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武将や王侯貴族の島流しについて:宇喜多秀家ほか
宇喜多秀家は関ヶ原に破れ、八丈に島流しされましたが、その後の生活はどうだったのか疑問に思いました。 かなり長生きしたようですし、妻の実家・加賀前田家や旧臣・花房家から援助があったようですが、罪人として賦役のようなものを科されたりしていたのでしょうか? また、八丈では元大名・五大老ということで特に厚遇とかされていたのでしょうか? 西欧ではナポレオン1世が、中世日本では上皇・天皇も幾人か島流しの憂目に遭っていますが、彼らの島での生活についてもどのような感じだったのかご教示頂ければ幸いです。 それでは宜しくお願いいたします。
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宇喜多家は、ご想像通り、別格扱いでした。暮らしぶりは非常に厳しく前田家等からの差し入れで何とか暮らしていました、島を治めていた代官は、秀家の人柄に深く感銘を受け尊敬していたようです、息子さんだか当人だか忘れましたが、その代官の娘さんと結婚され、島の中でも特別な家として扱われながら、明治に入りその罪は許され、東京に移り住んだたと記憶しています。
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- junon
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宇喜多秀家については判りませんが、同じく西軍に属し関ヶ原の後に紀州九度山に配流された真田昌幸、信繁(幸村)親子について文献をみたことがあります。 その土地から出ることは厳しく禁じられ、監視もされていたようですが、普段の生活は比較的自由で、東軍に属して上田を安堵された昌幸の長男信幸から米やお金などを援助してもらっていたようです。しかし、昌幸が亡くなってからは、次男である信繁に対しては仕送りも減り苦しい生活を強いられたようです。当時、信繁が仕送りをお願いする書簡を出していたようで、そういった書簡も残されています。その時に生活の一助として内職していたのが真田紐で、いまでも地元の名産になっているようです。以上参考になれば。
- huyou_77
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ナポレオン一世についてですが、彼がセント・ヘレナ島に流された後、数名の従者とともに暮らしたそうです。(あやふやな記憶をもとにすると、側近ともいえる貴族と、侍医、執事がいたはず・・・)監視のもとですがある程度の自由はあったらしく、乗馬などもしていたそうです。食生活も、毎朝コーヒーを飲むなど、貧しくはなかったようです。 ごく最近では、ハプスブルク帝国の最後の皇帝も、流罪となっています。彼は私財も全て没収されていたため、ごくつましい生活をしていたそうです。従者などはおらず、食事の支度は皇后自らがしたそうです。食事に関しても島の住人と同じ物、あるいはそれより貧しい物しか口にできなかったと聞いています。 以上、参考にしてくださいね、これで失礼します。
- cse_ri2
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とりあえず、知っているネタだけ書きますと…… 宇喜多秀家とその子孫は、前田家から幕末に至るまで、 ずっと米の仕送りを受けていたようです。 彼の子孫は絶えずに残り、現代にまで至っているとか。 (詳しくは、ワイド版『風雲児たち』第三巻を読んでください。^^;)
お礼
皆さん、ご回答どうもありがとうございました