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「教科」としての歴史は本当に必要ですか
前略 "この様な"質問をさせて頂きましたが、私は広い意味でも歴史または学校関係者では全くありません。しかしながら、ここ数年「ある人物」が話題に上がるとある疑問を抱くようになりました。その人物とは国会議員「小沢一郎」その人です。ここまで読んで頂いた皆さんが「??」状態だと察します。なぜあの人から"そこ"に行くか、と…。分かり易く説明させ下さい…。どうでしょう、27、8才から上の方なら政治家小沢一郎の「何となくのイメージ」ならお持ちであろうと思いますが、"この人物"の「政治家としての顔」を数十年後、或いは百年後の人達に伝えることを想像した時、それを書く政治評論家、ジャーナリスト、識者などによって正に「百人百様」どころか百人"三百様"、つまり同じ人が3冊上梓したら全部ニュアンスが違っている様な気がするのです……。要するに「今、リアルタイムで我々と同じ空気を吸ってその存在を示し続けている現役の国会議員のことでさえ後世にその"本当の等身大を伝えるという作業"が困難であるのに私達現代人がいわゆる教養、常識として持っている「何百年あるいは千年以上も前の"おおよそ真実であろうと認識して問題はないに違いないと国レヴェルで認めている知識群"がどこまで信用出来る"代物(しろもの)であるのか?……。数年前、間違いなく日本を代表するあるアーティストがこう言っていました。「たかだか3、40年前の事だってこんなに分からないのに、ましてや『平安時代』の事なんてねえ~~」と……。しかし、ここで申し上げたいのは、私は「学問としての"歴史学"」は"掛け値なしに"素晴らしい物であることは理解しております。決して矛盾していないつもりです。なぜなら、人類そして広い意味での地球が、どの様な道を歩んで来たのかを探求しそれによって得られた知識を「"人類のそして地球の財産として"後世に伝えていこう」という精神は紛れもなく"高潔な"ものだからです。ここまで読んで下さった皆さん、「学校の教科」としての歴史は、どの程度必要なものとお考えでしょうか?幅広い職業、年代の方、勿論現役の学生さん(10才でもOKだよ)色々な御意見お待ち申し上げております。
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- Streseman
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まず最初に論説しておくが、教科として必須と呼べる科目は存在しない 冷静に考えてみれば歴史に限ったことではなく、日常生活を営む上で<学校教育でしか学べないもの>が存在するわけではない つまり幾らでも独学で学ぶことが出来る現実があるのだから、科目としての必然性は存在しない したがって、歴史に限ったことではなく、全ての科目は学校教育としては不要だろう 当方は予備校講師(世界史)を担当しているが、受験手段として指導することを首座にしているし、それを要請されているからこそ、受験目的で指導している では、学校教育においては・・・という意味では、多くの教科は”上級学校への進学のための手段”という実態が存在する その是非論はしないが、それが現実とも言えるだろうし、その現実の甘受の成否次第でもある では、学校教育を歴史の「とっかかり」として思慮するに、どうだろうか? 要は、歴史を学ぶ意味・意義は個人差があるとしても、歴史を学ぶ原初環境として学校教育は、指導環境が整備された空間であり、その空間で特別に助成されている教科として歴史の価値は、否定できるだろうか? 歴史に限らず、科目という概念は不要で、様々な知見・知識を得るための「とっかかり」としての学校教育の意味・・・と考えるのが適切だろう なお、本件質問のように改行しない文章は学校教育には存在しえないわけで、だからこそ学校教育の限界はあるかもしれない・・ しかし、その学校教育と「とっかかり」「基礎」として応用することが出来るようになるのが要諦であろう 学校教育で学べるのは、その程度の範囲であり、教育の本質は、当人に大きく依拠しているのであるから、この質問からしてナンセンスとも言えよう しかし、その学校教育の有効射程について、多くの人間が理解していないことが日本の問題かもしれないだろう
- hekiyu
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事実かどうかは難しい問題です。 それは自然科学でも同じです。 かつて、光は粒子であると信じられていました。 しかし粒子では説明できない現象が発見され 光は波である、という説が有力になりました。 現代では、光は量子であるとされていますが、 これだって将来どうなるかは判りません。 しかし、我々は粒子である、波である、量子で あるとやって、色々な成果を出してきました。 いわんや、歴史です。 色々な説があるのは当然です。 事実か否か判らないからといって、学ぶのを 止めることは出来ないのです。 そんなことを言ったら、学ぶべきことなど 無くなってしまいます。 そこで。 歴史を学ぶ、という意味ですが、これには個人的な意味と 国家的意味があると思います。 1,個人的意味 (1)人生の岐路に立った時の参考にする。 歴史は事実ではないかも知れませんが、多くの学者が 調べ解釈したものですから、そういう時の参考に なります。 (2)過去の英雄、賢人を誇りに想うことができ、自己啓発 などに使える。 2,国家的意味 (1)国民の統合に利用できる。 言語、習慣、人種などとともに、歴史を共有する ということは国民を国民とするための重要なツール です。 (2)こういう停滞期には、過去の偉大な先人達に 学ぶ、ということで活力が期待できる。 この国家的意義については、歴史が真実である必要は 必ずしもない訳です。
お礼
皆さん、済みません。この質問の50分位後に「言い忘れた"肝心な"こ」とを送らせて頂いたのですが… それは「歴史(歴史学)は中学校までで最低限を学んだ後は、個人個人で深めていくもの」ではないでしょうか?と。重ねて謝罪致します。
- staratras
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日本の民俗学の祖と言われる柳田國男が昭和28年に雑誌「改造」に書いた「歴史教育について」という文章(定本柳田國男集 24巻所収)は、ご質問に答える上で極めて示唆に富むと思います。(以下の引用の原文は旧仮名遣い) 柳田はそれまでの歴史(日本史)教育の問題点に関して次のように述べています。 「固有名詞や年月日の類は教師でも時折間違えることがある。僅か三四種の人名地名の索引、地図とか年表とかの備付さえあれば、入用の時にはいつでも引ける。いわゆる大事件などはもっと面白く、読ませる本が次次に出ようとしている、それをわざわざ試験までして、暗記させる必要がどこにあろう。何のために歴史は覚えなければならぬのか、是を少年が質問したときに、はっきりとまたわかり易く、答えられる準備は学校のみか、政治家たちの方にもあってほしいと思う。」 それでは何のために歴史を学ぶ必要があるのか、柳田はこう書いています。 「社会科の初期の課程は、今と昔の差異、今ある物の原因は必ず以前に在り、それも大部分は人間の選択で、そうはならずにすむ場合もたしかにあったのだということを、次々と自分で心づかせて、それを将来の政治行動、殊に年々の選挙の判断に役立たせるようにしたいものである。国の失敗は大も小もすべて取り返しのつかぬ過去の事だとは言いながら、それを再びせぬ用心の為のみならず、逆にこの経験を活用して、偉大なる再建を為し遂げる場合も必ず有り得る。」 60年近く昔に柳田國男が主張したことは、今も本質的には変わっていないと思います。歴史研究者や歴史の教員を養成する以外の学校で、なぜ歴史を学ぶ必要があるのかといえば、過去を知ることにより現在・将来の選択に資するためであり、そのためには歴史という教科を、細かな枝葉の知識を覚えさせる教科ではなく、太い幹をじっくり考えさせるような教科にすることが大切だと考えます。
お礼
皆さん、済みません。この質問の50分位後に「忘れていた"肝心な"結論」を送らせて頂いたのですが…それは「歴史(歴史学)は最低限を中学校まで学んだ後は個人個人で深めていくもの」ではないでしょうか、と。重ねて謝罪致します。
- daidou
- ベストアンサー率29% (491/1687)
今の学校教育における「歴史」は本質的な部分よりも、枝葉末節に重きを置きすぎている そう感じてはいます 学生時代、歴史は好きな科目ではありましたが、テストでは点数が取れない科目でもありました まあ、その頃に言っていた言い訳なんですが、基本的には間違っていない考えだと思っています 西暦何年に何が起こって、誰それという人が何を言って、これこれこう言う運動が起こった・・・ そんな固有名詞や年号を一生懸命に覚えるのが「歴史」の本質ではないはずです 歴史はストーリーのように前後の出来事が関連しながら流れるもの もちろん必然だけではなく偶発的な大きな転換点もあります 小さな偶然的な出来事が積み重なって違う流れを作ってゆく事もある アメリカの奴隷解放運動の背景にはどのような歴史の流れがあったのか? フランス革命に至るにはどのようなストーリーがあったのか? 第二次大戦の引き金とも言われる世界大恐慌は、なぜ起こったのか? そういう本質的な事、つまり歴史を見る目を養うことが歴史を学ぶ意味だと考えています 「鎌倉に武家政権を開いたのは誰で、それは何年か?」 そんな問題に歴史を学ぶ上での重要性はありません 「朝廷が武家政権の成立することを許容した理由を考察しなさい(参考書持ち込み可)」の方がよほど本質的な出題です ダクラス・マッカーサーという人物が重要なのではなくてGHQがどのような統治をしたのかが重要です 何年に何が起こったのか、ではなくて、どのような順序で物事が起こったのかが重要です 大正デモクラシーという言葉が重要なのではなくて、その中身とそれが社会に及ぼした影響が重要なんです もちろん、個々の名称や年次を知っているに越したことはありませんし、共通用語として認識している必要はあるでしょう ただし、今の学校教育ではそういった名称や年号の丸暗記に偏りすぎていると思います
お礼
皆さん、済みません。この質問の50分位 後に「忘れていた"肝心な"事を送らせて頂いたのですが…。それは「歴史(歴史学)は中学校までに最低限を学んだ後は、個人個人で深めていくもの」ではないでしょうか、と。重ねて謝罪致します。
- 4017B
- ベストアンサー率73% (1336/1814)
歴史を学ぶと言う事は、歴史を学ぶ事によって、人が歴史から全く何も学んで来なかった事を学ぶためです。 そしてそこから先、どう考えどう進むのかは貴方次第です。
お礼
皆さん、済みません。この質問の50分位後に「忘れていた"肝心な"事」を送らせて頂いたのですが…それは「歴史(歴史学)は中学校までに最低限を学んだ後は個人個人で深めていくもの」ではないでしょうか?と…。重ねて謝罪致します。
- Verhalten
- ベストアンサー率17% (36/201)
何年も歴史を勉強して何も会得する事が出来なかった。 それだけなのです。 歴史を覚えるには記憶力が必要です。 流れとして認識する。 文化や文学と分類して記憶する。 年号を記憶する。 このように、知恵を絞って問題を解決するのです。 その手段を構築する脳を育成させる為に歴史や学問はあります。 ひとつの物事があります。 趣味にも使えない方から、それを会得する方まで存在する。 つまり、 歴史を上手くライフに生かせなかったか、 抜きん出る記憶力を得られなかったか、 センター試験で伝家の宝刀に出来なかったのでしょう。 勉強方法の情報交換などで友人を作る方もいれば、趣味を茶化して無視される方もいます。 人を認めれば自分が認められます。 人を馬鹿にし続ければ永久にハブ(村八分)のままです。 それは歴史を馬鹿にするのそうだし、 人の持ち物を馬鹿にするのも一緒です。 ニュートンは良く嘲笑のネタになります。 「そんなのウソウソ!」 リンゴが落ちるのを見て奥義を知れ!! です。 出来なければそれまでの人間です。
お礼
皆さん、済みません。この質問の50分位後に「忘れていた"肝心な"事を送らせて頂いたのですが…それは中学校までに最低限を学んだ後は個人個人で深めていくもの」ではないでしょうか?、と。重ねて謝罪致します。
お礼
皆さんごめんなさい、この質問を送った50分位後に「言い忘れた"肝心な"事」を送らせて頂いたのですが…それは「歴史(歴史学)は学校の教科として中学校まで最低限を学んだ後は個人個人で深めていくもの」ではないでしょうか、と言いたかったのです。重ねて謝罪致します。