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念仏も6万回唱えたら自力じゃないか
先日、NHKの方丈記のテレビ番組を見てたのですが、 その中で「法然が念仏を6万回唱えたら、それはもう自力じゃないか」という 趣旨の発言があり、たしかにもっともだと思ったのですが 法然はこれについて何か反論してるのでしょうか?
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観想は他力でも、唱える行為は自力である・・・という段階から 唱える行為すら他力である・・・という段階に進むのではないでしょうか。 仏に対する呼びかけから、仏からの呼びかけのようになってくるのかもしれません。 何万遍という念仏の世界は、自力を超えた世界のように思います。 私の菩提寺の住職が語っていたことですが 長く念仏を唱えていると、ありがたくなってくる、のだそうです。 唱える念仏から、頂く念仏になってくるのでしょう。 小さな自力が大悲を授かるという事を信じて疑わなかったのが法然の教えだと思います。 その事を示す以外には何も無いのが法然の教えだと思います。 NO.1の方の言葉通りです。 実修の世界の奥のことは示す必要がなかったのではないでしょうか。 あえて自力・他力の事には触れず、論ずる事もなかったのではないでしょうか。 どのように解釈されてもいい、というような感じだったと思います。
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仏教は、その母体としてインドのヨガがあります。 念仏はひたすら「南無阿弥陀仏」を繰り返し唱えるわけですが、これの源泉はヨーガでも聖なる言葉を扱うマントラヨーガです。真言宗で真言を繰り返し唱えるのも同じ源泉です。中国経由ですので、道教の影響もあるようで、呪禁には、その影響があるようです。 一つのイメージを保ちつつ、同じ言葉をひたすら繰り返すことは、精神にある種の影響を与えます。要は瞑想の一種、あるいは変形です。 目的に応じて、自力、他力のいかようにでもできます。仏教の主旨からすると、我は捨てるでしょう。さらに浄土宗の主旨からすると、仏に一身を託すでしょうから、自力自体も捨てるのでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 日本で流行っているヨガは健康促進のハタヨーガですが、 聖句を唱えるマントラヨーガもヨガの流れとしてあり インド~中国~日本と歴史的に念仏の流れを辿ると面白そうですね。 中国では念仏と禅がくっついたりしてるので、自力他力もいかように 設定できるのかもしれません。
- NemurinekoNya
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六万回唱えたら、これは、も~立派な「自力」でしょう、いろんな意味で。 《大無量寿経》に「十回にすぎずとも心から念仏すれば…」(18念仏往生の本願)とあるでしょう。 なのに、この記述、阿弥陀さんの本願を信じられず、なおも念仏をし、自力で極楽往生を遂げようと努力する。これは、も~、《自力》以外の何物でもない(笑い) 「極楽往生が決定した。阿弥陀さま、ありがとうございます」の思いが、自然と「南無阿弥陀仏」のことばになってあらわれ、知らず知らずに六万回に達したというのなら、それは 《自力》ではなく《他力》(or《自(力)他(力)不二》)ですけれども。 「真実の信心には必ず名号を具す」。。。 「信心には必ず名号を具す」ではない。。。。 《真実の信心》ってなんなのだろ~? 《真実の信心》≠《信心》なんじゃなかろ~か!!
お礼
回答ありがとうございます。 どうやら他人からみた念仏6万回と、本人の主観的世界の風景は かなり違うようです。
- kurinal
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bougainvillea様、今晩は。 「自力」という用語についての理解が、可笑しいのです。 およそ、(殊に?日本の)大乗仏教において「自力」と言ったら、 「的外れな努力」といった意味になるのでしょう。 「6万回唱えたら、「的外れな努力」となる」ということではありませんよ。 ま、「目的」は(かろうじて)同じ?としても、 いや、同じとは言えないでしょうね、 (大乗)仏教はそれほどに「美化」されている、ということでしょうか。 ・・・「形式仏教」は、なにをかいわんや、でしょうね。
お礼
回答ありがとうございます。
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
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どうも。世間ではボーさんといわれているものです。みなさんそれぞれ回答をされていますが、史料的なところがあまり提示されていないので、しばらくお話しさせていただきます。 >>念仏も6万回唱えたら自力じゃないか (中略) >>法然はこれについて何か反論してるのでしょうか? 法然上人の『つねに仰せられける御詞』の中で 人の手よりものをえんずるに、すでに得たらんと、いまだ得ざるといずれが勝るべき。源空はすでに得たる心地にて念仏は申すなり。 と示し、法然上人は念仏をするから救われるのではなく、救われているから念仏を称えることができると説いておられます。 では、そのお念仏を何度も称えるということについて法然上人は『往生浄土用心』の中で、 百万遍申さざらん人の生まるまじきは候わず、一念十念にても生まれ候なり。一念十念にても生まれ候ほどの念仏と思う候うれしさに、百万遍功徳を重ねるに候なり。 とあって、念仏を百万回とか数多く称えないと往生できないということはないとし、一回でも称えるだけで往生できるお念仏のあまりのありがたさに、つい百万回称えてしまうと説いておられます。 つまり、救われるために六万遍念仏を称えるとしたら「自力」ですが、救われているという実感があるからこそ六万遍称えずにはおれないというのは、百万遍称えようが一千万遍称えようが「他力」といえるわけです。 また、ここからは余談ですが親鸞聖人は「救われるのに念仏はいらない」としたという趣旨の回答がございますが、これはちょっと間違いです。親鸞聖人は『教行信証』に中に 真実の信心には必ず名号を具す。 とあり、親鸞聖人はよく信心があれば念仏はいらないという解釈を受けますが、親鸞聖人にとって信心と念仏にほかなりません。ですから、念仏はいらないというのは大きな間違いですのでご注意ください。あしからず。 急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文、どうぞご容赦ください。 合掌 南无阿弥陀佛
お礼
> 念仏をするから救われるのではなく、救われているから念仏を称えることができる これはすごい価値感だと感じました。 6万回の念仏は感謝の気持ちなんですね。
自力、他力は皆さんの回答が正解です。 でも、質問者さんの感じた、もっとも感も判ります。 念仏だけで救われるなら、何も六万回も?ですね。 ま、単純に念仏が好き。念仏を唱えることで仏様を感じられていたんでしょう。 それに、法然上人は念仏を教え広めた人です。唱えない訳にはいかないと思いますよ。
お礼
回答ありがとうございます。 本当に好きじゃないと6万回はできませんよね。
- Y Y(@yy8yy8az)
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自力本願と他力本願についての解釈は回答ナンバー5の方が答えてくれています。 質問にある“自力”は六万回も念仏する“努力”のことを自力と言っているのです。 救われたいという思いは他力本願だとしても、努力しなければ神仏も対応できないのです。 母の手元からはぐれてしまった幼子は、声を上げてパパママと叫ばなければ、親は自分の子がどこにいるのか判らないので、救いようがありません。 自力本願も他力本願も、一方だけで成立するものではないのです。 法然はこの事を当然分かっていたはず。 でもこの質問に直接、答えているような言葉を残しているかは知りません。
お礼
> 母の手元からはぐれてしまった幼子は、声を上げてパパママと叫ばなければ、 > 親は自分の子がどこにいるのか判らないので、救いようがありません。 この答えはなるほど納得しました。 回答ありがとうございます。
- poomen
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「自力」とはあくまでも自分の力(修行その他)で極楽往生(解脱)するという方のこと、あるいは方法をを指します。 「他力」とは自分には解脱に至る力がないこと知った人が、絶望の果てに「南無阿弥陀仏」・・阿弥陀様どうかこのような私をお救いください・・・と願うことを指します。 京都には百万遍というお寺があります。ここで一度、南無阿弥陀仏と唱えると、100万回唱えるに等しいということで信仰を集めたそうです。 南無阿弥陀仏と称名をとなえることは、その行為で極楽往生を成し遂げようとするわけではありません。あくまでも阿弥陀如来に救いを求めているわけです。言い換えれば己の無力さをそこで告白していると考えてもいいでしょう。その上で阿弥陀如来の救済(他力)に頼っているわけです。 なので「6万回唱えたら、それはもう自力」というのは誤解だと私は考えます 法然がもし反論していたとしたら、自力と他力を理解しないものの戯言と、いうのではないでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 最終的な解脱を自力でするか、他力でするかで わけているんですね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 法然の原典からでなくてよければ ですが。 1. 自力と他力 ないし 聖道門と易行門との区別は あくまで救いないし成仏にとってのものです。 2. 日常の二十四時間の行住坐臥が極楽往生に直結すると見れば どうなるかとも考えますが たとえば生活として仕事に精を出すことは これは社会という人間関係およびその制度としての自然史過程なる《縁起の錯綜関係》においてながら 要するに自力でおこないます。 3. 言いかえると 人間の持つ能力 これは 生きるにあたってすべて使います。つまり 自力で生きるわけです。 4. 他力ないし絶対他力は さとりを得ることについての問題です。 5. 法然のばあいですが――No.3の回答にもあるとおり―― 人がそのようにブッダとなることにとって 人間がおこなう称名念仏という《自力の行為》は 阿弥陀如来のチカラという他力とまとめて成り立っているということではないでしょうか? 6. 親鸞になれば 念仏は 《非行非善》と言いますから 念仏にしろ何にしろ《自力の行為》のすべては その《修行》によって成仏するというのでもなければ それが極楽往生するための《善行》だというのでも まったく ない。ということではないでしょうか? 7. 上に(2)や(3)なる事項をわざわざ述べたのは では 親鸞の場合 生活において何もしないのか? という疑いが起きたとき そんなわけはないと答えねばならないからのことです。 8. 《すくわれる》ことと《生活すること》とのあいだに 人間の能力によって判定しうるつながりはない――または分からない――ということを言っているのであり それを言うのみだという意味です。 9. ぎゃくに言うと 親鸞のばあい こうなると すべてこの世は それを修行や善行として認識するのではないながら 自力の行為として生きて行くと言っていることになるかと思います。それが 絶対他力だと見ます。 10. 法然の場合は 生活の中のあらゆる自力の行為のうち 称名念仏にかぎっては すくいのためのものだという理解に立っていたのではないでしょうか? かくて その発言は 批判としては 的を射ていない――《自力》という話の筋が違う――と考えられますが いかがでしょう?
お礼
回答ありがとうございます。 日常生活は自力、念仏(救済)は他力ということですね。
法然について詳しいことはわかりませんが 他力というのはあくまで、 称名念仏をすると阿弥陀仏のおかげで極楽へ往生できるようになった ということで、 称名念仏の行はする必要があると思います。 しかも極楽浄土というのはあくまで、 修行場であって、極楽へ行って仏になるための修行をするのです。 それに、極楽は修行をするのに環境がとても良い場所ということです。 ただこの思想の欠点は、それなら今、生きている状態で仏を目指せばいいのに 即身成仏できるのに、という批判があるわけです。 それに上座部的な灰身滅智が理想だとすれば 死んで、極楽でまた死ぬのか?という疑問もあります。 極楽で、不老不死になるのが目的なら、 結局、不老不死こそが理想ということになります。 念仏をしなくても、極楽にいけたり、 極楽に行ったら自動的に仏になるなどと考えたのは 親鸞のほうでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。
- MOG777
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NO.1さんの言うとおりですね。 自力の定義の問題にすぎません。 質問の趣旨の論理でいけば、極端な話、一回唱えるだけでも自力でしょう。
お礼
一念多念論争ですね
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お礼
> 観想は他力でも、唱える行為は自力である・・・という段階から > 唱える行為すら他力である・・・という段階に進むのではないでしょうか。 客観的に他人から見たら、念仏6万回は物凄い自力の修行に見えるけど 本人の主観では、阿弥陀如来に救済されるまた別の世界が広がっているということですね。 ここに宗教の核心があるような感じがしました。 ありがとうございます。