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因果応報説とは何か?理解するためのポイント
- 因果応報説は、共同主観にはならない。善悪や苦楽といった主観による規定が含まれるため、善因悪果や悪因苦果の考え方は主観の範囲を出ない。
- 因果応報説は、神の愛やブッダの慈悲によるエコヒイキが初期条件となる。自業自得であるとしても、主観の範囲を出て有効になることはないため、それを規定することはできない。
- 因果応報説を理解するためには、人間が勝手に神の愛や慈悲を決めつけることはダメであり、理解できるような仕組みであれば人間が改変することも可能となってしまう。善行の道は主観の問題であり、捨て去るべきではない。
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「カントは自然本性について規範のかたちで命題を出します。そこはいただけないと思います」 具体的にどこですか? 引用してください。 「そうである場合もそうでない場合も自由意志にゆだねられています」 つまりどっちでもかまわないわけですか? 生きることはそれ自体で善く、投票の強要に従うことにやましさを感じるなら、投票しないのが「普通」なのでは? 各自とかではなくあなたはどうするんですか? 「人間の言葉を語ったならそれはすべて人間が言ったことである」 オランウータンやヨウムやチューリングマシンは人間ですか? 「基本主観からの逸脱ぶりを示すことが出来ればよいはずです」 逸脱 平均的な基準からの偏向の総称のこと。 一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、その上にルールから外れた望ましくないという道徳的裁定が込められる。 基本主観という「正道」からの逸脱は「望ましくない」のですか? 「《信仰》にかんしてはその定義を提出し、それに合っていなければ批判します」 なら教会に出向いて説法してくればよいです。定義は本質を表そうとする命題なわけですから、「あなた方の信仰は非本質的であり、私が独りでキチンと考えて限定した定義に従って信仰てみてはどうでしょう?」と提案してみては? 「《私》という言葉で自称していることです」 証明と言ったのですが。 あなたからすれば「私という言葉を書いていること」は経験的事実でしょう。私という語を使う者が、私という語を記憶していたり入力されているということまでは言えるでしょう。あなたが言っているのは、「xが私という一人称代名詞を使うならば、xは私という一人称代名詞を使える」ということを述べたのでしょうか? 違うならば、なぜある者が私という語を使うことがその使用者に「私」が存在することを証明するのですか? チューリングマシンやオランウータンにも「私」があり、私という語を覚えた瞬間にオランウータンには「私」が存在するようになるわけですか? あなたの論法をとるなら、私は自分のことを意識や「あたし」と自称したりしないので、私には意識やあたしが存在しないわけですか? あるいは、xが「あたし」や「ウチ」や「私」という語で自分を称するなら、xには「私」と「あたし」と「うち」が存在するのですか? 「やましさ反応はそのように観察された事実です」 あなたが観察したのは赤面であり、これは酔っているときやら恥ずかしいときや怒っているときでも生じます。あなたの言う観察は解釈です。 観察だと言うなら、つまり経験的事実だと言うなら、あなたは他人の身体に生じている感覚内容を感じることができるんですか? 他人が赤面しているとき、他人の恥ずかしさでも悔しさでも焦りでもなく「やましさ」という身体的な感覚を感じたのですか?
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- manuke22
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ある人が自発的に海水浴場へ行って、溺れて死んでしまった。海に行けば溺れることがあるとわかっていたのに自発的に海へ行ったのだから、彼が溺れたのは行為としての事故。そもそも行為としての事故というのが意味不明ですが。ここで扱っている転落死にしても水死にしても、その事故のまえになんらかの自発的行為があったことは、その事故の原因を行為に帰する理由にはならないと私は考えていますが。ある行為の後にある事故が起きた、それだけでしょう。 花子が夜道を1人で歩いていてレイプされたなら、レイプは花子の行為として起きた事態ですか? 「それは有るか? 無いか? けっきょく人によって好きなほうをえらべばいいわけです。どちらもありです」 実利主義ですね。功利主義ですらない。人は好きなほうを選べばよい。選好功利主義というのもありますが、あなたのは選好利己主義のようです。 人命はすべて等しく尊いのだから、人口爆発は尊さの総量が増えることだから、歓迎すべき事態でしょうか。どうせ応用問題の一言で片付けられるでしょうが、すくなくとも私は何十億も数がある人命そのものに対して尊さなど感じません。誰の命であるのかを抽象すれば、命そのものに価値などないわけですから、「人命の尊さはすべて等しい」でしょうね。 動物が理性や痛覚をもっていても私は害獣と友人と死刑囚をそれぞれ同等だとは見なさないですが、あなたは人命からその具体的な生を抽象することで無差別にしているので、つまりすべての命から個体性を捨象して平均化しているので、私とは相克します。ちなみに私は動物愛護主義は取っていませんし、ヒューマニズムや博愛主義もとりません。 もっとも、あなたによる「魂が去勢されている」という診断は、あらかじめ正常な人間というのを想定し、そこから逸脱した人間を異常だとする基準によっているわけですから、基礎理論もまた基礎であるがゆえに排他的です。 「こうやってやり取りしている内容は理性が考えています」 私が理性的に考えています。理性は思考に関する能力の総称にすぎない。推論能力が考えているのではなく、私が推論能力で考えています。理性が考えるならあなたは考えていないわけですか? そうではないでしょうからただのレトリックでしょう。 「その《リンゴというもの》はそれとして認識し想像もしうるものです。いわば観念です。つまり想像世界という経験領域に属します」 想像世界という経験領域。あなたは、想像するという意識作用と想像されたものを区別していない。私が考えた百年後の世界は、私が色んなことを経験しているこの経験的世界ではない。百年後の世界を考える私は百年後の世界に存在しないが、百年後の世界を考える私は2013年の日本にいる。ゆえに想像世界は経験領域ではない。 「四角い三角」、すなわち四角であり、かつ、三角であるものを考えたなら、四角い三角は経験事象であると言うならば、四角い三角を描いてみればいい。四角い三角という字を書けるかどうかではありません。○という図形を紙に描くように、四角い三角の図形を描いてみてください。描けないと言うならばそれは経験事象ではない。強いて言えば無象であり、現実化しないものです。「ドイツ語を読める自分」という語句を考えたならドイツ語が読める自分は経験事象だそうですが、それによって実際にはドイツ語を読めない自分がドイツ語を読めるようになりますか? なりません。 「想念や理念にしても思考や想像の《対象》であるなら、経験事象です」 「他我について考える」という意識作用、およびそれに伴う脳の物理的現象が事象であり、これが事象であることは他我が事象であることにはならない。他我は経験事象ではないなら、「経験事象ではない他我について考える」だけで、「経験事象ではないものは経験事象である」となる。ありえません。あくまで「神について考えている」という意識作用が事象です。これは意識作用にすべてを集約しようとしているのではなく、事象と物の違いです。神を事象Sacheではなく物自体Dind an sichだと考えることで、神は事象になりはしません。そのときは、物自体である神という観念をもっていることが事象、そして神は事象ではなく観念のまま。 ある語を考えることでその名詞に指示対象は生じない。「なぜなら」と「だから」という語の違いを考えることで、「なぜなら」と「ゆえに」という語の指示対象が存在することにはならない。「なぜなら」という語を聞いたり読んだりはできるが、「なぜならという語を聞いたり読んだりすること」が経験事象なのであり、「なぜなら」という語を経験事象にするものではない。世界中どこを探しても「なぜなら」という事象は存在しない。 カントは五感を通して直観できる経験的対象と、物自体のような超越論的対象を区別したが、あなたは対象という一語によってこの区別を無差別にしています。私の視界には様々な物が現れているが、それは私が見るかぎりでの現れであり、その現れの原因たる物自体を認識することはできない。あなたによれば、物自体を考えるだけで物自体は経験事象になる。それはありえない。あなたは感性界(感覚界)と英知界を無差別にしている。そうではないなら、あなたの言う「経験事象」が何であるかを定義すべき。 考えるだけで経験事象になるなら、経験できない神秘などありえないのだから、精子に「私」があるのかどうかも経験事象でしょう。 ある名詞が言語的思考の目的語objectになっているとき、その名詞は思考の対象objectになっているとは言えるが、しかしそれによってその名詞は経験できる事象あるいは経験している事象Sacheにはならないし、指示対象referentをもちはしない。指示対象は記号によって指示される具体的な事物や事象であり、あらゆる美しいもの(美男、美酒、美眉、美屋)から抽象されたイデアという観念な具体的なものとして存在しないのだから、イデアという語に指示対象はない。神という語を考えることは事象ですが、それは神を 行為という名詞を主題subjectにして考えたら行為が主体subjectになりますか? ならないでしょう。目的語objectと対象objectと指示対象referentの違いはしっかりつけないといけません。 指示対象をもたない名詞を言語的思考の目的語あるいは対象とすることが信仰なら、論理学者は接続詞を信仰(非思考)しており、他我とはなにかを考える人は「他我」を信仰(非思考)しており、つまりすべての思考が信仰になる。非思考(信仰)と思考をわける意味がなくなる。 事象Sacheと物Dingは違う。「私はCDを買った」、このとき事象は「買う」あるいは「私がCDを買った」であり、私やCDは事象ではない。コップが割れたという事象では、コップは事象ではなく物である。 善という観念を考えることができるなら善という観念は経験事象になると言うのは、事象Sacheと観念Ideeを無差別に扱っている。目的語と事象の区別がついていない。 事象は現実の出来事や現象であり、人間が身体を通して経験したことに依拠しています。神という語について考えるだけで神が経験事象になるのなら、神について考えるだけで神は観察可能および経験可能な事象になる。そんなことはありえない。あくまで、神について考えるという意識の働きがあるだけ。 ある名詞を目的語にして考えるだけで人はすべてを経験できますね。酒を飲んだことのない人が酩酊について考えれば、酩酊は経験事象になる。酒を飲んで酔うという経験をすることなく、酩酊は経験事象になる。たしかに酔った人を観察したことから酩酊について考えることはできますし、酔った人を見たのも酔った人について考えるのも経験事象です。しかし酔った経験がないのだから、この人にとって酩酊はいまだ経験されていない。経験はできるでしょうが。 あなたの言う経験や事象は、「広義」の「経験」や「事象」であるようです。 「このコップを落とすという行為をすれば、このコップは割れるだろう」と私が考えるとき、私は「このコップを落とすという行為」を仮想しているわけだが、私が仮想したからといってこの行為が経験事象になるわけではない。経験は実際に見たり聞いたりしたこと。実際に私はこのコップを落としていないので、このコップを落とす行為もこのコップが落下する事象も経験していない。 「つまり非対象を対象としているのが信じるであり信仰である。つまり非思考です」 非対象、それは神などでしたね。ある観念が言語的思考の目的語となっていれば、その観念は経験事象なのでした。神という名詞は指示対象referentをもちません。非対象とは、指示対象をもたない語ということになりそうです。指示対象をもたない語を言語的思考がその目的語にしているなら、その思考は非思考。 もし、指示対象をもたない名詞が指示対象をもつと考えるなら、つまりイデアや神がこの世界で観察可能な事象としてあると考えるなら、それは誤りでしょう。しかしあなによれば、指示対象をもたない語を言語的思考の目的語としてしまうだけで、その語は経験事象になるのでした。思考の対象であるなら経験事象だと。信仰という心理的態度は、その信仰の対象となっている語が指示対象をもつか否かに関わらない。信仰という心理的態度は、神という語に指示対象をもたせる試みではない。無神論者が神について考えることは、神をその思考の主題や目的語にはしているが、神という語が指示対象をもっているとか経験事象であるとかは言っていない。
お礼
§ 21-9 ★ ある人が自発的に海水浴場へ行って、溺れて死んでしまった。 ☆ ですから これまでの事例からは (1) ふつうに日常生活を送っている場合 (2) 海水浴場へ海水浴に行く(つまり ふつうの目的でその場所へ行った) (3) 崖のそばへ行く(ふつうには行かない場所へ行った)が挙がっています。 すべて予期せぬ出来事が起これば 事故ですが それは 行為の途中で出遭ったものです。そして《不注意》という原因を取り上げれば おおむねどれにも当てはまります。 とくに(3)の場合は 注意が必要だという言い方も出来るはずです。 そして いづれの場合にも たとえばテロリストがやって来て 爆弾を爆発させたというなら それは (あ) 何の予測も警告もされていなかったなら まったくの不可抗力だと思われる。(い) 多少は危険だと言われていたなら 危険を冒したということになる。(う) その危険という情報を知り得たのに知ろうとしなかったのなら 不注意であり原因ないし責任が自分にある。(え) 危険を承知で報道関係の仕事でかつ社命で行ったのなら 犠牲になったことである。(お) 自分の判断で勝手に行ったのなら 自分に責任がある。 この事故は 行為の途中で起こったというふうに見られる。 § 21-10 ★ 花子が夜道を1人で歩いていてレイプされたなら、レイプは花子の行為として起きた事態ですか? ☆ 行為の途中で起きた事故(事件)でしょうね。そしてその夜道の情況に応じて 責任や原因が自分にあるか。あるいは 不可抗力であったか。その中間では 市当局の環境整備が行き届いていなかったという責任であるかも知れない。いづれの場合にも レイプ魔が負の善なる行為をおこなったことに間違いない。 § 22 《無い神》を信じる無神論 ★ ~~~~~~~~ ☆ 非経験の場を――神という語が持たれていることにかんがみ――想定するわけです。それは 有るか? 無いか? けっきょく人によって好きなほうをえらべばいいわけです。どちらもありです」 実利主義ですね。・・・選好利己主義のようです。 ~~~~~~~~~~ ☆ いかなる思考をも越えているので 何と評されようと 屁の河童です。《有る・無い》は 仮りの表現です。それ以上の意味はありません。 § 22-1 ★ 人命はすべて等しく尊いのだから ☆ 基本主観としては こういう言い方をしません。主観の奥底において いのちがあり これはどの主観においても同じようだ。これを共同主観としうる。いのちの保守は 存在の持続として とうとい。またよきことだと考えられる。 だとするなら 人が基本主観に立つとき いのちはとうとくその維持はよきことであると見なすと考えられる。つまり すべての人にとって この主観内容は ひとしい。と見る。 こういう主題であり 生きる動態としての内容です。このように表現します。 § 22-2 ★ 人命はすべて等しく尊いのだから、人口爆発は尊さの総量が増えることだから、歓迎すべき事態でしょうか。 ☆ 人口が増加しようが減少しようが ひとりの人のいのちは それ自体で 全体のいのちでもあります。 ★ 「人命の尊さはすべて等しい」でしょうね。 ☆ そうではありません。見る角度が違います。 いのちを生きることは それ自体でよきことであり とうとい。と基本主観は 心得ている。誰がより多くとうとく誰がより少なくとうといというふうな比べっこをすることはあり得ない。だから 《人命の尊さはすべて等しい》という比較は しませんし そういう表現を持ちません。 § 22-3 ★ もっとも、あなたによる「魂が去勢されている」という診断は、あらかじめ正常な人間というのを想定し、そこから逸脱した人間を異常だとする基準によっているわけですから、基礎理論もまた基礎であるがゆえに排他的です。 ☆ 意味が取れません。基本主観という誰にもそなわっていてこれを実現し得て実践しうる基礎理論を前提とするからには 《排他的》であるどころか 主観の共同性にみんなが参画するものです。 § 23 ★ ~~~~~~~~ 「その《リンゴというもの》はそれとして認識し想像もしうるものです。いわば観念です。つまり想像世界という経験領域に属します」 想像世界という経験領域。あなたは、想像するという意識作用と想像されたものを区別していない。 ~~~~~~~~~~ ☆ 《・・・という経験領域に属します》というのだから 《想像する行為と想像されたもの》との両方を含みます。 § 23-1 ★ 私が考えた百年後の世界は、私が色んなことを経験しているこの経験的世界ではない。 ☆ ということであっても その《考えている(想像している)》そのことは いま現在のものです。 ★ 四角い三角は・・・描けないと言うならばそれは経験事象ではない。 ☆ しかもそのように――《四角い三角》というように――想像をめぐらしていることは いま現在の思考作用であり経験事象です。 ★ 他我 ☆ こんな概念は知りません。 § 23-2 ★ 物自体である神という観念をもっていることが事象、そして神は事象ではなく観念のまま。 ☆ 物自体は 非経験の場たりえますが それは 経験事象に属する《観念》ではありません。また このあと出て来るところの: ★ 物自体のような超越論的対象 ☆ についても くわしくは《超越論的な対象》は じつは《非対象》です。人が表象しうる対象であるかどうかは分からない何ものかです。 § 23-3 ★ ある語を考えることでその名詞に指示対象は生じない。 ☆ これは 《文脈――つまりこの場合は 現実にワタシが置かれている情況のことです――》を捨象しています。 いまわたしが《他我》という名詞を口にしたら あなたが言っているそれだとなります。明確に対象を指示しています。 § 23-4 ★ あなたによれば、物自体を考えるだけで物自体は経験事象になる。 ☆ ですから この物自体も それを想定すると言わねばいけません。 ただし 言葉で仮りにあらわしており この言葉の持つ概念をそれとして用いるなら 何らかのかたちで考えることもおこなえるとは言えます。創造主なり《日の老いたる者》なり何なりの表現を得て 物語を編むことが出来て行きます。 だからと言って つまり物自体ないし非経験の場ないし神が そのように思考で用いられたからと言って経験事象に成り変わったというものではありません。 § 23-5 ★ あなたは感性界(感覚界)と英知界を無差別にしている。そうではないなら、あなたの言う「経験事象」が何であるかを定義すべき。 ☆ 身と心 身体と精神 感性と理性 このようにふたつに区分していますが 両者は一体であるとも言っています。この感性と理性のとらえることの出来るもの・想像においてでも描くことのできるもの これらは 経験事象です。 § 23-6 ★ 経験できない神秘などありえないのだから ☆ これは 部分観です。《神秘》とは何ぞや? について定義しなければならないのでしょうが 人間とその世界を 《経験領域》と《想定としての非経験の場》 このふたつに分け得ます。 § 23-7 ★ 神という語を考えることは事象ですが、それは神を行為という名詞を主題subjectにして考えたら行為が主体subjectになりますか? ならないでしょう。目的語objectと対象objectと指示対象referentの違いはしっかりつけないといけません。 ☆ もし神を《非経験の場》として想定したその語のままに用いるなら それは そのものとしては 経験事象には属しません。それを仮りのシルシとしての言葉(すなわち かみ)において概念(たとえば この上なき愛)として用いるなら それとして思考や想像の対象として道具や要素になります。そういう場合には すべてが 経験事象です。 § 23-8 ★ 指示対象をもたない名詞を言語的思考の目的語あるいは対象とすることが信仰なら ☆ 指示対象を持たない名詞は基本的にありません。話し手が使った語であるなら 少なくとも文脈がその指示対象を浮かび上がらせます。 信仰は・つまりそこにおける神という語の使用は 指示対象を持ち得る語を 仮りの単なるシルシとして用いるという約束です。イワシノアタマという語が その意味内容とは関係なく 《非経験の場》を指し示すために用いられるという寸法です。ゆえに ★ 非思考(信仰)と思考をわける意味がなくなる。 ☆ ことはありません。 § 23-9 ★ コップが割れたという事象では、コップは事象ではなく物である。 ☆ コップは 経験事物であり 割れるというのは 経験事象です。 § 23-10 ★ 非対象とは、指示対象をもたない語ということになりそうです。 ☆ げんみつには すでに触れました。(23-8):イワシノアタマという語が その意味内容とは関係なく 《非経験の場》を指し示すために用いられるという寸法です。 つまり《指示対象》を持たない語ないしシルシと見なして用いるのが 非対象を示すための語――すなわち神の名――です。 このあとの思索にかんしては ここで保留して次へすすみます。
- manuke22
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「落ち着かなければ《判断》が定まりません。《表出》は殴られたときならいわば《こらーっ!》というようなものです」 判断ではなく発話が文にならない、でしょう。落ち着いてなくても「怖い」「いやだ」は判断です。むしろハイテガー的に了解と言ったほうがよいですね。「こらー!」には、殴られたことに対する了解や判断が話者になければありえません。私には「こらー!」が、殴られたことに対する話者の怒りを表していると容易に解釈できます。 「雪や曇りだってありますよ。《空が晴れている状態》を《いい天気》と言うのです。そうでなければ雨が降って欲しい人にとっては《雨降り》が《いい天気》になります」 「一般的な使用」では晴天時に「いい天気」と言われます。しか主義話者の状況や意図によって「いい天気」は雨天でも晴天でも曇天でもありえます。雨が降ることが好ましい人は雨天を好い天気と言うのであり、晴れているのが好ましい人は晴天を好い天気と言います。雨天のときに「晴天だ」と発話すれば偽になりますが、雨天のときに「好い天気だ」と発話してもそれが偽にならないのは、「いい」が発話者の意図および聞き手の解釈に左右されるからです。 「相手のおこなう定義如何によっては容赦しないぞという判断をふくめて定義は何ですかと問いを発しているのです」 他人の意図を決めつけるのは基礎理論からの判断ですか? あなたがアクィナスについて述べたことから、あなた自身の場合はやましさや尊さを定義すべきだろうと考えたから、私は尋ねたわけです。 偏見はたしかに法ではありません。しかし自分の偏見prejudiceによって他人の意図を恣意的に判定するjudgeことを基礎理論が是とするならば、自分の偏見や好き嫌いという慣習を裁判官judgeとして見なすわけでしょう。自分の好きなようにしたらよいというのは、自分の偏見や予断を自分という裁判官の判定基準にしてよいということ。 なんにせよやましさや尊さを定義しないなら、一般的な理解によって「すべての人命の尊さは等しい」は「すべての人命の価値の高さは等しい」や、「すべての人命は等しく値うちや位が高い」と見なすしかありません。つまり人命の尊さは、それ以外の命より価値があることを前提に成立していると。尊いという形容詞を用いた時点で、それは比較級を避けられるものではありません。尊いという形容詞じたいに比較の問題が付随するわけです。あなたの言う尊さがそうではないなら、やはりあなたに定義してもらわなければなりません。私は比較に関わらない尊さを見たことがありません。尊い犠牲はなんらかの価値のある犠牲であり、無駄死にとは違います。尊いお言葉は、尊くない言葉があってはじめて成り立つ尊敬表現です。あらゆる人のあらゆる言葉(発言)の尊さが等しいなら、そもそもそれを尊いと述べることは無意味ですから。 「死ぬことの恐怖は先天的な感性です」 動物もそうでしょうね。死ぬことへの恐怖を動物がもっており、死ぬことへの恐怖がすなわち命の尊さなら、動物にも命の尊さという考えがあると見なしてよいでしょう。家畜も屠殺される前に血の臭いという死臭を含むその場の状況から工場労働者に抵抗したり泣いたりしますから。そうではないなら、命の尊さは死ぬことへの恐怖ではない。第一、尊ぶのと恐怖することはまったく異なる。 厳密には感性ではなく感情あるいは情動。また、自分が死ぬことに恐怖することは、自分が自分の命だけではない命一般を尊いと見なすことではない。自分が死ぬことへの恐怖は命一般を尊ぶことではない。 死は観念。死という観念は経験を通じて獲得される。そうした抽象的な観念への恐怖が先天的だと見なすなら、「死への」ではなく「自分が死ぬことへの」と書くことで、だれが死ぬかを明らかにしていない「死」という語から抽象的なニュアンスを薄めても、それを先天的だと見なせない。 「思想を変えたり生き方をあらためたりしたとしても同じひとりのワタシです」 物心がついてない私に思想も生き方もない。胎児には思想も生き方がそもそもない。 なぜ「同じ」と言えるのか。ロボトミー手術を受けてもそれ以後とそれ以前の「我が同じ」であるなら、ロボトミー患者の変化はどう説明するのか。法的には、たしかに同一人物として扱われます。 「話す主体・考える主体・その表現内容を観察し間違っていないかを検証する主体・それらをすべて統覚している主体、これらはみなワタシです」 「同じ私」であることは明らかになっていない。「私」という語がつねに使われてるだけ。超越論的統覚によって統べられる諸々の素材は、諸々の素材を統べる超越論的統覚ではない。 「《ワタシと自称する主体は、ワタシである》」 「私とは、私と自称する主体である」、そして話す主体を「私」に含めたように、主体は私であるとなる。 「私(私と自称する主体)と自称する主体(私)は、私(私と自称する主体)である」 オランウータンやチンパンジーも主体ですね。 要はこうです。「ある主体が一人称「私」を用いるなら、その主体は一人称「私」を用いる主体である」。ただの同語反復です。 そして新生児は一人称を用いないので、今の私(一人称を用いる者)は0歳のころの私(一人称を用いない者)ではない。 五歳の私は一人称を用いていましたが、「一人称を用いていた者」は「一人称を用いている者」ではないので、両者は同一ではない。 「《神秘》は保留でもいいでしょう」 アクィナスには定義する必要があると言っておいて? 「不可抗力――つまりいわゆるその場のクウキなどをもふくめて――の事態に遭って、その相手(情況)の要請に従うという場合これも《広く大きく》行為ですよ」 銃の不具合が原因で、引き金を引くという行為が銃弾の発射という結果を引き起こさなかったならば、それは行為ではない。彼は銃撃をできなかったのであり、銃撃ができなかったのは銃の不具合が原因であり、銃の不具合は銃を撃てなかったことの動機ではないため、不発は行為ではない。 「つまり答責性があるという意味です。つまりそのとき取った行動は、ワタシには不可抗力としてのしかかりましたとでも説明して責任を果たすたぐいの行為です」 金を出さないで逃げても責任を果たした。金を出しても責任を果たした。助けを求めて叫んでも責任を果たした。護身術で返り討ちにしても責任を果たした。なぜなら、自分を他人が脅迫するという他人の行為の後では、自分がどんな行為をしようとそれは責任を果す行為になるから。 ではどの行為がほかのどの行為よりも責任を果たしたことになるのか、これが問題になるわけです。比較は不可避。と言っても、やっぱり比較を避けることも責任を果たしたことになるし、比較を遂行することも責任を果たしたことになるんでしょう。しかし比較をしないことを自由という概念で自己弁護するなら、それは責任より自由を上位に置くこと。自由はどんな責任の取り方でも弁護してくれる弁護者。被弁護者たる責任は、弁護者がなんでも弁護できるという全能の弁護能力を後ろ盾にできる。なにをしても自由であり、なにをしても責任を果たすことになる。 「責任を果たす」? 果たしたか果たしていないかを誰が決めるんでしょう。あなたが金を借りたのにあなたが金を返さないならば、借りたという事実や貸した人に責任を「果たした」ことになるでしょうが、金を貸した友人は「果たしていない」とあなたを責める。この他者からの責めに対して、自由を理由にして金を返さないという仕方で責任を果たしつづけるなら、自由を固持するなら、責任という概念は形骸化する。責任の取り方は自由だ、自由に責任をとることが自由だ。つまりなにをしてもよいとなる。 そこで主観ややましさなどが判断基準となるのでしょうが、どちらの行為にもやましさが伴うならどうでしょう。 ボブ「あなたの娘と息子、どちらをでもなほうを殺せ」 娘「助けてー!」 息子「死にたくないー!」 ボブ「どちらも殺さないなら私が拷問して二人とも殺す。あなたは生かす。自分が生き残りたければ、私を説得するなり自分を代わりに殺せと言うなりなんでも自由にしてよい」 「あなた」は、娘、息子、ボブのうち誰に責任を「果たす」べきであり、またどのように責任をはたすべきか? 娘を殺しても、息子を殺しても、どちらも死なせることもやましい。ボブは問題ではありません。この「あなた」が問われているのですから、この「あなた」がどう答えるかが問題。 答責性ってレヴィナスかデリダからの借用ですか? レヴィナスなら法の必要性を説いたし、デリダなら理性を重視しましたが。 「あのあぶない崖を歩くことにしたのはワタシなのだから、やはりワタシの行為として起きた事故だという見方です」 崖を歩くという行為が、崖から落ちるという結果のまえに在ったことが、なぜ崖から落ちたという事故の行為主体が彼自身であることになるのか。自業自得ですか? 崖から落ちるまえに彼は自発的に崖へ向かった。これは正しい。彼が自発的に崖へ向かったのだから、彼が崖から落ちたのは彼の行為として起きた事故だ。これは意味がわかりません。やはり因果応報、自業自得に見えます。拉致被害者は拉致現場へ自分で行ったのだから、拉致は拉致被害者の行為として起きた事態である。違うんでしょうが、ならどう違うのか。 「危ない崖」というのがネックなようですから、ちょっと例を変えましょうか。
お礼
(補足欄からのつづき) § 21-7 ★ ~~~~~ ボブ「あなたの娘と息子、どちらをでもなほうを殺せ」 娘「助けてー!」 息子「死にたくないー!」 ボブ「どちらも殺さないなら私が拷問して二人とも殺す。あなたは生かす。自分が生き残りたければ、私を説得するなり自分を代わりに殺せと言うなりなんでも自由にしてよい」 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《ボブは問題ではありません。》のなら その条件で考えねばならないのでしょう。 ★ 「あなた」は、娘、息子、ボブのうち誰に責任を「果たす」べきであり、またどのように責任をはたすべきか? ☆ とのことですが わたしは 何とかその場を切り抜けることを考えます。それのみです。みんなが生還する方法をどこまでも模索します。どこまでもです。 ですから 責任は 基本主観としては 自分をもふくめて誰にたいしても持ちます。果たすのも 同じくです。《いのちのとうとさ》を第一に考えて行動します。第二も第三にも そうだと思います。 § 21-8 ★ 彼が自発的に崖へ向かったのだから、彼が崖から落ちたのは彼の行為として起きた事故だ。これは意味がわかりません。 ☆ これは 墜落の可能性を自分がつくったという意味です。 ★ 拉致被害者は拉致現場へ自分で行ったのだから、拉致は拉致被害者の行為として起きた事態である。違うんでしょうが、ならどう違うのか。 ☆ どうして違うか? 拉致犯罪者の存在という崖は 見えていないからです。予測できなかったからです。 もしそれでも その可能性はありうるだろう? と言われれば それは あらゆる場合に当てはまります。どう生きていてもどこにいても 事故ないし被害に遭う可能性は出て来ます。 《崖の近くに行くこと》と《崖から離れていること》とは 程度差ですが 違いがあります。 仮りに自業自得だと見ることがあったとしても それは 因果応報ではなく 事実関係としての因果関係が或る程度においてつまりその確率において見て取ることが出来るかも知れないといった意味においてだと思います。やましさや善悪の価値判断にただちにつながるとは思えません。 ★ 「危ない崖」というのがネックなようですから、ちょっと例を変えましょうか。 ☆ 次に移ります。
補足
§ 19-2 ★ ~~~~~ (あ) 「落ち着かなければ《判断》が定まりません。《表出》は殴られたときならいわば《こらーっ!》というようなものです」 (い) 判断ではなく発話が文にならない、でしょう。 (う) 落ち着いてなくても「怖い」「いやだ」は判断です。 (え) むしろハイテガー的に了解と言ったほうがよいですね。 (お) 「こらー!」には、殴られたことに対する了解や判断が話者になければありえません。 (か) 私には「こらー!」が、殴られたことに対する話者の怒りを表していると容易に解釈できます。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ (き) 落ち着かなければ《判断》が定まらない場合もあります。とにかく意味がつかめなくて《ん? / ええっ?》と問い返したり あるいは《ありゃりゃ?》と言って変な感じを受けたがまだそれが何であるかが分からないときです。 (く) (い)は 《文にならない》のではなく やはり《メタ文の統括者》としてのワタシがその自己表現を確かなものとし得ていないということでしょう。《ん?》も ひとつの文です。《それは何ですか?》という意味を表わします。 (け) (う)はそうですが 《怖い / いやだ》と言ったならすでに自己表現のかたちに定まりつつあるとは見ます。 (こ) (お)も おおむねそうですが 細かく言えば言えます。《殴られたことに対する了解》はあっても その意味がつかめない場合 まだ《判断》はさだまっていないときにも《こらー!》と言いますから。 (さ) (か)は ですから 《わけがどうあろうと 殴ることに対する怒り〔をあらわすという判断〕》は見てとれますが なぜ殴ったのかを聞き定めてから判断するという場合があるからです。 § 19-3 ☆☆ ・・・《雨降り》が《いい天気》になり〔得〕ます。 § 19-4 ★ しかし自分の偏見prejudiceによって他人の意図を恣意的に判定するjudgeことを基礎理論が是とするならば、自分の偏見や好き嫌いという慣習を裁判官judgeとして見なすわけでしょう。 ☆ これは 応用部門での議論です。それとして成り立ちます。 基礎理論は この応用領域で発言された他者の意図を《恣意的に判定する》ことを基本的によしとはしませんが それでも――わが心にさからって――よしとする場合があります。 でもそれでも《恣意性》や慣習としての社会力学(それとしてのクウキないし常識)を 裁判官として認めたわけではありません。それに屈したというのみです。 たとえ無効の内容――たとえば金をやるからおれに投票せよ――であってもそれが力学上有力であるならそれに従わざるを得ない場合があります。仕事がなくなり社会的生命が消されるおそれがある場合などです。 基礎理論とそれによる判断(裁判官であること)は つねにどこまでも有効でありつづけますが 応用領域では 無力にされ得ます。それは無力でも有効です。これが 基礎部門と応用領域との階層構造です。 § 20 ★ なんにせよやましさや尊さを定義しないなら、 ☆ やましさ反応は あくまでその人じしんの現実における現場での事件として起こり その場におけるその反応の自己自身としての取り扱いがすべてです。 《とうとさ》は 《善》と同じように 二次的な価値判断に属します。 § 20-1 ★ つまり人命の尊さは、それ以外の命より価値があることを前提に成立していると。 ☆ これが誤解です。人命を取り上げたとき 《人命以外の命》はその視野に入っていません。《人命》のみをそれとして取り扱うものです。 ただし 人間の行為については 尊卑や優劣の比較判定をおこないます。地位とその権限によって人を思い通りに動かすことは 相手の判断の自由とその判断結果を重んじてともに仕事をなしとげようとつとめることに対して 劣等です。 人の自由意志を重んじることはとうとい。これは 絶対値としてです。ここに ですから ★ 私は比較に関わらない尊さを見たことがありません。 ☆ と言わずに 見てください。 けれども 存在は・人間じたいは 無差別平等です。とうとさの比較はありません。 § 20-2 ★ 死ぬことへの恐怖がすなわち命の尊さなら、動物にも命の尊さという考えがあると見なしてよいでしょう。 ☆ 《考え》についてだけは 条件づけておかねばならないでしょう。動物のそれは 人間の考えとまったく同じではないようであると。 § 20-3 ★ 自分が死ぬことに恐怖することは、自分が自分の命だけではない命一般を尊いと見なすことではない。 ☆ けれども 命一般をとうといと見ることにつながります。 というよりも 《死のおそれ》には 《わが命のとうとさの自覚》がふくまれます。その主観が いのちのとうとさとして 共同主観になりうると言っています。そういう手順です。 § 20-4 ★ 死という観念は経験を通じて獲得される。そうした抽象的な観念への恐怖が先天的だと見なすなら、 ☆ 追体験ないし疑似体験を経ると見ておけばいいのでは? そういう――観念をも介した――体験が すでにもとからある《死の恐怖》つまりその先天性を物語っていると見ます。 《自分の死》についても 言わば想像として観念を介したものです。 § 21 《わたし》 ★ 物心がついてない私に思想も生き方もない。胎児には思想も生き方がそもそもない。 ☆ その思想――これ自体が 生活態度だと見ます――についての自己表現が ただただそこにいるといった形での生存以外にないというだけです。世界のすべてを受容してまなんでいることでしょう。 § 21-1 ★ 超越論的統覚によって統べられる諸々の素材は、諸々の素材を統べる超越論的統覚ではない。 ☆ この超越論的統覚者はワタシであるとして特定し得たとき すべてそのワタシのもとにおさまります。 § 21-2 ★ 要はこうです。「ある主体が一人称「私」を用いるなら、その主体は一人称「私」を用いる主体である」。ただの同語反復です。 ☆ 同語反復で説明される主体こそが 超越論的統覚をおこなうただひとりのワタシなのです。これで 要が足ります。じゅうぶんです。 § 21-3 ★ 「《神秘》は保留でもいいでしょう」 ☆ その事実をそのまま受け止めればそれで済むのではないかという意味です。 § 21-4 ★ 銃の不具合が原因で、引き金を引くという行為が銃弾の発射という結果を引き起こさなかったならば、それは行為ではない。 ☆ これは 一般の定義ではないでしょう。消極的な行為(《或る行為をおこなわなかった》)という内容も行為に入ります。 § 21-5 ★ 責任の取り方は自由だ、自由に責任をとることが自由だ。つまりなにをしてもよいとなる。 ☆ 答責性というのは 行為をおのが自由意志によっておこなったときその時点で発生します。自由意志の行使は それ自体に 責任がともなわれます。 相手の自由意志を無視したなら それは何故だ? と問われます。答えるという責めに任じなければなりません。互いにその行為内容やそれの責任についての答弁を考慮して 納得の行くように話し合います。 ★ そこで主観ややましさなどが判断基準となるのでしょうが、どちらの行為にもやましさが伴うならどうでしょう。 ☆ さらに自由に制約をもうけずに話し合います。やましさは 相手のそれについても推測し得ますが まづは自分のものについて考えます。その結果を互いに述べて 責任のありかについて話し合いをすすめます。 § 21-6 ★ 答責性ってレヴィナスかデリダからの借用ですか? レヴィナスなら法の必要性を説いたし、デリダなら理性を重視しましたが。 ☆ レヰナスはちらっと読んだことがありますが デリダはきれいさっぱりです。(解説書はいくらか読みましたが)。《答責性》という言葉の問題としてなら それは アウグスティヌスについての中澤宣夫の訳語からの借用です。
- manuke22
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「《不要だと見る》のは無い神を受け容れた無神論という信仰の場合ですし、《不可知》というのは経験事象としてあり得るようですから」 無神論は無い神ではなく、神がいないことを論じるものであり、不可知論は「神がいるかどうかを知ることはできない」を主張します。ありうるかありえないかわからないわけです。神が存在するかどうかわからない、これは神が存在することを経験できる可能性を認めるということではない。なぜなら神が存在するところが経験的な世界、いわゆる現実世界だとは限らないから。 「不可知が経験事象としてあること:アーベル-ルフィニの定理:」 その定理を証明した方法はアポステリオリですが、その定理がアポステリオリなわけではない。数学は経験事象ではない。あなたの経験事象の定義にもよりますが、定理は証明されているのであり、つまり既知です。存在しないことを客観的に証明したわけですから、神の議論で言えば無神論が正しいことが証明されたようなものです。 「《優劣は程度問題なのではなく、言わば能力種とでも言うような種差としてあるのだ」 能力種なんて種差はない。能力もまた高い低いの程度問題です。 「だとするとその違いは言ってみれば《貴種と賤種》の差だと言おうとしていることになりますよ?」 貴いも賤しいも程度問題。種の問題ではない。ある人が尊い者として映るのはその行動などからの評価です。そして私は尊い命があるとも尊くない命があるとも言わない。生命に内在する価値などないし、すべての人命は等しく尊いなんて価値観がすべての人間に共通するなんて空想を真に受けてはいない。 「次の認識を基本として応用領域にはいまは重心を移さない。オランウータンはヒトという種に属さないので人生という語を用いたその質問は不適切」 だから生史と言ったでしょう。どうしてもそこが気になるなら人格史personal historyでもかまいません。オランウータンやチンパンジーはヒトではないのに人格を有します。なんならゾーエーとビオスの両方をオランウータンやチンパンジーも有する、と言ってもよい。 「基礎理論にもとづく主観を基本主観とよぶことにします。基礎理論の中身というのは主観の内容としての共通性ですから、それは共同主観です」 すくなくともあなたの基礎理論という主観はすべての人間に共有されているものではない。「人命の尊さはすべて等しい」とか、あきらかに感覚的な事実に反します。私とあなたは人間ですが、私はあなたではない。私の主観であれ基礎であれあなたとは異なる。あなたと共通しているのは言語やヒトであることなど、そうしたものです。私の主観はあなたの基礎理論とやらを基本としていないし、私の主観の内容にあなたの言う基礎理論の中身などない。 「《ほかの動物より〔皮肉としての〕優れた思考能力をもつ人間、これで種差が明らかにされています》」 繰り返しになりますが、人間は他の動物より比較的優れた能力をもつだけであり、能力差は種差ではない。優劣もまた程度問題。 「水も食べ物もけっきょく神だというのですから神を食べたり飲んだりするのですか?」 魂は神ではない。また、あなたと違ってジャイナ教は人が感覚できる事物の多様性を無視せず、あらゆる存在者を区別しています。それでもなお、水のなかに微生物がいると知れば水を飲まず、動物に襲われてもアヒンサーゆえに正当防衛としての反撃はしない。逃げはするでしょうけどね。 「その《考えることのない感性》がおのが意志の中身について、もしそうであれば善の損傷を告げ知らせます」 そんなもの知らせはしません。人体の反応は感覚的ですが、それを「善の損傷」として見なすのはあなたの解釈です。 感性は時間と空間を形式とした直観能力であり、人体の生理学的な反応は感覚あるいは情動です。それを「善の損傷」だと解釈することはなんら共通ではない。解釈は感性でも身体的な感覚でもないから。 「生体はゴミかそうでないかは 議論の外です。上の意味でおしまいになっていないからです」 「人生や寿命が一端終わった」という意味でのお終いになっていないから? 死んだら終わりでしょう。 「そこの《種差》は《胎児や脳死者》と《動物》とのそれです」 ならば、「人の命はすべて尊い」とするあなたは、なぜその「人」にオランウータンを含めないのか。それとも人命以外の命も含め、命の尊さはすべて等しいのか。比較は基礎問題ではないと言いますが、「感覚の対象である実在的なものは度を有する」というのはカントの言です。暑さ、寒さ、痛さ、重さ、たしかにこれらは度合いがあります。体感気温から「今日は昨日より寒い」とか「暖かくなってきた」と判断できるように、感性(感覚)だからといって比較が問題にならないわけではない。感覚だからこそ程度差が問題になるわけです。感性という直観能力を扱うなら、度合いは避けて通れない。 あなたは生命からその個体差をなくす抽象あるいは捨象という操作をすることで、人命の尊さはすべて等しいと言います。この抽象的な操作が理性ではなく感性によっていると考えているならあなたは誤り。妻は死刑囚より尊いというのがあきらかに感性的、情動的な判断です。そのとき妻や赤の他人である死刑囚という各々の在り方に対して無関心にindifferently考えるなら、つまり違いdifferenceを無視するなら、たしかに生命の程度は等しくなるでしょうが、こうした操作を経た時点ですでに感性的でも感覚的でもない。あらゆる個体から個体差を無くしてから考えるなら、あらゆる個体の関係が等しくなるのは当たり前です。等しいというのは差や違いがないということなんですから。 「すべての人命は等しく尊い」、これは二つ以上の人命を比較したうえで「等しい」と述べていないなら、まったく空虚です。「等しい」という語を用いれば比較ではないと考えているなら、それは誤りでしょう。感覚的に、朝の気温と昼の気温は高低が違うとわかります。ある人命の尊さが、べつの人命の尊さと等しいと言うなら、なぜ同じだと言えるのか。個体差の捨象によっているなら、感覚的には恋人と赤の他人は等しくないわけですから、その捨象という操作は感覚的でも感性的でもありません。 あなたは自分の物差しを使う前に人命をすべて無差別化しています。さらに、差異をすべて捨象した後に、なぜ「すべての人命は等しく賤しい」とは言わないのか。私にはわかりません。 言語能力、一人称の使用、推論能力をもつ(理性的である)こと。これらはすべてヒトの特権ではないことは実証済みです。その上で、「人あるいはヒトの命はすべて尊い」とし、オランウータンや胎芽など人ではない者の命が、あなたの言う人命とどういう関係にあるかを語らないなら、命一般について語っていないことになる。人命一般しか語っていない。 「《理性的動物》と言うのはヒトが大きく動物に分けられるにもかかわらず、ほかの動物とは《理性的》であることにおいて違うと言っているのですよ」 理性的とは推論能力があると言うこと。チンパンジーらと変わらない。そのように人間と動物を分けるための理性や思考や人格や自己意識という古くからある基準が、人間のみを理性的動物であると言うための基準が、もはや通用しないという現状をわかっていますか? デカルトは人間が言葉を複雑に使えることを動物との絶対的な違いの論述に用いました。「これに対して、他の動物には、どんなに完全で生まれつき素質がよくても、同じこと(自分の考えを伝えること)ができるものはない」。これはすでに観察された事実の記述によって反証されています。 「名前が知りたいというのぞみを反映しています。それが自己表現です」 「知りたい」という内容は文に含まれていません。また、反映しているというのは解釈であり、あなたがこの文から発話者のもっているであろう意図を取り出したものです。たしかにそう解釈することが適切ですが、聞きての解釈の適切さは発話者による発話文の内容どうこうではありません。 なぜ「彼の名前は?」という不完全な文が「彼の名前は何であるかを知りたい」という自己表現になるのでしょう。あなたがそれを疑問文だと解釈し、彼の名前は何であるかを聞き手に質問している疑問文だと解釈したからでしょう。発音や「?」という記号を手がかりに。「彼の名前は……」なら、この文の話者が後に「田中太郎だ」と発話する可能性があることが推察できます。「彼の名前は?」を一般的な使用例や慣習を無視するなら、その記述文は「彼の名前」が「?(ハテナ)」であることを述べた文、つまり「彼の名前はハテナだ」と述べた文だと解釈できる。もちろん「彼の名前は?」から、あなたが「この話者は彼の名前が何かを知りたがっている」と推察したのは適切です。私を含めて誰もが日常的にそうするでしょう。しかし文の内容という話なら、「彼の名前は」という語句はそもそも文ではありません。「彼の名前は、」ならば「彼の名前を知りたがっている文だ」とは解釈しなかったでしょうから。
お礼
§ 11-7 無神論ないし不可知論 ★ 無神論は無い神ではなく、神がいないことを論じるものであり、不可知論は「神がいるかどうかを知ることはできない」を主張します。 ☆ 《神がいないと〔想定する〕ことを論じる》なら 分かります。でもその必要はないはずです。有神論と対等・同等だと考えられるからです。 《神》は 《知り得るか知り得ないかが知り得ない》ものであり これを《非知》と呼びます。不可知論は 経験事象についてうんぬんする議論です。なぜなら 知り得ないと知り得たのなら それは《思考の対象》であり経験事象であるからです。《知り得ないもの》でも 経験事象であり得ます。 § 11-8 ★ 神が存在するかどうかわからない、これは神が存在することを経験できる可能性を認めるということではない。なぜなら神が存在するところが経験的な世界、いわゆる現実世界だとは限らないから。 ☆ 《神が存在するかどうか分からない》という場合でも それはあくまで《想定》なわけです。決まりではないでしょう。人間が決めたのでも決め得たのでもないわけです。 人間が使っている《神》という言葉は どのように哲学は定義し扱うか? これに答えるだけの神学だと言ってもいいわけです。 その神が経験事象とかかわりを持つか? についての議論は 回答No.24お礼欄 §11-4を参照ください。 § 11-9 アーベル-ルフィニの定理: ★ 定理は証明されているのであり、つまり既知です。存在しないことを客観的に証明したわけですから・・・ ☆ わたしの認識が間違っていたら お詫びして取り下げます。ごめんなさい。 § 12 ★ 貴いも賤しいも程度問題。種の問題ではない。 ☆ と同時に 現実の応用部門では カーストなどの事例のごとく実際の生活に大きく影響する社会力学であり得ます。 § 12-1 ★ すべての人命は等しく尊いなんて価値観がすべての人間に共通するなんて空想 ☆ 基礎部門が 理論と言えども《空想》であるのは じっさいでしょう。公理としての自由や平等と同じです。 § 13 ★ だから生史と言ったでしょう。どうしてもそこが気になるなら人格史personal historyでもかまいません。オランウータンやチンパンジーはヒトではないのに人格を有します。 ☆ ですから 学校へ通って掃除当番をやれるようになってから 話をふたたび起こしましょう。 § 14 ★ 「人命の尊さはすべて等しい」とか、あきらかに感覚的な事実に反します。 ☆ 定義の仕方からきちんと理解してください。 人間の主観は 十人十色だけれど考えてみれば その《いのち》と《いのちとしての存在であること》 これは どうも共通であるらしい。人は 一般にこの存在を受け容れ大切に思い保持して生きる。そのことを同じく共通として 互いに同等の関係性を持つ。 ――このように生きることは 言葉で言い表わそうと思えば善だとなる。その命や存在を傷つけることは したがって負の善である。となる。 善およびそれを保守するのは とうとい。――このように見るのです。 感覚的な事実というのは 存在が動態でありじっさいに動くとき その身と心に従う場合とさからう場合とがある。さからうというのは やましさ反応における知覚によって判定する。 § 15 ★ 魂は神ではない。 ☆ でも火は 神だと言いました。ジャイナ信徒にとっては。それを質すのみです。 § 16 このあと 意味の取れない議論がいくつかあります。 またはすでに何度か繰り返し説明して来ている主題です。 その一例: ★ 感性(感覚)だからといって比較が問題にならないわけではない。 ☆ オランウータンが温度計を見るようになったら 議論を再開しましょう。 § 17 ★ あらゆる個体から個体差を無くしてから考えるなら、 ☆ わざと無くして考えるのではなく 共通性をさがした結果 《いのちとその存在》だと言っています。 ★ 「すべての人命は等しく尊い」、これは二つ以上の人命を比較したうえで「等しい」と述べていないなら、まったく空虚です。 ☆ 共通性を見い出したとき それを共同主観と見立て基礎理論として立てた。そういう手続きです。そのあと 自己同一性の保持は《よい》ことだと見るからには 《とうとい》という表現をも得る。 《比較》は 共通性ではない要素がまといついている社会力学部門としての応用部門において生じるとも言っています。 § 17-1 ★ 感覚的には恋人と赤の他人は等しくないわけですから、 ☆ ですから 恋人と赤の他人とを《ならべて どちらか一人だけの命をしか守れない》となった場合 それでもあなたは《感性におけるやましさ反応》として どちらにしても存在をないがしろにすることは《よきことの損傷》だと感じる。と言っています。共同主観がはたらくところでは 平等です。 そのあと 応用問題としての答えも出されます。この答えも 基礎理論の上に階層構造を成すかたちで位置づけられます。それだけによって その答えが一人歩きするのではありません。 § 17-2 ★ あなたは自分の物差しを使う前に人命をすべて無差別化しています。さらに、差異をすべて捨象した後に、なぜ「すべての人命は等しく賤しい」とは言わないのか。私にはわかりません。 ☆ よく分かりません。 § 18 どういう反論であるかが分からない議論が このあとにあります。 ★ 理性的とは推論能力があると言うこと。チンパンジーらと変わらない。 ☆ チンパンジー社会と交易をすることになるかも知れませんね。 § 19 ★ 「知りたい」という内容は文に含まれていません。 ☆ 文のかたちあるいはその外形的な姿から言えば そのとおりです。 ですが 文にはその話し手が文の統括者としてひかえています。文の頭に見えないかたちで《われは言う》というメタ文として ひかえています。(むろん ひかえている場所は文の上にでも下にでもかまいません)。 それゆえにも文は 話し手の判断をつたえる自己表現です。 ○ メタ文:文 ・〔われは言う〕:文は人なり。 ・論述部の《なり》の断定法という判断が 文の統括者としての話し手の広く意志を伝えます。 § 19-1 ★ 「彼の名前は?」を一般的な使用例や慣習を無視するなら、その記述文は「彼の名前」が「?(ハテナ)」であることを述べた文、つまり「彼の名前はハテナだ」と述べた文だと解釈できる。 ☆ おもしろい。あははは。
- manuke22
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「意味不明です」 ベンジャミン・リベットの実験によります。 「言葉はry思考の存在を示します」 言葉を学んでいない人間は思考の存在をなんら示さないですか? 私が音を聞けないとしても、手話ができないとしても、他人の身体的行動はその行動の原因としての思考が他人あることを、私に信じさせるに足るでしょう。つまり行為主体としての「思考」が他人に存在するという原信憑Urdoxaを私は得る。他の人体が私とおなじように発話したり会話することは、他の人体には私と同じような他我があるという原信憑を私にもたらすのであり、すくなくともそのことから他人は存在することを明らかにしない。あなたはあなたが他人に思考があると信じるための根拠を挙げただけです。 動物が考えて行動しているように見えても実はそうではないと考えるなら、それは私とは異なる人体にも当てはまる。他人の思考なんてあるかないかも含めて経験できないのだから。言葉を自発的に発するか否かというデカルトの主張はすでに反証されていますし、なぜ言葉を発することが思考の存在を示すのかわかりません。 「横へズレて議論するのがお好きなようですね」 反論をどうぞ。 横へずれるどころかヒントをあげたんですが。あなたは、「ならウニとオランウータンをどう比較しますか?」とか聞けばよかったんです。 もしそう聞かれていたならば、私はウニよりオランウータンのほうが倫理的な関心にとって重要だと答えたでしょう。それは種差別ではないかと言われたなら、私が言う種差別は人間と動物との間に共有されているもの(人格、理性、思考)がありながら、なお人間がヒトであることを理由に胎児は成長したオランウータンより尊いだとか述べる主張です。あなたは「それは比較だから」という理由で動物と人間を比較しようとしませんが、それは単なる怠慢にすぎません。そもそも、「等しい」と述べることが比較と関係ないと考えているのでしょうか。二人以上の人命を測ってはじめて、この人の命とその人の命は等しいとか等しくないとか言えるわけです。比較を放棄したなら等しいとさえ言えないはずです。1人1人の命の尊さが等しいなら、10人の命の尊さの総量は1人の命の尊さより大きい、これが当たり前です。全称判断も量の判断も悟性のカテゴリーです。 それなのに理性が比較をすると述べるなら、それは理性に濡れ衣を着せています。濡れ衣の着せ方は、ヒトという類に含まれるあらゆる個体から個体差をなくしてから(つまり等しくしてから)、あらゆる個体は等しいとのべ、この無差別化という操作を感性によると述べること。私の経験するかぎり感性はこんな働きをしない。 「親や身内の者であれば、治療を受けさせるのが、子ども自身の自由意志の問題をふつうにきちんと自覚させる行為になります」 「普通にきちんと」の根拠をどうぞ。 すくなくとも子の自由意志を親が阻害したことに対する反論にはなっていません。 「前後の見境いをなくさず考えてみるならばすべては本人の〔すでに経験知として知っているところの〕やましさ反応が基本的な判定基準になるという意味です」 怒り、選好、興味、悲しみ、喜び、不快、スリル。私の経験的な知識は様々な行為で様々な動機があることです。すべてにやましさを感じることなんてない。倫理的行為の動機は怒りや同情でもありますし、やましさのみを殊更に取り上げるのはニーチェが『道徳の系譜学』でやましさを論じたからでしょうか? 「他人の判断に頼らず自分で判定してください。《広義の治療》という表現でよいのかどうか」 「広義の」「治療」の定義をどうぞ。あなたによる自己流定義なんですからあなたに聞くほうが早い。私なら予防は医療行為だと言います。 「主権在民は国家が判定するのではなく、主権の存する市民たちの判断によるのだし、もともと国家はその存在がなかったのですから主権がなかった。つまり市民圏に主権が戻るのは初めからの常識であると見られる」 総理大臣も参議院議員も国民ですよ。現状、国民に主権がある。最初がそうだったからいずれは初期状態に戻るとか言うなら、人類がいなくなると言えばよいでしょう。 「《感性による知覚》は知解能力によって認識されて悟性により概念として理解されます」 カントの言う感性は五感を通した直観の能力ですから、「やましさ反応という感性のハタラキ」ではなく、ある反応をやましさだと見なし、それが善悪に関わるものだと解釈したわけです。 悟性によるなら、「命一般は尊い」や「人の命の尊さはすべて等しい」は質や量のカテゴリーに該当します。 「そこまで普遍性のある理論だと受け取ってもらったのでしょうか」 あなたの頭のなかではそうなんでしょうけど。「すべての人間に共通する」のが共同主観なんでしょう? さらに人の命の尊さは等しいと言ってるわけですから。 「だから言ってるぢゃないですか」 つまり自分の考えなんですね。「一般には」と言うから一般に知られた「理論」なのかと思えば。 「神は――無い神をふくめて――精神ではありません。思考や想像の産物ではありません」 産物ですよ。「神は思考や想像の産物ではないものである」、この文が思考の産物ではないとはけっして言えない。神はたとえば世界の始まりを説明するための道具概念であり、そのさいは創造主なんて言われますね。自然現象や世界の始まりの説明のために出された仮定としての神、これで足ります。 「すなわち《名を――感知していつつ――そのまま受け留め、受け容れる》のは言わばエイヤーッと賭けるがごとく決断して受け容れる意志行為です」 違います。たんに神という語を見聞きして覚えるだけ。信仰は地域や家族から学んだ習慣です。 「ふとおとづれたヒラメキを受け取り、そのままそこに神の名を見止めて受け容れる。という場合もあるでしょう」 具体的にはどういう場合に閃くんですか? そしてその閃きの内容は? もちろん、そういう場合もあるだろうと仮定はできますが、その仮定はあくまで仮定であり、もし私が魚に生まれていたらという反実仮想に大差ありません。 能動的志向性によらない場合があるとして、なぜその閃きが悪魔や山下という語に結びつかず、ゴッドでもデミウルゴスでもなく、神という語に結びつくのか? 結びつけるのか? 「つまりその受け容れる時点では志向性もないと言えるはずです。志向性から受け容れるのではないはずです。なぜなら志向性は思考や想像のなせるわざだからです」 逆です。意識の志向性は思考や想像を成り立たせている働き方です。つぎに、なにかを閃くまえから神という語やその述語的属性は知られています。単に見聞きして覚える程度のものです。なんにすよあなたが言っているのは能動的志向性ですね。 志向性には受動的志向性があります。それはたしかに普段から働いている能動的志向性とは異なります。まず、寝ているときに夢の映像は、能動的に構成されるキマイラやメデューサといった架空の存在とは異なります。「私は夢を見た」と言いますが、私が見る夢の内容は私が見ようとして構成したものではない。その意味で能動的な思考や想像ではない。 とりあえず志向性には能動的なものだけでなく受動的なものもあるということを述べるにとどめておきます。まずは上の問いについて意見をどうぞ。私にはよくわからないので。 「もっともそのように《経験事象》であるほうがよいのだと言ってもおられるようですが」 記述できると記述できるほうがよいは違います。また、神は経験事象ではないと言ってます。 「《神》なる言葉で表わされるもの〔があるという立ち場であり、その立ち場から見えるそのもの〕はすべて人間の能力としての科学等によって認識が可能であるということになります」 なりませんし、神があるかないかなんてどうでもいい。なぜ意識の問題を科学の問題にするのかわかりませんね。 「神(もちろんそんなものはいない)とすでに断定してしまっているところである」 名詞の指示対象でなければ、認識の形式である感性や悟性が神を存在者として捉えることができるわけがない。神が想念として存在することは、山田花子という名詞が名指す人物が存在することとは違います。そもそも、神が想念として存在するというのは、神という語や「神は全知全能である」という文が長期記憶として保存されており、いつでも想起できることです。
お礼
(つづき) ★ 倫理的行為の動機は怒りや同情でもありますし、やましさのみを殊更に取り上げるのはニーチェが『道徳の系譜学』でやましさを論じたからでしょうか? ☆ ニーチェは 基本的に見解を同じくしません。ので この件では忘れてください。 《やましさのみを殊更に取り上げる》のは 基礎理論ゆえです。 ○ 基礎理論は 倫理から自由であるともそして――《関係性》をもふくむと見るからには――まさに倫理のみなもとだとも考えられます。 非倫理とか無倫理とかでは 語弊が出ます。脱倫理や超倫理では はっきりしません。 でも 単純に言って 倫理のみなもとであると考えます。共同主観だというからには。 基礎倫理と応用倫理とがある。こういう階層構造において 倫理的行為の動機は みなもとからもそして応用領域の思いや欲する事からも現われます。 § 6 《広義の治療》の定義は? ★ 私なら予防は医療行為だと言います。 ☆ 同じ見解です。 § 7 ★ 〔もともと国家はその存在がなかったのですから主権がなかった。・・・〕現状 国民に主権がある。最初がそうだったからいずれは初期状態に戻るとか言うなら、人類がいなくなると言えばよいでしょう。 ☆ ぢゃあ そう言いましょう。そう言った上で 国家もなかったと言えばどうでしょう? § 8 ★ ~~~~ 「《感性による知覚》は知解能力によって認識されて悟性により概念として理解されます」 ・・・悟性によるなら、「命一般は尊い」や「人の命の尊さはすべて等しい」は質や量のカテゴリーに該当します。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 《いのちがとうとい》という内容を 感性はすでにふくむと見ますと言っています。それを認識し自覚するのは 悟性を介して理性だと。 § 9 ☆☆ 「だから言ってるぢゃないですか」 あたらしい理論を あたらしさゆえに排斥することまではなさっていないと見ますが そこまででいっぱいいっぱいでしょうか? 妥当性で判断してください。 § 10 神 ★ 「神は思考や想像の産物ではないものである」、この文が思考の産物ではないとはけっして言えない。 ☆ だから言ってるぢゃないですか? ☆☆(No.13お礼欄) 神ないしその霊は 非経験の場〔として人間が想定するもの〕です。 ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~~ 神は もし通念としてではなく定義するならば この人間の〔その能力の限界性という〕条件を超えています。 因果関係から自由であり 経験合理性において有る・無いといったふうに認識し得ず規定し得ない存在として 仮りに人間が人間の物差しで 想定するものです。《絶対》ということです。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり 《想定する》のだと言ってるぢゃないですか。《思考の産物》にはとどまらない何ものかを 思考の産物によって仮りに代理として表わすと。 § 10-1 ★ 神はたとえば世界の始まりを説明するための道具概念であり、そのさいは創造主なんて言われますね。 ☆ 《道具概念》として用いられるのは 次のように派生する(人間が派生させる)ところからです。 ○ 神:《人間の能力によっては それが分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》 ( a ) 絶対・無限・不可変性:などとして概念として説明される。 ( b ) 絶対者:擬人化された。 ( c ) 創造主:さらにその内容をふくらませられた表現。 ( d ) 真理・全知全能・至高の善・愛・慈悲:と属性もが考え出される。 § 11 信仰 ★ 信仰は地域や家族から学んだ習慣です。 ☆ くせ(エートス)は 神なら神という言葉を受け容れて用いているという状態です。それは 信じているのではなく 《神を信じるということがあるのだなぁと思って そのことをそのまま受け容れている》だけです。 一度 神があなたの心の窓を或る日或る時ノックしたら その名を受け容れて 言わば領収証を切ったそのとき――無神論のばあいにも同じく―― 《信じる》が始まります。生まれて来てものごころがついて 神や信じるという言葉を持ったというだけでは 始まりません。(潜在的に始まっていたと言えることはあっても 自覚は生じていません)。 § 11-1 ★ 具体的にはどういう場合に閃くんですか? そしてその閃きの内容は? ☆ かのアブラハムは(そのときはアブラムという名でしたが) 父祖の地を去って行けという《お告げ》を聞きました。そのとおりにしたわけですが それが ひとつのヒラメキです。 無根拠によって成ります。 § 11-2 ★ なぜその閃きが悪魔や山下という語に結びつかず、ゴッドでもデミウルゴスでもなく、神という語に結びつくのか? 結びつけるのか? ☆ 山下は やましさ ですかね。ヒラメキの内容としてその窓をノックしたのは 神だとどうして分かるのか? 本人の主観によります。その人の心です。 ただし その名は ゴッドでもデウスでもアッラーフでもあるいはお望みならイワシノアタマでも何でもかまいません。自分がそれはそれの差し示すのが神だと――非経験の場なのだと――分かればかまいません。 § 11-3 ★ 志向性には受動的志向性があります。それはたしかに普段から働いている能動的志向性とは異なります。 ☆ どちらの志向性も それは 思考でありハカラヒです。人間のそのような――理性よりも知性を用いましょうか――知性によって捉えられる何ものかであれば それは神ではありません。定義からです。 つまり キマイラでもドラえもんでもありません。ただしその名だけを仮りのシルシとして持つのはかまいません。 その一点を言おうとしています。《志向性に囲まれていたとしても それによって信じるが成るのではない》と。 § 11-4 ★ 神は経験事象ではないと言ってます。 ☆ 見解を同じくします。 そしてさらに問題をややこしくしようと思えば こうです。 神が絶対であり相対世界を超えるとすれば じつはその超え方は 相対的な経験世界を覆い包むというようなかたちであると想像しえます。(派生概念として)。 だとすれば 経験事象に 神がかかわるという見方も 出て来るというものです。 そしてこれは 主観の内面の問題であり それだけではなく 主観の直感(ないし直観つまり いづれもヒラメキ)の内容が 仮りに人間の言葉に表わされてもその妥当性が人間によって判定されうる気遣いはありません。 人間が判断できるのは そのヒラメキ内容の経験概念としての意味合いについてのみです。それと神とのかかわりは 有るとも無いとも何とも決められない。決められないということが決まっている。となります。 § 11-5 ★ ~~~~ 「神(もちろんそんなものはいない)とすでに断定してしまっているところである」 名詞の指示対象でなければ、認識の形式である感性や悟性が神を存在者として捉えることができるわけがない。神が想念として存在することは、山田花子という名詞が名指す人物が存在することとは違います。そもそも、神が想念として存在するというのは、神という語や「神は全知全能である」という文が長期記憶として保存されており、いつでも想起できることです。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 神は あくまで《想定による》ものです(§10)。また 想定したあとでは 概念が派生したりまたそうさせられたりすることがあります(§10-1)。 § 11-6 あるいは《かみ》というのは あくまでほんとうの神を仮りに代理表現したらこれだと言って使っているに過ぎません。 神という文字が神ではなく Kami という発音が神なのでもありませんから。 相対的な世界にあって 相対的な存在である人間が 絶対なる神に向き合うとき そこに名称やその受容という経験行為やが起こります。そのことを何とか哲学として認識しようとしたのが 神学でありここでの信仰類型論です。
補足
つづきますねぇ。 ご回答をありがとうございます。 さて まいります。 § 1 自由意志の有無 ▲(ヰキぺ:自由意志) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97#.E8.84.B3.E7.A7.91.E5.AD.A6.EF.BC.88.E7.A5.9E.E7.B5.8C.E7.A7.91.E5.AD.A6.EF.BC.89 § 4.3.3 脳科学(神経科学) Libet は、被験者の脳の活動が、意識的に動作を決定するおおよそ1/3秒前に開始したことを発見した。これは、実際の決定がまず潜在意識でなされており、それから意識的決定へと翻訳されていることを暗示している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ よって ★★(回答No.18) 意志決定が発生するまえに脳でニューロン発火が起きており、つまり意志は脳内現象から派生した現象すなわち結果なわけですから、脳内現象に規定されているので私に自由意志はありません。 ☆ ということですが 次のように反論します。 (1) 実験というものは 身と心から成るひとの存在にかんしては その結果を無条件に受け容れることは出来ない。なぜなら ひとの意志が その実験をおこなうことに同意しその手続きなどの指示に従うことをおのが意志とすでに決めているという事情からです。 (2) すなわち被験者は《手首を曲げる》という動作をすでに頭に入れている状態にある。 (3) もし仮りにその実験の結果に従って《実際の決定が〔意識的決定より先に〕潜在意識でなされて》いるとしたとしても そのように《身と心から成るひとの意志決定》のあり方がそうだというのみではないか? (4) あるいは自由意志の決定にしても 習慣化するものごともあります。箸を持つときそれは慣れからすでに持とうと意志する前に手が動いているかも知れず あるいはさらに潜在意識のみによって動作を起こしているかも知れません。 (5) もし万が一ひとに自由意志がないとなれば 仮りに味噌汁をこぼして隣の者に汁がかかったとしても 意志の主体としてのわたしが無いのであるからには なんら説明責任を問われたり人から怒られたりすることは あってもなくても どうでもよいことだということになります。 § 2 ★ 《なぜ言葉を発することが思考の存在を示すのかわかりません。》 ★ 私が音を聞けないとしても、手話ができないとしても、他人の身体的行動はその行動の原因としての思考が他人〔に〕あることを、私に信じさせるに足るでしょう。つまり行為主体としての「思考」が他人に存在するという原信憑Urdoxaを私は得る。 ☆ いわゆる自閉症児にも《思考》は起きている。とわたしも考えます。この思考は ことばをつうじておこなわれている。という意味で 《〔潜在的な可能性としてでも〕言葉を発することが 思考の存在を示す》としました。 すなわち思考の存在を示すのは 《言葉を発すること》だけではないでしょうが 《言葉》を必要とするという条件を挙げたまでです。 動物における思考の存在つまりその有無については オランウータンが 学校へ通うことになるかどうかで決めてください。通わないのならば 思考があると判断したとしても それは 種差という前提を突き破るものではまだないと言っています。 § 3 ☆☆ 「横へズレて議論するのがお好きなようですね」――基礎理論と応用領域との階層構造において成る現実―― ★ 反論をどうぞ。 ☆ 前項の議論が それです。 ★ 胎児は成長したオランウータンより尊い ☆ ひとこともそんなことは言っていない。この議論は無用にしていただきたい。だから ズラシだと言っています。 ★ 二人以上の人命を測ってはじめて、この人の命とその人の命は等しいとか等しくないとか言えるわけです。 ☆ ですから 基礎理論としての共同主観をもろに持ち出せば そのような比較をいっさいしないと言っています。 と同時に 現実の生活においてはその共同主観が シガラミのゆえに そのままではたらくとは限らない。ゆえに基礎理論の応用領域になるから 順序――オーダーでありこれは秩序をも意味します――という問題が出て来ると見ます。 きびしい条件をつきつけられたときには 順序問題ではまだ効かず 二人の人間の内の一方をないがしろにせざるを得ない場合も出て来る。つまり緊急避難という事態が起き得ると言っています。 けれども緊急避難において どちらか一方をその命なる存在として捨てたという場合でも 基礎理論は有効であるとも言っています。 基礎と応用とは そのように階層を成して現実の全体をかたちづくっています。 応用問題が 基礎理論に取って代わることはありません。(公理です)。 § 3-1 この主題を次のようにもズラシて捉えておられます。 ★ 比較を放棄したなら等しいとさえ言えないはずです。1人1人の命の尊さが等しいなら、10人の命の尊さの総量は1人の命の尊さより大きい、これが当たり前です。全称判断も量の判断も悟性のカテゴリーです。 ☆ 《比較》は あくまで応用領域における特殊条件――シガラミと言っています――という前提から来ます。基礎理論では このシガラミがないという想定です。 シガラミのない共同主観においては 相対性としての思考もほぼなくなります。 《ひとりの人のいのち》は その《一》という数がすでに全体を表わします。仮りに全体で十人いるとすれば 任意のひとりの《一》が その十にあたります。それゆえに《共同》主観とよびます。 この基礎とそして応用領域との階層関係をずらさないように! § 3-2 この議論をふりかえりその事情にかんがみて 次のようにはまとめておられます。 ★ それなのに理性が比較をすると述べるなら、それは理性に濡れ衣を着せています。濡れ衣の着せ方は、ヒトという類に含まれるあらゆる個体から個体差をなくしてから(つまり等しくしてから)、あらゆる個体は等しいとのべ、この無差別化という操作を感性によると述べること。私の経験するかぎり感性はこんな働きをしない。 ☆ この場合は感性のみと言うよりは 《身と心の一体》なるワタシの全体として――その自然本性において――共同主観が成っているとするならば 《個体差から自由》な存在=およびそれらの共生というワキマエがそなわっている。ワキマエは 現実においてすぐに崩れる単なる心構えに過ぎないとも言えましょうが 心構えがあることは これも現実の一端でありむしろそれが基礎なのだ。こう見ます。 § 3-3 このセンスス・コムニス(共通感覚)は・・・ ――これをコモンセンスとして共同主観として使っているのですが――これは やはり神秘ですので それをプシュケー・トゥ・コスムー(宇宙霊魂)だとか梵我一如のアートマン(霊我)だとかまたブッダター(仏性)もしくは神の霊(ルーアハ。プネウマ。スピリトゥス)というように昔の人びとは呼んだのでしょう。 《風・息》のことだそうですが その風や息においては 〔いのちは〕無差別だという意味なのでしょう。 風は気ままに吹くというので この《存在の無差別性》は 基礎理論として成ると言っても その根拠は 無根拠なのでしょう。 つまり人間が 自由意志のそなわっていることにおいて《自由》であり ワタシの自由はアナタの自由であるからには その自由が互いに《平等》である。そしてこれが 主観のあいだに共通性を見い出させていて一人ひとりに共同主観をも持たせるなら その《関係性》において仲間としての共生性をも信じさせることでしょう。 《間主観性》は 基礎理論として言っているのか 応用部門でのそれなのか よく分かりません。 したがって《関係性》にしても 基礎理論としての無差別平等が見い出されると同時に シガラミの巻きつく応用領域では そのシガラミによる差別不平等が生じています。このような基礎と応用との階層構造が 全体現実だと考えられます。 § 4 前項の《基本主観》を承けて ★ ~~~~~~~ 「親や身内の者であれば、治療を受けさせるのが、子ども自身の自由意志の問題をふつうにきちんと自覚させる行為になります」 「普通にきちんと」の根拠をどうぞ。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 基礎理論と応用領域の階層構造から成る現実をわきまえてその子どもがおのれの基本主観を築くこと これが 《ふつうにきちんと》です。 ★ すくなくとも子の自由意志を親が阻害したことに対する反論にはなっていません。 ☆ 子ども・すなわち基本主観の自己形成の途上にある人間をあつかう上では――その子を二十四時間体制で生涯をかけて関係し共生するという前提に立ち―― いやがる子どもの意志を《阻害》するのではないかという見方を阻害することがある。と見ます。 § 5 やましさ反応が基礎理論であること ★ 怒り、選好、興味、悲しみ、喜び、不快、スリル。私の経験的な知識は様々な行為で様々な動機があることです。 ☆ これらはおおよそ応用領域での生理的心理的反応です。 すなわち応用領域では・または シガラミなどによって基礎理論がかき消されてしまって見えなくなっているなら ★ すべてにやましさを感じることなんてない。 ☆ こともありましょう。 (つづく)
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「病状についてさえ医師もときには間違えることがある。死期についてはさらに度合いを増して医師必ずしも正しからずでしょう。当たるときもありますが間違うときもあります」 そのためにセカンド・オピニオンなどがあります。自分も間違うことがありますから、どっちを信用するかなら医者でしょう。 「当たるときもありますが」ってのはミスリードで、当たっている場合の方がはるかに多いでしょう。癌にかかった人への余命一年という宣告の場合などを考えているのかもしれせんが、そういうときに安楽死をするかどうかをもちかけはしませんし、もちだされても医者はそれを受け入れてはなりません。安楽死を適用する基準がありますから。病状が極めて進行しているのがレントゲン写真などからわかっているとき、つまり余命宣告より一年長生きできた患者の病気が治療不可能なほど進行しており、かつ回復の見込みがないならば、安楽死を提案したり要求してよいでしょう。基準を載せておきます。 死期が切迫していること。耐え難い肉体的苦痛が存在すること。苦痛の除去・緩和が目的であること。患者が意思表示していること。医師が行うこと。倫理的妥当な方法で行われること また、筋萎縮性側索硬化症のように治療法が確立されていないケースでは医者は間違えません。患者も自分の状態が悪化していることを間違いようがありません。 「本人がまったく何の医学の知識もなしに死期を知ることはあり得ませんか?」 ないと思いますよ。また、単なる風邪だと思っていたが実は重病であり、病院に行ったときにはじめてわかった、みたいなケースも多々ありますね。 「医師にもその立ち場があります。患者がどうしてつねに優先されるのですか? そんなに死なせてくれというのなら勝手に死ねばよい」 勝手に死ねばよいと来ましたか。笑いました。さすが基礎理論。 「というのはその場で見せる一時的な態度のことです。あるいはつまり《死刑囚》というそのときの状態を捉えて、そうでない人間のその《死刑囚にはなっていないこと》と比べているだけのことです」 その理屈なら死刑に値する犯罪をしていない人間を、死刑に値する犯罪をした人間と同じように扱うことになる。つまり、なんの犯罪もしていない人間を犯罪者と同じように罰するべきだと。それは奇妙です。 死刑囚という状態を捉えているわけではない。死刑に値する行為をしたという事実を考慮している。死刑囚になっていなくても、たとえばナイフで十人の人間を殺した人間が現行犯で逮捕されたなら、彼は裁判のさいには被告人ですが、彼が被告人である状態を理由にして彼に怒りを覚えたり死刑に値すると判断するわけではない。 「人間どうしならその《いのちのとうとさ》は互いにひとしいと言ってよいでしょう」 なぜ等しいと言えるでしょうか? 測ったわけじゃないでしょうに。 「ほかの動物とは比べるということが筋違いです」 なにが? 「《価値》ではないのです、問題は。人間がこの世界におかれた初期条件のことです。否応なく受け留めて行かねばならない条件です」 尊さは価値の一種ですよ。尊さの定義をちゃんと書いておいてくださいね。 ねばならないとか規範化するなんてなかなか固いことを言ってきましたね。基礎固めがはじまってきました。 「この仮説はすでに葬られたも同然では?」 いつ葬られましたか? 私は知りません。 「ウソをつくことはつねに例外なくやましさ反応に会うという基礎理論はもうそこで終えており、そのあとそれでも方便としてウソをつくことがあるかも知れないといったような思考の問題になって行きます。そのような応用部門では、場合に応じて人に応じてさまざまな場合が考えられます。部分的な要素がひとつ違っても その場合というのは違って来ます。 それでもそのカントは一般理論を捉えようとしているようですが 「ひとつに《ウソをつくことを禁じる規則》と言った時点でそれは基礎理論ではなくなっているということです。《規則〔規則化〕》が問題です」 基礎理論に立て。自由であれ。と言ってましたっけ。基礎理論ではなくなったんですか? 「ひとつに考えてもみてください。《同じ事態》と言っていましょう? そんなことはあり得ないのです。まして他人が経験する同じ事態のことだと言っています。無理です」 それを言うなら、やましさ反応がだれにとってもどんなときに生じても同じことを意味する、なんてのもありえないですね。 あと、それは私が考えたことであり、カントがそれに近いことを言っていたかは覚えていません。まさかカントが言っていると捉えられるとは思いませんでした。 たしかに出来事はその一回性に特徴があります。しかし、「他人が私と同じ事態に直面したなら、彼もそうすることをすすんで意志するとき」です。これはちょっと訂正がいるのですが、意志するときではなく意志するであろうとき、ですね。ここで言う彼とは、自分とは別の理性的存在者です。 「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」、これが定言命法です。これに即して嘘をついてよいかという抽象的な問で考えると、あらゆる嘘をついてはいけないとなるわけですが、私のように具体的な状況に直面したさいの確率を考えるなら、プレゼントをあげたのは自分だと子どもに告げることは、他の親つまり理性的存在者が意志することではないだろうという風になります。 「理性がその欲求の内容を、よっしゃ取り上げてやろうと思って、その方向その志向をある程度の行動の形式に仕立て上げるのです」 理性もエラくなったもんですね。すくなくとも私は、欲求を「取り上げてやろう」なんて考えたことはないです。 欲求はいわば動機、目的です。家を買うたいときは家を買うのが目的なわけです。理性はそのために何をすべきかを考える。つまりはどういう手段をとるかを。目的実現のための理性、欲求していることを実現するための理性であり、したがって理性は欲求の従者です。推論能力の代名詞である理性に「よっしゃ、取り上げてやろう」なんて意志はありません。
お礼
つづいてです。 ★ その理屈なら死刑に値する犯罪をしていない人間を、死刑に値する犯罪をした人間と同じように扱うことになる。つまり、なんの犯罪もしていない人間を犯罪者と同じように罰するべきだと。それは奇妙です。 ☆ ええっとですね。ここは 《人間・存在》と《行為》とを分けただけです。 ですから 《人間》を同じように扱うと言うことにはならない。 《死刑囚になった状態》と《死刑囚になっていない状態》とをならべて見ているだけだという見方は それとして成り立つと思います。 ★ 死刑囚という状態を捉えているわけではない。死刑に値する行為をしたという事実を考慮している。 ★★(回答No.17) 死刑囚と死刑囚ではない人間への態度に差があります。 ☆ についてですよね。 ううーん。やはり 人間存在は 行為や思想に先行すると見ますね。 ということは《人間への態度》ではなく 《行為についての見解》であり それならとうぜん《悪行をしたこと》にはきびしい態度を取ります。 ☆☆ 「人間どうしならその《いのちのとうとさ》は互いにひとしいと言ってよいでしょう」 ☆ つまり 《人間・存在》 これは 悪人も同じです。 ☆☆ 人間がこの世界におかれた初期条件のことです。 ☆ これは 価値評価以前のことです。とうといかどうかを考える以前のことです。 無意識の説が葬られたも同然というのは ヰキぺで見ました。 ★ それでもそのカントは一般理論を捉えようとしているようですが ☆ そうみたいですが そこでは 個別の場合ごとに結論を出さねばならないほど一般性を捉えることは むつかしいと思います。 ★ 基礎理論に立て。自由であれ。と言ってましたっけ。基礎理論ではなくなったんですか? ☆ これは すでに一度触れました。 そういうレトリックです。規則化ではなく。 ★ それを言うなら、やましさ反応がだれにとってもどんなときに生じても同じことを意味する、なんてのもありえないですね。 ☆ ただ この反応は 起こることは起こる 誰にでも起こる。とは言えます。 ★ たしかに出来事はその一回性に特徴があります。 ☆ 何て言いましたかね。決疑論? カジュイスティック? 個別にその場合その場合に よき判断を考えるというような。 ★ 「他人が私と同じ事態に直面したなら、彼もそうすることをすすんで意志する〔であろう〕とき」 ☆ これは あれですね。アダムスミスの《同感 sympathy 》ですね。これは ルウソの sympathie から来ているという話を聞いたことがあるけれど 真偽やいかに? ★ 「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」、これが定言命法です。これに即して嘘をついてよいかという・・・ ☆ いちばんわたしが言いたいことは この定言命法とやらを けっきょく自分で編み出すかたちにならないと そのひと本人の基礎理論は確かなものにならないと思うことです。 この文章が アマテラス語普遍概念法であり アマテラス人格語の自己表現のかたちだと見ます。 この場合の《行為せよ》は 文字通り命じていますね。それが 妥当だと納得するのは いろんな場合のやましさ反応(あるいは 納得反応のようなもの)の経験を経て これこれの行動でよいと判断するようになる場合ですね。 でもサンタクロースの暴露のことは それこそ応用領域だと思いますよ。 あるいは ほかの人がどう考え行動するかというよりも それは ナラワシの問題である要素が大きいのでは? と思います。 子どもに なぜウソをついたの? と訊かれたなら そういう慣習だったからという答えになるというようにです。そうしないのなら 自分で決めるよりほかに方法はないように思います。 ★ ~~~~ 欲求はいわば動機、目的です。家を買うたいときは家を買うのが目的なわけです。理性はそのために何をすべきかを考える。つまりはどういう手段をとるかを。目的実現のための理性、欲求していることを実現するための理性であり、したがって理性は欲求の従者です。推論能力の代名詞である理性に「よっしゃ、取り上げてやろう」なんて意志はありません。 ~~~~~~ ☆ ええ。確かに《よっしゃ》と言って前向きになるのは 意志ですね。これは まちがえました。 問題は 《目的実現のための理性、欲求していることを実現するための理性》が ほんとうに《欲求の従者》であるか? です。 そしてこの場合に話が分かりやすいのは やましさ反応が起こる場合です。 欲求にともなって やましさ反応が出た場合です。 理性が いろいろそれこそあたまをはたらかせて考えるのは それは 《欲求の従者》であるからなのかどうか? 家を買うというとき 資金をヘッジファンドかFXで儲けようとか考えたとしたら どうか? しかも一挙に理性の悪口を言おうと思えば そのような財テクが それ自体を目的となるように変身するとしたら それは――意志も一枚くわわっていますが そして欲望も言わば先にうごめいていますが―― 理性という犯人である要素が大きいように思われます。 それは 欲望にうながされたりその欲望のもとめるものを意志が問い求めたりするというよりも むしろ理性が自己運動をするごとく《活躍》する場合。これがあるのではないか? たぶんそのような理性の自己運動の場合は 自己があたかも神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓ったようになった状態ではないかと推測されます。 仕事をして報酬を得るという順序ではなくなり 報酬なり結果なりが先に来てそれを目的として理性がみづから方法を編み出して行く。 この《理性わるもの論》は 急ごしらえです。いま ここまでとします。(中断します。失敗に終わるかも)。
- manuke22
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「すなわち身と心の一体なる《わたし》としての存在動態においては、だれしも《いのちのとうとさ》を知っており潜在意識としてのように自覚している」 物心つくまえにということは人格が備わったりするまえにということでしょうが、当たり前ながら胎児や新生児に自覚のための自己意識はない。また、ア・プリオリな知識として「命の尊さ」を持ち出すのは誤り。カントはそんなものをア・プリオリな知識を認めないという意味でも誤り。 あと宣言的知識とたんに宣言されたことはちがいますからね。 「そのあとものごころがつくなら、わたしはわたしである。1=1」 物心がつく以前と以後の人は同一ではない。「「私は私である」と述べる私」は、私を叙述の対象とする私なのだから同一ではない。超越論的統覚としての私と、その私の思惟作用によって構成され、語ることができる対象になった私は異なる。第一、「私は私である」は分析命題に当たるだろうが、その文は内容をもたない。 「このようなワタシの道程の中身をアマテラス普遍概念を用いて説明したのがカントである」 カントが聞いたらどうなるか楽しみ。カントが倫理の基礎に置いたのは人格の尊厳であって生命の尊さではない。 「《後天的に形成されるもの》は潜在していたという可能性がまったくないでしょうか?」 ない。すくなくとも人格や「私」は。そもそも私という一人称代名詞は神や尊さなどと同じく覚えた言葉にすぎず、代名詞であるがゆえに「私」という語は無内容です。 「前問は神秘ですね。後問はどういう答えを用意されていますか?」 いいから答えなさいな。潜在的な私どうこう言うなら、アクィナスに対してあなたが言ったように、いつどこで潜在しているのかを明らかにすべきでしょう。神秘の一言で片付けて言及しないなら、まさに神と同じく「私」も「命は尊い」というア・プリオリな知識も神秘であり、ただの空想にすぎない。 「《わたし》も同じでしょう」 「私」が胎芽に備わっているとは考えないし、「私」は経験から想定されたものにすぎない。 「私は生まれた」と言うがそれは出産されたという意味であり、出産されたのは「私」ではない。そもそも「私」という代名詞がなにを意味するかが不明。カントの超越論的統覚もデカルトの我も考えるという意識作用を前提としているが、胎芽に脳はない。脳がなくては考えることもできない。知識もない。ゆえに、胎芽に「私」はない。 「《わたしはちょっとあそこではパーフォーマンスが必要と思ったのでわざとこけてやったのだ》と言った場合にはどうなりますか?」 わざとこけたのではないからそれは事実に反します。 「おそらく意志なく意図しない場合でも何か自分に出来事があったのならそれは広く《行為》でしょう。非自発的行為です」 ではその転落で死んだ場合、それは自殺ですか? 事故死ではなく? あとその基準では、「私は風邪を引いた」も非自発的行為になります。風邪を引くのは行為ではないでしょう。非自発的行為でもありません。たんなる身体の状態変化であり、自発的行為でさえありません。 しかしこれはよい意見だと思います。 私が非自発的行為に疑問を覚えるのは次のようなケースです。夜道で花子がある男に「金を出せ」と脅された。貧乏な花子は金を出したくなかったが、金を出すか出さないかの選択に迫られたことになる。逃げるとか戦うもありますがその選択肢二つが頭に浮かんだとしましょう。結果として花子は嫌々ながら金を出したとします。このとき、花子が金を出したのは自発的でしょうか。ある意味ではそうです。花子が自分の財布を手に取り、そこから金を出したのですから。しかし、この事件を「花子は金を脅し取られた」と見なすのもよいと思われます。たしかに花子が財布を取り出したのは行為です。先に挙げた転落死や足をすべらせたのとは違い、彼女が自分で自分の手を動かしたのですから。ただし、嫌々ながら、望まずながらです。意に反した行為を選ばされたのですから、手を動かす動作などが意図的だとしても、それは非自発的行為なわけです。あなたが転落事故を非自発的行為に分類するとき、花子が嫌々ながら金を出した行為は自発的行為だとなりそうです。なぜなら転落や足をすべらせたさい、彼には意図がなかったが、花子が財布から金を手に取ったのは花子の意図的行為だから。しかし、花子がコンビニのレジ横の募金箱に金を入れる自発的行為と、脅迫されて財布を出す行為には明らかに違いがある。それゆえに「意志なく意図しない場合でも」という条件には反対なわけです。財布を手に取るという意図的行為があったとしてもそれは自発的ではない。「金を出せ」という脅迫に端を発して花子は財布を手に取ったのだから、自発的ではない。行為者に意図がありながら、その行為が非自発的行為である場合がある。 次の例。ボブがその銃に玉が入っていないと思っており、しかし実際には玉が入っていたとき、それを知らずに引き金を引いたなら、引き金を引いたのはボブの意図的行為ですが、銃弾の発射は出来事です。引き金を引くという行為が引き起こしたアクシデントなわけです。あなたによれば、銃弾の発射は非自発的行為となりそうです。この事例に関してそれは相応しいように思われます。ボブに銃弾を発射する意図はなかったが、引き金を引くことで銃弾が発射されてしまった。 出来事という概念がさらに必要なのは銃弾が発射されなかったときです。ボブが銃弾を撃とうとしており、かつ、銃に弾が実際に入っていることを確認したうえで引き金を引いたとします。しかし銃弾は銃の不具合かなにかで発射されなかった。不発だったわけです。 では「ボブは銃を撃たなかった」のか。彼は銃を撃つつもりだったし、撃たなかったというのは変です。どちらかと言えば「銃の不具合ゆえに撃てなかった」でしょう。「撃てなかった」は行為ではありません。しかし彼の身に起きた出来事であることを理由にこの不発を彼の非自発的行為だとするなら、「彼は自発的に引き金を引いたが、非自発的に銃弾を発射しなかった」となります。これでは「撃とうとしながら撃たなかった」となります。やはり「撃てなかった」が適当です。したがって「撃てなかった」は行為なのかが問題になります。もし、撃とうとしたけど標的たる人間の命乞いを見て銃を下ろしたなら、「撃とうとしたけど撃てなかった」は自発的行為です。しかし、銃の不具合ゆえに弾丸が発射されなかったなら、「撃とうとしたけど撃てなかった」は意図的でも自発的でもなく、たんなる結果です。望まぬ結果、意に反する結果と言えばより適当でしょう。「ボブは意図して銃の引き金を引いたが、その行為は銃の不具合によって、彼の意に反する不発という結果をもたらした」。 このように、行為者に自発性や意図がありながらも、その結果が行為ではなく単なる結果となる場合がある。自発性や意図をもってある行為を実行しようとしたが、その行為が実現しないというケースがある。 「ですからそれは《無い神》としているということです。神も要らないと表現することにおいて要るかたちです」 無い神は存在する、なんてなっちゃいますよ。神という語がある、神という語を私は知っていてそれに色んな意味を与えることができる、それですみます。 「非経験の場がどうして経験事象と同じ扱いになるのでしょう? 精神は神ではありません。哲学・神学のいろはのいです」 理性は経験事象ではありません。私は理性を経験したことがありませんし、理性という概念は事象ですらない。「AはBである。BはCである。ゆえにAはCである」という推論を実行するなら、その「推論している」ということ、つまり考えているという意識作用は経験的ですが、推論能力の総称である理性は経験できない。あたり前です。一個のリンゴan appleは五感を通して経験できますが、リンゴというものappleを経験はできない。 「非経験の場」は信仰について述べているのでしょうが、非経験的な理念である神への「信仰・信じるという意識作用」は経験的な事象です。 「その《信じる》は、ただただ《思い込む》とか《想念においてじっといだく》とか単なる経験事象のことを言うまでです」 はい。だから、「《信仰(つまり非思考の庭およびその動態)》」は誤りです。信仰は信じることの一種ですから、非思考ではありません。「神はいる」は主述形式をもつ判断であり、この時点で思考されたものGedankeです。 あなたが言っているのが、神は経験できる事象ではないということならそれは当たり前です。 「ものごころが着くという事件をかんがみるなら《後天的》なものです、やましさは。その以前にあったか? あったに決まってるぢゃん」 なぜあったと言えるのか? そしてそれはいつから? どうぞ論証してください。 「小気味よくガンコですね」 反論をどうぞ。
お礼
つづいてです。 ★ ア・プリオリな知識として「命の尊さ」を持ち出すのは誤り。 ☆ 死ぬことの恐怖は 先天的な感性です。 ★ 物心がつく以前と以後の人は同一ではない。 ☆ 思想を変えたり 生き方をあらためたりしたとしても 同じひとりのワタシです。 ★ 「「私は私である」と述べる私」は、私を叙述の対象とする私なのだから同一ではない。 ☆ ただ自己に言及しているというのみ。同じ存在です。 ★ 超越論的統覚としての私と、その私の思惟作用によって構成され、語ることができる対象になった私は異なる。 ☆ 《超越論的統覚》や《思惟作用》や《語ること》やそれらをおこなっているワタシやを ワタシは統覚しています。話す主体・考える主体・その表現内容を観察し間違っていないかを検証する主体・それらをすべて統覚している主体 これらは みなワタシです。 ★ 第一、「私は私である」は分析命題に当たるだろうが、その文は内容をもたない。 ☆ 《ワタシと自称する主体は ワタシである》。 ★ 代名詞であるがゆえに「私」という語は無内容です。 ☆ 【Q:みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4958074.html ☆☆(上記質問の趣旨説明欄) 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか? 《神秘》は 保留でもいいでしょう。 ★ 「私」は経験から想定されたものにすぎない。 ☆ ワタシは 相対的な世界にあってという条件つきで 現実です。 ☆☆ 非自発的行為 ☆ この例ないし用語は 必ずしも適切ではなかったかも知れません。 不可抗力――つまりいわゆるその場のクウキなどをもふくめて――の事態に遭って その相手(情況)の要請に従うという場合 これも《広く大きく》行為ですよ。 つまり 答責性があるという意味です。つまり そのとき取った行動は ワタシには不可抗力としてのしかかりましたとでも説明して責任を果たすたぐいの行為です。 ★ 転落で死んだ場合 ☆ これは 自殺ではないでしょう。事故死になりますが 問題はその方面にはなく たとえばこうです。あのあぶない崖を歩くことにしたのはワタシなのだから やはりワタシの行為として起きた事故だという見方です。(死者が考えて発言しうればですが)。 脅された花子の場合は まさに不可抗力です。 銃を発砲したボブは ワルギはないのですが 思い込みに頼らず 注意を怠らないことという顧慮をあいまいにしていたかも知れない。少しは やましさを感じることと思う。 ★ 無い神は存在する、なんてなっちゃいますよ。 ☆ ええっとですね。非経験の場を――神という語が持たれていることにかんがみ――想定するわけです。それは 有るか? 無いか? けっきょく人によって好きなほうをえらべばいいわけです。どちらもありです。 《存在する》かどうかは けっきょく分かりません。ただ仮りに特に有神論者は 有る神を《存在》と呼ぶでしょうね。 ★ 理性は経験事象ではありません。私は理性を経験したことがありませんし・・・ ☆ えあやいえおうえ? こうやってやり取りしている内容は 理性が考えています。 ★ 推論能力の総称である理性は経験できない。 ☆ そういう見方から捉えるのですか。けれども 《推論能力》という呼び名をあたえたそのものは 経験事象に属しています。 ★ 一個のリンゴan appleは五感を通して経験できますが、リンゴというものappleを経験はできない。 ☆ その《リンゴというもの》は それとして認識し想像もしうるものです。いわば観念です。つまり 想像世界という経験領域に属します。 ★ 非経験的な理念である神 ☆ 厳密に言えば 《非経験》と言ったら 《理念》はしりぞけられます。想像や思考と同じ経験事象だとなるからです。 ★ 信仰は信じることの一種ですから、非思考ではありません。 ☆ いえいえ。《対象のない》のが 信じるです。わづかに神の名を介してはいますが。想念や理念にしても思考や想像の《対象》であるなら 経験事象です。つまり 非対象を対象としているのが 信じるであり信仰である。つまり 非思考です。 ★ 「神はいる」は主述形式をもつ判断であり、この時点で思考されたものGedankeです。 ☆ 《想定した神》そして《仮りの代理表現としてあらわした神》 この前提のあとでは――それらは 言葉なのですから―― いかようにも思考を及ぼしたりすることが出来ます。その限りで 神学もあります。 つまり ふつうの経験事象をあつかうのと同じように 言語学としても哲学としても議論をしてゆく場合があります。 ★ あなたが言っているのが、神は経験できる事象ではないということならそれは当たり前です。 ☆ あたりまえのことが あたりまえではないようなのです。 神は 精神である。純粋精神である。と言う場合がけっこうあるのです。 ★ 〔やましさは 自然本性にそなわったハタラキである〕どうぞ論証してください。 ☆ 顔を赤らめるというやましさ反応。これが 後天的にのみ現われるとお思いですか? わたしのほうこそ論証してくださいと言いたいところですが 神経細胞でそのように――しかもワタシが意図せずに――起きる現象ではないのですか? 誰も 顔を赤らめようとしていわゆる赤面するのではないし その仕組みを自分で作り上げたものでもない。歳を取ってから現われるのだとしても もともとそういうハタラキの仕組みがあったからこそ そうなるのではないですか? ヒゲが生えてくるのと同じような現象ではないですか? DNA にさえそなわっているでしょう。
- manuke22
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「言いかえると、命令法であろうがただの事実認識であろうが、その文を受けた側はそれを話し手の主観として受け留めればよい」 意味不明。事実認識を単なる主観だと見なすなら、テレビキャスターが伝えるニュースはテレビキャスターの主観にすぎないとなる。つまり主観ではない事件に関する情報量をもたないことになる。自己紹介は自己表現ではなく、名前や出身に関わる事実を含む。 命令文を発話することは主観どうこうではなく、命題ですらなく、行為を促す行為です。主観であるかさえ問題ではない。 当たり前ですが、あなたの理屈なら虚言も単なる主観だとなるが、文を安直に主観だと述べるのは誤り。 実際、「回答欄に答えを記入せよ」という文を、この文を記入した誰かの主観として受け止めればよいといいのは意味不明。 主観という語に対してあなたはいい加減すぎる。 「であるならば思想および表現は自由なのです。表現する側も受け取る側も対等な主観どうしの交通として互いに自由です」 ある文を発話できるcanことからその文を発話してもよいmayことにはならない。あなたによれば、私はオランウータンに関する事実で嘘をついてよいことになる。たしかに私は嘘をつける。しかし嘘をついてよいことにはならない。事実と異なる情報を他人へ伝えることも自由だとする考えを是とする人を私は見たことがない。情報操作に対して無条件に自由を認める人間を私は見たことがない。あなたの意見は自由を理由に情報操作を是とするものであり、これは大多数の人間の常識に反する。あなたの意見はすくなくともこの点では常識にはなりえない。 対等と言いましたが主観が対等であることは事実ですか? 「そのとき相手は、その文の内容はマチガイであると思うならマチガイだと答えればよいのですし、分からないところがあれば問い返せばよく、命令に聞こえていやだと思えばそう返せばよい。という自由です」 文の内容は間違いだと思うならば、というのは不十分。文の内容への反感から人はその文を間違いだと非難します。文と文の繋がりに飛躍があっても批判します。 「私は男だ。ゆえに、私は学生だ」。もし「私は男だ」も「私は学生だ」も正しくても、前文から後文は導けないのだから誤りなのであって、文の意味内容のゆえに誤りなのではない。 「あんがい多くの人びとが賛同しているようです」 つまり自殺をしてもかまわないと考える人が多くいるわけですね。仏教の特定の宗派を信じる人間がいるからなんだと言うんでしょう。自分が苦悩から開放されたいから信じるわけでしょうに。 「《死への恐怖》は《いのちの大切さ》のことだと思います」 違います。彼らの社会契約論における「死への恐怖」はそんなものではない。自分が死ぬことへの恐怖であり、あなたが言うような命一般の大切さとは違います。自分が死ぬのが怖いのは、自分を大事にしているからであり、自分が脳死者になって身体的に生きていることをも大切にするわけではありません。 「これはすでに基礎理論に伴なわれる《非経験の場》の神学についても必要な限りで明らかにして来ていますので、そこでの議論につくのがよいと考えます。《ふつう / 誤り》如何についてです」 なんで普通の対概念が誤りなんですか。 「意志行為が中断されるからです。自分の意志によってさえそのみづからの意志行為の道程を断つことは、存在の保持に反するものと思われます」 中断じゃなく終わりでしょう。中断がダメなら寝るのもダメです。 「すでに死刑廃止に向けてゆるやかに潮は流れ始めています。と見ているだけでよいと思っているからです」 つまり死刑廃止の流れに賛成ということでしょうか。 「そしてここでの問題は《教義を神とする》ならそれは《神》ではないことです」 神の言葉を教義とすることは、教義を神とすることではありません。私は教義を神とする信者を見たことがありません。 「非経験の場として想定するもの、そのように雲をつかむようにしか定義できないナゾの何ものか、これがふつうの神です」 つまり他我は神なわけですか? 「《肩入れ》ではなく耽溺でした」 耽溺であると判断する理由はなんでしょうか。私は生物学上の分類を種差別だとは言ってません。 「そのように《あたえられた》という条件を自覚しますか?」 「私は生まれた」という条件を自覚します。というよりそのように発話するということであり、それが観察可能なのはオランウータンやチンパンジーに限りますが。 もっとも、私はたしかに生まれましたが、それを与えられたと考えはしませんが。 「基礎理論の宣言は、それの叙述がそのまま宣言であり言わば証明です」 それも「広義」の「証明」あるいは「論証」ですか? 「基礎理論の叙述が証明である」を証明してください。 あなたが基礎理論を語るからと言って、それは基礎理論を証明したことにはならない。 そういやキリストも自分が語ることは自分が語るがゆえに正しいみたいなこと言ってましたね。 「仮説法(アブダクション)によっていると言えると思います」 アブダクションは、「基礎理論が共同化されたとすると」という仮定を用いる思考ではありません。観察された様々な事実から仮説を結論として形成するものであり、「もし基礎理論が共同化されたとするならば」という反実仮想を前提として用いることはアブダクションではない。 「はじめに和解があった。から出発します」 はじめっていつですか? 「言いかえると、命令法であろうがただの事実認識であろうが、その文を受けた側はそれを話し手の主観として受け留めればよい」 意味不明。事実認識を単なる主観だと見なすなら、テレビキャスターが伝えるニュースはテレビキャスターの主観にすぎないとなる。つまり主観ではない事件に関する情報量をもたないことになる。自己紹介は自己表現ではなく、名前や出身に関わる事実を含む。 命令文を発話することは主観どうこうではなく、命題ですらなく、行為を促す行為です。主観であるかさえ問題ではない。 当たり前ですが、あなたの理屈なら虚言も単なる主観だとなるが、文を安直に主観だと述べるのは誤り。 実際、「回答欄に答えを記入せよ」という文を、この文を記入した誰かの主観として受け止めればよいといいのは意味不明。 主観という語に対してあなたはいい加減すぎる。 「であるならば思想および表現は自由なのです。表現する側も受け取る側も対等な主観どうしの交通として互いに自由です」 ある文を発話できるcanことからその文を発話してもよいmayことにはならない。あなたによれば、私はオランウータンに関する事実で嘘をついてよいことになる。たしかに私は嘘をつける。しかし嘘をついてよいことにはならない。事実と異なる情報を他人へ伝えることも自由だとする考えを是とする人を私は見たことがない。情報操作に対して無条件に自由を認める人間を私は見たことがない。あなたの意見は自由を理由に情報操作を是とするものであり、これは大多数の人間の常識に反する。あなたの意見はすくなくともこの点では常識にはなりえない。 対等と言いましたが主観が対等であることは事実ですか? 「そのとき相手は、その文の内容はマチガイであると思うならマチガイだと答えればよいのですし、分からないところがあれば問い返せばよく、命令に聞こえていやだと思えばそう返せばよい。という自由です」 文の内容は間違いだと思うならば、というのは不十分。文の内容への反感から人はその文を間違いだと非難します。文と文の繋がりに飛躍があっても批判します。 「私は男だ。ゆえに、私は学生だ」。もし「私は男だ」も「私は学生だ」も正しくても、前文から後文は導けないのだから誤りなのであって、文の意味内容のゆえに誤りなのではない。 「あんがい多くの人びとが賛同しているようです」 つまり自殺をしてもかまわないと考える人が多くいるわけですね。仏教の特定の宗派を信じる人間がいるからなんだと言うんでしょう。自分が苦悩から開放されたいから信じるわけでしょうに。 「《死への恐怖》は《いのちの大切さ》のことだと思います」 違います。彼らの社会契約論における「死への恐怖」はそんなものではない。自分が死ぬことへの恐怖であり、あなたが言うような命一般の大切さとは違います。自分が死ぬのが怖いのは、自分を大事にしているからであり、自分が脳死者になって身体的に生きていることをも大切にするわけではありません。 「これはすでに基礎理論に伴なわれる《非経験の場》の神学についても必要な限りで明らかにして来ていますので、そこでの議論につくのがよいと考えます。《ふつう / 誤り》如何についてです」 なんで普通の対概念が誤りなんですか。 「意志行為が中断されるからです。自分の意志によってさえそのみづからの意志行為の道程を断つことは、存在の保持に反するものと思われます」 中断じゃなく終わりでしょう。中断がダメなら寝るのもダメです。 「すでに死刑廃止に向けてゆるやかに潮は流れ始めています。と見ているだけでよいと思っているからです」 つまり死刑廃止の流れに賛成ということでしょうか。 「そしてここでの問題は《教義を神とする》ならそれは《神》ではないことです」 神の言葉を教義とすることは、教義を神とすることではありません。私は教義を神とする信者を見たことがありません。 「非経験の場として想定するもの、そのように雲をつかむようにしか定義できないナゾの何ものか、これがふつうの神です」 つまり他我は神なわけですか?
お礼
つづきます。 ★ 事実認識を単なる主観だと見なすなら テレビキャスターが伝えるニュースはテレビキャスターの主観にすぎないとなる。 ☆ 何か勘違いしてませんか。 《事実》を認識すると 誰がしてもすべて同じ認識内容になるのではないという意味で 《単なる主観だとは見なせない》と しっかりと見て言っていますか? 《事実》というまぎれもないものが つねに同一のこととして存在し 誰が認識しても 同じ内容になる・・・なんてことはない。 ただし テレビキャスターの場合は 特にニュースの場合は そのテレビ局の報道の方針にもとづき内容を伝えようとしています。そのときキャスターは言わばその主観をできるだけ無くして伝えることになります。 この特殊な発言の場合を考慮していないのでは? ★ 自己紹介は自己表現ではなく、名前や出身に関わる事実を含む。 ☆ 何を言おうとするのかが 意味不明です。 ★ 命令文を発話することは主観どうこうではなく、命題ですらなく、行為を促す行為です。主観であるかさえ問題ではない。 ☆ たとえ第三者の《要請や命令》だとしても その第三者の主観がどうだこうだという問題になります。 《行為を促す》内容なら その促しにそのまま従うから 《主観であるかさえ問題ではない》と考えてしまったのですか? つねに 従うわけないぢゃないですか。話し手にも聞き手も 第三者にも みなそれぞれ主観があります。 やってらんないよーお。 ★ あなたの理屈なら虚言も単なる主観だとなるが ☆ そうであるに決まってるぢゃないですか? おかしいですよ。 ★ 実際、「回答欄に答えを記入せよ」という文を、この文を記入した誰かの主観として受け止めればよいといいのは意味不明。 ☆ これも先ほどのテレビ局という発言の主体の場合と同じように 集合体(もしくは単独者であっても匿名)が話し手になっている事例であり それであるに過ぎません。ひとりの場合と 同じことです。主観は主観です。 言わば無主観だとしたら 《記入せよ》と書いてあっても 誰も相手にしませんよ。ふざけて相手にすることはあってもです。 ★ 主観という語に対してあなたはいい加減すぎる。 ☆ と言ってしまっているほど どこかで大きな勘違いをして そのまますすめています。 ★ 事実と異なる情報を他人へ伝えることも自由だとする考えを是とする人を私は見たことがない。 ☆ 基本主観としての《自由》は その共同主観つまりそれとしての善にしたがいます。しかも 特に応用部門で《自由》と言えば それは善および負の善 これらふたつの内いづれかを選択する自由があるというかたちになっています。だから 少年兵士が 人のムクロを見てもその上に坐っても 平気でいることがありえます。 負の善を人はその応用領域においてえらぶことが出来ると言ったら その選択としての意志行為を是としたと見るのですか? ★ 情報操作に対して無条件に自由を認める人間を私は見たことがない。 ☆ 情報操作を選択する《自由》は 基礎理論における《自由》から 善の損傷というほうを選んだのだと事実認識することが そのような《悪》の自由を認めたのだと見るということですか? ★ あなたの意見は自由を理由に情報操作を是とするものであり、これは大多数の人間の常識に反する。あなたの意見はすくなくともこの点では常識にはなりえない。 ☆ この発言部分までを出してしまうと わたしが人びとから笑われるでしょうが おかしいですよ? 相手の意図やその発言の内容を しっかりと受け取り読み取ってください。 ★ 対等と言いましたが主観が対等であることは事実ですか? ☆ 十人十色の主観と言えども 最低限の共通の要素がある。それが 共同主観であるというのが 基礎理論です。この基礎理論にもとづくことが出来るなら それは一人ひとりにおいて《基本主観》と成って活かすことができる。 この基本主観どうしなら 人びとは互いに《対等》だと見るものです。 ★ 「私は男だ。ゆえに、私は学生だ」。もし「私は男だ」も「私は学生だ」も正しくても、前文から後文は導けないのだから誤りなのであって、文の意味内容のゆえに誤りなのではない。 ☆ その文(ないし 複数の文のあつまり・まとまりとして 文章)の意味内容がマチガイだということになるのですよ。 あるいは言いかえると 一つの文(すなわち主題と論述 つまり 問いと答えのツイ(対)が最低ひとつある表現形式)と もうひとつの文とのつながりにおいて 意味が通らないということでしたら その接続の仕方についての話し手の判断がマチガイである。となります。自己表現における――その意味での文における――マチガイです。 ★ 自分が死ぬことへの恐怖であり、あなたが言うような命一般の大切さとは違います。 ☆ これは 誤解です。つまり両方を言っています。《命一般の大切さ》も言いますが あくまで具体的な一人のひとの主観において感じる《いのち》のことです。ふつうは自分のことです。そして 身内の人やあるいは 知らない人に対しても その範囲は広がります。 いづれであっても いのちが大切だと感じるということは 《死ぬことへの恐怖》を感じているということでしょう。 ★ ~~~~~ 「意志行為が中断されるからです。・・・ 中断じゃなく終わりでしょう。中断がダメなら寝るのもダメです。 ~~~~~~~~ ☆ 《中断》に終わる場合があります。さいわい命を取りとめ 《終わり》にはならなかった場合です。 《寝る》場合は 意志行為をも寝かせるという事態を 意志行為の《中断》と取ったわけですね。 ★ 神の言葉を教義とすることは、教義を神とすることではありません。 ☆ 《神》は《要らない。いない》と言っていたのでは? だったら 第三者が《神の言葉を教義とする》という場合に それは無意味だとでも言うのでは? つまり《教義を神とする》という表現にも 何の意味もないと言わねばおかしいでしょう。 その論証があれば さらによいでしょう。 ★ 私は教義を神とする信者を見たことがありません。 ☆ いわゆる原理主義者は オシエを神そのものとしている状態です。 ★ つまり他我は神なわけですか? ☆ 《他者は 分からない。分かったと思ってもそれは 自己の中にある要素であって 自己を部分的に知ったことにしかならない》というときの《他者》 このことですか? 《他我》というのは。 経験事象が 神であることはあり得ません。ちなみにオシエも 思考の対象であり 経験事象です。 ★ 私は生物学上の分類を種差別だとは言ってません。 ☆ 《種差》の存在を指摘することと 《種差別 つまり 差別する側は 被差別者(種)に対して何をしてもよいというほどの意味合い》とを混同していたのですか? わたしの発言をめぐって。 ★ もっとも、私はたしかに生まれましたが、それを与えられたと考えはしませんが。 ☆ 《生命ないし生をあたえられた》と表現しては 《生まれた》とは別の意味になるということでしょうか? ★ 「もし基礎理論が共同化されたとするならば」という反実仮想を前提として用いることはアブダクションではない。 ☆ それが《反実仮想》だという断定は 仮説法に当てはまりません。歴史が基礎理論の述べる内容のごとくになればよいわけです。それが 証明作業です。 ★ ~~~~ 「はじめに和解があった。から出発します」 はじめっていつですか? ~~~~~~~ ☆ 具体的には 信仰があたえられたとき。信仰があたえられたと自覚したとき。あるいは 信仰の自覚を得て 自分が生まれたときから そうであった(和解が成っていた)と知ったとき。あるいはつまり じんるいにまで範囲をおよぼして その誕生のはじめのとき。です。 触れずじまいとしたことがらもありますが あしからず。
- manuke22
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「わたしも《いのちのとうとさ》というふうに表現していますが これは種差を認識したあとそれとは別に今度は人間の存在に絞った上で存在の持続過程における意志決定にはやましさ反応が人間には起きる。この反応にからんで人間は善と負の善との判別の問題を持つ。というところから出て来ている表現であり主題です」 あなたはそうでしょう。そしてあなたも理由と意図と表現をわけている。当たり前です。だからあなたが「尊い命と尊くない命がある」という文を、たんに「違いがある」にわけるなら、あなたは他人の意図を、発言者の意図をその表現から追放していることになる。そしてその曲解が「本当のことなのだ」と述べるなら、あなたも他人から意図的に曲解されてよいことになる。議論が成り立たない。 「逆に言うと犬猫が――オランウータンはどうであるか知りませんが――やましさ反応を持つとは思わないから種が別だと見ている。というただそれだけのことであり、それだけのことなのだから種のあいだに優劣や尊卑があるなどとは考えようともしていない」 犬は間違って飼い主に吠えたとき、またそれに気づいたとき、飼い主に吠えていなかったかのように今度はあらぬ方向に向かって吠えます。オスのボノボはボスボノボがいないところでメスにアプローチしていたとき、ボスがくると、その勃起したペニスをボスに見えないように隠します。ムツゴロウさんは、自分の指を食いちぎったライオンと再会したとき、そのライオンが自分に近づこうとしないのを見て「自分がやったことが分かっている」という旨の発言をしました。たしかに、このライオンの行動は指を食いちぎったことに対してなんらかの反応を有しているとが妥当でしょう。 あなたは一般的な意味での生命倫理や、それが依拠する事実に関してあまりにも知らなさすぎる。私からすれば、応用部門は別だと述べるあなたはサボり魔です。 「というときにはどちらの側にあっても基礎理論としての共同主観におのおの立ち帰って、その基本主観をあらためてとうとぶということがいちばん大事だと見ます」 主観と基本主観をわけましたね。基本主観という概念を拝借すると、私からすればあなたは「生物も無生物も尊い」と言っています。便利ですね基本主観。他人の発言に対する解釈を、他人の意図を排除してよいことにしてくれるんですから。 「ここは種差のもんだいです。《ほかの動物より〔皮肉としての〕優れた思考能力をもつ人間、これで種差が明らかにされています」 あなたは私の言う種差、すなわち生物学的な種差をあなたは人間の能力差に使っていますが、優劣は種差ではなく程度問題です。あなたにかかれば性差も国籍の違いも年齢差も身長差も種差になりそうですが、種差という語にそんな「広義」の意味はありません。 「種差という事実を言ったか言わないかの問題であって、言ったからその事実認識を《正当化する》ことにはなりません」 倫理的には正当化しませんが、理由と推論は判断を正当化します。 「いちいちわざわざ感性による知覚のほかに言葉を用いて概念化し理論をこしらえて行動する。あるいはそういう行動の仕方もあるかとまでは思うが自分はそうはしない。これはヒトなる種として同じではないですか?」 種として同じなのではなく、行為主体である人格として同じなのであり、さらに言えば私は行為に関する別の判断基準を知ったとき、それを採用することもあるので、あなたの言うヒトとは違います。自分の基準を「正答」だとは考えません。 「けれども《水》なる神々のうちの神なる霊をジャイナ人は飲んでもよいのでしょうか?食べ物を食べてもよいのでしょうか?」 濾過しています。また、食べ物は厳選されています。被害者の尊い命と言いながら死刑賛成を唱える人間とはあきらかに違います。あなたは水棲動物と陸生動物が動物であるからと言って、この分類を無差別化してよいと考えるでしょうか。 そしてヒトとして同じだとか述べるなら、あなたが「愚の骨頂」とする考えとあなたの「正答」も無差別化しましょうよ。愚も正もないと。 「ですからこの質問のように共同主観を問い求めてバカ丸出しで質問しやり取りし愚行権を行使しています。自由であれ。基本主観に立て。と言っています」 立て、であれ。命令じゃないですか。自由であれという命令から基本主観に立たないことを選択しようとしたら、基本主観に立てという命令に反する。あなたの命令に従って主観では嫌々ながらしかし基本主観なそうじゃないはずだと信じて基本主観に立とうとすれば、それは自由であれに反する。 「動くな! 手を上げろ」みたいな可笑しささがありますね。 「《理性的存在》と言えば身と心、身体と精神、感性と理性その一体となった全体を言っています」 あなたのオリジナル語法の話は知りません。あなたの言う基本主観は語法や語義を捻じ曲げる自由があるのでしょうか。「理性的」に「身体」を含める無差別な定義を是とするのでしょうか。そんな自由を各人が行使するなら議論が成り立たないですね。 「これは事実問題です。うつろいゆく情況の一断面を言ったものです。そうでありうるということ。そしてそうでありうることを例証すれば少なくとも理性が感性よりもエライという通念がゆらぐでしょう」 感性は考えないので、そもそも比較が成り立ちません。 第一、基礎理論が理論である時点で理性と不可分であり、推論を実行している時点で理性的であり、身の回りの生体という個体ではなく一般を語る時点で理性的です。 「固めないでおくことがよい場合、かためる必要がない場合があるという議論をおおむね今はして来ています。そのために《成文法》のだらしなさを指摘したまで」 だらしないと述べることはだらしなさの指摘ではありません。 あと、「基礎理論に立て」という命令が行動規範や思考規範でなくて何でしょうね。 「死体は・つまり人間の死はそこでひとまづおしまいだということを言っています。それが骸がゴミだという表現です。生体はまだおしまいになっていない。そのことがゴミではないという表現にそのまま移行するとは考えません」 なるほど。生体はゴミであるわけですね。あるいは生体はゴミではないしゴミである、ですか? そうは考えない理由を書きなさい。 生体はまだおしまいになってはいないとはどういうこと? 「あなたの議論は胎児や脳死者と動物との《比較》でしょう。それを大きく種差の存在という見方と直接にからませることは筋がちがうと言っています」 どう違いますか? 私は生物学的な種差は認めていますが。あなたまさか生物学上の分類さえ種差別だと考えてたんですか? そもそもヒトは動物の一種です。それを分けるために「人間は理性的動物である」とか言われるわけです。あなたの場合は「言葉を話す」とかでしたが。しかしヒト以外の動物にも理性的動物はいるわけですからこの区別は妥当ではない。手話もする。ヒトであることがすなわち人間であることなのではない。 「アクィナスが《たましい》というときそれについて定義しないと話は始まりません」 では歴史を定義しないで話を始めたあなたは何だったんでしょうね。 やましさの定義は? 尊さの定義は? 自由の定義は? 「引用をはぶき、全体としてこう考えましたがどうでしょう?」 全然ダメ。 「文はいわゆる何か分からないが何かを表出したいというときの自己表現である。とその一面での性格内容を規定します」 「彼の名前は?」は発言者の性格を規定しないし自己表現でもない。 「この文は自己表出が落ち着いたかたちできちんとした自己表現となれば、話し手(自己のことですが)の判断を表明します。意志のありか。または意志のあり方・内容です」 落ち着いてなかろうが落ち着いていようが、「殴ったね、親父にもぶたれたことないのに!」は、「私は親父にぶたれたことはない」という事実を伝えていると共に、殴られたことに対する怒りを表している。「やばいやばいあの人ちょーかっこいい!」は、あの人に対する事実ではなく評価を表明している。落ち着きは関係ない。 「この判断の中にいい天気だといった事実認識もあれば、好き嫌いから、何かを欲するというような願望内容までをも含めて自己の価値や意向をうったえるような判断の表明もあります。欲するなら命令法もあれば、否定命令としての禁止法もあります」 「いい天気だ」は事実認識ではありません。晴れであるか雨であるか、それが事実です。「いい天気」は発話した時の天気に対する価値判断です。 「手をあげろ」は相手にその行為をさせるための言語行為です。「その定義は何ですか?」は、相手にその定義を尋ねる行為であり、その定義は何ですかという判断を伝えているわけではない。 「いま問題とされていると思われることは、その文の類型区分にあるのではなく、こちら側の見方としてはやはり文が自己表現としてどこまでも《主観》の表明であるということにあると推測します」 的外れ。「~は尊い」は命題ではなく評価にすぎない。 「命ある存在を傷つけたり殺すことは悪だ」というのは評価にすぎませんが、「彼は男である」は事実命題です。
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つづいてです。 ★( a ) だからあなたが「尊い命と尊くない命がある」という文を、たんに「違いがある」にわけるなら、あなたは他人の意図を、発言者の意図をその表現から追放していることになる。 ☆ これは ちょうど直前(回答No.19)の末尾で取り上げた論点ですね。 しかもそこでの発言と この発言とでは 百八十度反対のことを言っていますよ。 ★★( b :回答No.19) 私が「私は死刑囚より私の友人のほうが尊い」と述べるとき、私は「種差がある」と言っているのではなく、たんに違いがあることを判断し、それを理由にした判断を述べている。 ☆ どうですか? ( b )では わたしの見方と同じく 《同一の種のあいだでは・つまり人間どうしにおいては その思想や行動に違いがあって 或る種の仕方で優劣もあらそわれる。けれども それがそうであっても 五十歩百歩であって すべては 程度問題である》と言っています。 では ( a )の発言は どうでしょう? 《あなたが・つまりわたし ぶらじゅろんぬが 「尊い命と尊くない命がある」という文を単に〈〔程度としての〕違いがある〔に過ぎない〕〉に分けるなら 他人の意図をその表現から追放していることになる》と。わたしが追放することになるほかの人の意図とは だとすると 《優劣は 程度問題なのではなく 言わば能力種とでも言うような 種差としてあるのだ》ということになりますよ? 《「尊い命と尊くない命がある」( a )》について だとすると その違いは 言ってみれば《貴種と賤種》の差だと言おうとしていることになりますよ? それでいいのですか? ★ あなたは一般的な意味での生命倫理や、それが依拠する事実に関してあまりにも知らなさすぎる。私からすれば、応用部門は別だと述べるあなたはサボり魔です。 ☆ 次の認識を基本として 応用領域にはいまは重心を移さない。です。 ★★(回答No.11) オランウータンはヒトという種に属さないので人生という語を用いたその質問は不適切です。 ★ 主観と基本主観をわけましたね。 ☆ 基礎理論にもとづく主観を基本主観とよぶことにします。 基礎理論の中身というのは 主観の内容としての共通性ですから それは共同主観です。 共同主観をしっかりと保持する主観=つまりは 基礎理論にもとづこうとする主観 これは 基本主観と呼べると思います。 ★ ~~~~~ 「ここは種差のもんだいです。《ほかの動物より〔皮肉としての〕優れた思考能力をもつ人間、これで種差が明らかにされています」 あなたは私の言う種差、すなわち生物学的な種差をうんぬん ~~~~~~~~ ☆☆ 《ほかの動物より〔皮肉としての〕優れた思考能力をもつ人間、これで種差が明らかにされています》。 ☆☆ 「種差という事実を言ったか言わないかの問題であって、言ったからその事実認識を《正当化する》ことにはなりません」 ここらあたりは 意味不明というよりは あたりまえのことを何とか横に論点や焦点をずらそうとしているように思います。 ★ 濾過しています。また、食べ物は厳選されています。 ☆ 水も食べ物も けっきょく神だというのですから 神を食べたり飲んだりするのですか? と問うています。《濾過・厳選》は 事情を変えません。 ★ あなたが「愚の骨頂」とする考えとあなたの「正答」も無差別化しましょうよ。愚も正もないと。 ☆ 《愚も正もある》と言って批判しても それはすべて相対性の世界における出来事であって その差別は 相対的なもの・程度差であるに過ぎない。こう言い続けて来ています。 ちゃんと読んでね。 ★ 立て、であれ。命令じゃないですか。 ☆ すべては 相対性の世界における出来事です。 全か無かの法則をもお持ちのようです。 ★ 「理性的」に「身体」を含める無差別な定義を是とするのでしょうか。そんな自由を各人が行使するなら議論が成り立たないですね。 ☆ 《存在》を それでは 理性とそのほかとのふたつに分けるのですか? そんな自由を各人が行使するなら議論が成り立たないですね。 ★ 感性は考えないので、そもそも比較が成り立ちません。 ☆ その《考えることのない感性》が おのが意志の中身について もしそうであれば善の損傷を告げ知らせます。そのことを あとで理性は確認しますが その理性は おまけにというように その《善の損傷》なる内容を行為にまでおよぼそうとすることがあります。 このふたつを比較してみてください。 ★ 第一、基礎理論が理論である時点で理性と不可分であり、推論を実行している時点で理性的であり、身の回りの生体という個体ではなく一般を語る時点で理性的です。 ☆ この中身のぜんぶを 感性が告げ知らせるのです。また そのような神経組織のハタラキがないならば 理性もただの機械のようなものでしょう。干からびた蛸みたいなものでしょう。 精神の緑野は 感性のみずみずしさに拠っています。 ★ だらしないと述べることはだらしなさの指摘ではありません。 ☆ たましいをゆさぶろうとしたまでです。 ★ あと、「基礎理論に立て」という命令が行動規範や思考規範でなくて何でしょうね。 ☆ 命令法をあえて用いるがゆえに 規範化をまぬかれているのです。なぜなら たましいが眠ってしまっている人間にとっては 命令法でものを言われたその反発において 規範として受け取る確率が非常に小さくなります。そういう配慮です。 ★ ~~~~~ なるほど。生体はゴミであるわけですね。あるいは生体はゴミではないしゴミである、ですか? そうは考えない理由を書きなさい。 生体はまだおしまいになってはいないとはどういうこと? ~~~~~~~ ☆ ここでの命令法は どういう意図? ムクロがゴミだと言ったのは 人生ないし寿命がそこで一たんとしてでも終わったという意味を はっきりさせるべく使っています。 生体は ゴミかそうでないかは 議論の外です。上の意味でおしまいになっていないからです。 ★ ~~~~~ 「あなたの議論は胎児や脳死者と動物との《比較》でしょう。それを大きく種差の存在という見方と直接にからませることは筋がちがうと言っています」 どう違いますか? 私は生物学的な種差は認めていますが。あなたまさか生物学上の分類さえ種差別だと考えてたんですか? ~~~~~~~ ☆ 意味不明です。そこの《種差》は 《胎児や脳死者》と《動物》とのそれです。 ★ ヒト以外の動物にも理性的動物はいるわけです ☆ 《理性的動物》と言うのは ヒトが大きく動物に分けられるにもかかわらず ほかの動物とは《理性的》であることにおいて 違うと言っているのですよ。 ★ 「彼の名前は?」は発言者の性格を規定しないし自己表現でもない。 ☆ 名前が知りたいというのぞみを反映しています。それが 自己表現です。 自己表出が自己表現になるというとき ★ 落ち着きは関係ない。 ☆ いえ。落ち着かなければ 《判断》が定まりません。《表出》は 殴られたときなら いわば《こらーっ!》というようなものです。人がかっこいいという場合には 《いやーーあ》とでも声を発出することが 自己表出です。――それでもすでに《判断》が定まりつつあるとは言えますが。 ★ 「いい天気だ」は事実認識ではありません。晴れであるか雨であるか、それが事実です。「いい天気」は発話した時の天気に対する価値判断です。 ☆ まぁ そっちもわざとケチをつけたようなものだけれどそれでも言うと 《空が晴れている状態》を《いい天気》と言うのです。 そうでなければ 雨が降って欲しい人にとっては 《雨降り》が《いい天気》になります。それは 明らかに価値判断でしょう。 ★ 「その定義は何ですか?」は、相手にその定義を尋ねる行為であり、その定義は何ですかという判断を伝えているわけではない。 ☆ 違います。相手のおこなう定義如何によっては 容赦しないぞという判断をふくめて定義は何ですかと問いを発しているのです。 あとは いちゃもん。
- manuke22
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「しかもこれをわが心なる非思考の庭にその霊〔の名〕を受け容れるということによって成り立っているのはその動態としての信仰です」 非思考ってかたんに想像Vorstellungですね。想像するvorstellen、すなわち前へvor立てるstellenことが想像であり、それに対して立つstand gegen Das ことで私はそれを対象Gegenstandとして、ノエマとして構成するわけです。 「《思考にあらず》ということで《非経験の場》でありつづけ」 思考ではないにしても「を信じる」という志向的態度から明らかなようにそれは超越論的な場において意識作用の宛先です。 「それを《受け容れる》という行為においてそれは経験事象となっています」 ダメですね。いきなり「それ」なんて持ち出したら。意識作用による構成(キマイラを考えてみよ。様々なパーツの合成)によってノエマは成り立つのであり、その構成のヒュレーはまず神という名であるには違いなく、たしかにこれはアポステリオリに獲得されたわけだけれども、事象と呼ぶには値せずシニフィアンである。もちろんそのさいの意識作用は経験であるけれども、だからといってそのノエマが経験的事象となるわけではない。この点は神という名詞を単独で扱うことが誤謬であると、かれば、あくまで神という名詞をアポステリオリな知識として、つまり経験的なヒュレーとして立てることができ、さらに構成ないし意味付与していくことができる。 このシニフィアンすなわち神という名詞は単語として経験されたわけではなく、声や文字やさらにこの単語に帰属させられる様々な述語のシニフィエを伴っている。「神はなんとかである」という文の形で。この宣言的知識に基づいてさらに「~である」「~する」という既存の語彙を付与していくことができるわけで、さらには他のシニフィアンすなわち人や世界という語を運用すれば「~ではない」という意味付与も可能になる。 したがって受け入れるのは名によってでもなく名でもなく、「神は~である」という宣言的知識であり、それは言葉という経験的事象ではなく聞くや読むといった意識活動すなわち経験的事象によるのである。 この超越論的な意識作用は想像だった。そして想像によって立てられたこの対象が立脚するのは地平をおいて他なく、徹頭徹尾この超越論的な意識活動は経験的なものとして記述できるのである。 当たり前だが無神論は神はいないという立場であり、無い神はいないとか無い神はいるとかは扱わない。無い神は無神論をそのまま左から右へ読んだがゆえの誤解であるだろう。こう考えると、意識は完全に自由なわけではなく、様々な立ち現れによって意識作用に影響を与えられうると言える。無神論というシニフィアンによって無い神というシニフィアンを意識は構成してしまったのである。これもまた経験的知識の差ゆえであろう。 そして神を考えるさいの最も根本的な誤りは、「神は~である」という宣言的知識をもとに想像し構成したかぎりでの神を、超越として存在させてしまうことだ。しかしこれは超越論的な仮象にすぎない。キマイラのような名詞があることはこの名詞が名指すものが経験的世界に存在することをなんら保証しないとわかっているにも関わらず、神の場合には超越として存在論的特権を与えてしまうのだ。そして、神という名詞とそれが名指すものとしての神(もちろんそんなものはいない)、これを区別しなければ神を経験的な事象において捉えたという誤謬をおかす。神という名詞から構成された神を超越として存在するものだと見なすことが超越論的な仮象だと言われたなら、今度は神は存在するのではなく存在するものが神だという形で汎神論に至るわけだが、結局のところそれも理性がつきりだした仮象にすぎない。やはり神は不要なのであるし、不可知なのである。存在するという語ほど汎用性が広い語はないわけだし、私にはあのときの記憶があると言えるのは、その記憶を想起できるからであり、この想起が不可能ならその記憶はないも同然なのだ。 「基本的には基礎理論は律法規範や道徳ではありません」 当たり前のことながらすべての人が憲法の全文を覚えているわけではなく、しかし繰り返し参照可能な法律がなければ経済や裁判や訴訟やなんらがまわらないように、憲法は不可欠です。そもそも共同体が成り立たないでしょう。そんなところに常識はありませんし、そもそも常識を無批判に受け入れすぎです。あなたが新たな常識として据え置こうとする常識、それに対立するジャイナ教の教義を、あなたは既存の常識であしらった。たしかに後に扱いはしてましたが。 「要するにひとつの親類仲間の集まりとしての民族としてまとまれという要請があってその規範があるという事情です。ほかの民族に対しては特にきびしい」 全世界から多様な共同体を徐々に統合させ、一つにまとめますか? そんな大規模な共同体は成り立たないでしょう。かつての先進国が後進国をリードしなければならなくなったり、後進国は足をひっぱる。地理的条件や言語的条件もあれば、宗教対立やなんやがあるわけです。すぐに分散すると思いますし、それは理想郷と同類です。もっとも、共同体を問題視するならこれもまた然りかもですが。 外部に敵を作ることは共同体の結束を固めますが、人間にはもはや外部はない。人口も増え続けていますし。 「特によその人間には生命の尊重がおよばない」 尊ぶと言いますが、命を尊ぶとか尊い命とか言ってる人間が、本当に命を尊ぶと思っていますか? 緊急避難は認めるわけで、やっぱり大事なのは自分の命でしょう。命というか、恐怖よる闘うか逃げるか反応かもしれませんが。 命を尊ぶ。命に価値があるのか、尊ぶことに価値があるのか。 「応用部門に仕分けするのは逃げでしかないでしょうか?」 はい。というか、あなたはやましさを感じればとか感じるはずだみたいなことばかり言って、まったく応用していない。むしろ基礎と銘打つわりに応用に耐えるものでさえない。また、やましさばかり扱っているわりにあなたにとって重要だろうやましさへの分析が皆無。やましさ以外の感情に手をほとんどつけてない。当たり前ですが、殴るより刺し殺すほうが悪い。それがわかっているのに言わない。逃げです。 また、善悪についても微妙な定義です。命を損傷することは悪い、命を殺すことは悪い、やましさという情動を感じる行為は悪い。悪いのは殴ること、殺すこと、やましさを感じる行為。傷つけも殺しもしない万引きは悪いか? やましさを感じるはずだ、感じないならば「麻痺してる」。この独断を、私はけっして善いこととは認めない。あなたはあなたが決めた「正常な」感性と異常な感性をもとに、人を診断する権威的な医者気取りです。その診断基準は自分がこしらえたもの。つまり自分で自分の判断を権威づけてる。似非理論です。あなたにかかれば無邪気に虫を殺す子どもは異常です。そしてあなたが正常と異常を選り分ける基準なら、あなたは正常か異常かをどう判断しますか? あなたの基準は常識が保証してくれますか? 今はそうじゃない。みんなが正しいと思ってくれるなら自分の主観は正しいと言うなら、すでに述べたように人は正しいものを信じるわけではない。多数決があなたの似非理論を正当化するなら、多数決で決められたことは正しいのかを考えるべき。 「《尊い生命と尊くない生命がある》と多くの場合表現されるその意味内容は《種差がある》ということにあってほかの意味ではない。つまり《とうとさの度合い》という意味ではほんとうにはないであろうと見る」 違います。尊いとは価値があるという意味であり、あるものを尊いと述べることはあるものに価値があると述べることです。違いがあると判断するからそれを理由に尊いと尊くないを分けるのであり、尊いかそうでないかを述べることの意味内容がすなわち違いがあることではない。あなたによれば理由となる判断と理由から導かれた判断が同じになる。誤りです。 あなたも主観で「麻痺してる」「鉄面皮」「ゴミ」「愚の骨頂」「正答」であきらかに価値づけをしている。それと大差ありません。「正答である」と「正答ではない」「愚の骨頂」はたんに種差の問題であり、「本当」のことを言えば実は「正しさの度合い」に違いはないということですか? あなたの考えは発言から発言者の意図を「正答」な基礎理論によって追放している。排除している。そんなんで議論は成り立たない。私が「私は死刑囚より私の友人のほうが尊い」と述べるとき、私は「種差がある」と言っているのではなく、たんに違いがあることを判断し、それを理由にした判断を述べている。あなたの解釈が私の表現やその表現の意図を曲解したければその曲解は事実に反するが、したければしてもよいです。そんな曲解を是とするあなたの考えが常識たりえるかどうかよく考えるべ
お礼
(つづき) ★ しかし繰り返し参照可能な法律がなければ経済や裁判や訴訟やなんらがまわらないように、憲法は不可欠です。そもそも共同体が成り立たないでしょう。 ☆ 問題がちがいます。論点がちがいます。筋がちがいます。 主観はおのおの違う。けれども そこに最小限でいいから共通性はないか? というその共同主観を 人間としての基本主観として 問い求めています。そういう基礎理論です。 応用理論がなくてよいとは 言っていません。ただし 話をそっちへ(重心を移動するかたちで)持って行っては かみ合わなくなる。 そんなことを言うのなら 憲法がなくても 基礎理論がしっかりとみんなに自覚されているなら たとえばいざこざがあっても そこでいちいち訴訟を起こさなくとも 話し合いで解決することが出来るというものです。妥協と言おうとゆづりあいが成ることが容易であるからです。 規範や道徳や法律は 反感派がいやでも声高くさけぶでしょうから かんたんになくなるわけではないのですから 心配要りません。 ★ 全世界から多様な共同体を徐々に統合させ、一つにまとめますか? ☆ ですから そういう上からも求心的な動きは 否が応でもとうぶん消えることもないでしょうから 心配する必要がありません。 ですから 人びとの主観にある最大公約数を取り上げ これを共同主観として推し出す動きも 意義がある。という話です。 民族としての統合は 昔の話です。 ★ 「特によその人間には生命の尊重がおよばない」 ☆ これは 旧約聖書の時代のユダヤ人の社会について言ったものです。民族の枠を超えたのは 新約聖書の時代であると ただその事実を言ったまでです。 つまり規範としての律法を引用されていたので それは 昔の話ですというかたちで触れたまで。 ★ というか、あなたはやましさを感じればとか感じるはずだみたいなことばかり言って、まったく応用していない。 ☆ 重心は その応用部門には ここでは ありません。基礎理論をかためること。つまり 因果応報の仮説が 共同主観にはならないと考えられるが それでも一般に人びとは いわゆる善行を志向する。そのとき ではそういう人びとはどういう思想において そうしているのか? こういう問い求めです。 で 基礎理論について問われていますから その中身を説明して来ますが 応用領域については そこに重心を移そうとは思いません。基礎理論の説明に どうしても必要だというやむを得ない理由で 少しづつ触れています。(でも それは 決定版ではありません。といった事情です)。 ★ 当たり前ですが、殴るより刺し殺すほうが悪い。それがわかっているのに言わない。逃げです。 ☆ それら二つの意志ないし意志行為として まぎれもない公約数は やましさ反応です。それの確認でじゅうぶんだという見立てです。 何度でも確認しますが: ★ また、善悪についても微妙な定義です。命を損傷することは悪い、命を殺すことは悪い、やましさという情動を感じる行為は悪い。悪いのは殴ること、殺すこと、やましさを感じる行為。 ☆ これでは 定義がまだしっかりと理解されていないきらいがあります。 《命を損傷することは悪い》というのは そのように直接に推論がなされるわけではありません。或る人が誰かの命をねらうということ そのまま損傷させようとすること そのときにその本人は やましさ反応を持つだろう その反応があれば その本人は いまの意図や意志が おのが心に従わずその善き心にさからうことだと 当然の如く 知るはずだ。そのことは その意志が 善の損傷を意味する負の善であると知る。 これが 共同主観の中身を示すものだ。 そして この内容が 基礎理論にもとづく基本主観であると言っています。 定義の《微妙さ》は 個々の主観において事件は起こっているということから来ています。 いくら共通性としての中身を取り出そうということであっても それは たとえば教科書に書けばよいというものではなく じっさい本人のその現場での問題です。活きた基礎理論です。 ★ 悪いのは殴ること、殺すこと、やましさを感じる行為 ☆ 《やましさを感じる行為》と言えば そのとおりですが 活きた基礎理論というのは これを教科書に載せようという問題ではない。やましさは じっさいに感じるかどうかの問題だからです。 《殴る・殺す》という行為を想像し意図するというとき 反応があるかどうかの問題だからです。 ★ そしてあなたが正常と異常を選り分ける基準なら、あなたは正常か異常かをどう判断しますか? あなたの基準は常識が保証してくれますか? ☆ わたしの差し出している基礎理論は その中身を聞いて じっさいの行動に際して どうですか? と尋ねているのみです。あてはまりますか? と尋ねるのみです。 ★ 尊いとは価値があるという意味であり、あるものを尊いと述べることはあるものに価値があると述べることです。 ☆ ヒトという種としてそれぞれのワタシが存在する。その同じひとつの種のあいだで それぞれの存在はとうとい。――このように言わば絶対値として とうとい・価値があるとは言いますし 言えます。 種差のあるものどうしでは 種の違いを言うのが基本であって そのとき或る種はほかの種よりとうとい・価値があるという規定は 仮りにあるとしても二の次だと言って答えたまでです。 ★ 違いがあると判断するからそれを理由に尊いと尊くないを分けるのであり ☆ という規定は 種差の確認という作業にあたっては どうでもよい。とこちらは言おうとしています。 ★ 「正答である」と「正答ではない」「愚の骨頂」はたんに種差の問題であり、 ☆ ちがいます。わたしは 同じ種のものどうしの・しかも思想や行動について 評価をしています。マチガイはマチガイだと言っているという意味です。種差が入った論点とは 明らかに 別です。 ★ 「本当」のことを言えば実は「正しさの度合い」に違いはないということですか? ☆ ん? 同じ種のあいだで・つまり人間どうしにおいては その考えや行動を互いに自由に批判しあえる。そのとき 確かに《ただしさの度合い》の違いでしかないと言えると思います。程度問題だということ。よい場合にも それは どんぐりの背比べに過ぎないと。 ★ 私が「私は死刑囚より私の友人のほうが尊い」と述べるとき、私は「種差がある」と言っているのではなく、たんに違いがあることを判断し、それを理由にした判断を述べている。 ☆ これが 《程度差にしか過ぎない》という意味です。《たんに違いがあることを判断し》ということです。 どこで物差しがちがって来ましたか?
補足
つづきます。 ★ 非思考ってかたんに想像Vorstellungですね。 ☆ 《前に立てる》なら やはり《広義》に《思考》ではないですか? ★ 対象Gegenstandとして、ノエマとして構成するわけです。 ☆ 《知覚・認識》は 大きく《思考》です。《対象》があるということは ひとの知性が表象しています。表象は象(かたち)に表わしているのですから 経験対象であり 《非経験の場》ではあり得ません。 つまり対象があるということは 経験思考に属します。 《信じる》というのは 非経験の場を その名を受け容れることにおいて わが心に《非思考の庭》が成ることを言います。名を受け容れるのは その時点で経験行為です。つまり 非経験の場とワタシという経験存在との関係として――通俗には そこに接点を持って――成り立つのが 信仰であり それはそのような出発点からのあと時空間の中にあるからには 動態です。 ワタシ・・・非経験の場(神)⇒ 非思考の庭(信じる) ワタシ・・・経験世界 ⇒ 思考および感覚あるいはヒラメキ(考える) 《想像》は どこに入りますか? 神は――無い神をふくめて―― 精神ではありません。思考や想像の産物ではありません。 ★ 思考ではないにしても「を信じる」という志向的態度から明らかなようにそれは超越論的な場において意識作用の宛先です。 ☆ ですから わづかに《非経験の場》の仮りの代理のしるしとしての名――ヤハヱーやブラフマンや――が 経験事象であり これを受け容れるというのも 経験事象です。 けれども ヤハヱーやキリストやといった神の名は 《非思考》にとどまります。留まらせないで概念を詮索したり観念としてわが思いにいだくといったことをしたりするなら それは 《非思考》ではなく《思考や想像や想念》なのですから 《非経験の場》たる神ではなくなります。信仰でもなくなります。 神の名を受け容れるとき なるほどその時点の前後において人には《志向性》が現われます。《志向的態度》を持つ場合があります。――この疑念については こうです。 すなわち 《名を――感知していつつ――そのまま受け留め 受け容れる》のは 言わばエイヤーッと賭けるがごとく決断して受け容れる意志行為です。賭けることにまでは行かないで ふとおとづれたヒラメキを受け取り そのままそこに神の名を見止めて受け容れる。という場合もあるでしょう。 つまり その受け容れる時点では 志向性もないと言えるはずです。志向性から受け容れるのではないはずです。なぜなら 志向性は 思考や想像のなせるわざだからです。言いかえると その《信じる》の時点を覆うように志向的な態度は現われ得ますが その志向性ゆえに名を受け容れたわけではない。そういうナゾの意志行為です。 受け容れたあとでは 非思考の庭が成ったなら そこには じつは確かにあらたな姿を採った志向性が 持たれています。《受け容れた》からには そのものが何らかの《対象》にはなっているからです。 けれども その場合にも さらに逆転するかのように 《対象に向かうかたちの志向性》ではありません。そう成りがちですが それは消えて行きます。 あるのは 志向性に似たものですが 心の伸びあるいは 心の明けです。 つまり言いたいのは 《対象》はないということです。 《伸び》と言っても じっさいに伸びているわけではなく 《明け》と言っても 何か窓があってそれを開けたということでもなく 《非思考・非対象》の状態にあります。 おそらくひと言で説明すれば 《非思考の庭が成る》信仰というのは そのわが心が閉じていないということ 閉じられていないということ これを現実の姿をするはずです。 能天気である。先入見から自由である。世界においてもののあはれを知るに到った。・・・ 《神 あるいは その名》 これは まったくにおいて 仮りの表現だという意味になります。シルシをとおして シルシの奥にある(あるいは 何も無い)と想定される神を受け留めた・受け容れたというかたちが成ります。雲をつかむような ただし 経験行為です。 いろんな表現で説明をこころみておられますが たぶん《想定 / 仮りの表現》というところが 鍵語だと思われます。 そして これにしても何にしても 想定であるからには 《非経験の場》という仮想になっています。仮想が それでも現実だというのは じんるいが どういう起源においてか分からないかたちで 《かみ》という言葉を持ち合わせているという現実とつながっています。 神は 言語学からみれば 経験事象です。 神: シニフィアン=かみ・ kami シニフィエ=《かしこきもの》・ 《不思議なる自然のおよび人間の現象〔の奥なる何ものか〕》 といったところでしょう。 ですから ★ このシニフィアンすなわち神という名詞は単語として経験されたわけではなく、声や文字やさらにこの単語に帰属させられる様々な述語のシニフィエを伴っている。 ☆ というように ひとつの経験事象として捉えた場合には もうすでに《思考の世界》におさまっている。こう考えるのが 神学の出発点でしょう。 ですから この出発点の手前で踏みとどまり 《経験世界における思考領域》に戻り入ってそこに見えるものを扱うならば ★ したがって受け入れるのは名によってでもなく名でもなく、「神は~である」という宣言的知識であり ☆ というように そのまま経験思考や想像のなせるわざのもとに神は 人間・社会ないし自然のものごと として見なされます。 ★ この超越論的な意識作用は想像だった。 ☆ いかに《超越論》と言えども 《意識作用》は この世界に属す経験事象であるとなります。 もっともそのように《経験事象》であるほうがよいのだと言ってもおられるようですが: ★ そして想像によって立てられたこの対象が立脚するのは地平をおいて他なく、徹頭徹尾この超越論的な意識活動は経験的なものとして記述できるのである。 ところが 経験事象をそのまま扱うのなら ★ 当たり前だが無神論は神はいないという立場であり、無い神はいないとか無い神はいるとかは扱わない。 ☆ というようにしか議論できない。《〈有る・無い〉から自由な〈非経験の場〉》は 想定されていない。 言ってみれば 《神》なる言葉で表わされるもの〔があるという立ち場であり その立ち場から見えるそのもの〕は すべて人間の能力としての科学等によって認識が可能であるということになります。 だから ならば わざわざ《神》と言う必要はない。《お化け》とでも言っておけばよい。 ところがまた このように《神》を――無い神をふくめて――ぜんぶこの経験事象の世界に閉じ込めた場合にも 次のようなマチガイが起こるとも言うようです。 ★ そして神を考えるさいの最も根本的な誤りは、「神は~である」という宣言的知識をもとに想像し構成したかぎりでの神を、超越として存在させてしまうことだ。 ☆ つまり早い話をするなら 人びとは 《神》と言えば この経験世界にとどまるものではないと思っている。思っていて わざわざ《想像物》としての内容を こんどは 《非経験の場》へ揚げるという作業をおこなってしまう。ということのようです。 ならば いちいち経験事象として捉えることもない。初めに非経験の場であるという想定をしておけば 足りる。 ★ しかしこれは超越論的な仮象にすぎない。 ☆ と言って またもや経験世界に人びとの《志向性》を引き戻そうとすることになる。 ★ そして、神という名詞とそれが名指すものとしての神(もちろんそんなものはいない)、これを区別しなければ神を経験的な事象において捉えたという誤謬をおかす。 ☆ この議論で矛盾を呈していることは 人間の言葉で指し示すところの ★ 神(もちろんそんなものはいない) ☆ とすでに断定してしまっているところである。もしその《神という名詞が名指すものとしての神》が《非経験の場》のことであるならば それは有るとも無いとも人間が規定することは不可能である。もしそれが 《経験領域における思考や想像の対象》であるならば それは《有る》のです。想念として存在している。のです。《もちろんそんなものはいない》という判断ないし規定は 意味がありません。 だから どうしても《非経験の場》の想定 これをなさないならば 神の議論はどこにも到らない。話はむしろ始まらない。ということでしょう。 ★ やはり神は不要なのであるし、不可知なのである。 ☆ 《不要だと見る》のは 無い神を受け容れた無神論という信仰の場合ですし 《不可知》というのは 経験事象としてあり得る(*)ようですから それを神と言っても ただの文学表現にしかならない。お化けのことを言っているに過ぎない。となります。 非思考の庭に受け容れたナゾは 《非知》と言えばよいでしょう。 * 不可知が経験事象としてあること:アーベル-ルフィニの定理:「5次以上の方程式において、四則演算等を用いた一般的な解法は、存在しない」 (つづく)
- manuke22
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「生物にはヒトと同じ赤い血が流れているのでそれはヒトの身としての存在ですねという判断にそれほど遠くないと考えます。つまり部分観に依拠する議論であると」 変わりないでしょう。あなたは言葉を使えるぐらい成長した人間が一人称を使うという点を挙げ、それを「存在」とした。だから私はオランウータンもチンパンジーも「存在」だとした。その返答がそれですか? 還元論だから間違いだとかにはなりませんし、部分観(?)だから間違いだとはなりません。それで有効な批判ができた気になっているのでしょうか? あなたは血をもたない植物や昆虫を生物から弾いているのでろくにカテゴリーもできていない。分類すらちゃんとできていない人がやれ部分観だ還元だと言ってもしょうがないです。植物は生物という集合の要素である、こんな単純な分類もできてないんですから。 「舌足らずだったようですが《存在》という言葉を無生物にも当てはめることがあるというただ表現の問題として言っています」 表現もなにも、机は存在するんですから存在ですよ。存在者とも言いますが。 「思考と自由意志による判断、これの有無でヒトとそれ以外の生物を種差ありとして分けます」 じゃあある種の動物もヒトですね。自由意志の有無? 意志決定が発生するまえに脳でニューロン発火が起きており、つまり意志は脳内現象から派生した現象すなわち結果なわけですから、脳内現象に規定されているので私に自由意志はありません。私はヒトではなかったようです。 あと、思考があなた以外の人間にあるかどうかわからないので(認識できないことは認識できるでょう?)、あなたは他人に思考があると信じているだけですから、他人はヒトだとは言えませんね。 もっとも、種をそんな性質でわけようとするからオランウータンにやられちゃうんです。ちゃんと生物学的に種差はあるんですから、自己流分類なんてしなくていいです。種を分類することは倫理的な差別じゃないんですから。 「この分類をしたならあとは《比較》はその《基本》についてはしません。する必要がありません」 そうですか? 「他人に思考がある」なら他人はヒトですが、あなたは「他人に思考があると信じている」だけなので、他人はヒトではありませんね。あなたの神論法を使わせてもらいました。 「もう共同主観の基礎理論としての《存在》論ではありません」 なんにせよあなたの定義により、ヒトはこの世にあなた1人だけとなりましたので、そんなものはじめからなかったわけです。「他人に思考と自由意志がある、というのも主観による判断なんですけども」 友人などが死んだから悲しいのであって命一般の尊さどころじゃないです。自分と親しかったから悲しいのであって、つまり長年つきあった人格あるいは他我が死んだことが問題であり、尊いのはその人の命ではありません。 「アルジェリアのテロ事件で犠牲になった人びとについて ひとびとは《命一般のとうとさ》をおぼえると思います」 それもありましたよ。他人のことですから人格ではなく抽象的な人命一般論になるのも当然かもですね。しかし人が死んで蟹やウニに尊さを覚えるとは思えないですね。 「命の重さ」「人権の尊さ」「人命の尊さ」「人命よりテロ対策 こうした事件の際には人命尊重などは考えない」「ネトウヨホイホイ」「自己責任で危険地域に突っ込んでいって死んだ奴らなんて知るかwww」「安部無能」「危険だってわかってだろ」「こいつらチョンか」「アルジェリア政府許せない」 あなたの言う「惰性」にある人が多いみたいですよ。もちろん、彼らみんなも人権ではなく重さでもなく命一般の尊さを覚えているはずだと思うのは自由です。 「子どもがまだ歯の大切さを知らないという要因があるからです。自由意志の阻害には子ども自身にとっても・長い目でみたらあたらない。と見なすところから是としているはずです」 要因という条件があるからでしょう。功利主義でもそう判断します。「長い目で見ても」? 自由意志は行為を意志が自由にとることなんですから、強制的に連れていかれている時点で阻害です。しかし子どもの自由意志を阻害してでも虫歯の悪化を防ぐことがよいわけです。子どもが歯痛の悪化を好むなんてのはありませんから。強制という点では好ましくないが、治療という点では好ましい。善くもあり悪くもある。 「それは本人が基本的にやましさ反応によって判断するものです。とうぜんやましさ反応が出ますから」 おかしいですね。殺意をもって、害意をもってと書いてるんですが。 で、どっちのほうが悪いんですか? 顔を殴るほうが悪いですよね? また自由ですか? 「存在とその持続が言うなれば善です。それとしての治療です。つまり広義の治療です」 なるほど。条件づきで注射針を身体に刺すのはオッケーなんですね。 治療「病気やけがをなおすこと。病気や症状を治癒あるいは軽快させるための医療行為。療治」 予防や献血は治療に分類されないのでちゃんと分類できてないですね。また「広義」を使ってるようですが、その「広義」の「治療」が書かれてある辞書の名を教えてください。広義なんですよね。 「またそのときの取り決めはどういうわけか主権在民という原理の上に」 どういうわけかとはどういうことでしょう? 「《ひとは他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない」 あなたがはじめのほうで誘拐の例を挙げたじゃないですか。あれは拉致被害者の自由意志を阻害していないんですか? だとしたら信じがたい理論ですね。嘘をついてるんですから。 「他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない」 命一般ではなくなりましたね。 自殺、尼崎コンクリ殺人事件、ホロコースト、9.11、いくらでもその事実命題を偽にする反証がでてきます。 「自由意志が人間を傷つけようと思ったりあるいは殺そうと思ったりすることはあるがそうはしないものだ」 自分で挙げたテロ事件をお忘れですか? もしこの基礎理論の言うとおりなら、派手に喧嘩した子どもや警察官や犯罪者や私は人ではないですね。いやーどうもどうも基礎理論に人非人認定されましたごみくずマヌケでございます。 「応用部門ではひとつにこの基礎の基本命題を《なんぢころすなかれ》というふうに規範化します」 それキリスト教とかじゃないですか。規範化しないなら人は殺してもいいし殺さなくてもいいというアナーキズムになりますね。もはや自由主義ですらない。そしていざ応用してみようとしても「やましいと感じるはずだ」みたいなことしか言えない。 「応用部門が基礎理論に先行することはないからです。規範化した命題のほうがつよい・エライとでも思うくせが人にはあるようですから」 意味不明。なら基礎理論は応用理論より偉いんだぞ、すごいんだぞということですか? そんなこと気にして規範化しないんですか? というより基礎理論を応用部門より先に考えたなら先行されるわけがないでしょう。 で、その人ってだれですか? 答えなければ知りたいという私の自由が阻害されます。 「これは・つまり考えることは自由です。その《考え》と《規範》とは同じ次元で比べられません」 いいえ。表現の自由と投票権を行使できます。 「《規範》は愚の骨頂でしょう。感性が負の善だと反応し判断しているものを」 違うでしょ。あなたの意見はこうです。なんらかの物理的生理的反応が人体に生じ、それを人はやましさと呼び、その行為を負の善だと判断する。ちなみに感性がではないです、私もふくまれちゃいますから。あなたが負の善だと判断します。 「そのおのれの猜疑心を休めたいという一心からのように」 いやいや。決め付けはよくないですよ。 「感性の回答=つまり正解」 人体の生理的反応は回答ではなくまさに反応であり、かつ、正解という論理的当否を含みません。しかも事実に反してましたし。 「なおわざわざ文章化(つまりいわゆる文化)」 あなたですね。なるほど。なんにせよあなたは自分が絶対に正しく、自分と同じ考えをもたない人は愚かであると見なしていたんですね。そしてそれを言うことにやましさを覚えていない。 あと規範倫理学者や哲学者はあなたの言う正答を文章化しているわけではないので、あなたの「愚の骨頂」発言はただの感情表現ですね。 「基礎理論は《われは心の奥底なるヒトにとっての思いとして、身のやましさ反応と共なる心にすなおにしたがい、よく自由意志を用いよう》と言います」 基礎理論ではなくあなたがですね。ってかまた増えた。 「応用部門では、というより基礎理論のあとただちに理性は――これを一般にアマテラス理論と言いますが――」 知りませんね。何という名前の学者が主張した理論ですか?
お礼
さあ あらたなラウンドです。張り切ってまいります。 こんにちは。ご回答をありがとうございます。 まづおぎないがあります。 ★★(回答No.14) ~~~~ 「命なる存在が尊いと考える」という言語化された判断や思考が理性とは無縁であると見なすなら、それは誤りでしょう。存在について感性でも五感でも考えたりできません。反応ではなく判断です。 ~~~~~~~~~ ☆ このくだりは触れずじまいでしたが この点について うべなっておかなくては話が行き詰まります。 すなわち やましさ反応であたかも善い悪いを感性が判定するというとき それを知覚し認識して《やましい・やましくない》や《よい・よくない》と自覚するのは 理性ないし知性であるということ。さらには その理由を考えたり その事態を世界の中に位置づけたりします。 ぎゃくに言えば たとえば欲情が起こりこれを感知したというとき その感性だけで人は行動するのではなく そうではなく 理性と意志が ひとつの場合としてそれがよくないとしても すすめるべきだと欲したとき そのときにはその弁明・釈明 言い訳・申し訳 申し開きまでをも考えておくのは 理性である。ということ。です。 ★ ~~~~~ 「生物にはヒトと同じ赤い血が流れているのでそれはヒトの身としての存在ですねという判断にそれほど遠くないと考えます。つまり部分観に依拠する議論であると」 変わりないでしょう。・・・ ~~~~~~~ ☆ まぁ どちらの議論も 似たり寄ったりだということにします。 ★ 自由意志の有無? 意志決定が発生するまえに脳でニューロン発火が起きており、つまり意志は脳内現象から派生した現象すなわち結果なわけですから、脳内現象に規定されているので私に自由意志はありません。私はヒトではなかったようです。 ☆ 申し訳ないが(あるいは 申し訳あるが) 意味不明です。 ★ あなたは他人に思考があると信じているだけですから、他人はヒトだとは言えませんね。 ☆ 程度問題がありますが・つまり浅い深いがありますが 言葉をつうじてやり取りをするのは 思考の存在を示します。 ★ もっとも、種をそんな性質でわけようとするからオランウータンにやられちゃうんです。ちゃんと生物学的に種差はあるんですから、自己流分類なんてしなくていいです。種を分類することは倫理的な差別じゃないんですから。 ☆ ぢゃあ わたしの種差の定義の仕方がマチガイだということですね。どうマチガイか分かりませんが それなら あんまし長いやり取りは必要なかった。 ★ 「他人に思考があると信じている」だけ ☆ あさい思考はあります。よ。事実です。 ★ 他人のことですから人格ではなく抽象的な人命一般論になるのも当然かもですね。しかし人が死んで蟹やウニに尊さを覚えるとは思えないですね。 ☆ 横へズレて議論するのが お好きなようですね。 ★ あなたの言う「惰性」にある人が多いみたいですよ。 ☆ そういう場合は 《惰性にあること》にとどまらず《たましいが去勢されてしまった》とたとえるのがよいでしょう。 ★ しかし子どもの自由意志を阻害してでも虫歯の悪化を防ぐことがよいわけです。 ☆ 親や身内の者であれば 治療を受けさせるのが 子ども自身の自由意志の問題をふつうにきちんと自覚させる行為になります。 ★ おかしいですね。殺意をもって、害意をもってと書いてるんですが。 ☆ 殺意や害意を持つ時点だけを あなたは見て言っていますよと言っています。前後の見境いをなくさず考えてみるならば すべては本人の〔すでに経験知として知っているところの〕やましさ反応が 基本的な判定基準になるという意味です。 ★ その「広義」の「治療」が書かれてある辞書の名を教えてください。 ☆ 他人の判断に頼らず 自分で判定してください。《広義の治療》という表現でよいのかどうか。 ★ ~~~~~ 「またそのときの取り決めはどういうわけか主権在民という原理の上に」 どういうわけかとはどういうことでしょう? ~~~~~~~ ☆ 《国家》は じんるいの初めからあったわけではなく やがて次の社会形態へと移行して行かないとも限りません。いまの段階で存在している国家という現実に沿って判断すれば という意味です。 言いかえると 主権在民は 国家が判定するのではなく 主権の存する市民たちの判断によるのだし もともと国家は その存在がなかったのですから 主権がなかった。つまり 市民圏に主権が戻るのは 初めからの常識であると見られる。ゆえです。 つまり 国家というよりは そのお二階さんとしてのもっぱらの公民の居住圏が 市民社会に大政奉還するまでは 国家〔どうし〕に主権があると見なされているという意味です。 ★ 「《ひとは他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない」 ☆ これが 基本主観であり 共同主観であるという意味です。その応用領域では 基礎理論が有効なままでありながら その基本史観の内容が破られる事態も起きる。という意味です。 このように自由意志の蹂躙については 基礎と応用との両立という言い方はしませんが 二層があって上層では基層の理論内容に現実で追いつかない場合がある。そういう問題です。 次の批評についても 同じことが言えるわけです。さらにそのあとの批評についても 触れませんが 同じです。 ★ ~~~~~ 「他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない」 命一般ではなくなりましたね。 自殺、尼崎コンクリ殺人事件、ホロコースト、9.11、いくらでもその事実命題を偽にする反証がでてきます。 ~~~~~~~~ ★ というより基礎理論を応用部門より先に考えたなら先行されるわけがないでしょう。 ☆ 《先行する》というのは 時間的にではなく 考え方の上でです。 ★ ~~~~ 「感性の回答=つまり正解」 人体の生理的反応は回答ではなくまさに反応であり、かつ、正解という論理的当否を含みません。 ~~~~~~ ☆ ですから・つまりおっしゃるとおりですから 《感性による知覚》は 知解能力によって認識されて悟性により概念として理解されます。その上で理性は その概念の内容を世界(記憶情報)の中にしかるべく位置づけます。というふうに――つまり確かに理性のハタラキを借りて―― 《正解・誤解》を判断することになります。 やましさ反応という感性のハタラキは 基本的にその反応が起きれば(そして特殊条件の場合などを除けば) わが心にさからう行為であるとあとで理性と意志は判断することになります。 ★ なるほど。なんにせよあなたは自分が絶対に正しく、自分と同じ考えをもたない人は愚かであると見なしていたんですね。 ☆ そこまで普遍性のある理論だと受け取ってもらったのでしょうか。 ★ あなたの「愚の骨頂」発言はただの感情表現ですね。 ☆ 批判するところが見出せなくなったという意味ですね。その感情表現は。 ★ 知りませんね。何という名前の学者が主張した理論ですか? ☆ だから言ってるぢゃないですか。学者などは 屁の河童であると。 アテに出来るのは ご自分ですよ。自分自身です。他人に頼らない。頼らない。
お礼
§ 78 カント 規範としての命題は 例の格率の文でもいいわけでしょう。 ▲(ヰキぺ:イマヌエル・カント) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88 § 2.3.2 倫理学 道徳法則は 「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ (Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」 という定言命法として定式化される。 ~~~~~~~ それにしても 次の考え方は どうなんでしょう? ▲ (Immanuel Kant:Kritik der reinenVernunft)Ich mußte also das Wissen aufheben, um zum Glauben Platz zu bekommen, ● 私は、信仰を容れる場所を得るために知識を除かねばならなかった(篠田英雄訳) ☆ なぜ《知識を除く(否定する?)》必要があるか? 《神》を《非経験の場》として仮りにそのまま想定するだけなのではないか? § 79 脅しにあったときの自由意志 ★ ~~~~~ 「そうである場合もそうでない場合も自由意志にゆだねられています」 つまりどっちでもかまわないわけですか? ~~~~~~~ ☆ 投票しろと脅される場合です。その脅しの度合いや その結果どこまで社会生活に支障をきたすか いろんなばあいがあると思うのですが? いのちの危険がある場合 これは相手の要求に屈したとしても 自由意志の怠慢でもへそ曲がりでもないでしょう。死をちらつかせるのは すでに無効の行為です。生き延びましょう。 あとは 場合によって どこまで基本主観をたもつか。もしくは譲歩するか。いくつかの場合に分かれると考えます。 § 80 動物のしゃべる言葉 ★ オランウータンやヨウムやチューリングマシンは人間ですか? ☆ 人間の言葉を――あるいは人間の言葉に聞き間違えることばを――しゃべる動物や機械です。 § 81 基本主観からの逸脱 ★ ~~~~~~~~ 逸脱 平均的な基準からの偏向の総称のこと。 一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、その上にルールから外れた望ましくないという道徳的裁定が込められる。 基本主観という「正道」からの逸脱は「望ましくない」のですか? ~~~~~~~~~ ☆ 《偏向 / ルールまたはそれから外れること / その偏向やハヅレを望ましくないと見ること》 これらをそのまま受け留めて考えるにしても すべては本人の主観内での判断によります。やはり《やましくないことと そこからの逸脱》とです。 § 82 同じく《信仰》からのへそ曲がり ★ なら教会に出向いて説法してくればよいです。 ☆ ですから 《集団としての宗教》はすべて《個人の信仰が 自殺行為をおこなってその跡に出来た〈信仰の抜け殻〉をオシエとして立てこれをあがめるムレたがり》であると言っています。 ローマ教会を初めとして宗教は すべからく自己解体すべしと言っています。 もっと強烈にまたは実際に教会にまでおもむいて話をせよと言われれば まだまだであるかも知れません。ときを俟ちます。 (まぁ もっとも《ときを得ても得なくても〔一歩一歩すすめていく〕》という考え方もあるにはあるのですが)。 § 83 わたし ★ あなたが言っているのは、「 x が私という一人称代名詞を使うならば、xは私という一人称代名詞を使える」ということを述べたのでしょうか? ☆ 必ずしもそうではありません。というのは 《わたし》を自称したということは 自称して何らかの意志を表明したはずであって そこには主観の航跡がうかがわれると言ってよいでしょう。 ゆえにそのような精神の軌跡をたどって行くならば ★ なぜある者が私という語を使うことがその使用者に「私」が存在することを証明するのですか? ☆ という問いに答えることができましょう。 ★ あなたの論法をとるなら、私は自分のことを意識や「あたし」と自称したりしないので、私には意識やあたしが存在しないわけですか? ☆ そこのところは 柔軟に文脈や情況を考慮して その人に意志があるのかどうか 自己表現しているのかどうかを捉えようとしてみれば だいたい分かるようになるでしょう。 たとえば あいさつをしてみるとよいでしょう。こんにちは! と声をかけて どう答え返して来るかです。あいさつを返したならば 《わたし》の動態が見て取れましょう。また そのかぎりで 主観が生きていると受け取ってよいでしょう。そうして 問答をつづけます。 ★ あるいは、x が「あたし」や「ウチ」や「私」という語で自分を称するなら、x には「私」と「あたし」と「うち」が存在するのですか? ☆ 自称には その人の生きるたましいが存在し動いていることでしょう。 § 84 やましさ反応 ★ ~~~~ 「やましさ反応はそのように観察された事実です」 あなたが観察したのは赤面であり、これは酔っているときやら恥ずかしいときや怒っているときでも生じます。あなたの言う観察は解釈です。 ~~~~~~ ☆ そうですが その《解釈》はあくまで本人の主観の動態から来るものだということです。本人がどう思っているかです。 ただただ恥づかしいときと心にやましさが反応しているときとを ひとはだいたい見分けることができます。 《観察》というのは そのようにその人の主観がどのように自分の内なる現象を捉えているかをめぐってです。そのときに《解釈》が入ると言えば 入るでしょうね。他人が観察しているのですから。 ★ 観察だと言うなら、つまり経験的事実だと言うなら、あなたは他人の身体に生じている感覚内容を感じることができるんですか? ☆ 観察と解釈の結果内容について その本人に対して まちがっているかどうかを問い質せばよいわけです。 ★ 他人が赤面しているとき、他人の恥ずかしさでも悔しさでも焦りでもなく「やましさ」という身体的な感覚を感じたのですか? ☆ 本人は だいたい無理なく見分けることができましょうし 他人でもその観察において 《やましさ》かどうかをそれほど間違えることもないでしょう。不確かなら 尋ねればよいのですから。