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人生はヒラメキの連続である

感性が消滅しなければ、ヒラメキは生じ続ける。 ヒラメキが生じ続けるということは、人が生きているという事である。 人が生き続けるという事は、ヒラメキが生じ続けるという事である。 人生はヒラメキの連続である。 人生とは感性の場である。 感性の自由が消滅しなければ、ヒラメキは生じ続ける。 感性が消滅するとき、ヒラメキも消滅する。 感性の自由の保証が希望である。 希望とは、感性の自由の保証なしには有り得ない。 希望とは、ヒラメキの泉を見つけることである。 生きるとは、ヒラメクことである。 知らず知らずのうちに、感性の自由を手にする事である。 小さなヒラメキは常に起きている。 だが、それは知るよしもない。 五感のみが与えられているという思い込みや状態が、見逃しを招いているのである。 その事は、精神活動の自然な制限である。 無制限の危険から守るための自然な働きである。 ヒラメキとは、精神活動の制限という壁を超えて現れた感性の自由の証である。 以上の考えが送られてきたのだが あまり面白くない。 どうやら、ヒラメキとは毎日メシを食っているようなものだと言いたいらしい。 ヒラメキというメシはうまいのか、まずいのか? コシヒカリぐらいの味はあるのか? 人生という茶碗に盛っていいのか?

みんなの回答

noname#221368
noname#221368
回答No.3

 間違いじゃない、とは思いますよ。  ただA=Aは常に正しい、といった類の主張と同様な虚しさは感じました。 >どうやら、ヒラメキとは毎日メシを食っているようなものだと言いたいらしい。 とは思えませんでしたが(^^)、むしろ自分は、その方がそういうメッセージを送った、文脈なり動機の方に興味が沸きます。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます。 ちょっとだけ・・・ 遊びではない状況が、ここ数日間ありました(正確には12.31のお昼少し前から) 今日の午後1時19分に一つの確定をみました。 長かったです。 メッセージが送られてきたのは、長かったせいです。 12.31の解読ができない苛立ちに対してでしょう。 ヒラメキに一つとして同じものはないようです。 だから困るのです。 すこしやけくそだったかもしれません。 お笑いください。

noname#189751
質問者

補足

皆さんに、ヒラメキに関する自由なご意見を寄せていただきたいと思います。 体験の有無にかかわらず歓迎いたします。 現実にヒラメキが起きてしまうという事を 素晴らしくもあり、素晴らしくなくもあり、といった感慨をもっています。 皆さんはどのようにお考えでしょうか? あと3日間ぐらい開けておきたいと思います。 よろしくお願いします。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.2

>以上の考えが送られてきたのだが 誰からおくられたんですか? ぜひ教えてください。 >あまり面白くない。 食ってもないのに文句言うとことか、まるで知識階級よね。

noname#189751
質問者

お礼

馬鹿息子から。 魔といってもいい。 直観的な事を分析しても味気ない。 魔は、あれこれ言ったあげく、最後には指をさして 今まで言った事はすべて嘘だったらどうする、といつも聞く 受け入れるのか、受け入れないのかの境目を尋ねる 知識とは、魔に勝つための手立てのほんの一部でしかない 生かじりだけの分析だけを示して、また境目を尋ねられたようです。 皮肉よりも、できれば何らかの答えが欲しかった・・・ 残念です。 魔が、なぜ私に送ってきたのか その理由を明かす必要もないようです。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

「人生という茶碗」が、「健康で文化的な最低限度の生活」なら、可? >「ヒラメキというメシはうまいのか、まずいのか? コシヒカリぐらいの味はあるのか?」 気の利いた回答者なら、ここで幾つかの銘柄でも提示されるんでしょうけれど。

noname#189751
質問者

お礼

>「人生という茶碗」が、「健康で文化的な最低限度の生活」なら、可? そうです。 米というメシはうまいのです。 何気なく食っている米は、噛めば噛むほどうまい。 噛み締めて食う、という境遇においてメシはうまい。 ニ三粒の米の味が、始めから盛られているメシにある事を知り得るのです。 ありがとうございました。

noname#189751
質問者

補足

知ろうとしても知れず、知ろうとしなくても知らされてしまう。 ヒラメキとはそうしたものだと思います。 有用なものと非有用なものとがあるように思いますが どのようなヒラメキが得られるのかは、個人の資質に深く関わっているように思います。 ヒラメキとは個人の資質を写す鏡なのかもしれません。 それは、それぞれの人において、私だけの直観の世界が繰り広げられている、といった事なのでしょう。 ヒラメキと向き合うことは、自分自身と向き合う事でもあるようです。 有用でないヒラメキは、ただの知らせで終わってしまいます。 また、有用なヒラメキでさえ、口外できるのはわずかではないでしょうか。 知る事の全てを語るのは虚しい、といった感じもします。 自分の中に感性の自由な泉がある、と知り得ただけでもヒラメキに感謝すべきかもしれません。 非有用なヒラメキがほとんどである私の感慨です。 この場を借りて、一応お伝えしておきたいと思いました。

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