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ただの妄想やん?
「かの哲学者◎◎は、屋根裏の窓際でこう説いた、『××とは○○、こうあるべきなのだ』と。」 というフレーズがありがちですけれど。 実体験でなく、想像で語られた哲学ってどうなんですか? わたしは疑問を感じました。 民家の窓際で語る、ウチの母の妄想話と同じような感覚を覚えました・・・ 哲学ってそういうものなんですか?
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>哲学ってそういうものなんですか? はい。 死とか、絶滅とか、宇宙の行く末など、体験できないものに対して答えをともめるのが哲学の哲学たるゆえんです。
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- obama111obama
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まあ、少なくともこのサイトの哲学語ってるほとんどの奴は、人一倍実学の欠けた、冴えない現実を誤魔化すためのオナニーになってるよな。そんな奴らにその質問投げても自己否定になるから、期待する答えかえってこないよ。 この世に経験せずして確信もてるアイデアなどないよ。 その通りだよ。
お礼
そうですね。 この世界には、自分も知り得ない事がたくさんあります。 だからこそ、自分が世界の中心ではないと自覚できるんだと思います。 ありがとうございました
その哲学者にしても、生まれてからその時までそこにじっと居続けていたわけでもないでしょう。 飯を食っているし他人と全く接触しなかったわけでもありません(不可能ですし、そんな人間は言語も発達できず痴呆のまま死ぬはずです)。 >実体験でなく、想像で語られた哲学ってどうなんですか? 実体験をいくら豊かに持った人間(ごまんといますね)でも、閃がなければただのホームレスで生を終える人も多いです。むしろそんな人が100%近いでしょう。 ネタの多少ではありません。要は平凡なネタでもいかにそこからインスピレーションを引き出すかです。 カントは一生田舎町で過ごしたそうですが、世界中に影響を与えた著書を書きました。 そんなもんです。
お礼
なるほど。 哲学の意味が少し分かったような気がします。 ありがとうございました
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
たとえば数学で、「マイナスの数字」とか平気で扱っていますが、 実際の世界で、マイナスの存在を見た事がありますか? しかし、日常の数を扱っていると、その算術を完結させるために マイナスが必要になるのです。 「実体験」=表面的感受したものの裏にある原理を把握する事で、 正しく対応する事ができるのです。 条件反射だけでは、淘汰によってしか適応できません。
お礼
ありがとうございました
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
>>> 「かの哲学者◎◎は、屋根裏の窓際でこう説いた、『××とは○○、こうあるべきなのだ』と。」 というフレーズがありがちですけれど。 実体験でなく、想像で語られた哲学ってどうなんですか? わたしは疑問を感じました。 民家の窓際で語る、ウチの母の妄想話と同じような感覚を覚えました・・・ 哲学ってそういうものなんですか? <<< 貴方の仰ることも「実体験ではなく、ディスプレイの前での想像」ではないでしょうか? >>> wikipediaより フィロソフィアという語 [編集]古希: φιλοσοφία(philosophia、ピロソピア、フィロソフィア)という語は、愛智[7]という意味である。希: philos(愛)+希: sophia(知恵、知、智)が結び合わさったものであるので、元来「philosophia」は「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている[3][4]。20世紀の神学者ジャン・ルクレールによれば、古代ギリシアにおいてフィロソフィアとは認識のための理論や方法ではなくむしろ知恵・理性に従う生き方を指して使われ、中世の修道院でもこの用法が存続した[8]とされる。一方、中世初期のセビリャのイシドールスはその百科事典的な著作『語源誌』(羅: Etymologiae)において、哲学とは「よく生きようとする努力と結合した人間的、神的事柄に関する認識である[9]」と述べている。この語はヘラクレイトスやヘロドトスによって、形容詞や動詞の形でいくらか使われていたが、名称として確立したのはソクラテスやプラトンが用いるようになってから[10]、とされている。 <<< 「民家の窓際で語る、ウチの母の妄想話と同じような感覚を覚えました・・・」 とありますが、妄想話と認識されうる話を語られている背景や、御自身のお母様に対する思いを一切省いて記述されることを、どのように考えておられますか? お母様のお話(知的論述)について、お母様への思い(愛)を切り離すことなく、何かを語ろうとか、何かを記述しようとか、そういった思いに至るなら、そこには「哲学」が芽生えるかもしれません。 語り手や聞き手の「情」(愛)を切り離した途端、それは「哲学」とは呼べない何かべつのものとして流れていくことでしょう。。。それは、「妄想」とか「想像」とかいったこととは別問題であり、たとえ「事実」だと認識されたことであってもです。
お礼
妄想ではありません。『疑問』です。 例えば、舞踏会なんてなんの関係もない、行った事も見たことも無い私が、舞踏会とはなんたるかを語っていたら、 それはちょっとおかしいですよね? 実際には触れたことのない事に対しての想像が、そのまま後世にまで語り継がれているのに、少し疑問におもったのです。 ありがとうございました
- waka7272
- ベストアンサー率40% (4/10)
哲学は答えの出ない問いを永遠と考えるもの、という風に私は考えています。 答えの出ない問いですので頭でこねくり回すしか無いんです。いくらこう実行したほうが良いと言っても、いやそうじゃない私の方法のほうが良い、という人が現れます。いくらでも そして最終的に脳内に行き着くわけですねw だからそういう物で良いんじゃないでしょうか?哲学 答えが出ないなら意味無いじゃん!!という人は多くいますが、いつの時代にも一定数、考えないとやってらんない変な人が居るから今でも哲学は存在しているのではないでしょうか。
お礼
ありがとうございました。 自問自答が学術だなんて、なんだか変な感じですよね
- oocry
- ベストアンサー率37% (11/29)
んだな~・・私も、そう思っていました (-Д-)机の上でな、何がわかるねん!! ・・と、私は考えます 頭ばっかり、動かした人より 実体験で、生きた、おばあちゃんの知恵、の方が優れていると、思いますし
お礼
ソラクテスという哲学者の妻である、クサンティッペさんは悪妻として有名ですが 世のほとんどの女性は、旦那が働きもせず、物思いにふけり何もしない男だったら、そうなると思います。 ありがとうございました
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”実体験でなく、想像で語られた哲学ってどうなんですか?” ↑ 実体験などというのはあてになりませんよ。 過去数百億体存在してきた個々の人間の体験などに どれほどの普遍性があるというのでしょうか。 実体験ではなく、実証というのならこれは科学に なってしまいます。 もっとも、実証もあてになりません。 ヤカンに水を入れ、火で暖めるとお湯ができる。 これを千兆回連続して実証できても、千兆と1回 目にはどうなるかなんてことは判らない訳です。 そういうことで、哲学てのは妄想に近いモノが あります。
お礼
しかし、人間は問題提起と実験(体験)によって学習し、知恵を蓄えたのではありませんか? 突然、降って沸いた知恵なんかありません。 もっとも、人間がこの世界の全てを解き明かしても、「絶対」といえる事は何一つありませんが。 ありがとうございました
基本はそうだと思います。 だから空しくなることも多いです。 ああもいえるし、こうもいえる。 でも結局何なの?一円にもならない。 ただ最近思っていることなんですが、 想定外という言葉がニュースで多く出てきた時期がありました。 「想定外だった。」科学者の人たちがそういいます。 とても頭のいい人たちなのになんでなんだろう、と。 昔、先生に質問したとき、歯切れの悪い口調で 何も答えてくれなかったことを思い出しました。 それは、調べないとわからないからです。 だからきちんとした人ほど、何も言ってくれなくなります。 きちんと観察して検証して確かめて。 それから、ということになります。 それで、科学には限界というか誠実であろうとするほど どうしようもないことがあるんだな、と思うようになり、 一方で、科学的ではないものの 文系の役割を考えるようになりました。 それはとにかくいろんなことを話題にする ということではないのか?と。 確かめるのは科学者に任せて、 とにかく哲学でも宗教でも文学でも芸術でも、 話題にしておく。言語化する。表現する。 そういことではないのかな、と思ったりしています。今は。
お礼
ありがとうございました。 不慮の事故って、もしかしたら、物凄く想像力のある人間が居たら防げるのかもしれないですね。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
>実体験でなく、想像で語られた哲学ってどうなんですか? 民家の窓際で語る、ウチの母の妄想話と同じような感覚を覚えました・・・ 哲学ってそういうものなんですか? ○そういうものですよ。 理論物理学などは全部想像ですよ。想像できない人は理論物理学者になれないし、当然ノーベル賞なんか夢のまた夢なんですよ。日本人のノーベル物理学者多いですけど、みんな布団でひらめいた、風呂でひらめいたなどといっていますが、みんな想像の世界なんですよ。実際にそんな現象が実験的に証明されるのは数年、数十年あとの話ですね。 哲学者も同じですね。哲学者と物理学者の違いは哲学者は未来の有り様を語るのですね。 未来はどうあるべきかが語れないと哲学者にはなれませんね。 5年10年、数十年、数百年経たないと評価できないから哲学者なんですよ。 宗教家も哲学者ですから、例えばイエスとその弟子の妄想がローマで認められたのは死後、300年も後のことですね。存命中に石を投げたやからが生まれ変わって「アーメン」と言ってるだけですね。というようにね。ばあちゃんの妄想と哲学者の妄想の違いは世の中に影響を与える程度の違いだけですね。 150年も前に「海底二万哩」というSF小説を書き、原子力潜水艦を予言したジュール・ヴェルヌなどは科学的な哲学者ですね。実際に北極海を潜水したままで横断した原潜のノーチラスはSF小説にある潜水艦の名前だったのですね。 過去の哲学を一生懸命学んだからといって哲学者じゃないのですよ。それでは小・中・高校の先生にしかなれないのですよ。ばあちゃんのように妄想できないと哲学者にはなれないということですね。
お礼
そうなんですか。 私も妄想しがちな人間なので、なんかうれしいです。 因みに、私はいつも、 「宇宙や地球を含む、自分が生きる世界は、もしかしたらもっと大きな世界があって、その世界の空き缶の中なのかもしれない・・・。」 とか考えてます。 自分でも良く分からないですが・・・。 ありがとうございました
- seo_yashiro
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初期の哲学ってそんなもんでしょ。 かの天動説なんかは哲学と神学によって生み出された想像の産物ですから。 ただ、哲学には「理論的に物事を分析したい」という思いがあると思います。 そこは大きな違いかな、と。
お礼
そうですね。確かに、筋道を示すとか、整理するという思いが感じられますね。 ありがとうございました
お礼
なるほど、ありがとうございました。 私の、宇宙や生命に関する妄想も、案外無駄ではないのかもしれませんね!