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「草なぎの剣」と後鳥羽上皇について
「草薙剣」は、今も熱田神宮にあって、義経が壇ノ浦で見つけられなかった剣は、レプリカだったと聞きました。 では、何故、後鳥羽上皇は、天皇に即位するとき、剣がなかったのでしょうか。 その後、探索を命じたとも聞いています。 上皇は、熱田神宮の剣のことを知らなかったとは、思えないのですが。 どなたかご教授いただければ幸いです。
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熱田神宮説とか、壇ノ浦水没説とか、宮中安置説とか、色々な説があります。 >では、何故、後鳥羽上皇は、天皇に即位するとき、剣がなかったのでしょうか。 無かった、って事になっています。 >上皇は、熱田神宮の剣のことを知らなかったとは、思えないのですが。 当時「熱田神宮説は、まだ無かった」と思われます。 先帝である安徳天皇が持って行って壇ノ浦で紛失した、と言うのが「当時の通説」だったのであれば、後鳥羽上皇も、それを信じていたと思われます。 と言うか、天皇が政治の実権を握っていた時代に「三種の神器の1つは天皇が持っておらず、熱田神社にあります」などという説なんか唱えたら、首が飛んじゃいます。
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- fumkum
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NO2のfumkumです。お礼ありがとうございます。 さて、草薙剣ですが、熱田神宮にあるものは江戸時代に神官が見た記録が残っています。それによると長さ約85センチ。形は菖蒲の葉のようで、青白く、錆はなかったとあります。これから考えて、草薙剣は青銅製であったと考えられます。三種の神器の草薙剣はどのような材質なのかは直接的な記録は残ってはいませんが、熱田神宮の例と、前記した八咫の鏡が火災で溶けた(青銅製の鏡の可能性大)ことなどから類推して、青銅製であったのではないでしょうか。 ところで、平安時代の最初期から伝国の璽(レガリア)は三種ではなく、四種であったことは知られていません。四種目は「大(太)刀契―ダイトケ―」と呼ばれ、もともとは百済のレガレアであったものだと考えられています。太刀(一振説から二振説、それ以上の多振の説あり)と魚佩(魚型の飾り)のセットもしくは、太刀と割符(契符・勘契とも)で、太刀は出征する将軍に天皇大権の象徴としての節刀として授け、契は連絡の時の確認の割符に使うともされていますが、両説があるように実態は不明です。しかし、天皇即位の時に三種の神器と共に新帝に渡される伝国の璽として扱われていますが、宮中の度重なる火災や平安末期の騒乱の中で行方が不明となっています。 天叢雲剣 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E8%96%99%E3%81%AE%E5%89%A3 大刀契 http://www.worldtimes.co.jp/special/yukari/yu021224.htm http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/monjo12/monjo12_f0192/monjo12_f0192_0008/monjo12_f0192_0008.pdf 魚佩 http://www.mahoron.fks.ed.jp/kaisetsu/12_sougyo.pdf 禁秘抄について http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/kinhisyo.htm
お礼
さらに詳しく、ありがとうございました。 時代から考えても、青銅製かもしれませんね。 しかし、すると、草が切れたのかなあ。 鋭い刃への憧れとか? いずれにしても、実用というよりは、本当に宝器だったのですね。
- TANUHACHI
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所謂「三種の神器」は金属器文化(青銅器文化)や古代の遺物を王権の象徴と結合させて説明しようとする牽強付会の存在です。 実際にこの三種の神器は事ある毎に歴史の表舞台に登場し、南北朝内乱の時にも登場します。壇ノ浦で海に沈んだはずの神器が再び登場することなど常識的に考えてもウソであることがわかるはずです。建国神話などの伝説に基づくものが権力の象徴であるなどは既に歴史学の常識からも逸脱していることだけは確かです(生物としての人間の先祖が神であるなどとは誰も信用しないでしょう)。 もし神道を信奉しそれが事実であると強弁するのであれば、その「モノ」を物理的に分析し証拠を示す必要があります。それが出来ないのであれば「虚偽」であるとの説明を補完する形になります。ウソがばれることを恐れて今まで「ないものをある」といってきたのが神道の正体ということになります。 法隆寺の救世観音像も、明治時代にフェノロサがその白布を解くように求めたが、法隆寺の僧は仏罰があたるとして拒んだものの、結局は何も起きなかったとの事実もあります。迷信にはいつの日にか合理的真実の前に敗れ去る日が訪れます。
お礼
ありがとうございました。 まだ、神話の世界が生きているのかもしれませんね。
- fumkum
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>何故、後鳥羽上皇は、天皇に即位するとき、剣がなかったのでしょうか。 平家の都落ちの時に三種の神器は安徳天皇と共に移動したからです。その後、治天の君である後白河法皇の命で践祚・即位を挙げましたが、安徳天皇および平家は西国で健在であり、三種の神器全てを欠く即位式になりました。そのため、後鳥羽天皇が践祚・即位したときに安徳天皇は健在で、両帝並立状況にありました。京都では安徳天皇は退位したものとみなしていました。また神器の還幸の交渉は度々行われてはいます。 壇ノ浦の戦では、八咫の鏡(内侍所)は武士が箱の鍵をねじ切ろうとしたのを平時忠が止め、八尺瓊勾玉は波間に浮かんでいたのを拾い上げられたとされます。草薙剣は二位の尼平時子が腰に手挟み、安徳天皇と共に入水し、行方不明のままだとされています。草薙剣が行方不明のため、後鳥羽天皇は何度か探させたようです。 >「草薙剣」は、今も熱田神宮にあって、義経が壇ノ浦で見つけられなかった剣は、レプリカだったと聞きました。 諸説がありますが、「草薙剣」は熱田神宮に、「八咫の鏡」は伊勢神宮に正身はあるとされます。宮中にあるものは形代(かたしろ)であるともされます。形代は単なるレプリカではなく、神霊が依りついたもの。 実は、「八咫の鏡」については平安中期に3度宮中での火災で焼け、ほとんどその原型をなさぬほど溶けたとされています。そこで、藤原道長政権下で改鋳の議論がありました。結果は改鋳しないことになりましたが、改鋳議論が出ること自体、「八咫の鏡」が形代との認識があったためだと思います。ですから、「草薙剣」の正身は熱田神宮にあることを後鳥羽天皇は知っていたとは思いますが、三種の神器として扱われていた(形代である)草薙剣こそが必要であったのだと思います。なお、剣は天智年間に新羅の僧により一度盗まれ、その後一時宮中に保管した時期があります。 ともかく、即位時に三種の神器がなく、その後も草薙剣を欠いた後鳥羽天皇はこのことにコンプレックスを抱き、剣の鍛造に励んだとされます。これが菊作りの太刀です。また、剣は武の象徴と考え、剣が失われたから武士が政権を握っている、だから武=幕府を倒すことにより武を回復することが必要だと考え幕府打倒のための承久の乱を起こしたとの説もあります。 蛇足ですが、南北朝期の三種の神器は3セットはあったように思います。後醍醐天皇が元弘の変の時に持明院統に渡したもの。還幸ののちに実は本物は自分が持っていたとしたもの。湊川の戦後足利尊氏に攻められ、叡山に脱出後、尊氏に降る前に恒良親王に授けた(即位させた)ものの3セットです。 尊氏に降った後、北朝に神器を渡しますが、その後京都を脱出した後本物はこれだという神器がありましたから最低3セットはあったことになります。 三種の神器 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A8%AE%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%99%A8 形代 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E4%BB%A3 恒良親王 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
お礼
ありがとうございました。 参照記事もありがとうございました。 即位の時、三種の神器はなかったのですよね。 そしてその後、剣だけが見つからなかったということですね。 剣が、鉄だとしたら、「誰も見たことがない、手入れもしていない」のでは、錆びてしまったでしょうね。 勿体ないことですね。
お礼
ありがとうございます。 とても合理的な回答をいただいたと思いました。 剣が「あった、なかった」という水かけ論ではなく、後鳥羽上皇は、持っていなかった。所在も知らなかった。ということですよね。 それなら納得できます。 義経があれだけ探して見つからず、頼朝に責められて、実は熱田神宮にありました。では、浮かばれませんよね。