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念仏も6万回唱えたら自力じゃないか
先日、NHKの方丈記のテレビ番組を見てたのですが、 その中で「法然が念仏を6万回唱えたら、それはもう自力じゃないか」という 趣旨の発言があり、たしかにもっともだと思ったのですが 法然はこれについて何か反論してるのでしょうか?
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noname#189751
回答No.7
観想は他力でも、唱える行為は自力である・・・という段階から 唱える行為すら他力である・・・という段階に進むのではないでしょうか。 仏に対する呼びかけから、仏からの呼びかけのようになってくるのかもしれません。 何万遍という念仏の世界は、自力を超えた世界のように思います。 私の菩提寺の住職が語っていたことですが 長く念仏を唱えていると、ありがたくなってくる、のだそうです。 唱える念仏から、頂く念仏になってくるのでしょう。 小さな自力が大悲を授かるという事を信じて疑わなかったのが法然の教えだと思います。 その事を示す以外には何も無いのが法然の教えだと思います。 NO.1の方の言葉通りです。 実修の世界の奥のことは示す必要がなかったのではないでしょうか。 あえて自力・他力の事には触れず、論ずる事もなかったのではないでしょうか。 どのように解釈されてもいい、というような感じだったと思います。
お礼
> 観想は他力でも、唱える行為は自力である・・・という段階から > 唱える行為すら他力である・・・という段階に進むのではないでしょうか。 客観的に他人から見たら、念仏6万回は物凄い自力の修行に見えるけど 本人の主観では、阿弥陀如来に救済されるまた別の世界が広がっているということですね。 ここに宗教の核心があるような感じがしました。 ありがとうございます。