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表札の普及はいつ頃から。
庶民の住宅に表札を出すようになったのはいつ頃からですか。 多くの庶民が手紙を出すようになってからだと思うのですが、調べてもよく分かりません。 東京、大阪、京都など大都市の例を希望しますが、その他の都市でもよいですから教えて下さい。 よろしくお願いします。
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再度、失礼致します。 ネット検索では既回答者様のおっしゃるとおり、 例えば『郷土史大辞典 下/歴史学会編/朝倉書店/2005』 …日露戦争に際して兵士を送った家でその旨を記した貼り紙を出したころから、 これにならい姓名を玄関に書き出す風習が広まったという。 その後、1923年(大正12)の関東大震災により人口の移動や住宅の建て直しが盛んになり、 表札は本格的に普及していく。 …などの情報一色の感は否めないですね。 上記の歴史学会に逆らう意図はありませんが、大規模災害だったのは確かだとしても、 関東大震災は地域限定であることと、以前から表札掲示の素地(=普及)が無いことには 新築&表札セットにも結び付かないと思います。 なので、更に追加検索を試みましたところ、下記のような訓令がありました。 ・『福岡県警察法規類典.第1巻/帝国地方行政学会編/帝国地方行政学会/昭和10』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444005/728 <728/1019>(1377頁) ●一般人民門戸標札 明治二十二年一月訓令保第八號 一般人民ニ於テ宅地番號氏名標札ノ門戸ニ釘付可致義ハ明治十二年四月甲第六十二號 長官御達モ有之候處間ニハ名刺ヲ貼付シ或ハ規定ノ寸法ニ違ヒタル標札ヲ掲ケ 又ハ門戸ヲ有スルモノニシテ戸口ニ釘付スル等全ク標札ノ効用ヲナサシメサル者 往往有ノ哉ニ相聞ヘ甚タ不都合ニ付能ク規定ニ從ヒ標札ノ効用ヲ失ハシメサル様 執行注意セラルヘシ 上記の「明治十二年四月甲第六十二號長官御達」が何処の省庁・官職を指すのか 確認未了ではありますが、明治22年当時、名刺貼付・規定外表札・門戸不掲示(戸口掲示)に 対する注意喚起は有るものの、表札自体の不掲示には言及されていないところをみれば、 少なくとも福岡県では相当程度に表札が普及していたと考えられます。 また、上野毛村では表札27戸分等を纏めて注文なんて事例もありますから、 徴兵・納税などに対する反発を理由に不掲示の例外も考えられますが、 お上のお達しである以上、多くの庶民は隣近所に合わせるのが普通だったと思います。 (都合の良い解釈との御指摘を受けるかもしれませんが…) 下記は前投稿と同様です。 ・『山口県警察規程.上/山口県警察部/明29.12』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/791261/147 <147/698>(270・271頁) 〇甲第二十號(明治十二年一月二十日本縣布達) 〇乙第二十四號(明治十二年一月二十日本縣達) 以上 現時点では各府県の表札普及が明治期の何時かまでは限定出来ないものの、 私見を翻すほどの根拠も見出せません(少数派意見に過ぎないかもしれませんが)。
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- dayone
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町並みに表札がズラリと並ぶ明治時代の写真でもとも思いましたが、 なかなか事は上手く運びませんでした(><) なので、巷の文字情報を集めてみますと、 明治45年の大阪毎日新聞によれば大阪市内では、 警察の戸口調査が非常に厳重になった事で普及率100%のニュアンス。 ・「神戸大学附属図書館/新聞記事文庫」 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10066134&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 「救済および公益事業(1-017)/大阪毎日新聞/1912.6.24-1912.7.1(明治45)」 昨今の貧民窟 (一~七)/(二) 残飯の香籠る路次 今宮(※大阪市内)の踏切即ち俗に云う下道の踏切を越すと… …昨今ではソンな事は決して無く、警察の戸口調査が非常に厳重になって何んな間口半間の 畳一枚しか無い荒家でも人が住む家であるからにはソノ家の主人の名を書いてある表札を 軒口に貼附ける事となって居てソレが又た近来彼等の誇りとなり己れは立派に警察の帳面に 載って居る人間だ、とコレ見よがしに表札をはり附ける様になったのである、… ほか東京府関連では、 明治10年時点で『懐中日用便』に布達(※後述)に基づく標札書式(東京府)が掲載され、 明治20年代には特許取得の陶製表札の販売、大正4年のハウツー本では 現今盛んに使用される様になった物の一つに標札が並ぶ状況。 ・『懐中日用便/青木輔清編/青木輔清/明10.1』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897460/16 <16/48>「標札書式 但し東京府」 ・『明治事物起原/石井研堂著/橋南堂/1908』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/240 <240/297>(426頁)「陶製表札の始」 ・『古今名誉鑑:徳育智育.第1巻/山田栄造著/玄堂/明27.3』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777885/35 <35~39/42>(48~56頁) ・『小資本成功法:最大有利商品製造販売/東京実業研究会編/大成社/大正4.4』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/911408/34 <34/68>(56頁1~2行目)「…現今盛んに使用さるゝ様になつたのは…各戸の表札、…」 冒頭の新聞記事の気になるフレーズ 「…家の主人の名を書いてある表札を軒口に貼附ける事となって居て…」に関して、 設置が個人か行政かを問わず不揃いの個人標札が増加する中、 各府県では雛形を明示して標準化をはかる布達=当時の行政命令が発せられ、 東京府や兵庫県では期限を定めた布達を発しています。 下記各URLを御覧いただければと思います。 (1)大阪府 明治5年9月 『類聚大阪府布達全書.第1編第5巻/古屋宗作編/竜雲舎[ほか]/明18-19』 「苗字表札」<386・387/401>(618~620頁) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788319/387 <387/401>(620頁)明治五年九月甲第三百六号達 (2)山梨県 明治7年2月 身延町誌>第三節 新戸籍法と家族制度 一、旧戸籍法の沿革 (四)明治7年戸籍編製法による改製 「3、各戸に標札を掲げさせ、戸内の人員を掲示する。これは本籍寄留を問わない。」 http://www.town.minobu.lg.jp/chosei/choushi/minobu/T12_C01_S03_1.htm (3)愛知県 明治7年6月 『愛知県布達類集. 明治4-8年/活版局/明9.5』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788163/352 <352~354/543>(632~635頁)第五十四號 明治七年六月 (4)東京府 明治9年12月9日ほか 東京府管内では、明治九年十二月九日に雛形を示し、 明治十年一月三十一日を期限として標札等を標出致すべし旨の布達。 『警察法鑒.明治23年/警視庁/明23-27』 「第七章 安寧/第五款 生死異動 附戸籍標札」 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/790942/182 <182・183/434> (332~335頁) 〇東京府布達 明治九年十二月九日甲第百四十四號 ※戸籍札更ニ一定候様別紙標札心得書相示シ候條 來明治十年一月三十一日限リ標出可致此旨布達候事※ (※~※/下記URL●から補完) ●『警察宝典:写真石版/丹羽五郎編/いろは辞典発行部/明26.6』 <328/343>(607頁)第七章 戸籍標札 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/790956/328 標札心得 第一條 宅地番號札ハ家主ニ於テ戸數點檢札ハ地主ニ於テ 戸主名札ハ居住人ニ於テ各自標出スヘシ … 第四條 戸主ノ名札ハ左ノ書式ヲ用フヘキ事 但シ爵位階勳等族籍等ヲ記入スルハ隨意タルヘシ 本籍ノ者 [苗字名] 他管ヨリ寄留シテ一戸ヲナス者 [某府縣 苗字名] 他ノ郡ヨリ寓居シテ一戸ヲナス者 [何郡區 苗字名] 他ノ町村ヨリ寓居シテ一戸ヲナス者 [何町村 苗字名] 他ノ番地ヨリ寓居シテ一戸ヲナス者 [何番地 苗字名] …但シ用材寸法適宜タリト雖トモ縦五寸橫二寸厚サ二分ヨリ小ナルヘカラス 書體楷書ヲ用フヘシ … <183/434>(335頁) 〇東京府布達 明治十年十二月二十七日乙第百號 區長戸長 人民傭入ノ外國人明許ヲ得テ居留地外エ住居爲致候者ハ左ノ書式ノ通 其家屋ニ標札相揭候様傭主ヘ無遣漏可及告示旨相達候事 [何某傭 何國人 姓名 橫文 片假名] (5)兵庫県 明治11年4月・5月 『現行兵庫県布達便覧.上/相馬幸治編/柳影社/明15』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788552/97 「…來ル六月三十日迄ニ戸籍番号ニ照ラシ更正可致…」 ほか、GoogleBooksの断片情報によれば、 「高知県、明治七年一月、戸籍事務に資するため標札を備えつけ示達」 「浜松県、明治6年4月4日布達第26号で家札(標札)を各戸に掲げる」 「金沢県、明治八年、家毎に標札」など 廃藩置県後の戸籍編製作業等との兼ね合いなどもあってか、 各府県毎に雛形の布達時期や内容の足並みは揃わなかったようですが、 概ね明治5年~11年頃の間に同趣旨の布達がなされたようです。 ただ、小難しい事を言えば、例外もあるようですが、 布告が人に対する命令・法律等であるのに対し、布達は太政官や省庁から府県とか、 府県から区長・戸長などに対する訓令の位置付けの為、罰則もない結果、 どの程度の効果があったかは定かではありませんが、 私見としては、明治末期を待つまでもなく、 各府県毎の布達が標札普及に相当の効果を及ぼしたと考えます。 以上 疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
ご回答ありがとうございます。 >私見としては、明治末期を待つまでもなく、 >各府県毎の布達が標札普及に相当の効果を及ぼしたと考えます。 この結論に異存ありません。 よくここまで徹底して調べられたものだと、感服し、感謝しております。 私は、郵便の普及と大きな関連性があると思っていたのですが、全くの思い違いでした。 ご教示の情報から戸籍法との関連性が高いことが分かりました。 そこで、戸籍法をキーワードにして調べてみますと、 結局、近代国家の仲間入りを急ぐ明治政府が最初にしたいことは、いろいろあるでしょうが、国民一人一人のデータをつくること、つまり苗字を許して戸籍を作ることが重要だったのだ、と思うようになりました。 そして「徴兵」です。 20代の男がどこに住んでいるのかを把握しておきたいということだったのでは、と思います。 このような背景で表札が登場したようです。 縦5寸、横2.5寸の板切れでよいのですから、庶民でも作ることができますね。 お陰さまで納得できる結論を得ることができました。 いつも親切な回答を頂いて感謝の気持ちでいっぱいです。
- tanuki4u
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表札の歴史 なんてので探すと どれもこれも「関東大震災云々 といわれる」という感じですね。 慶応大学所蔵の 東京警吏要覧 明治11年の P10 戸口取調手続 第二条 該署に於いては第一号図式に準じて管内各戸に表札を添付し其調査に便すへし とあります。(原文は旧字体で、カタカナ利用) 他の二箇所では、表札という文字を、火事の時の火元調査のため「火元の町名番地の表札を剥取最寄りの署へ報告し」とかるので 個人宅を同定する方法がなかったので、番地を警察が勝手に張っていた というように推測されます。 御参考までに
お礼
態々調べて下さってありがとうございます。 実は、表札だけでなく、町名番地はいつ決められたのだろう、という疑問もありました。 明治11年には、町名番地の表札があったのですね。 商家はともかく一般の住宅には、町名番地がなければ郵便物を配達できないのでは、と思っていました。 関東大震災での全壊・流失・全焼家屋は57万戸以上であり、死者・行方不明は14万人以上ですから、誰がどこに家屋を再建する権利があるのかと考えると、将に大混乱の極みだったでしょう。 再建した家屋に何よりもまず表札を出さねばという事情はよく解りました。 いつも親切なご回答に感謝しています。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
http://www.tile-nameplate.com/hyousatu_rekisi.html 関東大震災からだそうだ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 このHPには「…だったようです」という表現が多いですが、参考になります。 関東大震災後、家屋再建時、何らかの指導があったのか、調べてみます。 日露戦争時であれば町並みの写真もあると思いますので、図書館で写真集を見てみます。
- usami33
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表札は明治8年頃からです 明治4年に郵便制度の導入 明治8年には平民苗字必称義務令が施行され、 国民全員が苗字を名乗るようになったからです。 それ以前は表札ではなく、一部の人が苗字を使い 商家は屋号を使用していました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 明治8年頃から表札を出す家が出始めたということですね。 分かりました。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 これらの資料を読めば読むほど、明治の中ごろにはたいていの庶民の住宅に表札(標札)があったと考える方が自然ですね。 関東大震災で普及したという説にも何らかの根拠があると思って、ちょっと探してみたのですが、見当たりません。 >お上のお達しである以上、多くの庶民は隣近所に合わせるのが普通だったと思います。 同感です。これらの資料の多くは「官側」のもの、それも警察のものですから。 それにしても、たかが表札にそこまでこまごまと指図しなくてもよのではないか、と言いたくなるくらい詳細に指示していますね。 表札をとおして人民を管理しようとする意図が明らかです。(福岡県警は人民と呼んでいます。)表札は今よりもっと重要視されていたのでしょう。 読みにくい源資料を読み解いて、ご丁寧に回答して下さって誠にありがとうございました。