• 締切済み

明治以前の先祖と苗字改変について

現在、とある理由で先祖を調べてます。私の代の六代前まではちゃんと墓石に刻まれてますが、その初代の方の前が不明です。おそらく初代ですと江戸時代生まれだと思いますが、祖母に子供のときに聞かされていたのは 名前は例えです→「うちの初代の元は近くの鈴木家から出たんだよ」と言ってました。「じゃなんでうちらは鈴木じゃなく佐藤なのか?」と聞くと 確か子供がいない家?でそこで先祖が終わってしまうところに苗字を改変して住んだのが始まりだと聞きました。あの時代はそのようなことがあったのでしょうか? またその大元の本家(鈴木家)からのうちの初代の親がいるはずですよね?それって調べることは可能でしょうか?

みんなの回答

  • damerimen
  • ベストアンサー率38% (8/21)
回答No.5

苗字をに変えることはよくありました 例えば、鈴木さんの家に子供が産まれず、絶え、他に兄弟が無く、兄弟だが養子に出されていた場合です。養子に出て伊藤を名乗っていたが呼び戻されて鈴木姓になる。また、遠縁の佐藤家から養子をとって跡を次がせる場合も同じです また一族から罪人を出した場合も、母方の姓にするとか断絶した家の名を名乗るとはしばしばあることです。江戸期以前から苗字を持つ家ならば町史を調べれば載っている場合があります。うちは初代から載っていましたし当時の人別帳も丁寧に載ってました。 最後に鈴木姓ですが稲を乾燥させる為に杭を田に挿しそこへ鈴の様に稲を積み重ねる方法がありそれを鈴木と呼びます。また五十鈴氏子も鈴木を名乗りました。才賀の鈴木氏は確かに存在しましたが全国の鈴木さんとはだいたい無関係です

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.4

除籍謄本を遡ったら江戸時代末期までのご先祖に多くの場合はたどり着けますよ。 六代前ですと、年齢によりますがギリギリあるかと。 鈴木家から佐藤家に養子に入ったと言うことでしょうか?明治19年以後の養子入りなら、初代の除籍謄本には鈴木家の子であった時代のものが含まれているはずです。

回答No.3

藤がつく苗字はみな 藤原からきています 伊勢の守の藤原は 伊藤 加賀の守の藤原は 加藤 佐渡の守の藤原は 佐藤 ということです そして藤原の大本は ご存知 中臣鎌足です 鈴木の初代は おそらく 戦国時代に雑賀党を率いて戦った 鈴木三太夫では? 雑賀孫市のパパですね

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

菩提寺があれば過去帳でだいたい江戸時代の初期まで遡れるようです。 我が家も、これといった偉人の一人もいない平々凡々とした農家ですが、400年で四回くらい菩提寺が変わる→分家して ○○新田といったところに移住していますが、たどれました。 ※ 伯父がたどったのですが、まったくもって平々凡々としていてがっくりしたものです。 佐藤 鈴木 ・・・・ 名字 現代人の感覚からすると農家というか農業ってのは職業の一つという感じですが、江戸時代の農家ってのは、感覚的にには 株式会社 鈴木農業 代表取締役 源右衛門 という中小企業みたいなものに近い。 その中小企業の組合が 村 親族の社長候補がいないので、近所の農業経営者を雇う(養子にもらう)という感じ。 現代でも、農家ですと「夫婦養子」ってのがあるようです。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.1

養子という制度の意味を理解されているだろうか。家という概念を理解されているだろうか。 江戸時代以前には個人という概念は無く、家が全てなのです。主従関係とは個人と個人の関係ではなく、家と家の主従関係です。家督を継ぐという意味は、家の名誉・財産・権利・契約・義務・借金を全部継承するということなのです。子供が何人いても家督を継げるのは一人だけです。逆に子供に恵まれないと血縁関係の無い人を養子に迎えて養子に家督を継がせます。家を継がせる為に子供に恵まれなかった当主は、自分が死ぬ前に親戚筋、縁故筋、主君筋から適任者を探します。実子がいても将来見込みがない無能力者の場合でも同様に養子を探します。家の断絶、家の没落を何よりも恐れたののです。 徳川将軍家さえ、家康から数えて8代目には直系が絶えて、紀州徳川家から養子を迎えました。それが暴れん坊将軍こと徳川吉宗です。そういう訳で徳川将軍家さえ直系が続かないのだから、庶民ならなおさらです。医療技術が未熟で寿命が短く、若くして子をなさないまま亡くなってしまうことも珍しくない。 つまり家系としての先祖と、血縁関係の先祖は全く違う意味です。こういうことが分かっていないと質問者さんが探しているのは誰ですかということになります。

関連するQ&A