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毛利隆元が死去した際の歳入減に関する元ネタは?

以前より気になっていたのですが、毛利元就の長男・隆元が死去した際、 歳入が三千~四千貫文減ったという記述を様々な本で見かけます。 しかし、いずれも雑誌や小説の類で、元ネタとして信用するには個人的には 今一信用が置けない史料ばかりだったりします。 国会図書館で毛利氏関連の史料(論文等の二次史料になりますが・・・)を 確認してみたんですが、いずれの史料にも、隆元の死後歳入が減ったという 記述はありませんでした。 そこで、戦国時代の史料・逸話に詳しい方、是非御教示下さい! 隆元死後に毛利氏の歳入が減った元ネタの史料ってあるのでしょうか?

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  • izuhara
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回答No.4

大日本古文書の『毛利家文書之二』にあります。 七六七号の元亀元年の毛利輝元自筆書状(桂元忠宛)に 「玖珂・熊毛・河内・岩国段銭さらへ之儀、涯分内儀究申付候、存外をまきれ候事多御座候、常栄遠行之後より、二三千貫余毎年不調申候、これにて惣之つこう可被成御推量候、不及沙汰儀共候」 との文があり、周防の一部で、常栄(隆元)の遠行(死去)から、2、3000貫あまりの段銭が毎年徴収できていないことが記されています。

saradin3594
質問者

お礼

回答ありがとうございます!!! 財政上の考察、国人対策関連の論文ばかりあたって、一次史料には「常栄公伝」と「陰徳太平記」「新裁軍記」の一部にしか目を通してなかったので本当に助かりました!! 書状関連の史料が元ネタでしたか! なにぶん筆マメな印象のある家なので、あたる前から心挫けそうになっていたので、御教え頂き本当に感謝です! どこの地域からの歳入が減ったかもさっぱり分からなかったんですが、周防国の一部からだったんですねw 本当にありがとうございました!!

その他の回答 (5)

回答No.6

皆さん、詳しく調べられていらしゃるようで、勉強になります。隆元が死去した際、歳入が三千~四千貫文減ったというのも初耳です。ところで、この時代の大名の歳入とはどのようなものだっかのでしょうか?私が想像する限り、毛利家の歳入は、年貢と厳島神社を押さえていたため、瀬戸内海の海上交通からの税、それと、やっていたかわかりませんが、明との貿易、隆元が押さえていたかわかりませんが、石見銀山からの収入が考えられます。政治手腕がたけた隆元が死んだことで、数々の離反がおきたと想像します。ウィキペディアで調べましたが、このころ倭寇が活発化したとのこと。明との交易していたなら、影響があるでしょう。また、尼子氏との戦は石見銀山の実効的支配ということが、大きな目的のように私は思っています。現在の政治にも繋がるとおもいますが、アンサーというより、質問になってしまいました。とにかく3本の矢が欠けると歳入が減るというのが私のアンサー。ベストアンサーには程遠い(笑)すみません。

saradin3594
質問者

お礼

回答ありがとうございます! 明というか朝鮮というか、そっち方面の貿易には隆元が関わっていた可能性が高いかもしれません。 隆元は出雲へ出兵中に陣中から大内義隆の花押のある割符を用いて朝鮮に使節を送ったりしているそうです。 石見銀山や赤間関、厳島方面といった商業上の要衝は元就の管轄下にあったそうで、元就の直臣が代官として赴任していたそうなので、隆元死去との関連性を個人的には疑ってたところなんですw No4で回答下さったizuharaさんの史料から考えるにやっぱり周防というと貿易絡みですかねぇ(´・ω・`) 尼子氏との戦は石見銀山の実効的支配、まさしくそう思いますw ありがとうございました!!

  • izuhara
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回答No.5

追記ですが、舘鼻 誠『戦国争乱を生きる―大名・村、そして女たち』(NHKライブラリー)に隆元の政治力の高さを物語る一例として記述されています。

saradin3594
質問者

お礼

追記も感謝です! 記載頂いた史料は確認済みだったんですが、やはりその逸話の出典が記載されておらず、気になっていたところだったんですw

回答No.3

訂正です 義興と書いてしまいました 単に打ち間違えです 義隆ですね☆ 大河ドラマでは隆元は義隆に殺されたとしていたはずです 確かに毛利元就は息子に家督は譲っていましたが実質毛利家の当主です 信長も家康も息子に家督を譲っても生きてるうちは実権を握ってましたからね 主さんが言う官位とは 朝廷の官位ですね 私が言ったのは幕府の役職です☆

saradin3594
質問者

補足

隆元は幕府から安芸・備中・周防・長門の守護職という役職に任じられています。 また右馬頭というのは朝廷の役職・官位です。

  • fumkum
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回答No.2

ウィッキーの毛利隆元のページには下記のような記述があります。 「内政・財務能力に長けていたと言われる(彼の死後、毛利家の収入が2000貫≒4000石ほど減少したとされる。また地方の国人領主達との折衝では、慣例などの行き違いが生じている)。また政治面でも秀でており、晩年、元就直属の重臣達と隆元直属の官吏達との間で意見対立が生じたことなどから、自分独自の派閥を組織できるだけの政治力を持っていた。」 出典は明示されていませんので、何とも言い難いことですが。 ところで、「国会図書館で毛利氏関連の史料(論文等の二次史料になりますが・・・)」と記載されていらっしゃいますが、「陰徳太平記」はお読みになりましたか。江戸時代(1695年前後の成立)の作ですが、戦国毛利氏に関してまとまった資料は陰徳太平記になりますので、あるいは関連する記述があるかもしれません(お読みになっていらっしゃいましたらごめんなさい)。後は元就や隆景などの書簡に記述があるかもしれません。特に元就の手紙には妻や隆元の早すぎる死を嘆き、追憶を記したものがありますので、その中にあるかもしれません。なお、陰徳太平記は時代が経っているだけでなく、毛利氏顕彰の意図が強いので、その記述が事実の反映だけではありませんが。 さて、隆元は陶晴賢と大内義長を滅ぼし、旧大内氏の領国を手中におさめ、さらに備後・備中に勢力を伸ばし、山陰で尼子氏と雌雄を決する途上で急死しますが、毛利氏の家督を継ぎ、従四位下大膳大夫に備中守及び周防・長門・安芸・備後・備中の守護でしたので、その死後に家督を継いだ輝元もしくは毛利一門がその守護を継承していない場合、守護の持っていた半済地給与、段銭・棟別銭の徴収などに伴う収入が減少した可能性もあるとは思います。戦国期に入っていたのでどれほど実効性があるのかわかりませんが、信長検地・太閤検地に関連して大和の興福寺は、実質の大和の守護としての守護権益に関する収入を持っていたとされますので、ある程度の実効性はあったのではないかと思います。 中途半端な内容ですが、参考まで。 毛利隆元 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%9A%86%E5%85%83 陰徳太平記 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98

saradin3594
質問者

お礼

回答ありがとうございます! 陰徳太平記の「毛利大膳太夫隆元逝去之事」の項と新裁軍記の該当の項目の所だけは読んだんですが、そこには記載されてなかったものでw また、陰徳太平記に関しては萩藩の官撰による「新裁軍記」で誤謬・誇張が多いと言われているそうで、読むのに気が引けてたところもあったかもしれませんw 半済地給与、段銭・棟別銭の徴収に関しては確かに考えられるかもしれません! 有意義な情報を頂き、ありがとうございました!!!

回答No.1

隆元の死には諸説ある 病死か大内義興に暗殺されたとか遠征中に戦死したとか… しかし隆元の死で毛利家自体の歳入は減るかな? 当時の毛利家の当主は元就だし 隆元も人質として大内義興のところにいた そもそも減った分の3000~4000貫とは元々どこからの収入だったのか… 当時の毛利家は大内家に従属して 元就の官位も右馬頭(従五位下) 隆元などはほぼ無位無官に等しい 領地としても安芸一国でせいぜい15万石あるかないかだから収入もたかが知れている つまり元ネタの資料などない 隆元が早死にしなければ毛利家は130万石を維持していられただろうに…

saradin3594
質問者

補足

回答有難うございます。 大内義興による暗殺はありえないでしょう。 (隆元が6歳の時に彼は病没してます。) また、隆元は死去する17年前に元就から家督を譲られています。即ち当時の当主は元就ではありません。 大内氏も隆元が死去する6年前に滅んでいます。 官位に関しては隆元は従四位下・大膳太夫に任じられています。元就は従四位上・陸奥守です。 武家が就く階級としてはかなり上の方ですよ。

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