どこまでもです」 「どこまでも」方法を考える時間の猶予を与えるほどボブが悠長なお人好しだとあなたは思っているわけですね。私の手抜かりでもありますが。 なら5秒以内に選ばなければならないとしましょう。拷問はなしで5秒後に息子と娘を殺します。どうぞ好きなほうを選んで生かしてください。どちらを生かすか殺すかの生殺与奪の自由はあなたにあります。ボブはあなたがどう反応するか見たいだけですので、あなたとあなたが生かした片方の子の命は保証しますよ。
お礼
§ 40-15 自由および平等 ☆ 奴隷は 対等なのだから 市民権を得たいと思うし 得るようはたらきかけます。動物は? ★ そして生きているから大事にするのではなく、親や友だから大事にする。人間が死んだからではなく親が死んだから悲しむ。 ☆ けれども チンパンジーやオランウータンが遠くの地で事故に遭ったといったニュースを聞けば 悲しむのでは? ★ なぜ? たんに好ましいだけでしょう。 ☆ この《好ましい》を ここではどうしても価値判断をするという前提をおいてその上で 《善》という言葉で言い表わしています。プラス価値です。 何回も言っていますよ。 ☆ オランウータンが戸籍を持てば その思考の能力が 人と対等になったと見なされましょう。 《いのち》という共通性を ★ 意図的に探したわけでしょう。 ☆ 結果で判断です。 ★ たんなる不快の一種です。善くも悪くもない赤の他人を殺すことはたしかに嫌な行為、死体とか血とか気持ち悪いので殺したくはありません。 ☆ 《善》という用語がいやだというコダワリがあるだけだと思いますよ。《好ましいこと。不快でないこと》と取っておいてください。 ★ 私が誰を殺すにしても嫌悪感が生じるとして、それはすべての人間を等しく見ていることではない。 ☆ この場合の《等しく見ている・いない》というのは 飾りやゴミのついた応用領域を含めた人間です。 ★ 誰を殺すにしても程度の差こそあれ不快だという事実から、人命一般に対する「尊敬」だのを導くのは誤り。 ☆ いえ。そのようにしてみちびいているのです。プラス価値が感じられるというただそれだけのことによってです。(あるいは この場合のように《不快》を感じることから そうではないプラス価値があると見ることになる。と言ったほうがわかりやすいでしょうが)。 ★ なら5秒以内に選ばなければならないとしましょう。拷問はなしで5秒後に息子と娘を殺します。どうぞ好きなほうを選んで生かしてください。 ☆ ボブの殺傷能力を殺ぐことを考えます。
- manuke22
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実際どうか。人間本性や基本主観という人間のモデルを目指して「歪み」を「矯正」しようとする過程にある人は、もし嘘をついたりしてしまうと疚しさという反応が、症状が出てしまう。嘘をついてしまった、疚しい。ちょっとのエラーで疚しさを感じるようになる。「歪み」を自覚し、「更生」を志し、自らの「魂」という「善」を「損傷」しないようにモデルに適った行動をしようとすれば、「癖」という習慣を矯正しようとする生活の過程で、幾度も主観的な「善の損傷」が生じるだろう。「癖」や「歪み」が一発で治ったら世話ない。「癖」を治すための行動療法的な習慣に自己自身が従わなければ、「癖」や「惰性」が「更生」されるわけがない。そしてその過程で、いわばモデルと実際上の自分との「比較」が自己の内面において生じている。複数の外的な対象を比較するのではなく、モデルと自分を「比較する」。「基礎理論」は、「応用領域」とは別の方法modusで比較をするように勧めるだけで、けっして比較と無縁ではない。主観的な物差しnormで、モデルmodelと実際の自分の在り方modeとを比較することは避けられない。「基本主観に従うならば、嘘をつくことは善の損傷だ。私は嘘をついた。ゆえに基本主観に従っていない」。「基本主観に従うなら、自分が嘘をつかれて傷つくことは自分がすでに善を損傷しているからだ。私は嘘をつかれて傷ついた。私は基本主観に従っていない」。モデルに従いながら「癖」を自らリハビリしようとすれば、主観的な物差しmodusは、こうしたModus tollensやModus ponensという推論規則を採用せざるを得ない。そもそも「私は私である」という自同律law of identityに依拠しているのだから当然だ。嘘をつかれて傷ついているのに、傷ついていないと自称するならば、それは嘘をついているので善の損傷だ。自分の嘘で他人は傷ついたけど自分は基本主観に従っていると判断すれば、自己欺瞞だ。自己欺瞞は嘘の一種なので、善の損傷だ。自分の嘘で相手は傷ついていたみたいだけど、相手が自分の嘘で傷ついたなら、相手はすでに自らの善を損傷していたわけだから、それは善の損傷が原因だからよくないよと言おう。この独善的な判断からの発言で相手が傷ついたなら、それは善の損傷だ。もし言わなかったなら、正しいと思っていることを言わなかったという隠蔽をしているのだから、自らの善を損傷している。 こうして日常の数々の場面で、基本主観や自然本性というモデルと自分の不一致という事態に直面しつづけ、「癖」をリハビリする過程の膨大な失敗から神経衰弱に陥った人間は、モデルと自分の内面的な比較に苛まれる。基本主観というモデルは主観たる自分を疎外しつづける。あげく死にたい死にたいと言おうものなら、自分と同じく基礎理論に賛成する者から「そんなに死にたいなら死ねばいい」と放任される。死なないことを選ぶなら、自分を疎外しつづけるモデルとなんとか「和解」しなければならない。その「和解」とは、自分を疎外するモデルの変更ではなく(なぜなら基礎主観なのだから変更という選択はありえない)、自分を自分で完全に疎外することだ。「私」の基礎にある他人と共通の共同主観、つまり「我々」に、「私」を同一化させることだ。これで「更生」完了。 基本主観をモデルとすれば、外界に対する比較がなくなっただけで、内面では比較が生じている。社会的な習慣に異を唱えながら、リハビリでは内面的な習慣に従属している。自分の物差しmodusで自分の行動とモデルを測ろうとしたら、modus ponentなどの「外的な」推論規則を用いなければならず、そうしなければ自己欺瞞だ。最終的に、「私」の「癖」や「歪み」を「更生」あるいは「矯正」するリハビリが辿り着いた結果が、「私」による「私」の完全な疎外による「我々(基本主観)」へのreconciliation(和解・消し込み・服従)で終わってしまった。 いわば精神的な自殺によって、主観subjectは共同主観や自然本性に従うbe subject to「主体subject」になる。滅私奉公といったところだ。これではまるで共同体主義を騙った全体主義ではないだろうか。 おそらく、ここで私が描いた「去勢」や「癖」のリハビリ過程は、本物の基礎理論からは導かれないのだろう。人間本性があるとすれば、それは和解reconcileと同時に個人を消し込むreconcile生得的なプログラムであり、個人を初期条件に一致するreconcileように初期化・並列化することだなんてのはありえないのだろう。 しかしどう考えても個人の実践としての基礎理論は、もし真に受けて実行しようとすると失敗に終わるように思われる。単に外界に対する比較がなくなり、内面に比較の場が移っただけ。 ルソーは比較や習慣を毛嫌いしていたように見える。それはあくまでも他人と他人、および他人と自分を相対評価すること。実際のところ自然人が自分と動物を同等に見るわけがない。自己保存のためにより栄養価の高いものを好むだろうし。 自然状態を言うなら奇形児は昔からよく産まれる。もちろんたくさんは産まれない。しかしそれゆえに平均的な人体から逸脱した人体であると見なされる。そうした障碍者をして人間は生まれながらに自由にして平等だとは言えない。ルソーの語る自然人は、明記されていないにしてもあらかじめ「普通の」身体をもつ人間になっている。「健康な」身体をもつ人間になっている。 「弱くて病気がちの生徒を預かる人は、教師の仕事をするのではなくて看護人の仕事をすることになってしまう。こういう人は、生命の価値を増やすために向けるべき時間を、無価値な生命を守るために費やしているわけである。たとえ80歳までその子が生きるとしても、私は病弱な子どもを引き受けたりしない。身体をこわさないようにということばかり心がけていて、身体が魂の教育の妨げになっているような子ども、要するに自分のためにも他人のためにも結局なんの役にも立たないような子ども、そんな子どもを引き受けるのは、私は御免こうむりたい」『エミール』 はたしてルソーの考える「自然状態」が「自然状態」だと言えるのか。ルソーが見た社会への反発からルソーが夢想した自然は、身体的および知的障碍者に対する態度では一致しているのではないか。シャム双生児、奇形児、先天的身体欠損、多毛症、小人症、いくらでも「普通の」身体から逸脱する事例がある。こうした目に見えて明らかな先天的形質は後天的な「飾り」や「塵」とされうる人格や能力ではない。しかしルソーの自然人は他人を比較しない。それは彼がそういう風に設定したから。 「人間はどの時代でも、今日私の目に映ずるのと同じ構造であっで、二本の足で歩き、われわれがやると同じようにその手を使い、自然全体にその視線を向け、広大な空の拡がりを眼で測っていたものと仮定しておこう」(『人間不平等起源論』岩波文庫) 先天的に五感に障害がある人間もいる。ルソーが想定する自然状態が牧歌的だから私は批判するのではない。ルソーが「書いていない」人体の先天的障害が、「人間は生まれながらに平等」だとするルソーの空想と相克するから。五感に関する障害も含めた先天的身体障碍者の存在は応用だとか基礎だとかではなく現実。目に見える身体的な違いを区別し、比較できないなんてのはありえない。 「私はどんな動物のなかにも精巧な機械しか見ない」『人間不平等起源論』岩波文庫 「新しさ」はともかく、ルソーのこの記述に対するあなたの敬虔さはわかりました。
お礼
§ 40-7 基礎理論の実践にあって ★ 実際どうか。人間本性や基本主観という人間のモデルを目指して「歪み」を「矯正」しようとする過程にある人は、もし嘘をついたりしてしまうと疚しさという反応が、症状が出てしまう。嘘をついてしまった、疚しい。ちょっとのエラーで疚しさを感じるようになる。 ☆ これは もし人間ぎらいではおさまらず 人間蔑視にまでは行かないとしても 人間不信から出たことばでしょう。 ちゃんとしたおとなは 誰もが自分ひとりで考えて生きます。話し合ったり助け合ったりすることは 何の障害にも変な補助にもなりません。 やましさ反応は もしそういう言葉を用いるとすれば健康の証拠です。なんで《症状》などとして見るのでしょう? なかなかわるいクセがやめられないとしたら もういっぺん立ち帰ればいいわけです。そこに何の規制や圧力もあるものではありません。すべて主観の自由意志の独壇場です。 § 40-8 《われ(基本主観)に立ち帰る》 ★ 「癖」や「歪み」が一発で治ったら世話ない。 ☆ 《エポケー》の一発です。 飾りとゴミなるシガラミから白紙状態になれば 一発です。 ハカラヒをやめれば 一発です。理性から自由に。 その意味でも 《モデル》は要りませんし ありません。 あなたの持っているもので もらわなかったものはあるか? § 40-9 理性が 飾りを作り得るにもかかわらず 邪魔だ ★ 基本主観や自然本性というモデルと自分の不一致という事態 ☆ を理性が作り出している。要らぬものを。 もし《基本主観》に《モデル》があるなら それは基本主観ではなくなる。なぜなら 基本主観に立ったというのは 《われ あやまつならば われあり》と言ってわれに立ち帰ったときなのだから そのことに模像はない。模像があるのなら 自然本性にしたがって共同主観に生還したことにならない。またひとりの人間像を《飾り》としてこしらえただけのことになる。 § 40-10 ああ エポケー ★ 「私」の基礎にある他人と共通の共同主観、つまり「我々」に、「私」を同一化させることだ。 ☆ わたしは われに還ったとき 基本主観のもとにあるわれを自覚する。そのワタシは ほかの人びとにとっても それぞれのワタシであると我れはさとった。――こうなります。 ワタシにみづからが還元されたとき しかもそのワタシはみなのワタシとひとしいと我れはさとった。こういう内容としてのエポケー。 《和解》は そのときわたしと・そして世界と成っているのを見い出す。 § 40-11 ハカラヒ無きを 自然という ★ 自分の物差しmodusで自分の行動とモデルを測ろうとしたら、modus ponentなどの「外的な」推論規則を用いなければならず、そうしなければ自己欺瞞だ。 ☆ ハカラヒをなくそうというハカラヒから自由に!! § 40-12 ケノーシス ★ いわば精神的な自殺によって、主観subjectは共同主観や自然本性に従うbe subject to「主体subject」になる。 ☆ たしかに《ケノーシス(自己無化)》というような呼び方も出来ます。でもけっきょくそれは 樅の木になることであって・つまりは 飾りやゴミとしての自己を無化することであって わたしを活かすことです。 § 40-13 よって ★ おそらく、ここで私が描いた「去勢」や「癖」のリハビリ過程は、本物の基礎理論からは導かれないのだろう。 ☆ ええ。 けれどもなお反論がつづきます。 ★ 個人を初期条件に一致するreconcileように初期化・並列化することだなんてのはありえないのだろう。 ☆ 白紙状態になると言っても けっきょく《自然本性》なるわれ――つまり 聖なる甘えのもとにある赤子としてのわれ――が見えればよいわけです。実際に幼児に帰るわけには行かない。聖なる甘えを思い返してそのあとは 意識がつづいているからには きよらかなおそれとして 基本主観が立ち現われましょう。 ★ 単に外界に対する比較がなくなり、内面に比較の場が移っただけ。 ☆ だから 能天気だと言いました。 西洋の絵画は 余白があると空白ないしニヒルという連想で 不安になると聞いたことがあります。いっそのこと ぜんぶ白紙に――タブラ・ラサというくらいですから――したらどうでしょう? § 40-14 持っているもので もらわなかったものがあるか ★ ルソーが「書いていない」人体の先天的障害が、「人間は生まれながらに平等」だとするルソーの空想と相克するから。五感に関する障害も含めた先天的身体障碍者の存在は応用だとか基礎だとかではなく現実。目に見える身体的な違いを区別し、比較できないなんてのはありえない。 ☆ 基礎は いのちのとうとさ。応用は 飾りとゴミ。です。 障害者の状態は 基礎部門ではないか? でしょうか? 確かにそのまま応用部門とつながった基礎部門でしょうね。生まれつきという点で 自然本性と同列になりますから。 これを受け容れること。これが 基本主観である。と言っています。 持っているもので もらわなかったものがあるか? 不案内のままにしましょう。(と言って逃げましょう)。
- manuke22
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あなたは規範normを忌避していますがそもそも自分の物差しnormで他人を診断する時点で、あなたは基礎理論を規範としています。あなたが嫌いなのは外的な法であり、内的な法ではない、ということでしょう。疚しさと呼ばれる感覚は「善の損傷」のみを意味し、それ以外は意味しない。疚しさはなにが善悪かのみを人間に示す。この一義的な対応関係はまったく確かではありません。 なんにせよあなたは自身の基礎理論に従っているbe subject to限りでは基礎理論の下にいる従者・臣下subjectなんですから、その主従関係を崩そうとは思いません。信仰は真偽の問題ではないですし。 そもそも生命は規範的です。痛みを覚えることで痛みを与えるものを危険なものとして遠ざけたり近づかないようにする。刺激に対する反応をより生存率を高めるような行動にするために人体は出来ている。恒常性を保つように出来ている。そしてこの恒常性は健康という概念に結びつくが、これはプラトンが好んだ概念でもある。 疚しさはこのような症状として、いわばそれをすると自らの「魂の健康」を害するものとして、自分がしている行為の指針となっているらしい。そして、「魂の健康」を害する行為に疚しさを覚えない人間は去勢されているのだから、早くチンポを養殖しなければならない。「魂のチンポ」はおそらく善く生きることで生えてくるのでしょう。善く生きることは、この繁殖「力」や生命「力」の象徴であるチンポの使い方や育て方をよく心得ていることですね。更生rejuvenationは回春rejuvenationなわけです。男の、そして力の徴たるファルス=ペニス。 初期条件initial conditionというのを標準standard。そこから逸脱した人間は「去勢」「麻痺」「惰性」「損傷」などの診断を下される。そして彼らには「更生」「蘇生」が望ましいとされる。いわば初期化することが望ましいとされる。精神病理学もどきの理論に従って「更生」や「蘇生revive」、そして「損傷」した自らの「魂」の「回復revive」をとやかくする。蘇生、ここで私はキリストの復活reviveを想起する。 「更生re-habilitation」は好ましくない状態からの転換である。反社会的な「悪人」はその反社会的な状態から、より好ましい状態への移行が望ましいとされるように、自然本性的に「魂」が損傷しているインポな悪人には、自然本性的に「魂」が健康な状態である「人間」への初期化が好ましいとされる。「塵」や「飾り」は初期化、浄化されるのが好ましい。それによってこそ「人間そのもの」の自然本性を見るteoreinことができ、そこから創造された理論teoriaは基礎理論と呼ばれる。人間本性に関する理論を自らが産み、その名付け親になる。習慣habitは「癖」という病垂をもつ語に換言され、動物の習性habitのような扱いを受ける。それは塵、飾りであり、人間の性格や人格や能力は飾りであり、人間らしい「好い」ものではあるが、人間そのものではないとされる。基礎理論にとって個人personは文字通り仮面personであり、塵ではないが飾りにすぎないわけだ。いつまでも変わらぬ「私」「基本主観」に比べれば、それは飾りであり、飾りであるからには飾られるものがある。それが個人ではなく「人間」「自然本性」だ。基本的fundamentalな主観は基本的essentialな主観である。その潜在的な、つまり自然法を説いた1人であるアリストテレスにおける潜勢態(デュナミス)としての基本主観・人間本性は、その人間本性を根源とする疚しさに従うことによって現勢態(エネルゲイア)である「私」に道を示すといった按配。自然/習慣、自然(疚しさ)に従う/自然(疚しさ)に背く、この二項対立。まさに古典的。 いわば法律は他律であり、基礎主観は自律。法律という外的な規範normではなく疚しさという内的な物差しnormによって、どうにかしようという。価値観の転倒と言えばいかにも哲学的ですごそうだが、なんてことはないよくある手口。むしろ価値観の転倒をしようと思うなら転倒されるべき対立的な価値観が必要となる。根底にあるのはフマニタスとアニマリタスの二項対立。人間を頂点として動物を相対的にであれ絶対的にであれ下位に置くヒエラルキー。神でさえ、動物には訪れず人間にのみ訪れるものとして、動物に対する人間の特権性の保証として用いられる。アニマリタスとフマニタスの転倒は人間本性と習性の関係の維持に支障をきたす。だからなんとしてでも動物には相対的であれ劣等種でいてもらわなくてはならない。 柵は動物的な習性habitに囚われている人間の自由を制限するものであり、これは否定されてしかるべきとされる。法や習慣という人為的な柵を取り除けば人間はその本来性へと回帰できるという。疚しさという内的で自律的な法によって、自由に活動できるらしい。それなら犯罪者や放蕩者libertanも法から自由liberalである。そうではない。「人命を尊ぶ」という模範modelから犯罪者や反社会的な人間は逸脱している。彼らは自らの基本を歪に「歪めて」いるのである。モデルからの逸脱、ここに彼らの不正、歪みがある。存在の仕方modeがモデルmodelに従っているか否か。それが「基本主観」に従う主体subjectという従僕subjectと、放蕩者libertanのような者とを選り分ける測定の方法modusである。そして基礎理論とはある1人の人間が産みだしたものであり、ゆえにこの人間だけが人の存在様式mode of beingを測定する方法modusを「知っている」。いわば人間という従僕の1人でありながら他の従僕たちの牧師minister(召使い)であり、その理論theoryによって「去勢」「麻痺」「惰性」などあらゆる症状symptomという徴symbolを見るthoreinことができる医師doctor(教える人)である。医師であるからには、なにが善悪でだれが悪人善人かをモデルと照合するという方法modosで教えることができる。「あの信仰はだめだ。学者はダメだ。文法を教えてあげます」。しかし牧師であるからには誰にも矯正を強制はしないという放任主義をとる。私は、もし私以外に牧師兼医師の言葉を読んでいる人がいるなら私たちは、彼に責めを任じられている。 知は力なり。だとするならば力への意志はまさに知への意志。人間本性を知ることで医師は父のように厳粛に学者や既存の宗教を判定し、しかし人間本性を知ることで人間の行く末を見守る慈悲深い父になる。神の厳しさと神の慈悲深さを教父兼医師は併せもつ。 「矯正・改善・修正・改心amendment」、「善の損傷」という瑕疵、去勢という欠如態(ハイデガーが頽落を説明するさいに好んで用いた語)、こうした語用が治療や健康や病気や怪我などと結びついていることは避けられない。そして人間の自由に任せるというのは、一見して外的強制力のある法律に比すれば穏健であるように見える。しかしそれは人間を内面からコントロールすることにも繋がる。また、模範的な人間(人命一般を尊ぶだとか疚しさに従って行動するとか)という前提は、犯罪者や放蕩者といった反社会的な人間だけでなく、神経症者などの存在様式mode of beingを疎外する装置になる。あらゆる本質主義が孕む問題がここにはある。鬱病者は人間一般の尊さどうこうではなく自分を他人より低く見ている。自分が疚しい。自分の存在が疚しい。生きてることが疚しい。疚しさは、善悪に関する主観的な物差しnormだ。生きることが疚しいなら、生きることが悪だ。死にたい死にたい死にたい。基礎理論提唱者「そんなに死にたいなら死ねばいい」。はい、さようなら。鬱病者の人生は終わってしまった。 自然本性という人間のオーソドックスな在り方、モデル。このオーソドックスには「正しく神を讃美する」という意味合いもある。「神を思考の道具にしている」という糾弾を思いだす。讃美、それは尊ぶことではないか? なんにせよこのオーソドックスな在り方modeから逸脱している者は異端として、ヘテロドックスな者として見なされる。「去勢」「更生」「再生」「歪み」「癖」「惰性」、これらは健康と病気という対立構図から不可避な概念である。癖は虚言癖などの語に繋がる。赤面、疚しさ、それは「善の損傷」という刺激に対する反応として、痛みと同じようになるべく避けるべき事柄として、生体に現れる反応らしい。 逸脱した人間が自身の「歪み」を「更生」または「矯正」するには、初期条件や人間本性や基本主観というモデルに自らを初期化しなければならない。あるいは初期化ではなく、モデルと適合するよう自らをカスタマイズしなければならない。カスタマイズ、それはカスタム、つまり慣習ではないだろうか。「更生」や「歪み」の「矯正」の過程で、「更生」や「矯正」の指標となるモデルに従った行動をとれるように、自らを習慣づけなければならない。主体subjectはどこまでいっても従僕subjectであり、「癖(習性)habit」という自らの慣習を「矯正・更生re-habilitation」するには、モデルに適った行動を習慣づけなければならない。
お礼
まとめに入って来ましたね。 特に問題はないと思ったところは つまりは 皮肉や揶揄を目的とした文章であってもその内容としての見解を同じくする個所は 触れていません。 § 40 共同主観のドクトール? ★ 基礎理論とはある1人の人間が産みだしたものであり、ゆえにこの人間だけが人の存在様式mode of beingを測定する方法modusを「知っている」。 ☆ 《産みだした》が すでにそこにあるものを見い出し これに言葉による認識をその理論として編んだということなら そのとおりです。 けれども この文としての判断で違いがあるのは 基礎理論が共同主観であると言っているのに 《産みだした》者だけが ものが見えていると規定したところです。 共同主観であるなら そういう見方は 狭い。でしょう。 § 40-1 共同主観の問題は あくまで本人の主観 ★ 医師であるからには、なにが善悪でだれが悪人善人かをモデルと照合するという方法modosで教えることができる。 ☆ これは 間接的に可能であるかも知れないが 直接にはするものではないし――ただし 自己表現どうしの対話として自由な批判は 別です―― 直接の問題は あくまで本人の主観です。 カントの理論は まづ屁の河童と捉えてそのあと自分で思考し行動をもとおして得られた自分の理論が カントと同じであったなら それはそれ。問題は 主観であり それ以外にはありえない。 § 40-2 主観どうしの自由な批判 ★ 「あの信仰はだめだ。学者はダメだ。文法を教えてあげます」。しかし牧師であるからには誰にも矯正を強制はしないという放任主義をとる。私は、もし私以外に牧師兼医師の言葉を読んでいる人がいるなら私たちは、彼に責めを任じられている。 ☆ もしこういうことが起きているとするなら それは 前項で触れたように主観どうしの自由な批判のことです。 応用領域の問題であり また基礎部門について論じるときには それとしての応用部門に場を移した応用領域としての議論のことです。 言いかえると 基礎理論は あくまで本人の主観――その現実の動態――が問われているとなります。 § 40-3 主観を外から他者により操作することは成し得ない ★ しかしそれは人間を内面からコントロールすることにも繋がる。 ☆ これは 人間観の間違いでしょう。人間の精神が外から他者によって損傷を受けることはあり得ず――心理的に波風が立つことはありますが―― ましてコントロールすることなどは考えられません。 《内面から》と言っても それは余所からヨソの人間がおこなうのですから コントロールも損傷行為もあり得ません。 仮りに薬でどうにかして どうにかし得たとしても それによって精神が傷つくことはありません。精神に異常をきたすとしても それは精神に傷がつけられたというものではありません。(意志を踏みにじるという無効の行為があったのみです)。 § 40-4 本質主義ではあり得ない ★ 模範的な人間(人命一般を尊ぶだとか疚しさに従って行動するとか)という前提は、犯罪者や放蕩者といった反社会的な人間だけでなく、神経症者などの存在様式mode of beingを疎外する装置になる。あらゆる本質主義が孕む問題がここにはある。 ☆ 仮りにこの内容にゆづったとしても それは《本質主義》ではあり得ません。本人が主観にもとづき思惟し行動するという問題のみなのだから。 § 40-5 生きることにやましさを感じる場合 ★ 鬱病者は人間一般の尊さどうこうではなく自分を他人より低く見ている。自分が疚しい。自分の存在が疚しい。生きてることが疚しい。疚しさは、善悪に関する主観的な物差しnormだ。生きることが疚しいなら、生きることが悪だ。死にたい死にたい死にたい。基礎理論提唱者「そんなに死にたいなら死ねばいい」。・・・ ☆ 次のような議論にて判定してください。 【Q:ニート・引きこもり・あるいはうつなど精神の傾向は ふつうの社会現象であるに過ぎない。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6242183.html 【Q::KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6117420.html ただし次のような社会現象については 批判しています。 【Q::《押し籠もり》】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7331127.html § 40-6 どこまでも主観の問題 ★ 逸脱した人間が自身の「歪み」を「更生」または「矯正」するには、初期条件や人間本性や基本主観というモデルに自らを初期化しなければならない。あるいは初期化ではなく、モデルと適合するよう自らをカスタマイズしなければならない。カスタマイズ、それはカスタム、つまり慣習ではないだろうか。「更生」や「歪み」の「矯正」の過程で、「更生」や「矯正」の指標となるモデルに従った行動をとれるように、自らを習慣づけなければならない。 ☆ まづ本人の主観こそが問題だというとき 《モデル》はあるようでない。あったら・また作ったら それは 主観の動態にならない。共同性が固まってしまう。観念の共同になってしまう。 主観の動態という意味で 《習慣化》というのならば たぶんそういうことでしょう。そしてそれも 本人の日常性における生きた主観としてでなければ 話は始まらない。 ゆえに 次の理解は 違っていましょう。 ★ 主体subjectはどこまでいっても従僕subjectであり、「癖(習性)habit」という自らの慣習を「矯正・更生re-habilitation」するには、モデルに適った行動を習慣づけなければならない。 ☆ もしお望みならば みづからに対して従僕であるのみです。 ナラワシとしてみづからをかたちづくる。これが確かに主観の問題として 基本主観の構築です。けれども《モデル》は要りません。よほどお手本を必要としたとするなら そのお手本を突き抜けるということ それが 動態としての主観過程です。
- manuke22
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「動物における思考の存在つまりその有無については、オランウータンが学校へ通うことになるかどうかで決めてください」 なぜ思考の有無に学校へ通うどうこうを持ち出すんですか? 手話は人間からオランウータンに教えられ、さらにそのオランウータンは自分の子に手話を教えます。教育や学習が問題ならこれで十分に実証できます。 オランウータンは数や図形も認識しますが複雑な労働ができないので義務教育などは受けられないでしょう。しかしそれは社会の運営上の話であり、思考の有無という問題とは別です。 「ひとこともそんなことは言っていない」 では、オランウータンの命とヒトの命はどういう関係ですか? これは悟性の問題ですし、比較を抜きにしても多くの人は動物の「命を尊ぶ」ように思われますが。 「ですから基礎理論としての共同主観をもろに持ち出せば、そのような比較をいっさいしないと言っています」 いっさいしない? なぜ? 基礎理論は感性に関わるんでしたよね。私は感覚的に、明らかに友人のほうが異国の見知らぬ他人より大事ですが、感性や感覚ではなく理論を重視するとなると、もはや基礎理論は感性の問題ではなくなるんじゃないですか? それとも、赤の他人より友人を大事だと感じるのは私が「惰性」に堕落しているか「魂が去勢されている」せいなのでしょうか? 「《比較》はあくまで応用領域における特殊条件――シガラミと言っています――という前提から来ます。基礎理論ではこのシガラミがないという想定です」 なにが柵なんですか? 面倒な問題は考えないということでしょうか。私は柵だと思いませんし、現実的な問題には現実的に考えることで責任を果たします。 しかもさっきあなたは「柵がない」ではなく「比較をしない」と述べました。「無い」と「しない」は違います。 比較を特殊条件とするのは何故なんですか? 法律が比較しているから? 法律が量刑などを比較するからといって比較がすべて応用問題になるわけではないでしょう。 「仮りに全体で十人いるとすれば任意のひとりの《一》がその十にあたります。それゆえに《共同》主観とよびます」 まるで一即全、全即一。カントが「純粋理性」として唾棄した神秘主義です。 それはもういかなる意味での主観でもなく基礎でもない。宙に浮いた空中楼閣です。算数からしても1は10ではありません。もはや感性という直観能力に基づいてさえいない。 私一体が約七十億体の人間と同一であるわけがありませんし、私は約七十億体の人命を友人に見出せはしません。ましてや人類の総数は絶えず変動しています。いま総数が七十億だったとして、この一文が書き終わるまでに七十億とんで三になってたりするでしょう。私の主観から離れている上に、絶えず変動している人類の総数を固定化した尺度を用いるなんて、基礎ではない。 さらにそれはもはや「あなた」を尊ぶということを成立させない。私が友人を尊ぶのは、友人がかけがえのない友人だからです。あなたによれば友人という1人が私を含めた全人類の生体と等価であるがゆえだとなります。私はそんな風に他人を尊んだりはしない。友人は彼自身であるがゆえに、頑張ったり悩んだり馬鹿をしたりするがゆえに尊い。彼の個人史は断じて七十億の人間のなかに同化吸収されるものではない。また、私は自身が七十億体の他人と同等だと見なすほど不遜ではありません。人格や性別や感情などあらゆるものを「塵」や「飾り」と見なしてそれらを濾過した「純粋な命」など、すべて無価値。 あと、人類に含まれる個体の総和が約六十億だったころの私は、総和が約七十億である今の私より尊くはないわけですね。だとするなら個体の「尊さ」は全体によって完全に規定されているとなりそうです。 「全体」という語が頻繁に出てくるようになりましたね。 「シガラミの巻きつく応用領域ではそのシガラミによる差別不平等が生じています」 悪しき平等主義もありますね。 あなたは柵から逃れて自由になりたいわけであり、あなたの基礎理論がまさにあなたにとって柵から逃れるための避難所なわけですね。なるほど人間に固有の自然本性に依拠するためには進化論は天敵でしょう。 ではアウストラロピテクスは今のあなたと同じく「基礎理論」をもっていたと思いますか? ネアンデルタール人はどうでしょう? 「子ども・すなわち基本主観の自己形成の途上にある人間をあつかう上では――その子を二十四時間体制で生涯をかけて関係し共生するという前提に立ち――いやがる子どもの意志を《阻害》するのではないか、という見方を阻害することがある」 だれが24時間「生涯」をかけますか。たんに虫歯が酷くなると今よりずっと痛くなるということが子どもにはわからないから、止むを得ず引っ張ってでも歯医者に連れてゆくのみです。 「これらはおおよそ応用領域での生理的心理的反応です」 なにが応用? 新生児だって不快になれば泣くし、いないいないばぁで喜ぶし、幼児だっていろんなことに興味を覚えます。怒りや不快はそれこそ生物学や心理学で基本的な情動です。 やましさ以外の情動で「基礎」であるものを書き、応用領域を定義してください。 「《やましさのみを殊更に取り上げる》のは基礎理論ゆえです」 そう言えばレヴィナスもやましさを取り上げてましたね。ハイデガーも。ハイデガーは基礎的存在論どうたら。 「基礎倫理と応用倫理とがある。こういう階層構造において倫理的行為の動機はみなもとからも、そして応用領域の思いや欲する事からも現われます」 たんに情動と理性であり、理性は情念の奴隷であると述べたヒュームの「人間本性論」の域は出ないでしょう。もっとも、上部構造は下部構造に規定されるというそのマルクス的な前提は、はたしてそれほど妥当なのか疑わしいですが。 「ぢゃあそう言いましょう。そう言った上で国家もなかったと言えばどうでしょう?」 特にどうもしないです。人民もないわけですからスッキリしますね。人間存在は悪人でしたっけ。環境汚染および破壊、人為的な動物の絶滅、すべてなくなってスッキリでしょう。やましさどうこうなら、悪人である人間は存在することそのものをやましいと思うのが筋であり、ましてや自分を含む人間を尊いなんて自称することにまずはやましさを覚えるものでしょう。 「あたらしい理論をあたらしさゆえに排斥すること」 そもそも理論だと思ってませんから。また、顧慮や良心(Gewissen, common sence)にはハイデガーの基礎的存在論、共同主観にはフッサールの間主観性、ニーチェやハイデガーやレヴィナスが扱ったやましさ、反応(response)とデリダあるいはレヴィナスの答責性(responsibility)、潜在と動態は目的論的自然論者アリストテレスのデュナミスとエネルゲイア、近代的な「内」「外」という図式に基づく言語観(ルソー、アリストテレス、プラトン、デカルトなど)、無神論者バタイユが好んで用いた非知、一即全というギリシア神秘主義、これだけ既知の言葉や考えを並べられると目新しさは覚えません。それが彼らの使い方から大きく外れていても。今どき法律批判なんて珍しくはないですし、法学者ベンサムだって法律による自由の制限を問題視していた。手段の目的化なんてありふれた言葉です。なんにも目新しいところはない。規範ではなく基礎が重要だとか言うならケアの倫理や徳倫理などのほうがよっぽど精緻です。ちなみに他人への共感とかならチンパンジーを含めて人間にはミラーニューロンというそれこそ基本的なものがありますので、基本主観だの潜在意識だのという無意識と同様の下部構造を想定する必要はありません。ミラーニューロンがある、だから人は人だけでなく生き物や物体も大事にできる。この実証的な事実を前にすると基本主観は、まぁそういう考え方もあるよね程度のものです。 あなたの「基礎理論」のどこが新しいんですか? 中世とかの思想と較べてということならその程度の「新しさ」です。
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§ 37-5 オランウータンの《思考》 ★ オランウータンは数や図形も認識しますが複雑な労働ができないので義務教育などは受けられないでしょう。しかしそれは社会の運営上の話であり、思考の有無という問題とは別です。 ☆ オランウータンにはそれとしての思考があったとしても それが 人間と同じ共同主観をかたちづくるとは見ません。無理です。 いつまで動物の《主観》を人間のそれと同じだと言おうとするのですか? もういいでしょう。 § 37-6 人間どうしの《比較》 ★ それとも、赤の他人より友人を大事だと感じるのは私が「惰性」に堕落しているか「魂が去勢されている」せいなのでしょうか? ☆ 応用領域では いづれの思考や行動も相対性の世界において 優劣や浅薄が判定されます。 基本的には主観において感性として判定されます。本人の自己申告あるいは申告はしなくてもいいですから 自己診断となります。 § 37-7 比較は 応用領域 ★ 比較を特殊条件とするのは何故なんですか? ☆ 応用部門では 思考や行動つまり意志決定を経てのそれらの行為がその結果を持ちます。その結果が 基礎部門では もともと なかったと言っています。 意志行為の結果は クリスマスツリーのごとくいろんな飾りを基本主観につけることになります。つまりは やましさ反応という臨界点をも突破する意志行為もあるので 飾りだけではなくゴミをもつけます。 飾りとゴミとをまとめて シガラミと言っています。 ここから 五十歩百歩ですがあるいはどんぐりの背比べですが 飾りの栄光度やゴミの臭さなどについて比較考量をおこないます。 そのあと大気汚染にまですすんだゴミ被害をもたらすゴミについては 人びとの取り決めとして 社会公共の配慮をおこなうかたちで 再編集します。これが 法律とその運営です。度合いに応じて ゴミの処理の仕方もちがって来ましょうし また人じたいが更生するようにみちびく仕組みも考え合ってつくります。 § 38 共同主観 ☆☆ 「仮りに全体で十人いるとすれば任意のひとりの《一》がその十にあたります。それゆえに《共同》主観とよびます」 ☆ ひとりの人の《一》が ほかの人の《一》と共通であるゆえに 十人いたとしても どこまでも共同主観としては《一》である。つまり人数としてはこの《一》に十を掛けて その積の十に 数としては初めの一が当たる。――こういう意味です。 ではその共通性とは何かと言えば 《いのちとしての存在。またそのとうとさ》である。 これが ★ 宙に浮いた空中楼閣です。 ☆ としか見られないとは いささかわたしの説明が舌足らずだったとしても ま22さんも落ちぶれたもんだ。 § 38-1 共同主観は 飾りによってもたらされるのではない。 ★ 私が友人を尊ぶのは、友人がかけがえのない友人だからです。 ☆ これが 〔言葉はわるいが〕シガラミです。この場合は 飾りです。そういう思考です。生活態度です。 基礎理論は もし人びとのあいだに共同主観があるとすれば それは応用領域における思考や思想や道徳規範や法律やによって規定され規制されるのではなく そういうことはただの飾りに過ぎず 本体の樅の木は 《いのちとしての存在》なのだと言っています。 ★ 彼(=あなたの友人)の個人史は断じて七十億の人間のなかに同化吸収されるものではない。 ☆ とおっしゃいますが 《飾り》によって友情やじんるいの仲間であることを共同化するならば それこそ《何億人かいる人びとの中に同化吸収されてしまう》ものでしょう。ただの《比較考量》であるに過ぎないからです。 § 38-2 共同主観が 自由のみなもと ★ あなたは柵から逃れて自由になりたいわけであり、あなたの基礎理論がまさにあなたにとって柵から逃れるための避難所なわけですね。 ☆ 現実は 基礎部門と応用部門との二本立てです。いえ 階層構造です。 この現実の世界をどう見てどう認識するか? そのために 基礎理論を提出しています。全体をどう見てどう扱うかのためです。これは すでに述べています。 § 38-3 共同主観を 勝手に 相手におしつける場合 ★ 止むを得ず引っ張ってでも歯医者に連れてゆくのみです。 ☆ だから子どものであっても 自由意志が大事だと言っています。その自由意志をいやしくも阻害する場合には おのれの《いのちと意志自由のすべて》を賭けて おこなうものです。それには 相手が おとな一般(=ふつうの判断力)にはまだ成っていないことと そしてその相手から自分が逃げ去らないという心を固めること この二つが条件です。 § 38-4 共同主観とやましさ ★ ~~~~~~~~ 「《やましさのみを殊更に取り上げる》のは基礎理論ゆえです」 そう言えばレヴィナスもやましさを取り上げてましたね。ハイデガーも。ハイデガーは基礎的存在論どうたら。 ~~~~~~~~ ☆ その二人について しゃれた説明をようしませんので あしからず。 そのあとのヒュームとマルクスについても 同様ですので 御免こうむります。 § 38-5 やましさは 思惟や行動について感じるもの ★ やましさどうこうなら、悪人である人間は存在することそのものをやましいと思うのが筋であり ☆ 筋ではありません。《存在することそのもの》にかんしてヤマシサを感じることはありません。そう思うのは 理性です。飾りかあるいはわるいゴミです。 きよらかなおそれ は基礎領域の感性であり やましさと 同じではありませんが 同根でしょうね。 § 39 基礎理論のあたらしさ ★ ~~~~ 顧慮や良心(Gewissen, common sence)にはハイデガーの基礎的存在論、共同主観にはフッサールの間主観性、ニーチェやハイデガーやレヴィナスが扱ったやましさ、反応(response)とデリダあるいはレヴィナスの答責性(responsibility)、潜在と動態は目的論的自然論者アリストテレスのデュナミスとエネルゲイア、近代的な「内」「外」という図式に基づく言語観(ルソー、アリストテレス、プラトン、デカルトなど)、無神論者バタイユが好んで用いた非知、一即全というギリシア神秘主義、これだけ既知の言葉や考えを並べられると目新しさは覚えません。それが彼らの使い方から大きく外れていても。今どき法律批判なんて珍しくはないですし、法学者ベンサムだって法律による自由の制限を問題視していた。手段の目的化なんてありふれた言葉です。なんにも目新しいところはない。 ~~~~~~ ☆ これらを並べ集めて いまの基礎理論が出来あがれば そこまでです。
- manuke22
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「《実際の決定が〔意識的決定より先に〕潜在意識でなされて》いるとしたとしてもそのように《身と心から成るひとの意志決定》のあり方がそうだというのみではないか?」 つまり、あなたは自分の意識が潜在意識(脳の物理的現象、準備電位)に支配されているのが人間の在り方だと認める、ということでしょうか。 あとウィキペディアの潜在意識という記述はよろしくないです。その意味をちゃんと脳の準備電位だとわかっており、そうした発火現象を潜在意識だと呼ぶというのならかまいませんが。実験だけでなくウィキペディアの記述を無条件に受け入れるのもよくないです。フロイトにしてもそうだったでしょう。 「意志の主体としてのわたしが無いのであるからには、なんら説明責任を問われたり人から怒られたりすることは、あってもなくてもどうでもよいことだということになります」 あってもなくてもよいですが現にありますよ。そして、「私の脳がやらせたんだ。だから私に責任はない」「なら私が君に説明を求めたり、訴訟を起こしたり賠償金を払わせるのも当然だね」。個体の脳が物理法則に従っているからといって、複数の個体間で責任が問われなくなることはありません。倫理的観点からよくある批判ですがそれはなんら問題ない。 「いわゆる自閉症児にも《思考》は起きている。とわたしも考えます。この思考はことばをつうじておこなわれている。という意味で〔潜在的な可能性としてでも〕言葉を発することが思考の存在を示すとしました」 その潜在性は胎芽にはありませんね。言葉を知らないんですから。 言葉を学んでいない人間には思考がないのでしょうか? 耳が聞こえず目も見えないヒトはどれだけ成長しても思考が生じないのでしょうか? そうなるとまだ言語を使えない幼児は思考なくして言語を学ぶということになりそうです。言語のなかったころの原始人もまた思考がなかったと。 成長したオランウータンが手話を人間から学び、それを使えるようになった途端にあなたはそのオランウータンに思考があると判断するのかもしれませんが、では手話を学ぶまえのオランウータンには思考がなく、学んだ途端に思考が発生したのでしょうか。 手話が言葉ではないとかは言いませんよね。先天的に耳がまったく聞こえない人間が手話をしても、その手話は彼に思考があることを示さないとなってしまいますから。 そしてチューリングマシンの実例からしても人間は機械を人間だと思った現実があるわけですし、ゆくゆくは機械も「思考の存在を示す」ほど巧みに言葉を使うでしょうね。あとあなたから見たmanuke22の「私」の存在証明もよろしく。 ナショナルジオグラフィック、特集「動物の知力」より。 「鳥が世界をどう見ているか、初歩的な質問をする準備は整った。アレックスにいきなり、何を考えているのか聞くのは無理でも、数や形、色の識別についての問答ならできる。ペパーバーグは実際にやってくれた。まず、棚のかごから緑の鍵と緑の小さなカップを出し、アレックスに見せて聞く。 「何が同じ?」 アレックスは迷わずにくちばしを開けた。 「イ、ロ」 「何が違う?」 「カタチ」 これは鳥と人間の口語上の会話です。たしかに「イロ」や「カタチ」は人間から学んだ語ですし、発話能力は人間よりはるかに乏しいですが、感覚器官から得たセンスデータを統合することなしに「同じ」や「違う」という判断はできないでしょう。ちなみに人間から質問される前に自ら「ブドウ、ホシイ」と発話したりもするので、上述の問答が訓練によってパターン化されているのではないかという懐疑的批判は回避できます。 鳥が人間の発話を模倣できることは鳥に言語能力(理性、精神)があることを示さないと科学者兼哲学者たるデカルトは論じました。しかしカリフォルニア大学のInga Kiderra女史によれば、The European starling – long known as a virtuoso songbird and as an expert mimic too – may also soon gain a reputation as something of a “grammar-marm.” 「優れた歌手として、そしてモノマネ専門家としても長らく知られているこのヨーロッパのムクドリは、文法婦人(変な訳で失礼)のような存在としてまもなく名声を得るかもしれない」 This three-ounce bird, new research shows, can learn syntactic patterns formerly thought to be the exclusive province of humans. 「この1kg程度の鳥は新しい研究が示すところによると、かつては人間の特権だと思われていた文法構造を学習できる」 名声を得るかどうかは2006年当時ではあくまで有りうるmay be だけの話でしたが、学習できることはすでに事実です。そしてチョムスキーによる言語生得説に含まれる人間と動物の区別に関して致命的な困難になっています。 もちろんこれはあなたが疑わしいと考えている人文科学ではなく、自然科学における研究です。デカルトが考えたようなただのモノマネではなく、学習および運用ができる。もちろん人間ほどではない、しかし程度問題です。もう一度2008年のナショナルジオグラフィック「動物の知力」から。 「英語のレッスンを受けていた別の若いヨウムがグリーンという単語の発音をまちがえたのを聞きつけ、(アレックスという年長のヨウムは)大声で、ハッキリ、ハナセ!と言ったのだ」 カリフォルニア大学の自然科学的なアプローチによる研究結果や、カリフォルニア大学の研究者は、あなたが言うように「お遊び」で鳥の発話に接しているでしょうか? 「お遊び」なのはあなた自身と、あなたと同じような考えをもつ人間ではないでしょうか? 発達性失語症では先天的な要因ゆえにまったく発話や記述を理解できないケースがあります。自閉症じゃないですよ。失語症であり、さらに先天的に言語機能に問題がある人間です。 彼らを非言語性知能検査でテストすると、言語機能が正常に発達した人間と変わらない成績をとるようです。自閉症の人の成績より高い。あなたによれば、言語活動以外のこうした活動は思考があることを示さないようですが、自閉症の人と発達性失語症の人の成績が大きく異なるこの事例を鑑みると、言語だけが思考に関わるのではないと言えるでしょう。かりに知能と思考を完全に分けるなら、知能なしに思考がありえるとなりますが、それなら動物どころか迷路を解く粘菌にも思考がありえますね。 もちろん言語決定論などもありますが、あれはたしか思考の様式が言語langによって規定されるという主張であり、言語能力がなければ思考はできないという主張ではなかったと思います。 「ヒトの FOXP2 はチンパンジーの FOXP2 とは 2 アミノ酸、マウスの FOXP2 とは 3 アミノ酸、キンカチョウの FOXP2 とは 7 アミノ酸しか違わない」 FOXP2とは文法能力に関わる遺伝子です。チンパンジーと人間の遺伝子の違いは程度差のようですね。また、ワシューというチンパンジーに人が冷蔵庫cold boxと教えましたが、そのチンパンジーは冷蔵庫についてopen-food-drink(開けたら飲食物が入ってるもの)という組合せ言葉を自ら考案して、ずっと使ったようです。openやfoodやdrinkは学習によって記憶した単語であり、記憶した語彙を連合させるという抽象的な思考が一応できることを、ワシューが語を自ら考案したという事例があきらかにしています。つまりチューリングマシンのようなプログラムではなく、会話や事物が存在する経験的世界での運用能力があるということです。 人間の発話は「思考の存在を示す」ではなく、人間がもつ思考の存在をあなたが信じる材料として、手話を含む発話があなたにとって有力だということでしょう。もし非言語性知能検査が受験者の思考の有無を示さないと言うなら、先天的に言語機能が働かない人間がこの検査で良い点をとってもやはり思考が在るとはいえないのでしょうか? それとも思考と知能を完全に分離することで、知能検査の結果と思考の有無は別だとしますか? そうしないならば、身体的な行動は精神をその行動主体がもつことを示さないと述べたデカルト(「動物たちには精神がなくて、自然が動物たちのうちで諸器官の配置にしたがって動いているのだ」)みたいなことは言わず、言語を用いないある種の身体的行為は行為者の思考の有無を示す、こういうべきでしょう。
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ご回答をありがとうございます。 つづきます。 § 36= § 1 自由意志の有無(No.24) ★ つまり、あなたは自分の意識が潜在意識(脳の物理的現象、準備電位)に支配されているのが人間の在り方だと認める、ということでしょうか。 ☆ 意志する〔ことを意識する〕前に潜在意識において――なぜならやがて《手首を曲げる》ことをあらかじめ指示されているのを知っているからには――実際の動きが始まっても それは《意志行為》の範囲に入るであろうと見るという意味です。 § 36-1 意志の主体 ★ ~~~~~~ 「意志の主体としてのわたしが無いのであるからには、なんら説明責任を問われたり人から怒られたりすることは、あってもなくてもどうでもよいことだということになります」 あってもなくてもよいですが現にありますよ。 ~~~~~~~~~ ☆ 現にある。ゆえに 人は意志の主体である。――分かっているのなら 疑義を書くこともないでしょう。 § 37 言葉と思考 ★ ~~~~~~ ・・・〔潜在的な可能性としてでも〕言葉を発することが思考の存在を示すとしました」 その潜在性は胎芽にはありませんね。言葉を知らないんですから。 言葉を学んでいない人間には思考がないのでしょうか? 耳が聞こえず目も見えないヒトはどれだけ成長しても思考が生じないのでしょうか? ~~~~~~~~ ☆ 疑義は生じていないと見なします。 そのあとに続く議論も 茶の木畠に入ってしまっていると見ます。 § 37-1 言葉と動物 ★ そしてチョムスキーによる言語生得説に含まれる人間と動物の区別に関して致命的な困難になっています。 ☆ チョムスキーに賛同するのではなく 《言語能力は 人間に生得的なものである》には同感です。 あとは その《言語能力》がほかの動物にあるかどうか。どういうふうにあるのか。これについては いまここで取り上げません。それがいかにあったとしても 人間の基本主観の主題にほとんど影響しません。 その鳥が 《文法婦人》先生として教壇に立ったときに考えます。あるいはその前に その鳥が自分たちも人間の社会の一員としてみとめてくれという主張を言って来たときに考えましょう。 もうこの主題は無用にしましょう。 § 37-2 言語とは別の知能? ★ 自閉症の人と発達性失語症の人の成績が大きく異なるこの事例を鑑みると ☆ その《違い》について きちんと分析しその意味を捉えなければならないでしょう。 ★ 言語だけが思考に関わるのではないと言えるでしょう。 ☆ 《非言語性知能検査》の《非言語性》の中身について知りたいところです。 ★ かりに知能と思考を完全に分けるなら ☆ この仮定について疑義をはさみます。 § 37-3 言葉にかかわる世界 ★ 言語を用いないある種の身体的行為は行為者の思考の有無を示す、こういうべきでしょう。 ☆ (1) 生命存在は ヒトとそのほかの生物とのあいだに種差がある。 (2) いまは ヒトという存在についてその基礎理論を問い求めている。 (3) ヒトは その生まれた状態に潜在的にも自然本性をそなえる。 (4) 自然本性は 身と心である。 (5) 心は 精神である。精神は 記憶と知解と意志の三つの行為能力から成る。 (6) 精神が精神するというべきかたちにおけるその――身と一体なる――秩序作用が 記憶行為である。 (7) 知解は 記憶の領野から情報を得つつ 世界を認識し あらたに推論をおこなって世界の再認識を成す。 (8) これらの能力行為に際してすでに何かを欲するという意志行為がはたらいている。 (9) 記憶の内容と知解行為の内容(論旨)あるいはそこから得る選択肢の内容(意志)との違いがゆがみであると感じたときに 身としての感性は やましさ反応を起こす。 (10) これらの精神の現象は おおむね言葉をつうじておこなっている。ここでは 手話などのシルシも言葉に含める。 (11) 思考は 細かくは知解行為に属する。つまりおおむね 言葉を介していると考えられる。 (12) それ以上のことは いま問い求めていない。 ★ 言語を用いないある種の身体的行為 ☆ これを言葉を用いることと連れ立っての身体的行為と 切り離して捉えることはしない。行為者は 直接に言葉を介していなくても 全体として言葉をつうじての世界認識のもとにあり そのような構造の中で行為する。 § 37-4 デカルト? ★ 身体的な行動は精神をその行動主体がもつことを示さないと述べたデカルト(「動物たちには精神がなくて、自然が動物たちのうちで諸器官の配置にしたがって動いているのだ」) ☆ 前項(1)(2)のごとく 身と心から成る自然本性 これを主観の土壌としますから デカルトとやらは知りません。 たとえば ヒトは《身と心から成る》といい 動物は《身のみから成る》とは言っていません。《身と心》対《身のみ》などという要素還元志向における分析的視点がどうして出て来るのか? という問題でしょう。 それぞれの種はそれぞれとして活きる生物です。
- manuke22
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「だから少年兵士が人のムクロを見てもその上に坐っても平気でいることがありえます」 選択というより慣れです。ある村で半裸になんらやましさや恥ずかしさを感じない人がなんら異常でも正常でもないように、デカルトが動物の悲鳴をただの雑音だと解釈したように、死体の上に座るのはなんら異常でも正常でもない。そして少年兵はやましさを感じながら座っているはずだ、やましさが彼らにはあるはずだ、やましさを感じていないなら「魂が去勢されている」だ、とか言うならそれは正常なnormal人間であるあなたが自らが考案した基礎理論という偏見で診断したものにすぎません。あなたは普通normalという語を多用しますが、「魂が去勢されている」という診断のように、すでに基礎理論とやらは正常normalと異常abnormalをわける規範normになっています。この診断は基礎理論とは無関係なんでしょうか? 「負の善を、人はその応用領域においてえらぶことが出来ると言ったら、その選択としての意志行為を是としたと見るのですか?」 やましさなんて感じなければ問題ではないでしょうし、あなたによれば好きなものを選んで自由にやればよいのでしょう。虚偽もただのしゅかなんでしょう? 「情報操作を選択する《自由》は基礎理論における《自由》から善の損傷というほうを選んだのだと事実認識することが、そのような《悪》の自由を認めたのだと見るということですか?」 なら確認しますが、あなたはその自由を他人に認めないんですか? ただ「魂を去勢されている」とか「麻痺している」とか言って診断するだけでしょう。そうやって病的に評価するだけのあなたの俗な心理学より、人は規範を求めます。 あとあなたのは事実認識ではなく解釈です。事実に「善の損傷」や「基礎理論における自由」とかはありません。あなたの解釈基準である基礎理論とやらは結局は主観が好きにすればよいということですが、よい嘘と悪い嘘があると考えたりする人でさえ、情報操作に自由は認めません。知る権利のために情報操作を禁止する法律を肯定するでしょう。 他人に情報操作をする自由をあなたが認めないならかまいませんが。 「その文(ないし複数の文のあつまり・まとまりとして文章)の意味内容がマチガイだということになるのですよ」 文の意味内容Sinnをわかってますか? 文の意味内容はあっても文章の意味内容などありません。 「あるいは言いかえると一つの文(すなわち主題と論述、つまり 問いと答えのツイ(対)が最低ひとつある表現形式)と、もうひとつの文とのつながりにおいて、意味が通らないということでしたらその接続の仕方についての話し手の判断がマチガイである」 主語と述語です。「~は学生である」は論述ではありません。 こちらは正しい。「私は男である。ゆえに、私は学生である。これが正しい論証になるには、「すべての男は学生である」という前提が要ります。それがないから誤りなわけです。したがって、「私は男である。すべての男は学生である。ゆえに私は学生である」だったなら、少なくとも妥当な論証です。しかし私が書いているこの文、「私は学生である」には、私の意図を内容としてもっていません。これは自己表現ではありません。 「これは誤解です。つまり両方を言っています。《命一般の大切さ》も言いますがあくまで具体的な一人のひとの主観において感じる《いのち》のことです。ふつうは自分のことです。そして身内の人やあるいは知らない人に対してもその範囲は広がります」 後天的に範囲が広がるわけであり、はじめから「命一般はすべて尊い」と見なしているわけではないんですね。そういう風に考える人も環境や教育など後天的な条件によってはありうるだろう、ぐらいの主張なら私も賛成ですよ。「人命一般の尊さは等しい」とか基礎理論は別として。 また、自分を始点として身近な人間から範囲が広がっていくのも受け入れ易い見方です。もっとも、その後に「あらゆる個体がもつ差異を捨象することであらゆる個体の命の尊さを等しいと見なす」といった捨象を、大多数の人間が理屈としては認めても感性や感情から肯定するとは思いませんが。しかし理屈としては認めるべきだと思いますよ。等しいとは違いがないとか同値ということなんですから、捨象によって違いを無化することはすなわち等しくすることです。あらゆる個体の違いを無化すれば(等しくすれば)、あらゆる個体の命は等しくなる。これは論理的に正しい。等しくすれば等しくなるに決まってる。一万円札も五千円札も、そこに書かれた数字や絵柄や皺や汚れなどを無視すれば、ただの一枚の紙ですから。しかしその捨象が感性によるものだとは決して言えない。身近な人から想像されたかぎりでの他人へ範囲が広がるとき、身近な人に対する関心の度合いはけっして見ず知らずの他人と同じではない。また、見ず知らずの他人より身近なペットのほうを重視したりもする。その関心は生命の尊さという抽象的なものではなく、愛着や共に過ごした時間やその思い出など、具体的で人格的な交わりがペットとの間にはあるから。 私は一度も会ったことのない、想像された限りでのイタリア人の命と、時間と空間という感性による直観ではっきりと捉えることができる友人を、同等に見なしたりはしない。ある1人のイタリア人は友人ではない。ニュースで赤の他人が死んだのを見聞きするより、自分の身近な友人が死ぬほうがはるかに深刻。この感情の事実は、私が赤の他人と友人を同等に見てはいないことを明らかにしており、その差異を無化してまで命をすべて等しく見なそうとする理屈こそ、私の感性に反する。 「《中断》に終わる場合があります。さいわい命を取りとめ《終わり》にはならなかった場合です」 意志行為が中断される場合があるのですから、襲いかかる暴漢に対して正当防衛をするのではなく、自分が襲われてもたんに中断するだけですむ可能性にかけるのが基礎理論ではありませんか? あと、「どうしてあなたを殺してはいけないの?」という問いに対して「意志行為が中断されるから」とあなたは答えたわけですが、人を意図的に死なせてはいけない理由に「命をとりとめる場合もある」という意味での中断なんて持ち出してもしょうがないでしょう。なぜあなたを殺してはいけないんですか? あなたが意志行為が命をとりとめて終わりにならない場合があるからですか? 中断なんて使わずに終わりになる場合があるからと最初に言えばよかったでしょうに。 「《神》は《要らない。いない》と言っていたのでは? だったら 第三者が《神の言葉を教義とする》という場合にそれは無意味だとでも言うのでは?」 いったいどの信者が教義を神だとしているのか、そういう問題です。私が神を信じていようがいなかろうが、神の言葉を教義とすることが教義を神とすることだなんて解釈に異を唱えることに関係しない。そして原理主義者の例を持ち出していますが、教義は神の不可謬性への信仰ゆえに信じられているのであって、教義を神としているわけではない。教義を遵守することは神への信仰に由来するのであり、神と教義を同一視しているわけではない。 「他者は分からない。分かったと思ってもそれは自己の中にある要素であって自己を部分的に知ったことにしかならないというときの他者このことですか?他我というのは」 あなたの文はすでに他我の存在を自明としていますが、あなたは自分に似た他の人体が自分と同じように話したり動いたりしているのを経験できるだけであり、他我を経験してはいない。他我を経験事象だと見なすなら、他我の存在証明をしてください。なんなら、あなたから見た私になぜ我があると言えるのか、存在証明をしてください。あらかじめ言っておけば、複雑に言葉を使うからとかは駄目ですよ。それはあなたが私の存在を信じる材料にすぎませんから。他我は経験できる事象なんでしょう? なら私の記述した文という現象から私の存在を推測するのではなく、私の存在そのものを経験してみてください。 「《種差別つまり差別する側は被差別者(種)に対して何をしてもよいというほどの意味合い》とを混同していたのですか? わたしの発言をめぐって」 混同していたと言うなら、胎児の命と猿の命のどちらがより尊いか、それをあなたが明らかにしてから訂正しますよ。1人の命と2人の命のどちらがより尊いか、それも併せてどうぞ。 「それが《反実仮想》だという断定は仮説法に当てはまりません。歴史が基礎理論の述べる内容のごとくになればよいわけです」 あなたの言う仮説法は間違いなくアブダクションではないですから。もし~したならば、この反実仮想から始まる時点でアブダクションではない。現に事実に反しているから反実仮想なのであり、それが将来的に実現すればどうたらなんてのは、証明ではない。いまあなたの言う基礎理論とやらに基づいた社会がありますか? ないですね。その時点で事実に反する仮想です。 また、実証不能な基礎理論という仮説を持ち出している時点で、あなたの言う基礎fandamentalに由来すれ原理主義fandamentalismは反証不能です。 素朴なマルクス主義者にかかれば、いまだ資本主義が社会主義や共産主義に道を譲っていない現状は、その移行のためのプロレタリアートの情熱が弱まっていて、そのために改革がペースダウンしているのだとか「説明」できるようなものです。フロイトの精神分析が科学たり得ないのもまさに彼の理論がなんでも説明できてしまうことにあります。あなたが自分の判断基準で他人を「去勢」「惰性」と言ってるように。去勢はもろに精神分析用語。
お礼
§ 30-1 やましさおよび善と負の善 ★ 正常normalと異常abnormal ☆ は扱っていません。 ☆☆ たましいが去勢されている は次の意味です。けっきょく一たんいわゆる歴史知性を持って何ごとにも寄り憑く原始心性から抜け出たにもかかわらず なお《呪術の園》の中に迷い込んで おのれの自由意志にもとづきおのれの見解を持てない(仮りに持てても それを勇気も萎えて死んだようになってしまい発表し得ない) こういった状態を言います。 それは 呪術の園からの解放が成れば 魔法が解けたように われに立ち還るでしょうから だいじょうぶだとも見ます。 《正常・異常》の問題は あつかっていません。 § 30-2 ★ やましさなんて感じなければ問題ではないでしょうし、あなたによれば好きなものを選んで自由にやればよいのでしょう。虚偽もただのしゅかなんでしょう? ☆ 読み取れません。 § 30-3 ★ なら確認しますが、あなたはその自由(=情報操作を選択する《自由》)を他人に認めないんですか? ☆ 自由意志は 無条件に自由です。それは 選択の自由と同時に 答責性を帯びるとも言っています。 § 31 論述部 ★ 「~は学生である」は論述ではありません。 ☆ 定義文――定義主格とその述格――においても その主題に対応する部分を 大きく《論述》と言います。述語部といった意味です。 § 31-1 自己表現 ★ 私が書いているこの文、「私は学生である」には、私の意図を内容としてもっていません。これは自己表現ではありません。 ☆ なら どうしてそれを書いたのですか? 自己紹介するという意図があり そういったきわめて主観性から離れた事実認識に徹した内容を表現している文です。 ちなみにそういった文のひととおりの意味のまとまりをもたせた集まりは 文章と言いますが むろん文章としても意味内容も出て来ます。一文ごとの意味の総和である〔に過ぎない〕とは言い切れないでしょう。 § 32 いのち ★ 後天的に範囲が広がるわけであり、はじめから「命一般はすべて尊い」と見なしているわけではないんですね。 ☆ 《いのちのとうとさ》は 基礎理論としてどの人の主観にとっても共通性としてあると捉える。そこから どの人もそのいのちの存在において 互いにひとしくとうとい。というふうには考えますが 初めから 《命一般はすべて尊い》という命題として持つことはありません。 つまり 次のように要約された見方に立ちます。 ★ 自分を始点として身近な人間から範囲が広がっていくのも受け入れ易い見方です。 ただし 次のような見方を意味するものではありません。 ★ 私は一度も会ったことのない、想像された限りでのイタリア人の命と、時間と空間という感性による直観ではっきりと捉えることができる友人を、同等に見なしたりはしない。 ☆ 会ったことがあるか無いかは関係ありません。《いのち》をどの人にもひとしく見るという話です。だから いのちのとうとさが 共同主観になると見る。それだけの話です。 そのあと 応用領域では この基礎理論だけの見方を土台としつつも 何らかの飾りや塵がついて来るとも言っています。 友人と赤の他人との違いは 応用部門での感覚および認識です。 § 32-1 いのちのとうとさは ひとしい。 ★( a ) ニュースで赤の他人が死んだのを見聞きするより、自分の身近な友人が死ぬほうがはるかに深刻。 ☆ このような実際の出来事(または あり方)が起きることは 上に述べた基本主観の内容やその有効性に変化をもたらすものではありません。 おそらくいのちのとうとさを どの主観においてもひとしく捉えた基本主観は 赤の他人のいのちも友人のいのちも ひとしくとうといと見ているでしょうし そう言うでしょう。そのことと( a )の実際とは これまた両立します。 § 32-2 ★ この感情の事実は、私が赤の他人と友人を同等に見てはいないことを明らかにしており、その差異を無化してまで命をすべて等しく見なそうとする理屈こそ、私の感性に反する。 ☆ 応用領域での個人にとってのつまり主観性としての主観から そこにおける飾りや塵を取り払って――個人間の差異を捨象し無化して―― 基礎理論に到達するのではありません。 わたしがわたしであるその自己同一性が いのちにもとづくこと またそういう存在であること これを見ています。そこから共同主観を取り立てたまでです。そのワタシの自同律つまりは同語反復によるワタシの確認こそが いのちの共通性を言っており 主観の共同性をも見ようとさせます。単純な存在の確認でよいということです。そして いのちが感性から遠く離れているとは とても思えません。 シガラミあるいは 飾りや塵 これらを取り払うということは 当てはまるかも知れません。そういう角度から入りはしませんでしたが。 けれどもそれは そのような応用部門を排除せよという意味ではありません。共通性を捉えようとしただけなのですから。だから 基礎理論と応用領域との階層構造の全体が現実だとも言っています。 ★ その差異を無化してまで命をすべて等しく見なそうとする理屈 ☆ これが微妙に違っています。まるで異なった主観どうしのあいだにも共通性を いのちなる存在として 見い出した。そのとうとさであると。その共同主観の上に 飾りや塵としての差異を帯びた応用領域がのっかっている。この階層構造じたいも およそ人間が互いに共有する現実性だとも見ているのですから 微妙に違って来ています。基礎理論は 《純粋論理》ではないのです。 § 32-3 ★ 意志行為が中断される場合があるのですから、襲いかかる暴漢に対して正当防衛をするのではなく、自分が襲われてもたんに中断するだけですむ可能性にかけるのが基礎理論ではありませんか? ☆ そのとおりだと思います。その可能性は じっさい具体的にはどういうものかとは考えますが。 § 32-4 ★ 中断なんて使わずに終わりになる場合があるからと最初に言えばよかったでしょうに。 ☆ 《終わりに成ることにつながる中断》ということでしょう。 § 33 神 ★ 教義は神の不可謬性への信仰ゆえに信じられているのであって、教義を神としているわけではない。 ☆ その《神の不可謬性》が 単なるオシエです。ましてそれへの《信仰》という日には 神を自分たちの思考の道具にして遊んでいる。ということです。 ★ 教義を遵守することは神への信仰に由来するのであり、神と教義を同一視しているわけではない。 ☆ 《遵守する》ことと《オシエを神としてそれを遵守することをも神としてあおぐ(つまり 自分では守れないのに 人に向かってオシエを説くときには 絶対遵守を押しつける)》こととの違いです。 § 34 《他我》? ★ あなたの文はすでに他我の存在を自明としていますが ☆ ご冗談を。ぜんぜん知らないと言っています。わたしの辞書にはありません。《自我》もありません。《わたし・自己・自分》です。ですから 他我にまでなれば ちんぷんかんぷんです。 だから 尋ねているのです: ☆☆ 「他者は分からない。分かったと思ってもそれは自己の中にある要素であって自己を部分的に知ったことにしかならないというときの他者 このことですか? 他我というのは」 ★ 他我を経験事象だと見なすなら、他我の存在証明をしてください。 ☆ めちゃくちゃだ。使ったこともない言葉をどうして? § 32-5 いのち ★ 混同していたと言うなら、胎児の命と猿の命のどちらがより尊いか、それをあなたが明らかにしてから訂正しますよ。1人の命と2人の命のどちらがより尊いか、それも併せてどうぞ。 ☆ これは もう二三度説明していますよ。種差があるという前提が通れば その差のあるものどうしを比べることはしない。しても意味がないという見方。および《ひとり》は いのちのとうとさが共同主観であることにおいて 全体を意味する。マクロコスモスとミクロコスモスとの呼応ないし一体というような見方です。 § 35 仮説法 ★ 現に事実に反しているから反実仮想なのであり、それが将来的に実現すればどうたらなんてのは、証明ではない。 ☆ ゆえに ☆☆ 「それが《反実仮想》だという断定は仮説法に当てはまりません。歴史が基礎理論の述べる内容のごとくになればよいわけです」 ☆ という評言をあたえました。 つまり仮説法がいきなり提出する結論というのは まさに《仮説》であって――これから事例や推論をかさねて証明しようとする仮説であって―― 《反実仮想》ではありません。つまり《仮想》と《仮説》とは同じだとしても 《現実相反》という規定の部分が違っています。現実についての現実性を持つ仮説理論を提出するのです 仮説法は。 そして いま述べている基礎理論という仮説は 仮説法で証明するという場合には 論文においてそうするのではなく 現実の歴史の推移において証明されるであろうと言っています。 ☆☆ 歴史が基礎理論の述べる内容のごとくになればよいわけです。 ★☆ あなたの言う仮説法は間違いなくアブダクションではないですから。 以上(§ 35 )によって そのあとの仮説法・マルクス主義・フロイト理論についての議論は 答えているはずです。
- manuke22
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「《行為を促す》内容ならその促しにそのまま従うから《主観であるかさえ問題ではない》と考えてしまったのですか?」 まったく違います。内容ではないと言っています。発話じたいが行為です。発話内行為と言います。文の意味は文の指示対象であり、発話者の意図ではありせん。 分析命題である「独身者は配偶者をもたない」は、私の意図に関わらず内容をもたない情報量ゼロの命題です。形式的には真ですが。 あなたによれば文は主語と述語からなりますが、命令文はそうではありません。そして命令文は指示対象を、事実との関係をもちません。真にも偽にもならず、命令文の内容なんてのはないわけです。 「私は日本語を話せない」という文が偽であるのは、私が日本語を話せないと思っているからではなく、まさに私が日本語を話しているという事実に反しているから偽なです。 1足す1は2である。これが真であるのは規約に準じているから、つまりこの文の真偽は主観によるのではなく規約によります。 「そうであるに決まってるぢゃないですか?」 ある人が殺人犯であり、彼が意図的に「私は人を殺していない」と述べたなら、この文は単なる彼自身の主観の問題ではありません。彼自身の主観である「自分は人を殺した」にも反しており、さらに事実に反する偽であり、その真偽は調査などで客観的に検証できます。命題の真理値をたんに主観の問題だとするなら、ある人が雨が降っているときに「雨がふっていない」と発話したとしましょうか。これは事実に関係する命題であり、その真理値は偽です。自己表現とかではなく、たんに事実に反するから。 主観の問題というのは、嘘かどうかに関わらず好きなほうを信じればよいということでしょうか。文の意味は主観なしにはあり得ないと言っているのは、「無主観だったらだれも相手にしない」というところから推察できますが。 チューリングマシンには開発者らの主観があると言いそうですが、それは人がマシンを人間だと見なしてしまった事実には関係がないですし、開発者はマシンを通して被験者と会話したわけでもないので、大した反論にはなりません。 アイヒマン実験では、録音された悲鳴を実際に自分が電流を流している人間(そんな人間は実はいない)の悲鳴だと被験者な疑いませんでした。悲鳴をあげた人間には、通常はなんらかの驚きや不快な感覚がありますが、当然この悲鳴の録音のときにそんな驚きや不快感はありません。しかし、ある主体が演技であげた「悲鳴」を、その主体の主観に関わらず被験者は本気でいやがっていると解釈しています。悲鳴が聞き手たる被験者にとってどういう意味をもつか、そこに演技で悲鳴をあげた人間の主観など関係ないとわかります。 「これも先ほどのテレビ局という発言の主体の場合と同じように 集合体(もしくは単独者であっても匿名)が話し手になっている事例であり」 受験者は誰の主観をどのようにして問題文から読みとるんですか? 誰かが書いたことが原因でその文は意味をもつのでしょうか。少なくとも私は受験勉強のさいに出題者の主観なんてまったく気にしないで、ただ印刷されたその問題文にしたがって問題を解こうとしていました。 そもそも、この「そもそも」という語の意味さえ主観ではなく辞書の定義や一般的な語用として適切かどうかなど、私という主観以外の様々な要素があってはじめて意味をもつ語です。花という語に鼻という意味があるかないかを決めるのは私ではありません。 「我輩は猫である」、この文は著作のタイトルでしょうか。著作に含まれる一文でしょうか。「我輩(manuke22)は猫である」という事実確認文でしょうか。夏目漱石の主観であるならどういう意図が含まれているでしょうか。定まりません。「我輩は猫である、これは夏目漱石の著作のタイトルである」と言えばたしかに定まります。 文の意味は本当に主観がなければ成立しませんか? 文法や語法や定義など、様々な慣習や規約を受け入れているからこそ文は意味をもつのではないでしょうか。語や文の意味にとって重要なのは主観だけだとするなら、なぜあなたと私で主観という語を議論したりできるのでしょう。私とあなたという主観に関係なく、日本語という言語体系が人に使用される主観という語の意味を保証しているからです。 「言わば無主観だとしたら《記入せよ》と書いてあっても誰も相手にしませんよ」 チューリングマシンとのやりとりで被験者はマシンが書いた文章を人間が書いた文だと信じてやりとりしていたわけですが、相手にしないとかふざけたりとかではないですね。ディープブルーというチェス機械にしてもそうです。ディープブルーのプログラムはディープブルーの主観ではないですし、作者スタッフらの主観でもありません。「無主観なら誰も相手にしない」は誤りでしょう。無主観の機械を主観がある人間だと思ってやりとりをした人間がいるんですから。私だってチューリングマシンを人だと見なすことはありえます。また、人間のように複雑に言葉を使う機械ができ、外見上の見分けがつかなくなれば、私はこの機械が発する発言を人間の発言と同じ仕方で解釈し、会話するでしょう。 文章から相手に主観があるかどうかとか、またどういう意図から書かれたのかどうかなんてわかりません。道路標識の「左折禁止」は人が書いたものではありませんが、そんなことに関係なく運転手は標識に従ったり、また標識の意味を分かっていながら左折したりします。文や語が意味をもつためにそれを書いた主観は必要ではないわけです。信号ならなおのこと、信号に主観もなければ作った人たちやの主観や機械に関わりなく、赤は止まれを意味します。 主観をもたない新生児の「オギャー」を誰も相手にしないことはないし、犬や猫の鳴き声をなんの意味もない雑音だと考えるのはデカルトみたいな動物機械論者だけでしょう。 映画ハリーポッターの翻訳されたセリフは誰のどういう主観でしょうね。声優? 翻訳者? 演じている俳優? オリジナルの脚本家? ハリーポッターの著者? そこまで人は考えているでしょうか? 声優やダニエル・ラドクリフの意図が「ウィンガーディアムレヴィオーサー」という発話に意味を与えるのでしょうか? 意図が重要なケースはたしかに多々あります。しかし文が意味をもつには主観が必要かと言えばそうではありません。文の意味は主観と独立していることもあれば文脈に依存していることも多い。 受験者に問題文を作成した人物の主観なんてわかるわけがないでしょう。たとえ機械が書いたものであろうが、問題作成者が問題文を書いているときの主観が「眠いなぁ帰りたいなぁ」であっても、問題を解いて点を稼ぐには「問題文に」従いさえすればよいわけです。小説の登場人物のセリフは登場人物の主観ではないですね。では作者の主観でしょうか。作者の主観なんて死んでいればなおさら文からはわかりません。ゴーストライターならなおさらですね。 「基本主観としての《自由》はその共同主観つまりそれとしての善にしたがいます」 やましさなんて感じなければ主観的には善も悪もないんでしょう。「魂が去勢されている」とあなたが診断した人は中傷にやましさなんてありませんから、そうした中傷は本人にとって善くも悪くもないただの好ましい選択です。 「しかも特に応用部門で《自由》と言えばそれは善および負の善 これらふたつの内いづれかを選択する自由があるというかたちになっています」 なぜ善と悪という二項対立なんでしょう。完全無欠の善などありませんし選べません。人はやましさを感じるか感じないかだけで行為しません。不治の病で苦しむ悲惨な娘を殺した父親は、娘を生かすことにも殺すことにもやましさを覚えたことでしょう。やましさだけでなく悲しさや苦しみなどを。そのジレンマにあって、やましい・やましくないという二項対立はありえません。善と悪もなおさらです。 すくなくとも私が知る規範倫理学にはそうした単純な二項対立はありません。
お礼
(補足欄からのつづき) § 29-8 ★ アイヒマン実験 ヰキぺ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%AE%9F%E9%A8%93 ~~~~~~~~ アイヒマン実験では・・・・悲鳴が聞き手たる被験者(=教師役)にとってどういう意味をもつか、そこに演技で悲鳴をあげた人間(=生徒役。ただし実際に悲鳴を上げているのではない。ただ演技の声が聞こえるように流されているのみ)の主観など関係ないとわかります。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 電流が流れて悲惨なほどの悲鳴が聞こえてもその被験者=教師役は それに左右されず生徒役に質問をつづけた。よって その《生徒役》の《人間の主観など関係ない》と言えるか? 生徒役の悲鳴を聞いていながらそれを無視する態度に出たのだから その教師役にとっては《人間の主観など関係ない》のだと。 人文科学ではその条件づけあるいはつまり情況設定やらの文脈に依存するという理由において――そして社会科学ではじっさいの社会政策などの行為にすらそのままなりうるという理由において―― 《実験》というものをわたしは あまり信用しません。 ですが 教師役を演じた人間たちは かなりの確率でそのような《人からのうったえの無視》をおこなった。という受け留めを前提として考えるなら: 基本的には 生徒役の人間からの――ウソの演技としての・ただし教師役は実際のだと思っていたところの――悲鳴を無視したとすれば それは《主観》として見止め受け止めたゆえに ひとつの選択としてそうした。と考えられます。実験を完遂したかった。 教師役の人たちは ほかの実験参加者の《主観》を捉えるところまではおこなった。あとは 実験の遂行を優先させるかたちで その主観内容(もう やめてくれとうったえる悲鳴)を無視した。 残酷ですが 《主観がどうでもよいとなるほどの無視ではない》。というよりも おそらく電流による刺激は 人体にだいじょうぶな範囲内に設定されていると解釈したのでしょう。悲鳴には左右されずに 悲鳴の引き続き聞こえる道を 実験の予定する範囲内ではえらんだ。と考えます。 § 29-9 誰の主観かが分からないばあい ★ 受験者は誰の主観をどのようにして問題文から読みとるんですか? 誰かが書いたことが原因でその文は意味をもつのでしょうか。 ☆ 受験という文脈をまづはおさえてください。試験を受ける。ならとうぜん自分たちが答えるべき問いを用意した試験(その用紙)がくばられてくる。だけぢゃないですか。 ★ 少なくとも私は受験勉強のさいに出題者の主観なんてまったく気にしないで、ただ印刷されたその問題文にしたがって問題を解こうとしていました。 ☆ 主観つまり何の某という特定の誰かの主観性 これを極力消すかたちで主観をのべる文もあるということになります。 ★ 「我輩は猫である、これは夏目漱石の著作のタイトルである」と言えばたしかに定まります。 ☆ そのとおりです。 § 29-10 主観よ主観。おお主観よ。 ★ 文の意味は本当に主観がなければ成立しませんか? ☆ はい。 ★ 私とあなたという主観に関係なく、日本語という言語体系が人に使用される主観という語の意味を保証しているからです。 ☆ 言葉は われわれが生まれる前からすでに存在していますから あたかもわれわれのいのちなる存在と同じように われわれにとっては あたえられたという性格を持ちますが やはり同じくいちどワタシにおいてワタシがそれの受け容れを確認するという作業があったと考えられます。 主観が おのれ自身を確認し受け留めたというのと同じように 言葉をも確認し受け留めたことになります。《主観》という関所は 通るはずです。 § 29-11 受験の場合にもどって: ★ 「言わば無主観だとしたら《記入せよ》と書いてあっても誰も相手にしませんよ」 ☆ 受験の際の問いにおける《記入せよ》という文は すでに述べたように試験を受けるという文脈において成り立っています。ですからこの試験用紙に書かれた指示文が 《無主観だと見なす》という意味は この文脈の全体をくづしてしまう場合だと取ることになるのだと思います。 ★ ディープブルーというチェス機械・・・のプログラムはディープブルーの主観ではないですし、作者スタッフらの主観でもありません。 ☆ 作者スタッフの主観なのではありませんか? ★ 人間のように複雑に言葉を使う機械ができ、外見上の見分けがつかなくなれば、私はこの機械が発する発言を人間の発言と同じ仕方で解釈し、会話するでしょう。 ☆ お遊びとしてです。そしてそれは オランウータンとの《会話》の場合も いまのところ 同じです。 § 29-12 なお主観のありかをめぐって ★ 文章から相手に主観があるかどうかとか、またどういう意図から書かれたのかどうかなんてわかりません。 ☆ 分からないから 主観の自己表現が文だという命題が無効になるわけではありません。 ★ 道路標識の「左折禁止」は人が書いたものではありませんが、そんなことに関係なく運転手は標識に従ったり、また標識の意味を分かっていながら左折したりします。文や語が意味をもつためにそれを書いた主観は必要ではないわけです。 ☆ 《必要がなくなっていること》と《はじめに・つねに誰かの主観があったこと》とは 両立します。 ★ 赤は止まれを意味します。 ☆ 交通法規としての取り決めです。取り決めとは 憲法から何から何まですべて集団であったとしても一人ひとりの主観とその自己表現から出発しており その出発点の事実にもとづき成り立っています。ほかの人たちやあとから来た人たちは あたかもその出発点に同じように立ってのごとく 追認して取り決めに参加します。 § 29-13 虚構としての主観 ★ 主観をもたない新生児の「オギャー」を誰も相手にしないことはないし ☆ 基本主観までをふくめて 主観の持ち主だと 潜在性においてとしても 見なします。 ★ しかし文が意味をもつには主観が必要かと言えばそうではありません。文の意味は主観と独立していることもあれば文脈に依存していることも多い。 ☆ それらの事例のすべては 主観という出発点からあとの旅路のあり方を示しています。いろいろあります。 ★ 受験者に問題文を作成した人物の主観なんてわかるわけがないでしょう。 ☆ 分からなくてよいし 分からないほうがよい。つまり主観の主観性を消した文体として表現しているのですから。 ★ 小説の登場人物のセリフは登場人物の主観ではないですね。 ☆ 虚構作品については 基本的に言って 二段構えの構成です。一段目のロケットは あくまでも作者の意志行為としての主観です。二段目は 登場人物その者の意志であり主観であるというその虚構となっています。そしてその虚構における現実性・妥当性が問われます。 架空の人物であっても 人間の主観として真実が描かれていると受け留められれば 現実性が付与され作品としてたたえられます。 ★ 作者の主観なんて死んでいればなおさら文からはわかりません。 ☆ 虚構作品から作者の主観が分かるその文章は 現実性があると見なされます。 ★ 「魂が去勢されている」とあなたが診断した人は中傷にやましさなんてありませんから、そうした中傷は本人にとって善くも悪くもないただの好ましい選択です。 ☆ ですから その魂の去勢からの基本主観の生還(ルネサンス)をめざします。 § 30 やましさおよび善と負の善 ★ 不治の病で苦しむ悲惨な娘を殺した父親は、娘を生かすことにも殺すことにもやましさを覚えたことでしょう。 ☆ 基本主観は あくまでひとりの人間の主観の内面にその遊び場を限られます。一人ひとりの主観のそれぞれの宇宙への旅です。 娘の主観は 父親の主観とは――関係しあっていますが――社会的に独立してもいます。自由意志がその根拠です。 ★ なぜ善と悪という二項対立なんでしょう。 ☆ 誰もがウソをついたことがあるからです。だから善と負の善との二項対立は出来ました。(そう成るべくして成ったと言えるほど 自由意志の自由度のあり方がそうであったと言えます。負の善の選択も 人間にとって あり得たという意味です)。死ぬまでこの二項構成はなくなりません。 しかも 基本主観においては 善悪の彼岸を見ています。(見ていますというウソにおいて 非思考の庭なる動態をあらわします)。
補足
§ 29 一般文法と主観 ★ あなたによれば文は主語と述語からなりますが、命令文はそうではありません。そして命令文は指示対象を、事実との関係をもちません。真にも偽にもならず、命令文の内容なんてのはないわけです。 ☆ 命令法で論述を締めくくる文のかたち: ▲(創世記12:1 ) ~~~~~ 主はアブラムに言われた。 「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 要するにこうです。 (α) メタ文:文 ____________ 〔われは言う〕:行け。 つまり (α‐1) われは 《あなたが行くこと》を命ずる。 (α‐2) 《あなたが行くこと》が起こるようにわれは要請する。 ・・・ といった文の構成内容です。主題(つまり主題提示主題)と論述(つまり提示主題について論述する主題)から成り そこには 〔文内の主体の〕主観とそれに相い向き合う対象が示され それらのあいだにどのような行動もしくは状態があるのかを 話し手はむろんみづからの主観する内容として表現する。のです。 主題〔の提示〕だけでは 論述の用言(動態か状態か)の行為主体やその客体やのことが分からないので 主題はそれぞれの格(語どうしの位置関係・意味関係)を持つかたちに解釈されて行きます。 例文(α)では 行為主体(主格)とその行為論述(述格)のみがあります。 《行け》という動態用言の示す行為をおこなう主体は 省略されている《あなた‐が》です。なぜそうなるかは メタ文の統括者であるワレが そのあなた=つまりここではアブラムに向けて話しているからです。 文の分析は このようにおこなうものです。 § 29-1 純粋論理地獄 ★ 「私は日本語を話せない」(β)という文が偽であるのは、私が日本語を話せないと思っているからではなく、まさに私が日本語を話しているという事実に反しているから偽なです。 ☆ それが《純粋論理》だと言っています。 (あ) この例文(β)の話し手は ほんとうに――たとえばまだ日本に来て間もないころ この文例のみはおぼえていたという事情にあって――話せない。という解釈があり得ます。 (い) つまり 文脈を考慮すれば いろんな場合が――純粋論理とは別に――ありうると見なければなりません。 (う) あるいはもう一例。日本語を話すとその相手から絡まれると思って たどたどしくこの文(β)をしゃべった。のかも知れません。 (え) 純粋論理の地獄から抜け出て来てください。 § 29-2 まづは 文そのものの受容から始める。 ★ 1 足す 1 は 2 である。(γ) これが真であるのは規約に準じているから、つまりこの文の真偽は主観によるのではなく規約によります。 ☆ この文例(γ)は なるほど話し手の主観は ほとんど見えません。ほとんど消えています。ですが それは 話し手がそのように――主観の判断のあり方を――文の表現としてもかたちづくったからです。 (γ) 〔われは言う〕:1足す1は2である。 こういう文の成り立ちであることに例外はありません。例外がないどころか そのように捉える以外のかたちで捉えては マチガイなのです。どこか宇宙のかなたからこの(γ)文が送信されて来たわけではないのです。必ず文の統括者としての話し手がいます。 そのあと もしこの文の意味内容がどうして真であるのか? と問うたときには おっしゃるように《取り決め》によるからです。 文法なら 何でも聞いてください。(分からんものは分からんと言いますが)。 § 29-3 虚言と主観 ★ ~~~~~ ★ あなたの理屈なら虚言も単なる主観だとなるが ☆ そうであるに決まってるぢゃないですか? 主観の問題というのは、嘘かどうかに関わらず好きなほうを信じればよいということでしょうか。 ~~~~~~~ ☆ 何を言ってんですか。(1) 文は文です。話し手の主観にもとづく自己表現です。まづ そうです。(2) 次に文の意味内容を認識します。文じたいのです。(3) そのあとに自分(聞き手)の見解とその認識内容をめぐって照らし合わせます。(4) 自分(聞き手)が話し手の文は言っていることがウソだと考えたなら ウソではないか? と問い質します。(5)・・・というふうに文をめぐって人間のあいだにおける交通がなされて行きます。 すなわち: § 29-4 すなわち: ★ ある人が雨が降っているときに「雨がふっていない」と発話したとしましょうか。これは事実に関係する命題であり、その真理値は偽です。自己表現とかではなく、たんに事実に反するから。 ☆ というふうに上の(4)まで・またはその(4)の寸前まで来たとき そのあなた(=聞き手)は 考えます。(5) こいつは 何を思ってこのようなあからさまなウソを言うのだろう? (6) たとえば 《いやいや わたしの心は しめっぽいのではなく 晴れている。心配するな》と言っているのかとでも解釈が伸びて行きます。 § 29-5 すなわち: ウソをつき得てイツワリをおこない得るわれらが人間の自然本性は そういう意味では原生林であり密林の状態にあると言って言えなくはない。いくら精神は――感性のみづみづしさにもとづき―― 緑野だと言っていたとしてもです。 だからこそ 論理をその同じ自然本性は・つまりはその精神はつまり理性は発達させます。 けれども 熱帯雨林もそれとしてよきものです。何でもかでも道をとおし《文化》させればよいとは成らない。 これは 基層の基礎理論と表層の応用領域とによる階層構造のもんだいとはちょっと違って すでに基層を擁する自然本性じたいが しっちゃかめっちゃかになっているぢゃないかという問題です。 ですがそれでも そこに論理の道路をとおすだけが 人間の共同主観にとってよきことであるとは限らない。という問題です。 ウソ・イツワリをも言わばわれわれは生け捕りにせねばなりません。道路に横道を勝手につけるなという問題とは ちと違う。それゆえにも 基礎理論と応用問題との階層構造が それとしてすでに現実だというじっさいもんだいが目の前にあります。 § 29-6 すなわち: ★ ある人が殺人犯であり、彼が意図的に「私は人を殺していない」と述べたなら、この文は単なる彼自身の主観の問題ではありません。彼自身の主観である「自分は人を殺した」にも反しており、さらに事実に反する偽であり、その真偽は調査などで客観的に検証できます。 ☆ これを・これも 《本人の主観の問題である》という出発点から・そしてまたそういう文の受容と分析から始めます。 (δ) 〔或る殺人犯いわく〕:「私は人を殺していない」 こういう自己表現であり そういう主観です。言ってみれば表層の応用問題が 基層の基礎理論の土壌となっている自然本性(身と心)の部域において 問われている。つまりは 早い話が ウソ・イツワリの問題です。(わたしは そういう表現と概念を好みませんが これがいわゆるアダムとエワにおける《原罪》の主題だと考えます)。(あるいは アベルをころしたカインの主題です)。 アダムらに対しては神が――そよ風の吹く夕方の園において―― アダムよ きみはどこにいるか? という声をかけてことが展開されて行きました。おまえは解決の道を示し得ないで いったい何を言うのかと笑われましょうが これが 《真偽の判定》の問題よりも幅広く現実として受け留めた主題の核だと思います。どこにいるか? というのは きみの基本主観は どこにあるのか? ではないでしょうか。 § 29-7 すなわち: ★ チューリングマシンには開発者らの主観があると言いそうですが ☆ チューリングマシン(あるいは自然科学)にうとい者ですが 開発者の自己表現が そのマシンであると言えるでしょう。そのマシンじたいは 任意の一人の主観から極力自由なかたちで表わされている。という場合です。
- manuke22
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ところであなたは「非対象を対象としているのが信仰である」と考えたのだから、非対象を対象として考えています。あなたに考えられた非対象は、あなたに考えられたがゆえに経験事象となっているわけだから、「非対象という経験事象を対象だとしているのが信じるであり信仰である。つまり非思考である」となります。 信仰は「非対象を対象とする」ものです。ゆえに、「非対象という経験事象を対象だと考えるのが、非対象を対象とするものである。つまり信仰です」、となります。あなたがこれを否定するなら、非対象という語を考えなければなりません。それによって非対象は思考の対象となり、経験事象だとなります。 信仰は非思考です。信仰は非対象を対象としていること。思考の対象であるなら、その対象は経験事象。あなたが私に反論しようとして非対象を考えると、非対象は思考の対象となり、非対象は経験事象になります。あなたの思考は信仰に、つまり非思考になりました。あなたの思考は非思考であり、信仰です。ゆえに、思考と非思考に区別を設けることはできない。思考は非思考(信仰)であり、非思考(信仰)は思考なのだから。したがってあらゆる思惟作用、つまり信じるも疑うも考えるも推論するもすべて信仰であり、すべて思考です。非思考と思考をわける意味がなくなりました。 ある意味では、非思考というのは信じるという態度について有意なことを述べています。人は一般的に、他我が存在することを信じて疑っていない状態にありますが、この状態は彼らが他我の存在について考えたからできたのではなく、幼いころから培われてきた原信憑Urdoxaです。単なる信憑doxaよりさらに根本的な信憑、考えることなしには信憑だと気づくことさえできない信憑。こうした原信憑はたしかに思考ではない。 自分から見える他人という現象を考えれば、自分と似た身体が言葉を話して色んな風に動き回るなど、そうした現象が観察可能なのみで、その動因である他我なんてどこにも現象していない。観察可能な現象は、自分egoと似たこの身体をもち、自分と同じように振る舞うこの身体には自分とは別の自分alter egoがあると見なす類推の根拠にはなりますが、なんらその類推が妥当であることを証明していない。 「あたりまえのことが、あたりまえではないようなのです」 当たり前の思考に異議を唱える神秘主義者と、神秘主義者がいる事例がたくさんあるという意味での当たり前。これを「当たり前だが当たり前ではない」と表現することは、前者と後者の当たり前という語の意味が異なるので、大した問題ではない。「そう考えるのが当たり前だがそう考えない人もいる」ぐらいならそれは事実だが、取るに足らない事実。 「顔を赤らめるというやましさ反応。これが後天的にのみ現われるとお思いですか? 神経細胞でそのように――しかもワタシが意図せずに――起きる現象ではないのですか?」 そういう神経が人体に備わっていることはなんら「私」には関係ない。それなら快と不快や痛みと苦痛のほうがよっぽど先天的。 赤面症は対人恐怖症の一種であり、命一般の尊さだの自分の死への恐怖だのとはまったく無縁であるばかりか、ある行為をした自分に対するやましさにさえ関係しない。新生児に対人恐怖症などない。他人を認識してさえいないのだから。 ある人が赤面すること、それには人体や神経の生理学的な条件は不可欠ですが、何に対して赤面するのかどういうときに赤面するかは人それぞれ。生い立ちや性格や慣習が関わる。他人に笑われて「恥ずかしさ」を感じる人間はやましさなど感じていない。半裸が当たり前の村に生まれ育った人間は、服を着ることが当たり前の町に生まれ育った人間のように恥ずかしさを感じはしない。また、海水浴場ではなぜか普段なら恥ずかしくてできないような水着姿になることができるが、もし自分の身体に自信がなくて恥ずかしいなら、それは自分から見て恥ずかしくない立派な身体をしている他人というモデルと比較した上で恥ずかしいと感じているわけだから、恥ずかしさには理性や認識が関わる。 「赤面はやましさ反応である」は、「ある者が赤面するならば、彼はやましさを感じている」となり、「ある者がやましさを感じていないならば、彼は赤面しない」となります。しかし人は怒っているときにも嬉しいときにも赤面する。心理学の実験で幼児の嘘を扱ったものがあるが、その映像で幼児はまったく赤面していない。幼児がこのときやましさを感じているとすれば、赤面はやましさの判断材料にはならない。やましさを感じていないとすれば、嘘をつくときにやましさを感じことはなんら先天的ではないとなる。ポーカーフェイスと言うが、ポーカーフェイスをできるようになる訓練を積む程度で「やましさ反応としての赤面」をコントロールできるなら、やましさは体毛が伸びるような現象とはまったく異なる。 「ヒゲが生えてくるのと同じような現象ではないですか? DNAにさえそなわっているでしょう」 ヒゲが生えるのは男性ホルモンが関わります。成長するにつれてヒゲが生えることは薬に頼らずにはどうしようもありませんが、赤面症は様々な試みによって軽減したり改善できることからもまったく自然本性ではありません。 「《人間への態度》ではなく、《行為についての見解》であり、それならとうぜん《悪行をしたこと》にはきびしい態度を取ります」 行為者への態度です。個人から行為や関係や性格などを捨象して抽象的なニンゲンを拵えたなら、どのニンゲンも当然「等しく」なるでしょうが、その捨象をする意味がわかりません。 「つまり《人間・存在》、これは悪人も同じです」 あなたは行為者から行為を取り除くことで人間を無差別化している。すべて悪人ならわざわざ悪人呼ばわりする必要がありません。「人はすべて悪い人だ」は「悪い人はすべて悪い人だ」と同じなんですから。善人でもただの人でもかまわないはずですが、それなのにあえて悪人という語を使うなら何と比較して悪人だと言ってるんですか? 「これは価値評価以前のことです。とうといかどうかを考える以前のことです」 尊いを定義してください。 「無意識の説が葬られたも同然というのはヰキぺで見ました」 葬られたなんて書いてなかったように思いますが。 「フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している」 つまり無意識は実証不可能であり、精神分析を科学の仲間入りさせようとしたフロイトの試みは挫折したと言えます。しかしそれをフロイトの考えが葬られたと見解釈するのは、上の引用を見てもわかるように誤り。フロイトに限りませんが、無意識に関する意見やその応用は現在の臨床心理でも他分野でもあります。 「子どもになぜウソをついたの? と訊かれたならそういう慣習だったからという答えになるというように」 なりません。傷つけたくなかったからという個人的な動機を言えばよい。嘘をつかれたことで傷ついたと言われたら謝ればよい。 「そのような財テクがそれ自体を目的となるように変身するとしたら、それは――意志も一枚くわわっていますがそして欲望も言わば先にうごめいていますが――理性という犯人である要素が大きいように思われます」 投資が目的になるのは投資が成功して利益を得た後のことでしょう。それが嬉しかったから、家を買うという目的だけでなく、金を稼ぐことや投資するという行為もっと楽しみたいという欲求が出てくる。欲求は変化します。ただの興味で入った部活で楽しくやっていたが、負けた悔しさなどなら楽しむだけでなく巧くなりたいと思ったならそれは欲求の変化であり、理性の自己運動などではない。理性は目的を立てない。理性は推論能力であり、なにをなんのために推論するのか、それを理性が単独で立てることはない。理性という語に欲求や意志を含めるのは不適切ですが、理性的な活動は理性だけでは成り立たないというような前のあなたの発言は正しかったのに。 「むしろ理性が自己運動をするごとく《活躍》する場合。これがあるのではないか?」 ダイエットのために始めたジョギング。それを続けている内に走ることの爽快さや楽しさを知ったなら、ジョギングによって当初の目標体重に達した後も、趣味としてジョギングを続けるでしょう。これは理性の自己運動だとかではなく、単に欲求することが変わっただけです。 「仕事をして報酬を得るという順序ではなくなり、報酬なり結果なりが先に来てそれを目的として理性がみづから方法を編み出して行く」 報酬を得たいから仕事をするわけでしょう。そうして仕事から得る報酬より仕事を楽しむようになったなら、理性の自己運動なんかでは。好きな職業に就き、仕事を楽しんでいたら報酬が高くなり、それが嬉しくてもっと報酬を高めようと仕事をさらに頑張るようになったなら、これも根底には欲求がある。
お礼
§ 23-11 ★ ところであなたは「非対象を対象としているのが信仰である」と考えたのだから、非対象を対象として考えています。 ☆ これは 焦点の当てどころがずれました。 ☆☆ 「非対象を対象としているのが信仰である」 ☆ というのは その神と向き合っているワタシが ワタシと対象――つまりこのばあい非対象――とに分かれるという図式において言ったまでのことです。 ですから このとき《考える》ことはしていません。 考えることをおこなってもいいわけですが その考えは この神に向き合うワタシにとって 信仰とは別のものです。 ですから ★ 非対象を対象として考えています。 ☆ ということにはなりません。非対象は わづかにその名を受け容れるというかたちで思考と言えば思考がかかわっています。でもこれも ただのシルシです。 § 23-12 とにもかくにも それが何であるか知らないが 神さんとやらがいると言う。といった通俗の言い慣わしから出発します。 1. つまりその《何であるかが 分からないもの》を 哲学としてどう表現するか? 《非経験の場》。なぜなら この経験世界またはその中の要素要因であるなら それは《知り得る》。 2. 非経験の場を示すために 神なら神という言葉を用いるが その言葉が神ではない。言葉なら音声や文字やあるいは意味内容であることになる。神という言葉は 使うけれどもあくまで仮りのシルシであるに過ぎない。 3. つまり 言葉や概念としての神は 思考の対象になる。いっさいの対象にならないシルシとしての神は 非経験の場としての神を代わりに指し示す代理の言葉である。 4. 信仰は このシルシである神の名を心に受け容れることである。非対象に向き合いこれを受け容れるというのは 非思考である。だから 無根拠において成っている。何が成っているか? おそらく心の伸びないし明けであって それが実質的に意味するところは 《わが心は閉じられていない》という状態であると思われる。 5. こうして 《思考と非思考》や《対象と非対象》あるいは《根拠と無根拠》そして《経験と非経験》の区別において 《考えると信じる》の区別が成り それぞれの後者として信仰が得られる。 § 23-13 ★ 幼いころから培われてきた原信憑Urdoxaです。単なる信憑doxaよりさらに根本的な信憑、考えることなしには信憑だと気づくことさえできない信憑。こうした原信憑はたしかに思考ではない。 ☆ これは かなしいかな 経験事象について述べているものと考えられます。 赤子が母親に無条件になつくのは わたしの言葉で《聖なる甘え》です。確かに《原信憑》があるのでしょう。しかもそれは 経験事象です。 と一応の見方を示しましたが じつはこの《聖なる甘え》は 非対象を相手にした原信憑であるとも考えられるかも知れない。言いかえると すでに赤子のときから非経験の場(それは 電磁場にもたとえられる)とワタシ(赤子の)とのきづながつながっているのかも知れない。 つまりはそして ものごころがついてからは あの基本主観に立ち帰ったとき そのときにはかつての聖なる甘えを思い出し しかもものごころがついているからには 今度はワタシは 何ものかナゾの非対象にむけて きよらかなおそれをいだく。これも 信仰のひとつの側面であるかも知れない。 § 23-14 ★ 自分とは別の自分alter ego ☆ これが 《他我》だったのですか。でも ここからさらにきちんと定義しなければなりません。 《別の自分》というとき (あ) その他者の存在を言っているのか? それとも(い) その他者の存在の中に《自分と同じような思惟の形式やくせを見つけた》というようなその同等物を言うのか? (う)それとも《自分とは同等物が基本的にない》つまりその意味で《別の自分》だというのか? (い)と(う)とは まるっきり正反対の内容です。(あ)は それら両側面を含みうる全体としての他者なる人です。 § 24 ★ 「そう考えるのが当たり前だがそう考えない人もいる」ぐらいならそれは事実だが、取るに足らない事実。 ☆ なんですが・つまり通常はそうなんですが このことばっかりは 通りすがりの考察では済みません。 たとえば《ブッダのさとりとは 何であったか?》なる問いは 永遠に問われ続けて来ています。いまだに答えがありません。そのさとりを得た者は 神であるのか? そうでないはずだが どうなのか? の問いにも明確に答えが返って来ることは期し難いものがあります。では ブッダター(仏性)は 非経験の場の――想定としての――チカラを言うのか? それとも ただの良心のようなものか? こちらなら 経験事象だと考えられる。 このような迷妄が二千年のあいだつづくというのは 《取るに足りない》と言って放っておくことの出来ないゆゆしい事態であり問題です。人材が埋もれ――それもまじめな人たちが埋もれ―― 埋もれずに活躍しようとする人たちにしても 《当たり前が当たり前で通らない》ことにより そのモヤモヤ・ワールドの鳥もちに引っかかって想像力のつばさを広げられないでいる。 これは あえて定量的な規定をしようとすれば GDP の一割りくらいの価値に相当するのではないか? それが発揮され得ないでくすぶっているという意味です。 § 24-1 ★ 赤面症は対人恐怖症の一種であり ☆ 明らかに誤解です。対人の恐怖など何もないところに やましさを覚えるとともに顔を赤らめるのです。むろん対面恐怖などなどいろんな状態もあり得ますが 根本的に《やましさ》の問題です。言葉が出て来ず しどろもどろになるかたちと同じでしょう。 ★ しかし人は怒っているときにも嬉しいときにも赤面する。 ☆ そのように分類しうるのであって やましさ反応としての赤面もありますよ。 ★ まったく赤面していない〔。〕幼児がこのときやましさを感じているとすれば、赤面はやましさの判断材料にはならない。 ☆ やましさ反応は あくまで主観の問題です。本人が感じたなら――たとえそのとき顔をあからめなかったとしても―― やはりやましさ反応だと言えましょう。 全体として 当人がどう感じているかです。 ★ 赤面≫症≪は様々な試みによって軽減したり改善できることからもまったく自然本性ではありません。 ☆ 症状とは別です。広げすぎです。 (つづく)
補足
(配置としてぎゃくになりましたが お礼欄からつづきます)。 § 24-2 ★ 成長するにつれてヒゲが生えることは薬に頼らずにはどうしようもありませんが ☆ なんで《薬が必要》なのか 分かりません。 § 25 ★ 行為者への態度です。個人から行為や関係や性格などを捨象して抽象的なニンゲンを拵えたなら、どのニンゲンも当然「等しく」なるでしょうが、その捨象をする意味がわかりません。 ☆ 《ひとを憎まず罪を憎む》ということわざから理解してください。 § 25-1 ★ あなたは行為者から行為を取り除くことで人間を無差別化している。 ☆ 《行為》よりも《存在》をおもんじているのみです。 存在は行為がなくても存在しますが 行為は 存在がなくては成り立たないのですから。 《悪人》も 人間存在として人間存在であってこそその悪行をあらためることが出来ます。更生し得ます。 罪ないし悪はこれを憎んでいるのですから《取り除く》ことはしていません。 けれども 思想のマチガイにしても そのような基本主観のゆがみについては互いに自由にそのマチガイを憎み しかも徹底的に憎み マチガイをおのれの内面において棄てることをします。 《無差別化》というのは もともと基礎理論において《いのちと存在》は無差別だと見ると述べています。 悪人というのは 人を規定していますので 問題ですが その中身は 基礎理論としては ウソ・イツワリをついてばかりいることです。 § 25-3 ★ ~~~~~~~~~ ☆☆ 人間がこの世界におかれた初期条件のことです。 ☆ これは 価値評価以前のことです。とうといかどうかを考える以前のことです。 尊いを定義してください。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ いのちとその存在の保持はよきことと捉え大切にする。つまり とうとぶ。 § 26 フロイト・ムイシキ ★ ~~~~~~ つまり無意識は実証不可能であり、精神分析を科学の仲間入りさせようとしたフロイトの試みは挫折したと言えます。しかしそれをフロイトの考えが葬られたと見解釈するのは、上の引用を見てもわかるように誤り。フロイトに限りませんが、無意識に関する意見やその応用は現在の臨床心理でも他分野でもあります。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 《葬られた》と言うのは ムイシキが独り歩きすることは出来ないという意味です。フロイトの仮説にかんしては もう少しくわしく批判せねばならないとしても ムイシキをそれこそ無意識に使ってもらいたくない。とは言えましょう。 問題は 意識していない脳の分野として 潜在意識とはさらにまた別にムイシキ領域が存在するという説です。これは実証されないと考えられています。 言いかえると その原因をつきとめがたい心的現象について その原因はありもしないムイシキ領域にあるとする説が 問題です。 § 27 ウソ ★ 傷つけたくなかったからという個人的な動機を言えばよい。嘘をつかれたことで傷ついたと言われたら謝ればよい。 ☆ 根本的にマチガイです。ひとは 他人のウソなど負の善をこうむることによっては なんら傷つきません。 もし傷ついたとすれば それはそのウソ・イツワリの行為を受けるときに自分も何らかの負の善を志向していたというそのやましさによってです。 つまり 心が傷つくのは おのれの基本主観をゆがめることによってのみであり ほかの人間の負の善は関係ありません。関係ありと見るのは むろん誰もがウソ・イツワリの作者でありうるという自省においてです。 あやまつなら われありと言い あざむかれるなら われありとも言いますが そのように我れに立ち帰り 基本主観のワタシを保持することになることに《傷つく》という要素はありません。 § 28 理性の自己運動 ★ 家を買うという目的だけでなく、金を稼ぐことや投資するという行為もっと楽しみたいという欲求が出てくる。欲求は変化します。 ☆ 模索中ではありますが それだけに限るとは思えません。《欲求》もその《意志》もむろん大いにかかわっていましょうが それでも理性の単独分立およびあたかも傍若無人のごとく自己運動する場合がありませんか? 物(商品)の場合は 品質や安全性の問題があるのでそのような心配の少ない金融商品を取り上げるのですが そして余裕がある場合のことになりますが 要するにもうけが出たら再投資しそのパタンの繰り返しという行為にひとは出ることがあります。 むろん損失をこうむることもあって いづれにしてもその投資ゲームにのめり込み しかも人が欲求をもって意志によって行為するというよりは 投資のゲームが人のそれらより先に自己運動をおこなうというようなかたち。 これは ゲームを遂行する過程としておのれの推論能力だけは 冴えてかどうか分かりませんが 燃え続けているという事態です。 § 28-1 つづき けれども考えてみるに このような理性の自己運動という広義の行為のかたちは あんがい身近に見られるかも知れません。 かつて学生のとき見かけた行動形式は こうでした。講義の成績を優だけにする運動 および自由時間は友だちといっしょにいてもすべてコネをつくるために費やす。つまりそれらは いい会社に入るためであり それはこの資本主義の世の中で成功するためであると。 つまり 意志もあれば欲求もあるのですが それらはすべてひとつの目的のもとに集められ収められてその一辺倒とする。これは 理性の帝国主義ではないですか? ぢゃあ そんなことをして何がたのしいのか? 自分でも分からんというようなことになる場合です。 いまの資本主義は変貌しましたが つまり金融工学もしりぞいて行きつつありますから違って来ているでしょうが それでもたとえば科学行為についてもあんがいこの理性の自己運動はありえるのではないか? 学び知るたのしみを越えてしまい《考える》はほかの人間の成果を吸収するのみに絞り込み 延々とその自己運動をすすめて行くといった場合。 まぁ このあたりまでとしますが。
お礼
§ 78 カント 規範としての命題は 例の格率の文でもいいわけでしょう。 ▲(ヰキぺ:イマヌエル・カント) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88 § 2.3.2 倫理学 道徳法則は 「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ (Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」 という定言命法として定式化される。 ~~~~~~~ それにしても 次の考え方は どうなんでしょう? ▲ (Immanuel Kant:Kritik der reinenVernunft)Ich mußte also das Wissen aufheben, um zum Glauben Platz zu bekommen, ● 私は、信仰を容れる場所を得るために知識を除かねばならなかった(篠田英雄訳) ☆ なぜ《知識を除く(否定する?)》必要があるか? 《神》を《非経験の場》として仮りにそのまま想定するだけなのではないか? § 79 脅しにあったときの自由意志 ★ ~~~~~ 「そうである場合もそうでない場合も自由意志にゆだねられています」 つまりどっちでもかまわないわけですか? ~~~~~~~ ☆ 投票しろと脅される場合です。その脅しの度合いや その結果どこまで社会生活に支障をきたすか いろんなばあいがあると思うのですが? いのちの危険がある場合 これは相手の要求に屈したとしても 自由意志の怠慢でもへそ曲がりでもないでしょう。死をちらつかせるのは すでに無効の行為です。生き延びましょう。 あとは 場合によって どこまで基本主観をたもつか。もしくは譲歩するか。いくつかの場合に分かれると考えます。 § 80 動物のしゃべる言葉 ★ オランウータンやヨウムやチューリングマシンは人間ですか? ☆ 人間の言葉を――あるいは人間の言葉に聞き間違えることばを――しゃべる動物や機械です。 § 81 基本主観からの逸脱 ★ ~~~~~~~~ 逸脱 平均的な基準からの偏向の総称のこと。 一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、その上にルールから外れた望ましくないという道徳的裁定が込められる。 基本主観という「正道」からの逸脱は「望ましくない」のですか? ~~~~~~~~~ ☆ 《偏向 / ルールまたはそれから外れること / その偏向やハヅレを望ましくないと見ること》 これらをそのまま受け留めて考えるにしても すべては本人の主観内での判断によります。やはり《やましくないことと そこからの逸脱》とです。 § 82 同じく《信仰》からのへそ曲がり ★ なら教会に出向いて説法してくればよいです。 ☆ ですから 《集団としての宗教》はすべて《個人の信仰が 自殺行為をおこなってその跡に出来た〈信仰の抜け殻〉をオシエとして立てこれをあがめるムレたがり》であると言っています。 ローマ教会を初めとして宗教は すべからく自己解体すべしと言っています。 もっと強烈にまたは実際に教会にまでおもむいて話をせよと言われれば まだまだであるかも知れません。ときを俟ちます。 (まぁ もっとも《ときを得ても得なくても〔一歩一歩すすめていく〕》という考え方もあるにはあるのですが)。 § 83 わたし ★ あなたが言っているのは、「 x が私という一人称代名詞を使うならば、xは私という一人称代名詞を使える」ということを述べたのでしょうか? ☆ 必ずしもそうではありません。というのは 《わたし》を自称したということは 自称して何らかの意志を表明したはずであって そこには主観の航跡がうかがわれると言ってよいでしょう。 ゆえにそのような精神の軌跡をたどって行くならば ★ なぜある者が私という語を使うことがその使用者に「私」が存在することを証明するのですか? ☆ という問いに答えることができましょう。 ★ あなたの論法をとるなら、私は自分のことを意識や「あたし」と自称したりしないので、私には意識やあたしが存在しないわけですか? ☆ そこのところは 柔軟に文脈や情況を考慮して その人に意志があるのかどうか 自己表現しているのかどうかを捉えようとしてみれば だいたい分かるようになるでしょう。 たとえば あいさつをしてみるとよいでしょう。こんにちは! と声をかけて どう答え返して来るかです。あいさつを返したならば 《わたし》の動態が見て取れましょう。また そのかぎりで 主観が生きていると受け取ってよいでしょう。そうして 問答をつづけます。 ★ あるいは、x が「あたし」や「ウチ」や「私」という語で自分を称するなら、x には「私」と「あたし」と「うち」が存在するのですか? ☆ 自称には その人の生きるたましいが存在し動いていることでしょう。 § 84 やましさ反応 ★ ~~~~ 「やましさ反応はそのように観察された事実です」 あなたが観察したのは赤面であり、これは酔っているときやら恥ずかしいときや怒っているときでも生じます。あなたの言う観察は解釈です。 ~~~~~~ ☆ そうですが その《解釈》はあくまで本人の主観の動態から来るものだということです。本人がどう思っているかです。 ただただ恥づかしいときと心にやましさが反応しているときとを ひとはだいたい見分けることができます。 《観察》というのは そのようにその人の主観がどのように自分の内なる現象を捉えているかをめぐってです。そのときに《解釈》が入ると言えば 入るでしょうね。他人が観察しているのですから。 ★ 観察だと言うなら、つまり経験的事実だと言うなら、あなたは他人の身体に生じている感覚内容を感じることができるんですか? ☆ 観察と解釈の結果内容について その本人に対して まちがっているかどうかを問い質せばよいわけです。 ★ 他人が赤面しているとき、他人の恥ずかしさでも悔しさでも焦りでもなく「やましさ」という身体的な感覚を感じたのですか? ☆ 本人は だいたい無理なく見分けることができましょうし 他人でもその観察において 《やましさ》かどうかをそれほど間違えることもないでしょう。不確かなら 尋ねればよいのですから。