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目に見えることだけが全てではない、という言葉の語源

宇宙などの科学的分野で使われていたような記憶があるのですが、 あの言葉は誰の言葉なのでしょうか? それとも自然発生的に生まれたものなのでしょうか? 単語が悪いのか中々検索にヒットしません。

みんなの回答

  • SPROCKETER
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回答No.6

 誰の言葉とか、そういうものではなく、ずっと昔から言い伝えられている言葉だろうと思います。  おそらく、洋の東西を問わず、どの地域の文化圏にも類似した言葉があるのではないでしょうか。  科学的な意味では、人間の認識能力には限界があって、知覚出来ないもの、理解出来ないものがあまりにも多く、眼で見えるものだけが全てだと信じていると、理解出来ないまま終わる結果になるという意味になります。  たとえば、眼で世界を見ているのは、大昔から知られていますが、眼で見ているのは、世界を照らしている太陽光スペクトルの一部の帯域に過ぎず、大部分の帯域は眼に見えず、知られる事も無いままでしたが、現在は赤外線からガンマー線に至るまで、受光出来る望遠鏡が出来たので、ほとんど全ての波長で太陽光を調べる事が出来ます。  同じく、眼で世界を見ていると言っても、実際には脳の視覚野で眼の視細胞が受光した信号を分析して認識しているわけで、脳というコンピュータが画像認識して、初めて見た事になるのも知られています。  眼で見えていると信じ込んでいるものが、実際は眼で見えないものを加えて考えると、まるで違っているものだったという話は、赤外線分光系で撮影した銀河や暗黒星雲などを見ても明らかであり、可視光とは全く違う画像が見えて来ます。  我々は互いに人間だと思っていますが、どこまでが人間なのかは、眼で見える範囲のものに過ぎません。人間みたいに見えるだけのロボットも実際に作られていますし、認識の限界を考えると、眼で見える範囲では、本当の事を理解していないのかもしれませんね。

  • Oubli
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回答No.5

自然科学は観察できることがすべて、と言う発想ですからちょっと違うのではないでしょうか。 All that glitters is not gold. 指輪物語でのガンダルフの発言ですが、もっと昔からある格言だと思います。

  • booter
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回答No.4

もう少しだけ調べました。 星の王子さま - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E3%81%AE%E7%8E%8B%E5%AD%90%E3%81%95%E3%81%BE 「大切なものは、目に見えない」 文学としての一つの基準点としてはここで良いように思われます。 あるいは宇宙からの人間知の限界を指摘する文章は沢山あるかと思うのですが、 ひとまずは「フェルミのパラドックス」を挙げておきます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 フェルミのパラドックス(Fermi paradox)とは、物理学者エンリコ・フェルミが最初に指摘した、地球外文明の存在の可能性の高さと、そのような文明との接触の証拠が皆無である事実の間にある矛盾のことである。

  • booter
  • ベストアンサー率34% (269/769)
回答No.3

こんにちは。 私の想像ですが、科学でこの言葉とくれば、「ゲーデルの不完全性定理」を頭の中で読み替えてしまったのかな、と思います。 第1不完全性定理 自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。 第2不完全性定理 自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。 あるいはこれはクラシカルに考えると実念論と唯名論の違いになると思います。 これを分かりやすく紹介している書籍があるので、引用します。 人間の叡智 佐藤優 58ページより <中世から近代へ至るプロセスにおいて、イギリスは世界の中で例外的なものの考え方をする国でした。何がかというと、リアルなことに関する認識の相違なのです。リアルというのは、ラテン語の「res(もの)」からきています。ものは目に見えない。見えないけれど、確実に存在するのだという感覚をもっていたのが古代人や中世人です。それが実念論(リアリズム)です。たとえば見えないけれど「くだもの」という類がまずあり、そこから派生したのが個々のリンゴやミカンやナシやイチゴだというのが実念論です。目には見えないが「愛情」というものがあり、それが具体的な夫婦の間などに顕現するという考え方です。  今、私達は目に見えるものがリアルだと思っていますが、実念論では、目に見えないものがリアルなのです。なぜならそれは神がつくったものだからです。  その感覚がだんだん薄れてきて、目に見えないものなどない、目の前に見える具体的な形あるものだけが「もの」で、概念というのはそれに仮の名前をつけているにすぎないと考えるようになる。リンゴやミカンはあるけれど「くだもの」は本当にないという考え方、これが唯名論です。誰かが誰かを愛しているのは個別の関係で、それを通分できる、通約できるような「愛情」というものがどこかにあるわけではない。ただ便宜的に愛とか信頼とかいっているだけだ。そのように個別的なものの因果関係をみていく、という形で近代の科学的な考えは発展してきました。> 「目に見えることだけが全てではない」という言葉というのはつまり、唯名論の否定となるのだと思います。ただ申し訳ないのですが、私もこの言葉の初出の調査はここまでで、それ以上の事を追えませんでした。 認識 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E8%AD%98 より、直観的認識、感性的認識、理性的認識、知性的認識の分類で言えば、世の中のものは、直観的認識だけではなく、感性的認識、理性的認識、知性的認識もあるのだよ、という指摘なのでしょう。 インターネットを探すと Sometimes the heart sees what is invisible to the eye. -H. Jackson Brown Jr. 時に心は目に見えないものを見る。 (H. ジャクソン・ブラウン・ジュニア) というものが引っかかるのですが、これも初出ではなく、古くはギリシャ哲学のプラトンにおけるイデアまで遡る事ができると思います。 日本での色即是空、空即是色もこのジャンルに入りますね。 この言葉は私なりに解釈すると、目に見えるものと目に見えないもの両方が実際に存在するという前提で、「いろ すなわち これ くうなり」つまり色づいて有るように見えるものでも実際には何も無いんだ、そして空即是色「くう すなわち これ いろなり」つまり無いように見えるものでもあるのだ、すべては永遠普遍の実体ではなく、常に移り行く動態としての実体だと。 蛇足で言うのですが、私は多くの人と同様、唯名論・実念論のどちらにも与しません。少し難しい話しになるのですが、私の立場は、どちらかというと「目に見えないものはあるんだよー」という実念論の立場なのですが、実念論そのものの成り立ちが、人間が知覚しうる観念(目に見えないもの)が実体化している(そして現実のものになっている)という人間主観の論理から抜け出せていないので、目に見えないものがどこからか実態として継承されるとは思っていません。 簡単に言えば、魚っていう概念があるからその概念を継承し実体化したアジやスズキがあるんだね、という考えのようなので、そりゃ違うだろ、もうちょっと客観的に見てみろと思っているのです。今の世の中に生きているおおよその人はこんな感じでしょうが、簡単な余談まで。 また、基本人間主体の主観ではなく、世界に人間その他を影響せしめうる何かが存在していて、それにいろいろなものが影響されるという感じかなとも思っています。森羅万象お米の一粒にも神様がいるみたいな古い日本人観のアミニズムです。 Perfumeというアイドルグループの「エレクトロ・ワールド」の「見えるものの全てが 触れるものの全てが リアリティーがないけど 僕は確かにいるよ」という歌詞は、現代日本社会の大衆文化にきっちり「見えないものの存在」を規定したようで、社会学的に見て私は非常に嬉しいです。

noname#175265
noname#175265
回答No.2

哲学の観念論を知っている人なら中学生でも言える台詞です。よって、明確な語源もなければそれを調べる意味も薄いと思いますよ。実際、何も大したことではないからです。物理学の素粒子論などよりも、遥か昔から言われています。

noname#204885
noname#204885
回答No.1

真っ先に思いつくのは、「星の王子様」ですが・・・。 かんじんなことは、目に見えない http://matome.naver.jp/odai/2126699596446530701 新約聖書のコリント書にも、良く似た表現があります。 わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 http://www.seiai.ed.jp/chapel/service43.html