- ベストアンサー
日本の敗戦と原発事故が似ている
8月15日が終わり終戦特集などを観て、あの戦争の開始と同じく終わりも自分たちで決められなかったということを知りました。役人独特の事なかれ主義というか無責任主義と思います。 先の東日本地震の際の原発事故についても同じような経過をたどっていると思います。 地震で原子炉が壊れたのかどうか?津波が原因なのか?その後の処置の不手際などについて責任者や原因を不明のまま再稼働しています。まさに無責任主義で終戦時と同じに見えます。 そこで質問ですが、この傾向は日本人独特なのかそれとも他の民族や国も同じなのか? もし日本人独特ならなぜか? お答えをお待ちしています。 宜しくお願い致します。
- みんなの回答 (12)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
アメリカでは、福島第一の事故とミッドウェー海戦の相似を指摘する論調があると聞きました。単なる局地戦に敗れたのではなく、システムとしての日本の敗北だというわけです。「敗戦」のような全面的な破綻にいたっていないだけで、このままなら不可逆的な破綻が待ち受けているだけなのではないでしょうか。 質問者様が指摘されている問題意識に全面的に賛成です。しかし、これが日本人独特とまで言えるかどうかはわかりません。 大日本帝国の本質とは、全国の郷党的むら社会を統合した官僚制近代国家だと、わたしは見なしています。古代的(観念的)な天皇制を前面に押したててはいましたが、これは日本の近代化を正当化する一種のタテマエだったのだと思います。これで国民を説得したわけですね。 とても独特な国家体制を築いたと思いますが、いっぽうで個々の要素を見ると、日本にしかないものではありません。 たとえば、官僚組織というものはどこの国でも近代国家の成長につれて肥大化していくものです。そして、肥大化した組織は組織のために行動するようになります。戦後の日本で「省益あって国益なし」と言われる状態がこれです。 官僚にはおおむね優秀な人物がつくものですし、わが国でもこれはそのとおりだと思います。しかし、官僚個人ではなく組織としての官僚制はつねに前例踏襲を旨とし、上意下達を原則とします。そうでなければ、たとえば官僚が個人ごとに違うことをやり始めたり、上司の命令に従わずに独自の行動を取れば、たちまち行政は混乱してしまいます。 これが官僚に特有の無責任性につながっているのだと思います。自分がこの行動を取っているのは上司に命令されたから、前任者の申し送りだから、なんて場合にその判断に責任を感じる人は少ないのでしょう。まれにいないこともないのですが。 この官僚組織の弊害を埋め合わせるのは政治家の役目です。政治家が選択肢を提示して選挙を戦い、その結果選ばれた首長なり議員が役人にその実行を求めるのが本来のあり方です。 しかし、この過程が有効に機能しないとき、たとえばスターリン統治下のソ連や毛沢東の中国のような場合にはあまりにも過剰な政治性がすべてを覆い尽くしてしまいます。国家を形成するイデオロギーが個人の顔を持ってあらゆる決定に優先する状態です。行きすぎた事例ですので悪しき実例にしかなりませんが、近代化にあたってはある程度必要な段階なのではないか、と考えています。 その点日本はといえば、イデオロギーの上では天皇が該当したはずですが、わが国の天皇は歴史的条件の相違からこの展開を辿りませんでした。明治の元勲たちはその資格がありそうですが、彼らが退場するとともに後継者は現われませんでした。その後の政治家たちはいまの政治情勢を見るかのごとき錯覚を憶えるほど、目先の党利党略にとらわれ、大局的な決断を下せず、そして退場を迫られてしまいました。選挙民もまたその時々でのトピックに飛びつくだけで、国の行く末に真剣な判断を下せませんでした。それだけの回路がなかったからでもあります。 結果的に、判断する意志の不在という政治的空隙を埋めたのが軍国主義であり、あの膨張的な指向性なのだと思います。 そして、官僚制は軍組織も同様に彼ら独自の決定を下せないまま、敗戦へとつき進んでしまいました。彼らは決定を下せない自分たちを「すでにある決定は正しいからだ」と自己正当化を図りました。 このような組織が失敗の真相を究明したり、責任を追及したりといったことに及び腰になるのは、ある意味当然のことでしょう。もしこれをやり始めてしまえば、その個人は組織の正当化という目的に背いて組織の一員である自分を否定することになりますし、これまでの決定を覆す決断に対して責任が発生するからです。 これこそ東京電力をはじめとする原発ムラの住人たちがやっていることですね。原発の推進を国策として決めたのは彼らではありませんでしたが、いったん決まったからにはその正しさを証明することに躍起になります。そのために必要とされたのが安全神話であり、その結果がいまの惨状でしょう。 しかし、彼らが誤っていたことはすでに明白です。そして、その結果を引き受けるのが国民であることも明白です。ならば、捨ておくわけにはいきません。幸い、いまは戦前ほど情報が隠蔽されているわけではありませんし、国民の側に意見を表明する機会がないわけではありません。 もう誤りはくり返さずに、今度こそミッドウェー海戦で引き返せたという結果を期待しています。 というわけでご質問の点ですが、これがわが国固有の歴史なのですから、日本独自の現象だと言えるでしょう。しかし、異なる国であっても同じような条件に置かれたら同じようなことをしでかしたのではないかとも思うので、日本人に独自だとまでは言えないのではないでしょうか。 ほかの回答者様が『ベスト・アンド・ブライテスト』を例示されていましたが、福島第一の事故について書いた大鹿靖明『メルトダウン』を「日本版『ベスト・アンド・ブライテスト』だ」と言った人がいます。この連想にわたしはとても納得しました。 長文回答失礼しました。
その他の回答 (11)
- yingtao7
- ベストアンサー率17% (124/699)
日本独特と言い切ってもいいでしょう。 しかし少し違うところがありますね。 あの戦争は・・・当時・・・現在・・・ 政府に取って都合の悪い事は、時間と共に少しずつ消されていきます。 あの時・・・決められなかった? よくわかりませんが、自信をもって決めた人物がいたはずです。 と、言う事で、結論を言いますと・・・ 「都合の悪い事は隠蔽」 日本の隠蔽体質は今も加速中!
- damerimen
- ベストアンサー率38% (8/21)
日本独特ではありません。官僚主義の弊害は知られていますがだからと言って劣るわけでもありません。国のトップが責任を転嫁する慣例が始まったのは清和天皇の御代忠仁公良房から。歴史背景の異なっている国と比較しても意味がないと思います。 情報公開や対策の遅れは未熟な政党に責任があるものであって、目立っていませんが官僚はきちんとやるべきことをやっています玄人揃いの官僚が大臣を叩いて仕事させろと言う意見も最もですが、あんないい加減なマニフェストを遊び半分で選択する国民にも責任の一端はあります。 また、東北電力の女川原発はなぜ事故を起こさなかったのかを考えてみても日本の官僚主義の弊害や民族性であるとは思えません。関東人と東北人は発想がまったく違います。民族性とはどの地方のことを指すのでしょう?
お礼
最近ある事から日本の官僚が実に良く働いていることを知り感動しました。 そうなるとやはり政治家に問題があるのでしょうか? 個人的意見ですが、田中角栄氏のロッキード事件以来、政治家が小粒になったような気がします。お利口さん風な政治家を選ぶ国民にも問題がありそうです。 大変参考になりました。ありがとうございました。
- booter
- ベストアンサー率34% (269/769)
この問題については色々な観点がありますが、重要な事ですので浅学の身ですが回答します。 文藝春秋2012年9月号の新世界地政学-文化と機構文化-(船橋洋一)より引用 ----- 福島原発事故を調査・検証する国会事故調(東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)の黒川清委員長が、報告書(英語版)の「委員長からのメッセージ」で「この災害はメード・イン・ジャパン」であるとし、「その根本原因は、体制順応、お上崇拝、計画への固執、集団主義、島国根性など染み付いた日本文化のありようにある」と書いた。 そして、「もし、この事故の責任を別の日本人が負ったとしても、結果は同じだっただろう」と結論付けた。 この「メード・イン・ジャパン」論をめぐって内外で議論が起こった。 ジェラルド・カーチス米コロンビア大学教授は、「文化によって行動が決まるのならば、誰も責任を取らなくても良い。問題は人がした選択であり、その文化的背景ではない」と批判した。 英フィナンシャル・タイムズ紙は、「チェルノブイリ原発事故の後、日本の政治家や技術者は事故原因がソ連の設計や運用にあると判断し、日本の原発の安全性を検証しなかったことが(フクシマの)悲劇につながった。他国はこの過ちを繰り返すべきではない」と指摘した。 ----- 私は海外からの批判もうなずけるのですが、黒川氏が言いたかったのは、既存組織による構造的問題の残存であり、これの改良、乃至は解体と新規構築を行わなければ、問題が根本的に解決しないという点を述べているように思われます。これを船橋氏は「おそらく黒川氏は、文化と言わずに機構文化というべきだったかもしれない」と簡潔に極めて上手くまとめています。 上記のように、海外からのリーダーにおける運営責任論と、日本内部での組織機構問題の根本原因論による解決策の齟齬が見られるのですが、(-ここからは私個人の意見になります-)、これらの問題に関する根本原因に日本人の無責任さという単純な結論でまとめてはいけないと考えています。 上記の黒川氏の指摘のように、「その根本原因は、体制順応、お上崇拝、計画への固執、集団主義、島国根性など染み付いた日本文化のありようにある」という指摘には私は概ね同意です。この上記「集団主義」に少しスポットを当ててみましょう。集団主義を私なりに解釈すると、誰も進んで責任を取らない人間によって構成される集団(無責任集団)、という事になるのですが、それでは責任を取る、という事はどういう事なのでしょうか。 これについては私の経験談を少しお話させて下さい。 私が以前の職場で職場ルールに反した運用を、私の先輩から押し付けられそうになった際、「大丈夫、責任は俺が取るから」とその先輩より言われたのですが、その先輩が行っていた違反行為に対し、先輩自身があまりにも責任という言葉を極めて安直に用いた事に対して内心憤慨した私は「いや、責任という言葉は本当は違反をせぬよう、取らないようにして、正しい行動を能動的に行う為に責任者となるのが本当であって、違反を前提としている状態で使う訳ではないですよね」と違反行為を押し付けられそうになった私は、自分の怒りを抑えられずに言ってしまった事があります。その先輩の行動を許容していたその時の職場も噴飯ものですが、私個人の感覚としては、責任という言葉を肯定的に捉える文化が日本の企業には無かったように思います。 対してアメリカの例を出しますと、以前黒人でありながら国務長官となり、統合参謀本部議長時代には湾岸戦争を指揮したコリン・パウエル氏は、その自著、「マイ・アメリカン・ジャーニー」の中で、進んで自分と周囲への責任を取る彼自身の性格が上長より認められたという記述があります。これは進んで責任を取るというのは、組織の正しい行動の為に間違いを犯さぬようきちんとした運用を行う、と言い換えても良いでしょう。 そして前述の私の先輩などは、同じ責任という言葉を使うにしても、上記パウエル氏の正しい行動を進んで行う、という事とは真逆の「違反を許容し、露見した場合(仕方ないから)罪を被る」という事をしていたのです。 私個人の経験談も踏まえてのお話ですので、これは一般論ではありませんが、こうした責任に関する思想性があるのが、日本と海外の差ではないかと思います。 そして更に追求すべき疑問が沸きあがります。 なぜこうした思想性の差異が出てくるのでしょうか。 月並みではありますが、これはキリスト教の有無の差、もっと言えば文化的機構「コルプス・クリスティアヌム」の有無の差ではないかと思います。「コルプス・クリスティアヌム」という言葉をあまり深く把握しないままこの言葉を使ってしまうのですが、「コルプス・クリスティアヌム」とは、欧米圏に見られる思想性の事で、これらはギリシャ哲学、ローマ法、キリスト教から為るもの、となります。あるいは、ここから債権問題に悩む南欧を除きたいのであれば、近代精神の有無と言い換えられるかもしれません。近代精神とは、エルンスト・トレルチの論文「近代精神の本質」によると、古代、キリスト教、ゲルマン精神、近代精神の順に生じた四つの根本要素によって構成される、と論じているようです(私は「近代精神の本質」は未読です)。 これらの精神には、物事を合理的側面から分析し、物事の真理をつきつめて、それを現実に応用するという傾向があります。 対して日本でもそれらが完全に無いとは言いませんが、民族的性質からその傾向は弱いと言えるのではないでしょうか。 これは海外の宮殿における平面幾何学的な庭園の設計と、日本における侘び・寂びを重視した日本庭園の設計(日本庭園を造る方は、植えた木の将来の成長まで見込んで配置を考えるのだそうです)を見れば理解が深まるのではないでしょうか。 あるいは、マンホールに模様が書かれているのは見た事があるかもしれませんが、数学的な模様の書かれたフランスのマンホールと、桜やスズメの絵が描かれた日本のマンホールを見ても良いでしょう。 さて、話しを少し戻すと、こうしたキリスト教を含む文化からは何が生まれるのでしょうか。それは正義などの諸概念の定義を哲学的、法律的、思想的に明確にし、これらを実現するという行動です。私の個人的意見ですが、これにより、「組織運営」と「リーダーシップ」の文化が発達したのではないかと考えます。 そして、いろは歌などに代表される諸行無常など、日本には「正義などの諸概念とは時代によって移り変わり、不変のものではなく、人間自身によってその定義を突き詰める事ができない」「10億年後には現在の人間の行動など意味がなくなる」という思想が根底にあり、更に下手に現場の人間が優秀であって組織がまわってしまっていた為、「組織運営」と「リーダーシップ」の文化とその学問的研究が、アメリカと比較してどうも過去の日本では意気軒高ではなかったのではないか、というのが私の意見です。今日の日本では組織論などはさかんでない事はないのですが、その引用文献はどうしてもアメリカのものが多くなります。 ただ、それらをしてアメリカを全て見習え、そして日本にはその資質が無い事を理解すべきだ、という事を言いたいのではありません。 日本にはかつて優れたリーダーシップを執った偉人達が沢山いましたし、今現在もそれらは続いています。また、それらのリーダーシップを発揮した人間には、実際に動く母体が複数の人間によって組織されていたのですが、それらが上手く機能していたという証左でもあります。 日本と日本人には素質と資質があります。しかし不足しているのはリーダーシップ研究、組織研究、そして更に遡れば機構的文化と、民族的思想性になります。 日本という国は何かを生み出す土地ではありません。正義・資本・主義・競争などの概念は欧米から輸入しましたし、文化源流は中国です。ゼロの概念はインドですし、根本的な概念を発明して世界に展開したという例はあまり無いのではないでしょうか。しかし、それらを上手く取り入れてそれらを育てて展開する、改造して自分のものにする、という事については非常に長けている国だったので、この機構的組織とその民族的な根本原理に関してもその身に取り込み、変容する事が今後可能なのではないかと予想しています。 できるだけ噛み砕いて書きましたが少々難解な文章だったかもしれません。 浅学のまま記載した為、ツッコミどころがあるかもしれませんが、お気づきになりましたらご指摘下さい。 不明点については追加でご質問下さい。
お礼
まさに浅学の私にはかなり難解な内容でしたが、参考になりました。アメリカはベトナム戦争を終結させたことからみても自浄能力は高いと思いますが、他のヨーロッパ諸国はどうなのか不明です。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
日本は特殊なのかどうなのか? という話で行くと、そんなに特殊じゃありませんよ と、判断しております。 参考 http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120119/1326944335 ベストアンドブライテスト ベトナム戦争で学習したんだよね? この本が出たのは 1972年
お礼
大変興味のそそる本です。 早速読んでみます。ありがとうございました。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
この傾向は日本人独特なのかそれとも他の民族や国も同じなのか? まず僕なりに「この傾向」の特定をします。これは政府が知っていることを国民に知らせない、と言うことだと思います。 そこでご質問ですが、僕の経験から申します。今のロシアが「CCCP(ソビエット社会主義共和国連邦、略してソ連)」のころです。 モスクワのホテルで、夜中にボソボソ話し声がする、しかも部屋の中らしい。調べてみるとラジオでした。あるのは音量調整のダイヤルが一つ、しかも音を下げてもスイッチが切れないのです。じゃコンセントを抜こうと思ったのですが、壁からコードが出ていて抜く方法も無い。 同調のダイヤルがないことは、政府のニュースしか聞けない、しかも「聞かない」自由も無い、いわば洗脳専用のラジオです。 福島の融解が、数日後には外国で公表されているのに、日本では数ヶ月も真相が聞けなかったのも似ています。子曰、民可使由之、不可使知之 を役人の自己弁護に使うのは間違いだと思います。 僕の回答は、残念ながら他の民族や国にも、あるようだ、ということです。
お礼
正直なところ安心しました。 ありがとうございました。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
他国例えば今のギリシャなんかも他の国からあーだこーだいわれても国論を統一できないのですから、外国でも多少なりともあるところではありますが、日本の「いざというときの決断力のなさ」は飛び抜けたものはあるかと思います。 元々、日本人は決断力を訓練する機会がないですよね。リーダーに求められるのは決断力でも統率力でもなく、調整能力です。例えばAという意見があり、それに対立するBという意見があって割れていたときに日本ではどんなリーダーが求められるかというとAの意見派とBの意見派のそれぞれの話を聞いて調整し、間を打って双方の落としどころを見つけられる人です。 あと日本人は自分の意見を決められないですよね。「あなたは宗教についてどう思いますか」とか「あなたは原発に賛成ですか、反対ですか」と聞かれると多くの人が「私は肯定も否定もしません」という曖昧な答えを選びます。どちらを選ぶのと聞かれてもあえてどちらも選ばないのですよね。 昔、英会話を習っているときに気づいたのですが、「ご機嫌いかが(How are you today?)」と聞かれたときには「元気です(I'm fine.)」と答えるのが「お約束」なのですが(もちろん元気がないときはノーと答える)、日本人の多くが「まあまあです(Just, so so.)」と答えたがるのです。 しかしそれは非常時はとんでもない欠点として現れます。だって、例えば大地震がきて津波がくるかもしれない、車で逃げると速度は速いけど道が渋滞したら逃げられなくなる、歩いて逃げるのは確実だけど間に合わないかもしれない、さあ、どちらを選ぶかとなったときに「車でも逃げないし、歩いても逃げない」となったら最悪の選択ですよね。 実際問題、東日本大震災のときに逃げることを選択できた人たちの多くが助かり、「自宅で様子を見る」を選択した多くの人が犠牲になったわけですよね。 あとは日本人の独裁者嫌いって傾向もあると思います。実は日本人は独裁者が大嫌いなのです。東条英機をヒトラーやムソリーニと同じように見る人がいますが、実際の東条は官僚の中の官僚といったタイプで、独裁者とは程遠い人です。 だいたい、日本史上独裁者タイプの人はロクな死に方をしていません。日本史上最大の独裁者タイプであった織田信長は謀反で死んでいますし、大久保利通もテロで死んでいます。だいたい独裁者タイプは暗殺されるんですよ、日本では。今も大阪市の橋下市長に対してはものすごい嫌悪感が強いですよね。決断しなきゃ大阪府は破たんするのに、それでも決断する人を嫌だといっていますよね。小沢一郎ももうちょっと他人に耳を傾ける日本人ウケするタイプならとっくに首相になっていたでしょう。それに他ならぬ小沢一郎氏自身が「私は首相を目指す」という決断をしなかったですよね。キングメーカー、黒幕であろうとしました。 明治維新から敗戦までで、だいたい80年くらいです。今が戦後67年です。なんかそういうスパンにきているのではないかなと思いますね。
お礼
回答ありがとうございます。 このバランスの無さが、尖閣や竹島問題で不利にならないことを願うばかり。 これって神風を祈るようなものですね。
日本の敗戦と、原発事故と、そして直ぐ間近に迫っている、1000兆円を超える借金による財政破綻によって、日本国民の生活水準がある日突然現在の2分の1以下になるのも、官僚の日本統治によるものです。 これら、最高の権限を持っている者の、無責任で、放漫経営のし放題な国は、日本以外には無いように見受けられます。 それが日本でのみ成立する仕組みの一つは「天皇制」ですが、それがどのように働いているかなどを検証するのは、現代日本社会のタブーですので、なかなか説得力のある論述はできていません。 実質的な権力の上に、見せかけの権力があるような、素朴な言い方では推し量ることのできません。 一番強い権力をもっている者たちが、最もずるい人たちなのです。 緩くて強い権力と、ずば抜けた狡猾さと、両方を所有できる仕組みが、この国にはあるのです。
お礼
回答ありがとうございます。 無意識にこの支配構造を感じ取った国民が子供を作らないようにして人口減少をして江戸時代に戻ろうとしているのでしょう。 だから少子化に歯止めがかからのかも。
仰るとおり、日本の歴史は個人が責任を明確にし とるということは皆無だと思います。ただし、とか げのしっぽ切りという言葉があるとおり、ある大きな できごとの処理に下っ端の個人が責任をとることで、 事件の幕引きがされるのは良くあること。 で、これは全世界に共通する心理であり起こりうる 事ですが、個人の自我が古くから発達した欧米に比し 自我の発達が遅れたアジア全体の特徴だろうと思いま す。個人主義でない事が集団的無責任主義になるので すね。それにしても原発問題での東電社長、管前総理 などの無責任・無能さを思い出すと、最近やたらと ナショナリズムが高揚し必要以上の外国排斥主義にな っているのは昔からよくある国内の失政の不満を外に 向けてごまかす政策かなとも思えたりします。 は
お礼
回答ありがとうございます。 参考になりました。
- trajaa
- ベストアンサー率22% (2662/11921)
事故後に限らず事故前の各組織の在り方からして、通じる点はある。 ・参謀総長に長年宮様が就いていた。 宮様を批判するわけにも行かず、何となく参謀本部の主張には唯々諾々と従う ・陸軍と海軍と外務省とかそれぞれ独自に対外情報の収集を行っていたが、お互いの情報の突き合わせをしないのでその信憑性がさっぱり 対して ・規制官庁の担当者は数年単位で人事異動するので技術や知識知見の蓄積がない 対して、東電側は長年の蓄積があり、規制官庁が規制内容を東電の助言を受けて作っていた ・地震と津波と人為的ミスとそれぞれが、連動することなど思いもせず 仮に疑問を持ったとしても、疑問を持つ方が変人扱いを受けるような風潮 と言う風に、一人一人に信念というか独自性がなく、こんな事を言ったら変に思われるから黙っていよう どうせ、二年もすれば人事異動で部署変わるしね。 という事なかれ主義という意味では類似性がある部分も。 国民性というか民族性の部分が大きいと思う。 何か自己主張すると、「空気読め!」とか言われちゃうしね。
お礼
日本人独特ということでしょうか? 回答ありがとうございます。
- yasuto07
- ベストアンサー率12% (1344/10625)
こういう質問んをしているカラです。責任を追求しない国、日本です。全体主義に変えてごまかすのが日本のスタイルです。
- 1
- 2
お礼
大変わかりやすく示唆に富んだ内容でした。 さてこれをもってこれからある選挙でどのように反映させるかが問題のようです。国民一人一人の賢い選択がありますよう。 祈るしかないのかな?