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因果応報説とは何か?理解するためのポイント
- 因果応報説は、共同主観にはならない。善悪や苦楽といった主観による規定が含まれるため、善因悪果や悪因苦果の考え方は主観の範囲を出ない。
- 因果応報説は、神の愛やブッダの慈悲によるエコヒイキが初期条件となる。自業自得であるとしても、主観の範囲を出て有効になることはないため、それを規定することはできない。
- 因果応報説を理解するためには、人間が勝手に神の愛や慈悲を決めつけることはダメであり、理解できるような仕組みであれば人間が改変することも可能となってしまう。善行の道は主観の問題であり、捨て去るべきではない。
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「カントは自然本性について規範のかたちで命題を出します。そこはいただけないと思います」 具体的にどこですか? 引用してください。 「そうである場合もそうでない場合も自由意志にゆだねられています」 つまりどっちでもかまわないわけですか? 生きることはそれ自体で善く、投票の強要に従うことにやましさを感じるなら、投票しないのが「普通」なのでは? 各自とかではなくあなたはどうするんですか? 「人間の言葉を語ったならそれはすべて人間が言ったことである」 オランウータンやヨウムやチューリングマシンは人間ですか? 「基本主観からの逸脱ぶりを示すことが出来ればよいはずです」 逸脱 平均的な基準からの偏向の総称のこと。 一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、その上にルールから外れた望ましくないという道徳的裁定が込められる。 基本主観という「正道」からの逸脱は「望ましくない」のですか? 「《信仰》にかんしてはその定義を提出し、それに合っていなければ批判します」 なら教会に出向いて説法してくればよいです。定義は本質を表そうとする命題なわけですから、「あなた方の信仰は非本質的であり、私が独りでキチンと考えて限定した定義に従って信仰てみてはどうでしょう?」と提案してみては? 「《私》という言葉で自称していることです」 証明と言ったのですが。 あなたからすれば「私という言葉を書いていること」は経験的事実でしょう。私という語を使う者が、私という語を記憶していたり入力されているということまでは言えるでしょう。あなたが言っているのは、「xが私という一人称代名詞を使うならば、xは私という一人称代名詞を使える」ということを述べたのでしょうか? 違うならば、なぜある者が私という語を使うことがその使用者に「私」が存在することを証明するのですか? チューリングマシンやオランウータンにも「私」があり、私という語を覚えた瞬間にオランウータンには「私」が存在するようになるわけですか? あなたの論法をとるなら、私は自分のことを意識や「あたし」と自称したりしないので、私には意識やあたしが存在しないわけですか? あるいは、xが「あたし」や「ウチ」や「私」という語で自分を称するなら、xには「私」と「あたし」と「うち」が存在するのですか? 「やましさ反応はそのように観察された事実です」 あなたが観察したのは赤面であり、これは酔っているときやら恥ずかしいときや怒っているときでも生じます。あなたの言う観察は解釈です。 観察だと言うなら、つまり経験的事実だと言うなら、あなたは他人の身体に生じている感覚内容を感じることができるんですか? 他人が赤面しているとき、他人の恥ずかしさでも悔しさでも焦りでもなく「やましさ」という身体的な感覚を感じたのですか?
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- manuke22
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「いのちの大切さとその命を持った存在が、ほかの人間の有無を言わさないチカラによって本人は為すすべもなくその行動が左右されること、このことは無効であり、色をつけて言えば善(≒いのち・存在)の損傷行為として悪であるということ」 「色をつけて言」うのがあなたの論証ですか? また、善と存在と命はかなり異なります。命は存在ではありません。あなた自身「命をもった存在」だと言っており、それによるなら「存在をもった存在」「命をもった命」という無意味な表現になります。また、石という存在な、あなたの無理な定義「善≒存在≒命」によれば石という命だとなりそうです。これはもはや言葉の乱用でしょう。 主観であるからではなく、あなたの恣意的な定義のゆえに私は賛成しがたいです。 「一般に胎児のときから潜在的に自由意志がそなわっている人間存在だと見るという意味です」 受精卵は自由意志を潜在的に有していますか? 妊娠何週目から胎児は自由意志を潜在的に備えるのですか? 何週目から胎児が自由意志を潜在的にもっているかを示してもらえば、それより早い段階で殺すことは善でしょうから。すくなくとも、「胎児のときから」とありますので、胎芽のときなら中絶は問題なく善いでしょう。母体の意志も実現しますし、胎芽は動物以下なので、人間以下であるという理由で屠殺が是認されるなら、動物以下である胎芽を処分することになんの問題もありません。 また、胎児には「潜在的に自由意志が備わっている」というのは、実際に自由意志を有している成人と胎児を同等に扱う理由にはなりません。胎児に比べたら犬や豚のほうが理性的ですから胎児は家畜に劣る者です。したがって胎児を殺すことが悪いなら同じ程度に犬猫を殺すことも悪いわけです。胎児が潜在的に自由意志をもっているなら、実際に自由意志をもっている動物や成人より、胎児の価値は劣っていることになります。 胎児は行為者ではありません。胎児は行為を意志しません。胎児が潜在的に自由意志をもっていたとして、あくまで「潜在的に」なわけですから、胎児の価値が「実際に」自由意志をもっている動物や成人の価値より低いことを示します。 あなたによれば自由意志を踏みにじることが悪いことでしたが、胎児や新生児は自由意志を潜在的に備えているだけらしいですから、胎芽や胎児を中絶することは犬や豚を殺すことよりはマシです。犬や豚を殺すことは、胎芽や胎児を殺すことより悪い。犬や豚のほうが胎芽や胎児より優れていますから。 「そのとおりです。かなしいかな、人間とそのほかの動物などは別扱いになります」 他人と友人では友人のほうが優先されます。もっと極端にしましょうか。友人1人を殺すか、赤の他人10人を殺すか、選べ。緊急避難で殺害は法的に無罪とされるにしても、命の尊さどうこうからすればどちらを選択することが善でしょうね。 「人間が物差しになる」ことから「人間の尊さを動物の尊さより無条件に高いと見なすことは適切だ」とはなりません。それは単に種差別です。自由意志からすれば胎児は家畜に劣ります。脳死患者に自由意志などありませんから脳死患者は犬に劣ります。ヒトという種に脳死患者が属するからといって、脳死患者の命が犬より尊いということにはなりません。 人命はほかのどの動物の生命より尊いとあなたはこう考えているようですが、その比較の基準は何ですか? 比較するのは人間だから、ではダメですよ。人間には自由意志があるからでもダメです。胎児や胎芽や脳死患者は豚や牛に劣ります。1人の人命に対して何匹の犬の命なら尊さは釣り合いますか? 何頭のラクダの命なら尊さは釣り合いますか? 「生命存在を抹殺することは他殺・自死を問わず、基礎としての人間論においては善(≒いのち・存在)の損傷行為ですから早く言うときには悪です。無条件にです」 その定義「善(≒いのち・存在)」が意味不明なので、早く言おうが言うまいが変わりません。「命を有していない死体という存在」は「善を有していない死体という善」でしょうか? 私には何を言ってるのかさっぱりです。「私には命がある」ならまだしも「私には善がある」なんて言葉の乱用でしょう。私に命があることは生体の代謝や心拍などから判明しますが、それに反して「私には善がある」は事実ではありません。 あなたは善悪は主観だと言いました。しかし生きていることは主観ではありません。身体検査によって、または腐敗がはじまることによって、生死は誰の目にも明らかになりますから客観的だと言ってよいでしょう。生死という客観的に判別可能な概念を、善悪という主観的な概念と同類扱いしていることは誤りです。善は命ではないし命は善でもない。したがって、生物を殺すことは無条件に悪だという意見は、命と善という別種の概念を同種扱いする混同に依拠しているため、無意味です。 存在≒善についてはすでに述べました。「中絶は善ではない」は「中絶は存在してない」となるでしょうが、中絶は実際に行われています。「殺人者という存在は許しがたい」は、「殺人者という善は許しがたい」となるでしょう。 また、命≒存在なら存在≒命なわけですが、命という存在とは言っても存在という命とは言いません。存在という語は命をもたない存在である死体にも使えるように、命よりはるかに広い領域をカバーする語ですから。 あなたは殺害を無条件に悪とするために命≒善だとしているように思われますが、以上によりその定義は無意味です。したがって殺害を無条件に悪とする根拠はいまだありません。 臓器移植のため脳死者を殺すことはあなたによれば悪いことだとなりそうですが、一人の脳死者から複数の臓器を取り出すことによって複数の人間の命が助かるわけです。であるなら脳死者を殺すことが無条件に悪いなどとは言えないでしょう。臓器移植は慈悲殺と同じく緊急避難ではありません。したがって緊急避難という避難所へ逃げることはできません。 「あるいはつまり中絶をする両の親が心のさわぎを覚えないかというヤマシサ反応で善か悪かを判断するという考えです」 ならば心のさわぎとやらを覚えないなら中絶は善いことですね。 ところであなたの定義「善≒命・存在」によれば、「心のさわぎを覚えないかというヤマシサ反応で命か悪か」「心のさわぎを覚えないかというヤマシサ反応で存在か悪か」となりますが、心理的反応によって「命か悪か」「存在か悪か」を判断するというのはよくわかりません。生きているかどうかなら心肺活動で判断すればよいわけですし。 第一、生物を殺すことが無条件に悪であると言うならば、ヤマシサ反応などをもちだす必要もなく中絶は悪なわけでしょう。さらに、あくまでやましさは主観の問題だと言うならヤマシサ反応は要らないです。 また、中絶をすることでも中絶をしないことでも心のさわぎとやらが生じるなら、中絶は善でも悪でもないか、中絶は善でも悪でもある、となります。 「人間中心主義とは思いませんがそう言われてもある程度仕方のないほど人間さまを優先します。人間どうしの場合には緊急避難の理論に逃げます」 人間中心主義だと思わないなら種差別主義です。レイシズムじゃなく、スピーシズム。ヒトという種を無条件で他の種より上位に置いているわけですから。 「《負の善》これが悪です」 負の善と悪は同じなんですね。なら寄生虫を体内から取り除いたりすることは悪です。人間の命の価値が寄生虫よりも大きいとして、寄生虫を殺すことが善いことにはならないからです。生命体を殺すことは無条件に悪なわけですからね。 屠殺も悪く、寄生虫除去などの治療行為も悪く、安楽死や尊厳死も悪い。通り魔が悪いのと同じく尊厳死や安楽死も悪いわけですね。無条件に悪ですから。もっとも、その根拠たる「善≒命・存在」は言葉の乱用だと思いますが。 新生児が非常に苦しんでおり、その新生児に回復の見込みがなく、両親が治療をやめるよう頼んだにも関わらず、多額の費用がかかる治療をし続けた医師の行為は善なわけですか? 助かる見込みのない苦しんでいる新生児を、両親の意志を無視して延命および治療することは善ですか? 殺すことが無条件に悪ならば、生かすことは無条件に善ですか? そうではないなら、生かすことは条件によっては悪く、殺すことが条件によってな善いとなります。そしてこのことは、「自由意志を踏みにじる」ことが悪であると見なすあなたには不可避です。自力で動けない人間が「自分を殺してくれ」と依頼し、彼のその意志を尊重して彼を殺したなら、すくなくとも自由意志を尊重した点でこの行為は善いわけですから。これは緊急避難とは無関係ですよ。 「そうですが緊急避難においていのちを粗末にせざるを得なかったという場合、そのときにも・どこまでも《いのちのとうといこと》は消えてしまうわけではありません。基礎としての共同主観でありつづけます。自然法です」 厳密には命を尊いとする考えがなくならないわけです。緊急避難ではなく尊厳死や臓器摘出ならどうですか。 「基礎としての共同主観でありつづけます」と言ってますが、善≒命・存在により、「存在の尊いということ」「善の尊いということ」など、共同主観とやらは随分と多義的になります。また、普通は善≒命・存在だとは考えませんし、これは自然法でもないでしょう。 「すでに触れて来ている《やましさという生理的心理的反応》がリトマス試験紙です。これが善かそのマイナスかをも判定します」 あなたによれば、母体が中絶にやましさを感じなければそれは善であり、母体が中絶にやましさを感じていれば悪だとなるわけですが、ならばやましさを感じない人間のほうが悪から遠いわ
お礼
ご回答をありがとうございます。 ふうーう。とまづは深呼吸しまして。・・・ ★ 「色をつけて言」うのがあなたの論証ですか? ☆ そう言ったほうが分かりやすいと思いますし それほど理論的な落ち度があるとも思わないからです。 ★ また、善と存在と命はかなり異なります。命は存在ではありません。 ☆ おそらくそうでしょう。 まづ命があり それは 人間にとって存在です。存在となって現象します。その人間が おのおのワタシの価値観――まぁ くせ(エートス)のようなものですが――として見れば その命をもった存在として生きること・よく生きること・そしてあるいはともに生きること これを基本的に一般に志向すると見て 言うなれば善だと捉える。――こういった図になると思います。 この人という存在が生きるとき それは 言わば自己表現という行為過程であると見ますが その自己表現には どうしても意志行為が――記憶(心身の秩序作用)および知覚(認識・思考をつうじて情報を整合性のあるものとして整理し行為のための選択肢を提出する)をおしのけて――選択肢の選択を判断しそれをどのように自己表現するかといった中身において 生きる存在の中核であると捉えます。 ○ いのち≒存在=生きる;よく・ともに生きる(≒善)=意志行為 ★ 何週目から胎児が自由意志を潜在的にもっているかを示してもらえば、それより早い段階で殺すことは善でしょうから。 ☆ これは 応用問題ですから みんなが知恵を寄せ合って考え取り決めていけばよいでしょう。 ★ 胎児を殺すことが悪いなら同じ程度に犬猫を殺すことも悪いわけです。 ☆ 犬猫は いつまで経っても 人にはなりません。 ★ 実際に自由意志をもっている動物 ☆ は 《生きる;よく・ともに生きる》という意志行為を互いに切り結び合って 考えつつ話し合いつつ いとなむかどうか? ★ 胎児や新生児は自由意志を潜在的に備えているだけらしいですから、 ☆ それでじゅうぶんです。動物は 考えることなく――あるいは考えることをおこなっているように見えても その場その場に適応しようとしているのみだと考えられます―― 生きています。 あるいはつまり 人はおのれが考えたことを 相手に・ほかの人たちに伝える。そして互いに伝え合い 考えをまとめて共に生きようとする。動物は 一たん身の動きを決めたら そのまま行動します。ひとは いつまでもほかの人たちのことをも考え 互いに出来るところまで共同主観(常識)として共有しようとします。 動物は――比喩で《色をつけて》のべますが―― 言わば神のもとですなおに生きています。(獰猛で悲惨でありえます)。人間は 一人ひとりがおのれの神のもとにあって しかもその神にしたがうというのでは必ずしもなく むしろそれぞれ人としての主観のもとに考え行動し 共生を目指します。 言ってみれば 赤子には何をするにしてもそれは《赤子の手をひねるくらいにたやすい》ことですから しかもそれをしないで 潜在する自由意志をそれが顕在する前からとうとぶ。神にまかすのではなく 人間たちが互いにその自由意志をもちいて共生する。――このように運命づけられているのでは? いつまで経っても出来ないでいるにしても それ以外の道はないのでは? ★ 緊急避難で殺害は法的に無罪とされるにしても、命の尊さどうこうからすればどちらを選択することが善でしょうね。 ☆ ムラ(市町村)の議会で 時間をじゅうぶんに取ってかんがえてみましょう。代表・代理によるのではなく 直接の話し合いです。 (あ)★ 「人間が物差しになる」ことから「人間の尊さを動物の尊さより無条件に高いと見なすことは適切だ」とはなりません。それは単に種差別です。 (い)★ 自由意志からすれば胎児は家畜に劣ります。脳死患者に自由意志などありませんから脳死患者は犬に劣ります。 ☆ このふたつの命題は 矛盾します。(あ)の《種差別》を非難する同じ声で (い)のように《家畜に劣る胎児》や《自由意志を発揮できない脳死患者》を差別するのは 自家撞着でしょう。 ★ 1人の人命に対して何匹の犬の命なら尊さは釣り合いますか? 何頭のラクダの命なら尊さは釣り合いますか? ☆ あなたの論旨から行けば 犬やラクダにおうかがいすればいいでしょう。 ★ 生死という客観的に判別可能な概念を、善悪という主観的な概念と同類扱いしていることは誤りです。 ☆ というふうに人間としてのまた我れとしての物差しで 誤りかそうでないかを判断なさっています。つまり それがふつうだという意味です。 人間がたおれたら その存在のとうとさや善であることは ぱったりと消えてなくなると思いますか? 思うのなら それでよいのですが その思いも 人間のそして我れとしての物差しを当てはめているに過ぎない。こういう《人間の存在にとっての条件》があります。そのことを 《善》という主観の一要素としても 世界観の道具としています。それだけのことです。 ★ 命と善という別種の概念を同種扱いする ☆ そう解釈されても仕方のない舌足らずの書き方をしてしまいましたが 《存在》は ワタシにとって世界が生まれて来ていまここにあるという出発点に立ったときからの問題であるならば 所与の条件としてわたしたちは受け留めています。 それと同じだと規定した《善》は その存在にしろ世界のほかのものごとにしろ それらについての見方の問題です。後天的にわれらがおこなう意志行為に属します。 そういう違いがありますが そういう意を汲んで解釈してくれればいいのに。 ★ 「殺人者という存在は許しがたい」は、「殺人者という善は許しがたい」となるでしょう。 ☆ これは 明らかな誤解です。《存在》と《行為》とは明らかに別です。《罪を憎んで人を憎まず》。行為と存在とは カテゴリが別です。 存在は 善と負の善との基体――こういう概念があるとすれば――です。(全体として よく・ともに生きるとして 広義の善です)。 その基体としての存在から繰り出される行為について おのれのヤマシサ反応によって判定した善もしくは負の善として 判断し認識する。意志行為について 意志じしんがさらに判断する。 よって 人殺しという行為は わが心にさからって欲した意志行為であると見られ 負の善であり 意志行為の主体は 殺人者であっても存在として広義の善です。 ★ 臓器移植は慈悲殺と同じく緊急避難ではありません。したがって緊急避難という避難所へ逃げることはできません。 ☆ おっしゃるとおりです。臓器移植のときのひとごろしは みんなで考えた取り決めにもとづくというひとつの正当性がうたわれます。ダメだとなれば また見直されます。 応用問題について わたしが 何か決定的な答えを持つとは思わないでください。決めつけないでください。 ★ ならば心のさわぎとやらを覚えないなら中絶は善いことですね。 ☆ これは 胎児が何週目かでひとと見なすかの応用問題ではなく そうではなく 存在の基本としての心にさからうか否かという善如何の問題だとすれば 《生まれてこのかた何ら 胎児の抹殺について やましさをおぼえない》ということでしたら 基礎の人間観をわたしは変えなければなりません。 《中絶は善い》となるのではなく 善とそれの損傷行為という分別が 意志行為において なくなるという事態を意味します。そのようにわたしは 世界観を見直さねばなりません。 どうでしょう? ほんとうにいまの命題を 心にやましさをいっさい覚えずに支持しますか? ★ あくまでやましさは主観の問題だと言うならヤマシサ反応は要らないです。 ☆ これは 意見が分かれます。主観の問題であるからこそ 互いに話し合って合意を得るに到るようつねに心がける。つまり そのとき主観は 重要な位置にあり重要な意義を持ちます。主観としてのヤマシサ反応があるからこそ よく・ともに生きるというささやかなのぞみを持って わたしたちは 生きています。 ★ 中絶をすることでも中絶をしないことでも心のさわぎとやらが生じるなら、中絶は善でも悪でもないか、中絶は善でも悪でもある、となります。 ☆ このときの《心のさわぎ》も あくまで主観の問題です。あなたが どうなのか? の問題です。一般にどうかとか 平均してどうかとか 特定の《主観》を離れた捉え方は どうでもよろしいでしょう。 ★ 人間中心主義だと思わないなら種差別主義です。レイシズムじゃなく、スピーシズム。ヒトという種を無条件で他の種より上位に置いているわけですから。 ☆ すんぶん違わずおっしゃるとおりです。 ★ 人間の命の価値が寄生虫よりも大きいとして、寄生虫を殺すことが善いことにはならないからです。生命体を殺すことは無条件に悪なわけですからね。 ☆ ですから ばい菌をどのように扱うかは 科学の目で考えて対処するのがよいと思われます。上の種差別志向のもとにですが。 生命倫理については――保留になりますが―― 応用問題だということで 《手を打って》ください。
補足
お礼欄への訂正です。 x 記憶(心身の秩序作用)および知覚(認識・思考をつうじて情報を整合性のあるものとして整理し行為のための選択肢を提出する) ○ 《知覚》は 《知解》の書き間違いでした。
こんばんは。 しばらく休みます。 気が向いたら書き込むかもしれませんが なんだか、物足りないし、つまらなくなってきました。 調べすぎたのかもしれない。 フツーに生活しているだけならもう 必要なくなってきたもの。 誰に質問しても、 答えてくれるようなものも なくなってきたし。 なんだか、むなしい。
お礼
こんにちは。 とにかく そうでしたら 英気をやしなってください。 ただ 文面から感じられることは 学問のきびしさをまだほんとうには知っていないと思われることです。 ジャーナリズムには落ちないようにしかもセンセーショナルな文章を書いている人間が言っても 通じないかも分かりませんが 尊敬する学者の足跡を知って そこのところを捉え直してみてください。 学問は それこそひとりあゆむいとなみです。誰がどうだ世間がこうだという問題ではないと思われます。 いつも にがい言葉ばかりですが。
- manuke22
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「もしそうだとしても、その場合には因果応報についてその事実経過を――なぜならすべてが善悪の見方によって成り立っているのではなく、何らかの事実を善か悪かとして見ることによってその説は成り立つわけですから――きちんと明らかにして論証することが必要です」 正しい。因果応報にかぎらず、事実判断と価値判断は切り離せないです。 「きちんと」が具体的にはどの程度なのか、どの程度まであきらかにすれば「きちんと」明らかにしたことになるのか、これは非常に難しい。 「ただ《考える》だけでは、因果応報を見ようとしているその時系列としての事態にかんして、共同主観が成るわけではありません」 となると、質問者さんは共同主観という語にほとんど客観的(あくまでも「的」です)と同じような意味をもたせているのでしょうか。 「ひとの自由意志が踏みにじられるからです」 となると、自由意志をもたない胎芽や胎児を中絶することは悪い行為ではないし、中絶を条件付きで法的に認めることは母体たる人間の自由意志を尊重することなので、中絶は善いことだとなりますね。あるいは、中絶を禁止したり中絶をしたいという意志を尊重しないのは善いことではない、と。だとすると、かりに「命は尊い」という前提を取ったとしても、劣悪な環境で動物を管理飼育することが是認されている状況があるわけですから、命の尊さにも高低なり大小なりの程度があるようです。それこそ、人を殺した者を死刑にしたり懲役という形で自由を制限することが是認されているように。すくなくとも、動物の命よりヒトの命のほうがより尊い、となるでしょうね。 しかし命は尊いなら、その尊い命を殺す中絶は悪いことなのでしょうか。しかし中絶を禁止することはたとえレイプされて孕んだ子であっても出産しなければならないことにつながり、それはかなりの場合で母体の自由意志を否定することだと言えるでしょう。なかなか両立させるのが難しそうです。 「いのちがとうといという主観です」 なるほど。では細菌や寄生虫は尊いでしょうか。尊いとするなら、こうした病原体を取り除く治療はすべて負の善ですね。生命という語の定義に反しますが、それらを命ではないとしましょうか。ならとりあえず動物を挙げましょう。動物に自由意志がないなら、動物虐待を大好きな人が野良犬や野良猫を虐待することはすくなくとも悪ではなく負の善だとなりそうです。あと、動物を一匹殺すか友人を殺すか選べなんて言われたら私は動物を殺しますが、このとき動物の命と友人の命を同等には見ていませんので、命の尊さは相対的なものだとなります。同じように、見ず知らずの他人と友人のどちらを殺すか選べと言われたら、私は他人を殺します。このように、命の尊さと一言に言っても主観が混じります。主観と共同主観は違うものでしたが、はたして動物の命と人間の命の尊さを主観なしに考えることができるでしょうか。善悪にかぎらず、尊さもまた主観ではないでしょうか。 「このゲームを親が子供にあたえるという事例について、問題は因果応報をモノゴトの経過の中に見るかどうかだからです」 それは命の尊さについても当てはまりませんか? 尊い。これは事実判断ではなく価値判断でしょう。因果応報だけでなく、命の尊さも「共同主観」にはならないのでは? 「だとしてもその原因からのむくいとしてしかるべき結果がもたらされるという見方が成り立つことを証明せねばなりません」 子どもが最近「あのゲームが欲しい」と言っており、それを理由に「この子にあのゲームを買ってあげたならこの子は喜ぶだろう」と考えることは、親の独断ではなく子の意見を参考にしているので妥当な判断でしょう。あなたが言っているのは「喜ぶだろう」が証明できてない、みたいなことだと思われます。つまり行為とその結果の関係が必然的ではないと。 しかし証明と言うならば、「私が手からダンベルを落とせば、ダンベルは床に落ちるだろう」なんてことも証明できません。「落ちるだろう」は事実ではなく予測ですからね。この予測はこれまでの経験から培った心の習慣によって可能なわけであり、この習慣はほとんどすべての人が共有しているのでこの予測は正しいと賛同してもらえるでしょうが、証明は非常に難しい。善悪を抜きにしても、推量に関する証明は困難。 「イツワリはおのれの心にさからっているというシルシがあるから善ではないとします。胸は動悸がはげしくなり、顔は赤らみ言葉はしどろもどろになったりします。これをシルシと見ます」 嘘をつくときこんなわかりやすい兆候が出るのはむしろ珍しいのではないでしょうか。また、虚偽のデータをもとに論文を発表した人にこうした兆候が見られないなら、その人の心にイツワリはないとなりそうです。もちろん、データがでっち上げなのは変わりませんが。 また、この判断基準では、好きな人と二人きりになってテンパってるウブな女の子や、告白のときこういう状態になってる子もイツワリだとなりそうですが、どうも私には受け入れがたい考えです。 「心にしたがう考えやおこないを善とすれば」 私はジョギングが好きなのでしばしばジョギングをしますが、これを善い行為だと見なすのは大げさな感じがします。それとも私がジョギングを好きなのは自己欺瞞でしょうか。 そうではないなら、この世に善悪なんてないという考えから人を殺したりするのは善くも悪くもないと見なしている人が人を殺したとしても、それはべつにイツワリではないですね。いや、他人の自由意志を踏みにじるのは悪という考えもありました。では、自力で動けない他人が「自分を殺してくれ」と頼んだとき、その他人を殺すことは自由意志の尊重であるわけですが、このとき「他人の自由意志を尊重するのは善いことだ」と考えている人がその依頼を代理して実際に殺したなら、それは善悪に関して質問者さんが述べた二つの基準を満たすので善い行為ですね。ちなみに、こうした事例は実際にありました。 もちろん、終末期医療においてある患者が「治療および延命処置を拒否する」という意志を表明したさいには、命の尊さよりその患者の意志を尊重するべきでしょうね。 「因果応報の扱うことがらは事実ですよ。それについての見方が善悪としての主観だと考えます」 事実「も」扱うでしょう。しかし因果応報という語は結果ではなかなかす「報い」という価値的な語をすでに含んでいるがために、ある行為の結果をたんなる結果ではなく報いとして見なすわけですから、そこに含まれる主観的要素は善悪だけではありません。さらに、「善い行いをすれば善い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」というのが因果応報だとすれば、まさに「~をすれば」という仮定法を用いているがゆえに、事実でも価値でもない仮定を因果応報に関する主張は避けられません。仮定は事実ではありませんから。 また、なにが事実かさえ主観を離れては成立しないでしょう。 「いのちのとうとさおよびわが心にさからうことを、さからわないおこないとしての善を損傷させるものとして、負の善と規定し、これを悪と呼ぶこともある」 自由意志が抜けてませんか? 他人の自由意志を踏みにじるような行為は悪い行為だったはずです。 おそらく命の尊さに逆らうとは殺人も含まれるでしょう。となると安楽死や尊厳死や慈悲殺は、悪または負の善だとなりそうですね。動物の屠殺もまたそうですが。 逆に、命の尊さを重視してあらゆる殺人を忌避し、「延命や治療を拒否する」という患者の自己決定権を踏みにじり、延命や治療をしつづけるのも負の善あるいは悪です。私としては、前者より後者のほうが悪いと思われますが、いずれにせよどちらも負の善あるいは悪だという点には変わりないのでしょう。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 質問者さんは共同主観という語にほとんど客観的(あくまでも「的」です)と同じような意味をもたせているのでしょうか。 ☆ いのちの大切さとその命を持った存在が ほかの人間の有無を言わさないチカラによって本人は為すすべもなくその行動が左右されること このことは 無効であり 色をつけて言えば善(≒いのち・存在)の損傷行為として悪であるということ。 これが 共同主観の中核だと考えます。 ただし これとても やはりひとりの人間の主観に発するものであるはずです。あるいはむしろわざと 主観内面ということをとうとび世界観の基礎とするということ。こういう意図のもとにひとつの定義をしています。 ★ 自由意志をもたない胎芽や胎児を中絶することは悪い行為ではないし、中絶を条件付きで法的に認めることは母体たる人間の自由意志を尊重することなので、中絶は善いことだとなりますね。 ☆ なりません。ならないと共同主観として取り決めたいと考えます。 一般に胎児のときから 潜在的に自由意志がそなわっている人間存在だと見るという意味です。 いま考えている共同主観とさらに具体的にその時代その地域社会において法律としてどう取り決めるかは 微妙に違って来ます。いわゆる緊急避難などなどの例外規定が作られます。 ★ かりに「命は尊い」という前提を取ったとしても、劣悪な環境で動物を管理飼育することが是認されている状況があるわけですから、命の尊さにも高低なり大小なりの程度があるようです。 ☆ そのとおりです。かなしいかな 人間とそのほかの動物などは 別扱いになります。 その意味は 仮りに動物を優遇するという場合にも それは 人間の考えによるということにほかならないからです。 主観が基礎であるように 人間が差し当たっての物差しにならざるを得ないと考えられます。 言いかえると 人間のほかに人間と同じように意志による判断と決定を成しこれを互いに話し合い たとえ決裂になろうとも決裂としてでも合意するというように 相互理解につとめる生物存在がいれば 別の考えが持たれて行くと思います。 ★ それこそ、人を殺した者を死刑にしたり懲役という形で自由を制限することが是認されているように。すくなくとも、動物の命よりヒトの命のほうがより尊い、となるでしょうね。 ☆ 動物より人間を人間自身がよりいっそう大事にしていると言われても仕方がありません。 死刑などの法律の問題においては 基礎としての共同主観に対して現実世界におけるゆらぎが許容されているようです。 基礎としての共同主観は いわゆる自然法の領域であり 法律はむろんその基礎たる自然法をどのように適用し応用するかの問題だと考えます。 ★ しかし命は尊いなら、その尊い命を殺す中絶は悪いことなのでしょうか。しかし中絶を禁止することはたとえレイプされて孕んだ子であっても出産しなければならないことにつながり、それはかなりの場合で母体の自由意志を否定することだと言えるでしょう。なかなか両立させるのが難しそうです。 ☆ 生命存在を抹殺することは 他殺・自死を問わず 基礎としての人間論においては 善(≒いのち・存在)の損傷行為ですから 早く言うときには 悪です。無条件にです。 あるいはつまり 中絶をする両の親が 心のさわぎを覚えないかというヤマシサ反応で 善か悪かを判断するという考えです。つまりそのことが 一次的な原初的な認識となると考えます。 レイプ問題を 一度や二度の質疑応答で解決しうるとは思えないので いまは保留します。 それでは 不案内ですので ひまがあったら 次のやり取りを読んでみてください。別の角度から考えようとしています。 【Q:ザビーヌ事件について】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html ★ では細菌や寄生虫は尊いでしょうか。・・・ ☆ 人間中心主義とは思いませんが そう言われてもある程度仕方のないほど 人間さまを優先します。 人間どうしの場合には 緊急避難の理論に逃げます。 《負の善》 これが 悪です。そのほかに《悪》という実態や概念があるわけではないという考え方です。 【Q:悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5552729.html ★ 善悪にかぎらず、尊さもまた主観ではないでしょうか。 ☆ そうですが 緊急避難においていのちを粗末にせざるを得なかったという場合 そのときにも・どこまでも 《いのちのとうといこと》は消えてしまうわけではありません。基礎としての共同主観でありつづけます。自然法です。 ★ 因果応報だけでなく、命の尊さも「共同主観」にはならないのでは? ☆ 自然法は けっきょくその理由を論理立てて証明しがたい内容をみんなで取り決めるという公理の世界ですから どうなんでしょう? すでに触れて来ている《やましさという生理的心理的反応》がリトマス試験紙です。これが 善かそのマイナスかをも判定します。 ★ 善悪を抜きにしても、推量に関する証明は困難。 ☆ だと思います。ですから あくまで主観をもとにして世界観を構築します。 主観ということは ふたりの主観の一体化は無理です。たとえ互いに合意したというひとつの合同主観であっても 主観はそれぞれに別々に存在すると見ますから。 つまり 親と子どもとのあいだに 因果応報が成り立つかどうかは 問いの立て方がそぐわないと考えます。 ★ 嘘をつくときこんな〔ヤマシサ反応のような〕わかりやすい兆候が出るのはむしろ珍しいのではないでしょうか。 ☆ ポーカー・フェイスは 厚かましくなったあとのことだと見ます。 ★ また、この判断基準では、好きな人と二人きりになってテンパってるウブな女の子や、告白のときこういう状態になってる子もイツワリだとなりそうですが、どうも私には受け入れがたい考えです。 ☆ 相手や第三者の判断ではなく やましさ反応は あくまで本人の問題です。主観であり それは まづ本人のそれです。 言いかえると ひとはおのれをもあざむくことが出来るという命題は あざむかれないわが心があると言ったことになります。イツワリを偽ることは むつかしいでしょう。 ★ ~~~~~~~~~ 「心にしたがう考えやおこないを善とすれば」 私はジョギングが好きなのでしばしばジョギングをしますが、これを善い行為だと見なすのは大げさな感じがします。それとも私がジョギングを好きなのは自己欺瞞でしょうか。 ~~~~~~~~~~ ☆ 存在とその維持が どうしても価値判断をさしはさむとすれば 善です。 《大げさ》であれば 無記です。箸を右手に持つか左手にかは 善かどうかの判断から自由な事例だと思います。社会の思わくから言えば それとしての通念もあるかも知れませんが 基礎としての共同主観のもんだいとしてはです。 ★ もちろん、終末期医療においてある患者が「治療および延命処置を拒否する」という意志を表明したさいには、命の尊さよりその患者の意志を尊重するべきでしょうね。 ☆ 基礎としての共同主観の応用問題 これは 議論があるでしょうね。 というのも 命の問題が真っ先に来て その上に存在があり 存在の中核としての自由意志の問題 意志の表明とそれの尊重のもんだい。・・・つまりは 《意志》が 主観ごとにはたらき 主観どうしでおよそつねに衝突するからです。 人定法の分野すなわち 法律にかかわるか否かを問わずそのような応用問題を扱う分野においては人びとの取り決めは 特に変動するものと思ったほうがよいのでしょうね。むろん何ごとも移り変わるものなわけですが。 ★ ・・・「善い行いをすれば善い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」というのが因果応報だとすれば、まさに「~をすれば」という仮定法を用いているがゆえに、・・・ ☆ いえ。やはり事実が先に来ます。因果応報を議論するばあいにはです。 生まれて来て いまここにいるという事実だけでも 前提にしているはずです。 拉致事件に遭ったことを 第三者が自業自得だと見る場合――そういう意見表明は自由でしょうから取り上げますが―― 拉致の事実とそしてその原因となったもうひとつの事実を やはり前提とするはずです。 一般的に言ってその悪因としての事実はないでしょうから そこから例のおぞましき輪廻転生の説をも この因果応報説の補強とするようなのです。前世をも引っ張って来る因縁話ですね。 こうなると 《仮定法》の世界ですが それでもその仮定としてでも《悪因としての行為事実があった》という設定をかたくなに固持します。つまり ぎゃくに現在の地位身分が 善いとすれば それも前世からの善因のむくいであるという説ですね。 特に身分制(その世襲制)の時代に流行ったのだと思われます。 それでも 人びとは 因果応報の説が おのれの主観を超えても 社会一般に通念として(あるいは ブディズムまがいの教義として)《ただしい》と思い込んでいる場合が 往々にして 見られます。 ★ なにが事実かさえ主観を離れては成立しないでしょう。 ☆ のに。 《わが心にさからうこと》 このきわめてあやふやな単純なことを 基準としていると思います。われわれ人間の世界では。
- manuke22
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「共同主観にはならないということは、はじめの《主観》はそのまま主観であることにとどまっています」 よくわかりませんね。それならなぜある科学者が主張した意見すなわち主観が、客観的な事実として認められたりするのでしょう。あなたの言う主観がよくわかりません。やはりフッサールの言う間主観性とも異なるようですし。 あなたの言う主観と共同主観について説明してもらえたらありがたいです。 「《常識》というものについての考えはむしろ判断力のことを言っていますから、誰かが空腹だと言ったときまさかへびをあたえることはないでしょう」 蛇を食べる文化はありますよ。もちろん焼くなどして調理した蛇ではありますが。その地域では空腹にある人間に蛇を与えることはあるでしょう。 また、飢餓のさい人が人を食べることがあるように、状況によっては空腹であるときに蛇を与えることはあり得ます。 もし共同主観という語に、いつでもどこでもだれでもという普遍的な意味をもたせるなら、空腹のさいに蛇を与えることは十分にあるわけですから、空腹のさいに蛇を与えることは常識であるという考えは共同主観ではないとなります。あなたは以下であらゆる事態に適用できる判断基準を共同主観と見なしているように思われたので、このように書きました。 「ではたとえば北朝鮮に拉致された人たちはその結果としての状態は悪だと言ってよいでしょうから、悪因悪果としての自業自得だというご見解でしょうか?」 私はあらゆる事態について善因善果という判断の仕方を適用することには否定的だと述べましたね。そのケースに善因善果とか悪因悪果などを当てはめることには、私自身も質問者さんと同じく否定的です。しかし、Aさんが拉致されたのはAさんの自業自得だと考える人が複数いるならば、その複数の人々にとってそれは共同主観です。 また、そのケースではそもそも拉致被害者は拉致されるために意図的な行為をしていません。この点は抑えておくべきでしょう。 あと、「悪だと言ってよいでしょうから」とありますね。それが悪い状態だとか、拉致行為は悪いと判断するのはなぜですか? 「なぜ善だと言ってよいでしょうが」とは言わなかったんですか? 「では共同主観ではないでしょう」 となるとあなたにとって共同主観とは、「あらゆる事態について適用することが相応しい判断基準」といったものですね。つまり普遍的なもの。だとするなら、そもそもそんなものはありうるのか、という話になります。 共同主観であるような実例を挙げてもらえばわかりやすいので、質問者さんが共同主観だと考えるものを挙げてみてください。 「ですからこのときの《善》があくまで主観的な判断によるものだという意味です」 なぜ? プレゼントを贈る人が親であり、かつ、母親と父親が二人で相談してプレゼントを贈ることに同意したなら、そのとき父親と母親の間でプレゼントを送ることが善いとなっています。複数の主観がそれをするのが善いと同意した行為は、ある主観が独りで判断した行為ではありません。さらに、子どもがテストを頑張った褒美としてプレゼントをするならば、それは善い行為だと見なす人間はより増えるでしょう。 ここで私は「善い行為」と書きました。「善」ではなく。当然ながら「善」と「善い行為」は異なります。リンゴは赤いものですが、リンゴは赤ではないのと同じように。 「つねにゲームを与えるなら子どもは喜ぶというかたちが結果しなければなりません」 なぜ? あなたによれば善因善果は因果律ではないのですから、因果律と同様の普遍性は必要ありません。 「しかもゲームをあたえること・あるいはゲームじたいが善であるということは証明せねばなりません」 なぜ? 因果律ではないのだから、原因となる事態や物が本質的に善いものだと見なす必要はありません。「その状況やその場面で、子どもにゲームを買い与えることは善い行為だ」という判断に共同主観が成り立つために、「ゲームは善いものである」などは明らかにする必要がありません。 「虚偽のデータを用いそれを隠したことについてその作成者本人はそのことを知っています。つまり本人の主観としてその行為は悪です」 そうですか? ばれなきゃいいと思っていたり、この世に善悪なんてないと考えている人だったならば、その人にとってこの行為は悪い行為ではありません。善悪は主観による判断だと言うならば。 因果応報に関して言えば、善悪は主観だからという理由ではなく、善悪は事実ではないのだから事実を扱う因果関係のように善悪を捉えている因果応報は誤りだと考えます。私は因果応報に否定的な点では質問者さんと共通してますが、善悪は主観だとかあらゆる事態に適用可能な判断基準が共同主観だとか、そういう点についても否定的です。 「その学会での発表が幸か不幸か通ってしまったしよい評価を得てしまった。ところがやがて悪の行為が露見してしまったというときには悪因悪果となります」 悪い行為が露見したわけではなく、提示されたデータが虚偽だったことが判明したわけです。それを悪い行為だと見なして発表者を処分するからには、処分する側の複数の人間が「虚偽のデータを発表論文に掲載してはならない」といった前提をあらかじめ共有しているわけです。悪い行為が判明したのではなく、虚偽や隠蔽が判明し、発表のさいに虚偽やその隠蔽はルールに反する行為だから、発表者は処分を受けた。これだけです。「善い」や「悪い」という語を使わなくても書けます。「悪い行為」が露見したのではなく、ある行為が明らかになり、それは罰せられるべき行為だと判断されたにすぎません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 何らかの命題が共同主観であることと 因果応報の説が共同主観になることと ふたつは別の主題です。よ。 ★ しかし、Aさんが拉致されたのはAさんの自業自得だと考える人が複数いるならば、その複数の人々にとってそれは共同主観です。 ☆ もしそうだとしても その場合には 因果応報についてその事実経過を――なぜなら すべてが善悪の見方によって成り立っているのではなく 何らかの事実を善か悪かとして見ることによってその説は成り立つわけですから―― きちんと明らかにして論証することが必要です。 ただ《考える》だけでは 因果応報を見ようとしているその時系列としての事態にかんして 共同主観が成るわけではありません。 ★ 「悪だと言ってよいでしょうから」とありますね。それが悪い状態だとか、拉致行為は悪いと判断するのはなぜですか? ☆ ひとの自由意志が踏みにじられるからです。 ★ 質問者さんが共同主観だと考えるものを挙げてみてください。 ☆ いのちがとうといという主観です。 ★ ~~~~~~ 「ですからこのときの《善》があくまで主観的な判断によるものだという意味です」 なぜ? ~~~~~~~ ☆ このゲームを親が子供にあたえるという事例について 問題は 因果応報をモノゴトの経過の中に見るかどうかだからです。 ☆☆(No.3お礼欄。おぎないました) ~~~~~ というよりも 一人のひとの《わたし》にとっての因果応報というものではないように この事例は 見られます。与える側と子どもの側とにおいてそれぞれの事象がおこったという場合ではないでしょうか。 ~~~~~~~~ ★ ・・・「その状況やその場面で、子どもにゲームを買い与えることは善い行為だ」という判断に共同主観が成り立つために、「ゲームは善いものである」などは明らかにする必要がありません。 ☆ だとしても その原因からのむくいとしてしかるべき結果がもたらされるという見方が成り立つことを証明せねばなりません。 ★ ~~~~~~ 「虚偽のデータを用いそれを隠したことについてその作成者本人はそのことを知っています。つまり本人の主観としてその行為は悪です」 そうですか? ばれなきゃいいと思っていたり、この世に善悪なんてないと考えている人だったならば、その人にとってこの行為は悪い行為ではありません。善悪は主観による判断だと言うならば。 ~~~~~~~~~ ☆ イツワリは おのれの心にさからっているというシルシがあるから 善ではないとします。 胸は動悸がはげしくなり 顔は赤らみ 言葉はしどろもどろになったりします。これを シルシと見ます。《悪》と呼ぶ必要はありませんが 心にしたがう考えやおこないを善とすれば この善を損傷させる行為が 心にさからう――それとしても 自由意志による自由な――行為として 負の善です。負の善を 悪とも呼んでいます。 ★ 因果応報に関して言えば、善悪は主観だからという理由ではなく、善悪は事実ではないのだから事実を扱う因果関係のように善悪を捉えている因果応報は誤りだと考えます。 ☆ 因果応報の扱うことがらは 事実ですよ。それについての見方が 善悪としての主観だと考えます。 ★ 私は因果応報に否定的な点では質問者さんと共通してますが、善悪は主観だとかあらゆる事態に適用可能な判断基準が共同主観だとか、そういう点についても否定的です。 ☆ いのちのとうとさ および わが心にさからうことを さからわないおこないとしての善を損傷させるものとして 負の善と規定し これを悪と呼ぶこともある。 これを 共同主観の最小限の中身と見ます。 ★ 悪い行為が露見したわけではなく、提示されたデータが虚偽だったことが判明したわけです。 ☆ ウソ・イツワリを自己欺瞞として 善の損傷行為であり 悪と呼ぶとします。
- manuke22
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主観だからという理由で即座に否定するなら、「共同主観にはならない」も主観だとなるでしょう。そしてそういう論じ方ならこんなことも言えます。つまり、共同主観ついての考えは共同主観にはならない、と。 「共同主観」が、すべての人が是認する共通認識といったことを意味するなら、善因善果にかぎらず「共同主観」になるようなものは極めて少ないでしょう。 しかしすべての人ではなくある程度の人が是認する考えを共同主観だと見なすなら、自業自得はすでに共同主観になっていると言えるでしょう。しかしこれは、あらゆる事態について自業自得という観点から評価することは適切だということにはなりません。 ただし、自業自得という考えをあらゆる事態について用いることに私は否定的ですが、子どもが欲しがっていたゲームを子どもを喜ばせるために(善因)プレゼントして実際に子どもが喜んだ(善果)なら、それは善果善果と呼んで差し支えないように思われます。質問者さんの考えが、善悪についての考えは主観だから善悪について共同主観は成立しないというものなら、「意図的に作成した虚偽のデータをもとに作った論文をその虚偽は隠したうえで学会で発表することは悪い」といった価値判断について共同主観が成立しないとさえ言えそうですが、私はそんなことはないと思います。結構な数の人がこうした嘘を悪いと判断するのではないでしょうか。ならばその価値判断は共同主観だと言えるでしょう。さらに、危害原理は行為に関する規範として広く受け入れられているように思いますし、ほかにもそうしたものを私は挙げることができます。 私はすでに善因善果は共同主観になっていると思います。また、善悪に関する一人一人の考えが完全にバラバラだとも思いません。しかし、善いことをしようという動機から実行した行為がかならず善い結果を導くということにはならない、というのはもっともなことです。また、善悪に関する考えにバラツキがあるのも事実。
お礼
ま22さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 主観だからという理由で即座に否定するなら、「共同主観にはならない」も主観だとなるでしょう。 ☆ 《共同主観にはならない》ということは はじめの《主観》はそのまま主観であることにとどまっています。 ですから 申し訳ないが ★ そしてそういう論じ方ならこんなことも言えます。「共同主観にはならない」も主観だとなるでしょう。 ☆ は当たり前です。すでに初めに主観であったものが そのまま主観にとどまるという意味です。 ★ つまり、共同主観ついての考えは共同主観にはならない、と。 ☆ これは 一概にさだまりません。 《常識》というものについての考えは むしろ判断力のことを言っていますから 誰かが空腹だと言ったとき まさかへびをあたえることはないでしょう。というように さらになお常識になります。 ★ 「共同主観」が、すべての人が是認する共通認識といったことを意味するなら、善因善果にかぎらず「共同主観」になるようなものは極めて少ないでしょう。 ☆ すでに上に例示しました。 ★ しかしすべての人ではなくある程度の人が是認する考えを共同主観だと見なすなら、自業自得はすでに共同主観になっていると言えるでしょう。 ☆ では たとえば北朝鮮に拉致された人たちは その結果としての状態は悪だと言ってよいでしょうから 悪因悪果としての自業自得だというご見解でしょうか? 或る程度の割り合いの人びとが妥当だとして共有する場合にも 共同主観にはなりません。 ★ しかしこれは、あらゆる事態について自業自得という観点から評価することは適切だということにはなりません。 ☆ では 共同主観ではないでしょう。 ★ 子どもが欲しがっていたゲームを子どもを喜ばせるために(善因)プレゼントして実際に子どもが喜んだ(善果)なら、それは善果善果と呼んで差し支えないように思われます。 ☆ ですから このときの《善》があくまで主観的な判断によるものだという意味です。 もし善因善果をここで共同主観だと言い張るためには つねに――まぁ言ってみれば 十中八九でいいですが――ゲームを与えるなら 子どもは喜ぶというかたちが結果しなければなりません。 しかも ゲームをあたえること・あるいはゲームじたいが 善であるということは 証明せねばなりません。 というよりも 一人のひとの《わたし》にとっての因果応報というものではないように この事例は 見られます。与える側も子どもの側とふたつの事象がおこったという場合ではないでしょうか。 ★ 「意図的に作成した虚偽のデータをもとに作った論文をその虚偽は隠したうえで学会で発表することは悪い」といった価値判断 ☆ これは (1) 虚偽のデータを用いそれを隠したことについて その作成者本人は そのことを知っています。つまり 本人の主観として その行為は悪です。 (2) つまり この例の場合というのは 因果関係ではなく ひとつの行為を取り上げて それが善いか悪いかを判断する場合です。 (3) それでもその悪なるひとつの行為を原因として その結果を追ってみるとしたら どうなるか? (4) 《その論文を学会で発表すること》は すでにそれ以前に虚偽のデータ作成およびその隠匿という悪の行為について わるいと言っていることにさかのぼるものです。特に因果応報という問題ではないようです。その《発表》という行為の問題は 実質的にはそれ以前の虚偽や隠匿の問題です。 (5) その学会での発表が 幸か不幸か通ってしまったし よい評価を得てしまった。ところが やがて悪の行為が露見してしまったというときには 悪因悪果となります。 (6) これなら 自業自得でさえあります。 (7) なら 因果応報の説が 共同主観になっているか? (8) 自業自得でさえあると見られる場合にも 因果応報の理論が当てはまるというような問題ではないのではないか? (9) イツワリはわるい。というだけのことではないか? (10) 主観の共同化が成ったと見られましょうか? (11) イツワリの発言や行為は 悪である。というひとつの事例についての判断が共有されたということではないでしょうか? (12) つまりやはり 因果応報と言うまでには 原因の行為が はっきりしている。悪なら悪だと見なされることにおいて はっきりしている。という問題ではないか? (13) ★ ~~~~~ 結構な数の人がこうした嘘を悪いと判断するのではないでしょうか。ならばその価値判断は共同主観だと言えるでしょう。 ~~~~~~~~~~~ このように考えますが いかがでしょう? 因果応報の問題ではないという意味です。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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因果応報説は、神が采配した結果ではないと言う事ですか? 今回は、私はやる気なしです。 しかし質問趣旨に関しては興味がある。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 神の采配 ☆ は 人間には分からないという意味です。 ただし 個人としての主観にとっては 神とわれとの関係は――むろん信仰として――あって その内面に持たれる思いについて 自由であることに変わりありません。 その思いを 自己表現として ほかの人に話してもかまわないわけです。 ただしその内容が 主観の共同化として一部の人びとのあいだに成り立ったとしてもそれが 社会一般に普遍性を帯びておよぶかどうかは 何とも言えない。何とも分からない。という意味です。 この意味で 因果応報説は 説として常識であると断定し得ない。こう考えます。 自業自得という言葉を自分にも他人にもあてはめて議論をすることは 自由だと考えます。個別にあつかっているという意味です。そして 情況全般のことは脇に措いておいて その人の行動のみを取り上げて 善悪の概念を含んだ見方で 因果関係をとらえるという場合です。
なんとなく考えついたことを だらだら書いてみました。 まだ用語などはテキトウです。 質問の回答ではないような気がしますが 最近、私が何を考えているか私も 気になったので言葉にしてみることにしました。 ニーチェが、解脱に善悪は関係ない。 と指摘したことは読んでいて、なるほど。と思いました。 道徳にうるさい禁欲主義的宗教の現実的なところだったかなんだったか。 するとたぶん、往生も善悪とは関係ないのでしょう。 どんなに善を行っても六道輪廻の世界観では天に行くだけで 輪廻からは抜け出せていない。 もちろん悪を行っても地獄に行くだけで、輪廻から抜け出せない。 すると善因善果、悪因悪果というのは解脱とは関係ないのでしょう。 まあ、日常生活では法律を守れとはなるので、 宗教と道徳は完全には一致しないのでしょう。 もともとプネウマやアートマンなど 魂という言葉が風や呼吸という自然の意味だったなら、 もともとは自然だったのでしょう。 そこから自我が誕生して、自然と分離して、 魂は自我と結びついて、さらには、永遠と結びついて、 自然を超越して、この世界が誕生する以前から 私なるものが存在するとまで考えるようになってしまったのでしょう。 自然を客体化するようになって、汝はそれなり。と 消え去ってもいいのでしょうけど…。 いわゆる、自然に帰る。 でもなあ。人類はもう、「私」なるものを発見してしまっている。 いまさら、魂は自然のことだから自我とは関係ないと言っても それもどうなんだろうか、と。 輪廻の思想も自我と結びついていますよね。 なぜなら魂=風が彷徨うのではなく、 魂=自我が生まれ変わることなんですから。 アートマン=風=自我 サンサーラ=彷徨う=生まれ変わる。 輪廻の思想はそういう意味で、「不自然」である。 じゃあやっぱり無我か?私なんて存在しないのか? ユングだったかが個人的な無意識の下にさらに集合的無意識 なんてのがあって、生命が誕生したときから何千年と受け継がれてきた 記憶が影響を与えるなんていってたような。うろおぼえ。 集合的無意識なんてトンデモ理論だとは思うけどまあ…。 ソクラテスの魂の世話の自然ではなくて自我と結びついているのでしょう。 たぶん。するとソクラテスの哲学は「不自然」なのでしょう。 オルフェウス教の輪廻は記憶と忘却と想起だという。 オルフェウス教に解脱の概念があるのかはわかりませんが、 なんでも、救済には、魂の神的起源を思い出し、魂が降下した その苦しみを思い出すことだという。 わからないことが多い。ほんとうだろうか? 苦しみとともに生きることが救済なら 苦集滅道の仏教とは反対の結論になる。 ニーチェはオルフェウス教に近いのか? でも、苦しいのはつらいなあ。 あとニーチェが道徳を批判するのに使った ツァラトゥストラは調べるほど 善悪の思想を持っていたみたいで なんだかなあ、と。 なにはともあれ、やがてキリスト教が登場する。 地獄の誕生。第二の死。 魂が死ぬ。というとてつもないことを言い始めた。 「反自然」? 自然から分離した自我=魂=風は死ぬかもしれない。 ことを不安に思うようになった。 こうして、不安が問題になった。 とりあえずここまで。まだまだ考えがまとまらないな。
お礼
かざみどりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 まづ訂正があります。趣旨説明欄において x 3. すなわち 善因悪果 ○ 3. すなわち 善因善果 でした。 * ▲ (ルウソ:エミール・冒頭) ~~~~ 万物をつくる者の手をはなれるときすべては よいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる。 Tout est bien sortant des mains de l'Auteur des choses, tout dégénère entre les mains de l'homme. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だそうです ルウソに言わせれば。 ★ 自然 ☆ と文化すなわち非自然との問題ですが 次のくだりで微妙な違いを感じました。これを問い求めます。 ★ ~~~~~ もともとプネウマやアートマンなど 魂という言葉が風や呼吸という自然の意味だったなら、 もともとは自然だったのでしょう。 ~~~~~~ ☆ ここまでは いいですよね。そして むしろこの時点で――たとえ赤ちゃんのごとくまだものごころがついていない段階としての自然であったとしても―― この《自然としてのたましい》を むしろ《わたし》というふうにもとらえてみてはどうでしょう? というのも 次にはいきなり――ワタシではなく―― 《自我》が出て来るからです。 ★ ~~~~~~~~ そこから自我が誕生して、自然と分離して、 魂は自我と結びついて、 ~~~~~~~~~~ ☆ つまり これは 《〔自然のたましいとしての〕わたし》が ものごころがついてからの世間の人間関係の中で作り上げられた《自我》もまとわりついて来た。ということだと捉えられまいか? ★ ~~~~~~ さらには、永遠と結びついて、 自然を超越して、 ~~~~~~~~ ☆ おそらく《永遠と結びつく》というのは 取りも直さず・含みとしては クリスマスツリーのごとく付着した飾りのような《自我》を削ぎ落とすこと――つまりはその意味でのニルワーナ作業――を言っているとも考えられます。 《いま・ここ》を超えて永遠を志向するのは 取りも直さず 元々のワタシのたましいことだとも考えられます。 そうすると つまり《永遠》≒《わたしの魂》だとすると このたましいは 初めに《自然》だったのですから ★ 自然を超越して ☆ という規定は どこかぎこちなく感じられて来ます。 たぶんここでの《自然》は すでに人為的な手が入り文化的な飾りをつけられたバブルとしての自然本性のことを言うのかも知れません。つまり 《文化的社会的な自然》を超越して・・・とつづくと見てみます。 ★ ~~~~~~~ この世界が誕生する以前から 私なるものが存在するとまで考えるようになってしまったのでしょう。 ~~~~~~~~~ ☆ というふうにここまでたどって来たなら たぶん・おそらくこの《私なるもの》は 二重の意味合いを持つ。と思われます。 《この世界が誕生する以前から存在していると想定される〈わたしなるもの〉》とは: (あ) 単純に《自然そのものとしてのたましいであり本性であるもの》としてのわたし かまたは (い) 《社会的歴史的に文化という営為によっていい意味でもわるい意味でも飾りをつけられた人間の自然本性》を 言わば外に・上に・イデアを捉えようとするごとく 超えて行くわが想念としてのわたし (あ)は クリスマスツリーの本体である樅の木そのもののごときわたしです。 ★ 自然を客体化するようになって、汝はそれなり。と ☆ この《自然》は (い)の概念をどこかに 未練を持ってかあるいは煩悩と見て要らないと思ってかそれでも ふくむ内容なのでしょう。つまりは《自然プラス文化的な二次的な社会自然》の総体を言うのでしょう。 ★ 汝はそれなり( tat tvam asi ) ☆ この《汝 もしくは それ》は 《客体化した自然》でしょうか? おそらく違うでしょう。 《息・風》の元である《ブラフマン》とわが息・魂なる《アートマン》とが一体であるというときの《自然》は おそらく――思考や認識を超えており――《客体化》され得ず 上の《自然環境としての自然および社会としての自然史過程》の総体のことではないでしょう。 あるいはつまり 《一次自然》をも超えたところの世界を言おうとして 《汝は それなり》と言いたかったのでしょう。つまりは ブラフマンという神のことなのですから。 上の(あ)のワタシとしての《それ tat 》なのでしょう。しかも (い)のワタシをも(あ)のワタシは 見て捉えているでしょう。 * ★ じゃあやっぱり無我か? 私なんて存在しないのか? ☆ あのゴータマ氏が わざわざアン-アートマン(アナートマン)=無我ないし非我と言ったから ややこしくなった。のではないでしょうか? なるほどクリスマスツリーとしての着飾ったワタシなら それとしてのアートマンを否定したい気持ちにもなるのでしょうが もともとアートマンは 一次自然において捉えた自然本性としての・また魂としてのワタシであったはずなのですから。 また すでに触れたところからみちびかれるように 《梵我一如》としての我れ=アートマンは さらにこの一次自然をも超えたところの《息・風としての場》を言うのでしょうから それは ほかでもなくゴータマの後世に《ブッダ・ダーツ(仏性)》として捉えられた自性清浄心のことであるらしい。 ブラフマンは たとえばアミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)と名を変えて登場することになったらしい。 ★ 集合的無意識 ☆ については 単純に経験事象として捉えるなら ゴータマ氏のあとに大衆である人びとの心の奥底にくすぶりつづけるように存続した次の心ではなかったでしょうか? つまり ブラフマニズムにおけるアートマンが必ずしも着飾った《わたし》――《自我》というのでしょうか――ではなく そうではなく ふつうの自然本性としての《わたし》であって これは光り輝く清浄心なのだという確信があった。だから タターガタ・ガルバ(如来蔵)ないしブッダター(仏性)と その我れのことを呼んだ。 つまり 潜在意識でしょうね。 ★ ~~~~~ ソクラテスの魂の世話の自然ではなくて自我と結びついているのでしょう。 たぶん。するとソクラテスの哲学は「不自然」なのでしょう。 ~~~~~~~ ☆ これについては もう触れません。保留します。 ★ ~~~~~ オルフェウス教の・・・ ・・・・救済には、魂の神的起源を思い出し、魂が降下した その苦しみを思い出すことだという。 ~~~~~~~ ☆ これについても この文章にまかせます。 ★ ~~~~~~ なにはともあれ、やがてキリスト教が登場する。 ・・・第二の死。 魂が死ぬ。というとてつもないことを言い始めた。 「反自然」? 自然から分離した自我=魂=風は死ぬかもしれない。 ことを不安に思うようになった。 ~~~~~~~~ ☆ これは かんたんです。 《自然および第二の自然としての社会的文化的自然史過程》をすべてさらに人間としての文化的(=非自然的)世界において認識し認識し尽くしこれをすべからく理性において取り扱うという世界観――早く言えば 科学万能なる神学―― この蛸壺は 《自然身体の死としての第一の死のあとにむかえることになる〈自然=たましい〉の死としての 第二の死》なる世界であると。 ニーチェは この理性的人為的道徳的文化的理知的な観念の神学における神の死を言ったはずですが たとえばソクラテスが この人知による世界の取り締まりのような世界観に閉じこもったわけでもないと思われ 何はともあれ 《死ぬことのない神》のことを〔ニーチェは〕何も知らなかった。ディオニュソスにしても超人にしても ただただジャーナリズムとして 世間をさわがしたのみに終わった。と見ざるを得ないと考えますが いかがでしょう?
補足
ひとつのニーチェ観を引用します。 ニーチェは その同時代における《再キリスト教化》の現象を実際には相手にしてその社会的情況と闘ったのだが その相手をプラトン以来のヨーロッパ二千年の歴史と勘違いした。といった趣旨です。 ▲(三島憲一:ニヒリズムをめぐって) ~~~~~~ 《ニヒリズム》という概念は 不思議なことに 日本の 特にドイツ哲学に棹差している思想界で長いことほとんど自明の言葉として流布してきた。 ヨーロッパでもかつては 後期のハイデガーなどが好んで使ったが その後は 通俗哲学者や ローマ法王になったラッツィンガー枢機卿が好んで口にする以外には あまり使われなくなった。特に後者の場合は 若者の《道徳的頽廃》《価値の喪失》などを嘆くニュアンスを帯びているために まともな知的議論では回避される。 こうした年寄りの保守主義とも言える使用法は もちろん日本のドイツ系哲学者たちにも 生きている。その背景を この言葉を多用したニーチェからハイデガーへの そしてそのエピゴーネンたちへの意味の変遷を中心に批判的に考え直してみたい。 そして このような言葉は ポスト・ニーチェの思想状況とも言える現在では必要なくなっていることを確認するのが この序論の目的である。 それではこの《ニヒリズム》という言葉がどうして これまで日本では ごくあたりまえの言葉として流通してきたのだろうか。それはおそらく 少なくとも次のような三つの思い込みのゆえではなかろうか。 第一は ニヒリズムが一九世紀における宗教の衰退がもたらした価値の喪失現象だという思い込みである。 第二は ニヒリズムが科学技術と物質文明化がもたらした倫理規範の荒廃現象だという思い込みである。 第三は ニヒリズムはヨーロッパ近代理性の迷妄がもたらした文明の危機現象だが それは 日本の伝統によって克服できるという妄想である。 ・・・第一点は 近代の社会史的角度から 第二点は ニヒリズム論の保守主義への転換という観点から 第三点は 近代の単純な見方を批判する角度から論じ・・・たい。 第一点の 宗教の衰退と価値の喪失としてのニヒリズムなるものについて。 一九世紀は宗教の衰退の時代という社会史的な常識は 事態の単純化でしかない。実際は ヨーロッパの一九世紀 少なくとも一八三〇年ぐらいからは 宗教の復活の時代であったことを見逃している。一九世紀前半の二つの革命から後半にかけての時代は 宗教が日常生活に そして特に若い人々に異様な威圧を加えた時代である。 この宗教の威厳は一九六〇年代初頭まで続いていた。最近の社会史では 《第二の宗派時代( Zweites konfessionelles Zeitalter )》とも言われている。しかし ニヒリズムを解釈する準拠枠になったのが ニーチェ自身も含めて《世俗化史観》《没落史観》であったのは不幸である。 すなわち かつての宗教中心の時代が あるいは哲学の上では 形而上学の時代が啓蒙主義とともに崩壊して 《価値の崩壊》と《虚無主義》を生んだという歴史の見方である。だが ニヒリズムを論じる日本の一部の哲学者は 歴史学 特に社会史における新たな知見を意識的にか無視している。 ひとことで言えば ナポレオン戦争の終結後 あらたに落ち着き始めたヨーロッパにおける再キリスト教化という現象こそが問題なのである。神聖同盟の影響もあるが 実際には この再キリスト教化は 一八四八年革命の失敗以降特に顕著になった。ニーチェが闘ったのは まさにこの文化なのである。プラトニズムとキリスト教のヨーロッパ二千年の形而上学を相手にしたつもりであったが 実際には自分の時代だったのである。( pp.1-3 )。 ・・・(中略:《再キリスト教化》の実例が示されている)・・・ このキリスト教文化は 性を抑圧し 自由な生活を不可能にしていた。そうした事態からの離脱の夢を紡ぐことがニーチェの仕事だった。 この夢は ニーチェの受容の中で 青年運動を通じて大きく展開した。ニーチェが虚妄と見て闘ったのは 十九世紀のこの再キリスト教化された文化なのである。なまじ教養があるから ヨーロッパ二千年の歴史と見間違えたのである。というのは このキリスト教的抑圧をかける市民社会の教養の体系が 一方では文学史を通じてナショナル・カルチャを作り 他方では哲学史・文化史を通じてヨーロッパ二千年の偽りの連続性を作り上げたからである。 どの国民も古典古代の正嫡の国民であると思っていた。市民階級が作り上げた偽りの幻想にニーチェは雄々しくも突撃を加えたのである。彼自身 学校教育を通じてはじめからその幻想にとらえられていたから どんなに突撃しても 書かれたものは 離脱の夢にとどまるだけだった。 内力で船を動かそうとしても無理なのと同じである。市民階級のアイデンティティに逆らうはずが 自らそれを内面化しているために プラトニズムとキリスト教の二千年の歴史の逆転を考えてしまったのである。家にかかっている系図をひっくり返してみただけである。ほかの系図も描けるとは思えなかったのだろう。( pp.7-8 ) 第二点の 科学技術と物質文明による道徳の頽廃としてのニヒリズムなるものについて。 ・・・(省略)・・・ 第三点は ヨーロッパ近代理性はニヒリズムの産物であり 近代の歴史はニヒリズムの顕在化の歴史であるとする 近代への単純な見方である。これは ニーチェのニヒリズム論を存在の歴史と結びつけたハイデガーのその技術論に関わる。 ・・・ 〔ハイデガーにあって〕形而上学の奥に潜むニヒリズムを論じるときは ニーチェの『権力意志』という存在しなかった本の《序文》から定番の如く引かれる断片があった。 私の語るのは これからの二世紀の歴史である。 私は来るべきものについて それ以外のかたちではなく 必ず来るものについて語るのだ。 つまりニヒリズムの到来を語るのだ。 (ニーチェの妹の編んだ本の序文) ( pp.11-13 ) (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて――』 序章 ニヒリズムとナルシシズム 2011) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
§ 78 カント 規範としての命題は 例の格率の文でもいいわけでしょう。 ▲(ヰキぺ:イマヌエル・カント) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88 § 2.3.2 倫理学 道徳法則は 「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ (Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」 という定言命法として定式化される。 ~~~~~~~ それにしても 次の考え方は どうなんでしょう? ▲ (Immanuel Kant:Kritik der reinenVernunft)Ich mußte also das Wissen aufheben, um zum Glauben Platz zu bekommen, ● 私は、信仰を容れる場所を得るために知識を除かねばならなかった(篠田英雄訳) ☆ なぜ《知識を除く(否定する?)》必要があるか? 《神》を《非経験の場》として仮りにそのまま想定するだけなのではないか? § 79 脅しにあったときの自由意志 ★ ~~~~~ 「そうである場合もそうでない場合も自由意志にゆだねられています」 つまりどっちでもかまわないわけですか? ~~~~~~~ ☆ 投票しろと脅される場合です。その脅しの度合いや その結果どこまで社会生活に支障をきたすか いろんなばあいがあると思うのですが? いのちの危険がある場合 これは相手の要求に屈したとしても 自由意志の怠慢でもへそ曲がりでもないでしょう。死をちらつかせるのは すでに無効の行為です。生き延びましょう。 あとは 場合によって どこまで基本主観をたもつか。もしくは譲歩するか。いくつかの場合に分かれると考えます。 § 80 動物のしゃべる言葉 ★ オランウータンやヨウムやチューリングマシンは人間ですか? ☆ 人間の言葉を――あるいは人間の言葉に聞き間違えることばを――しゃべる動物や機械です。 § 81 基本主観からの逸脱 ★ ~~~~~~~~ 逸脱 平均的な基準からの偏向の総称のこと。 一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、その上にルールから外れた望ましくないという道徳的裁定が込められる。 基本主観という「正道」からの逸脱は「望ましくない」のですか? ~~~~~~~~~ ☆ 《偏向 / ルールまたはそれから外れること / その偏向やハヅレを望ましくないと見ること》 これらをそのまま受け留めて考えるにしても すべては本人の主観内での判断によります。やはり《やましくないことと そこからの逸脱》とです。 § 82 同じく《信仰》からのへそ曲がり ★ なら教会に出向いて説法してくればよいです。 ☆ ですから 《集団としての宗教》はすべて《個人の信仰が 自殺行為をおこなってその跡に出来た〈信仰の抜け殻〉をオシエとして立てこれをあがめるムレたがり》であると言っています。 ローマ教会を初めとして宗教は すべからく自己解体すべしと言っています。 もっと強烈にまたは実際に教会にまでおもむいて話をせよと言われれば まだまだであるかも知れません。ときを俟ちます。 (まぁ もっとも《ときを得ても得なくても〔一歩一歩すすめていく〕》という考え方もあるにはあるのですが)。 § 83 わたし ★ あなたが言っているのは、「 x が私という一人称代名詞を使うならば、xは私という一人称代名詞を使える」ということを述べたのでしょうか? ☆ 必ずしもそうではありません。というのは 《わたし》を自称したということは 自称して何らかの意志を表明したはずであって そこには主観の航跡がうかがわれると言ってよいでしょう。 ゆえにそのような精神の軌跡をたどって行くならば ★ なぜある者が私という語を使うことがその使用者に「私」が存在することを証明するのですか? ☆ という問いに答えることができましょう。 ★ あなたの論法をとるなら、私は自分のことを意識や「あたし」と自称したりしないので、私には意識やあたしが存在しないわけですか? ☆ そこのところは 柔軟に文脈や情況を考慮して その人に意志があるのかどうか 自己表現しているのかどうかを捉えようとしてみれば だいたい分かるようになるでしょう。 たとえば あいさつをしてみるとよいでしょう。こんにちは! と声をかけて どう答え返して来るかです。あいさつを返したならば 《わたし》の動態が見て取れましょう。また そのかぎりで 主観が生きていると受け取ってよいでしょう。そうして 問答をつづけます。 ★ あるいは、x が「あたし」や「ウチ」や「私」という語で自分を称するなら、x には「私」と「あたし」と「うち」が存在するのですか? ☆ 自称には その人の生きるたましいが存在し動いていることでしょう。 § 84 やましさ反応 ★ ~~~~ 「やましさ反応はそのように観察された事実です」 あなたが観察したのは赤面であり、これは酔っているときやら恥ずかしいときや怒っているときでも生じます。あなたの言う観察は解釈です。 ~~~~~~ ☆ そうですが その《解釈》はあくまで本人の主観の動態から来るものだということです。本人がどう思っているかです。 ただただ恥づかしいときと心にやましさが反応しているときとを ひとはだいたい見分けることができます。 《観察》というのは そのようにその人の主観がどのように自分の内なる現象を捉えているかをめぐってです。そのときに《解釈》が入ると言えば 入るでしょうね。他人が観察しているのですから。 ★ 観察だと言うなら、つまり経験的事実だと言うなら、あなたは他人の身体に生じている感覚内容を感じることができるんですか? ☆ 観察と解釈の結果内容について その本人に対して まちがっているかどうかを問い質せばよいわけです。 ★ 他人が赤面しているとき、他人の恥ずかしさでも悔しさでも焦りでもなく「やましさ」という身体的な感覚を感じたのですか? ☆ 本人は だいたい無理なく見分けることができましょうし 他人でもその観察において 《やましさ》かどうかをそれほど間違えることもないでしょう。不確かなら 尋ねればよいのですから。