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完全とはとじていますか?宇宙はどうですか?

不完全なる完全は、同意してもらえないでしょうか? 完全なるが故に不完全は、同意してもらえないでしょうか? 科学や物理理論は理解できないのですが、宇宙はとじているのでしょうか? 何に対してとじているのでしょう。 開いていますか? 何に対してひらいていますか? 完全はとじていますか?開いていますか? 何にとじていますか?何に開いていますか? ★自分と世界を思う(精進する)上で考えている事項でして、まぁ簡単な考え方と理屈で結論、結果を単的にご教示いただけるとありがたいです。

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  • amaguappa
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回答No.9

難しいですね。 知というのは対象化の精錬ですから、括ろう、取りこもうとする場を、大なり小なり構築しますね。 演算の条件にたいして、演算は閉じているのでしょうね。 さらに、決定とは何かということの難しさがあって、 あらゆる一は他から成るということと、 すべてが絶えず変化しているということが、両立すると、 部分の特性を理解するということをたゆまず追いかけ続けるような仕事以外に 何ができるのでしょうか。 一つの条件は、そのものとしては孤独な形式であると思います。 しかし科学は、その修正をもって進歩と呼ぶのでしょう。 その過程では他なる条件の参照と巻き込みがあり、 孤独ではあるが開かれているといった状態で 知は、体系を延ばすように生まれついていると思います。 乱数のように、そしてああした群が逐次にでさえなく、同時に積み重なっている、 そして嵩として限りが無い、それほどまでの条件を認識するものを、 完全な意識と言ってみることもできましょうが、 すでにそのように言えば外からの関与における決めかたになってしまいます。 否定弁証法のように、ではない、と言辞に挙げればもはや対象のそれの内にあるという、 つまらぬ罠にかかります。 これでは完全が閉じているとも開いているとも言えません。 関与のないことを、関与を介さずに表すことはできないですね。 最後に、宇宙についてですが、 すべての物質とエネルギーであるところの宇宙は、 外からの関与を断つ様に理解された特性によって、宇宙の定義を得ていると思います。 このことは知であり部分の特性に属している事項でしょう。 くりやさんのお言葉に則すなら、閉じている、と一旦おいて、 しかし全体ではない、完全ではない、決定されないということについて関与に浸されている、つまり開いているということになるかと思います。

krya1998
質問者

お礼

有り難うございました。 他のご回答に書き込み、引用した部分に意味不明の箇所がありました。 《私は、実はこんなことにどうしてもらえるかどうかを、質問したのです。 多分、私達の会の会員は同意するかも知れません。》は、 私のこのような思いに同意してもらえるか、共感してもらえるか。もっと何か更なる深い教えをもらえるか、という意味でした。 どうも失礼しました。 もう少し自身の中で熟成させてから、またみなさんのお教えをお願いしたいと存じます。

krya1998
質問者

補足

amaguappaさん、お久しぶり。豊葦原の老河童もなんとか老後を生きています。 ★知というのは対象化の精錬ですから、括ろう、取りこもうとする場を、大なり小なり構築しますね。演算の条件にたいして、演算は閉じているのでしょうね。 ⇒この質問に対するたくさんのご回答の中で、初めてその通り、我が意なりき。と申し上げます。 ★決定とは何かということの難しさがあって、あらゆる一は他(多ですね)から成るということと(そしてその多とは外見であって、一ですね)、すべてが絶えず変化している(変化しているかのようであるということですね)ということが、両立すると、部分の特性を理解するということをたゆまず追いかけ続けるような仕事以外に何ができるのでしょうか。 ⇒はい。決定とはなにか。認識とか、真理という言葉の使わないで。すごいですね。私たちは一応、個体としてこの地上(を)呼吸し歩いています。地上を呼吸しているんですね。そういう中で、決定、個体性、とともに一性という根源を睨んでいます。そういう永遠に飛ぶ矢というものの宿命は、正に仰せのように個における全体、多なる個における完全なる一性ですね。これは宿命ですが、実はこの多なる個は全なる一の中にあって、どこをとっても一ですね。 ★一つの条件は、そのものとしては孤独な形式であると思います。しかし科学は、その修正をもって進歩と呼ぶのでしょう。その過程では他なる(おぅやはり他でしたか)条件の参照と巻き込みがあり、孤独ではあるが開かれているといった状態で知は、体系を延ばすように生まれついていると思います。 ⇒はい。その通りですね。 ★乱数のように、そしてああした群が逐次にでさえなく、同時に積み重なっている、そして嵩として限りが無い、それほどまでの条件を認識するものを、完全な意識と言ってみることもできましょうが、 ⇒はい。その通りですね。 ★すでにそのように言えば外からの関与における決めかたになってしまいます。否定弁証法のように、ではない、と言辞に挙げればもはや対象のそれの内にあるという、つまらぬ罠にかかります。 ⇒ここは理解が未だできておりません。 ★これでは完全が閉じているとも開いているとも言えません。関与のないことを、関与を介さずに表すことはできないですね。 ⇒ここも理解が未だできておりません。 ★最後に、宇宙についてですが、すべての物質とエネルギーであるところの宇宙は、外からの関与を断つ様に理解された特性によって、宇宙の定義を得ていると思います。 ⇒ことば通りの受け取ります。そして否定も疑問も出しません。通常(そうでない場合もありますが)、知は人間の行為であり、しかも外部を把握構成する行為ですね。紡ぎ出しと編集の世界ですね。そしてその行為は外部的に存在する人間の、構成している界の行為ですね。だから宇宙というタームで指称しているのは、対象であり主格ではない。所詮は、紡いでいる映像でしかない。 ★このことは知であり部分の特性に属している事項でしょう。くりやさんのお言葉に則すなら、閉じている、と一旦おいて、しかし全体ではない、完全ではない、決定されないということについて関与に浸されている、つまり開いているということになるかと思います。 ⇒ここはもう少し、時間をかけて咀嚼してみたいと存じます。 なおこの章末のご論に関連するかもしれませんので、他のご回答者へのコメントの一部をコピペしておきます。 人間が存在し、行為(生命も行為)し、知覚するには波ひとつない大海のような神の完全の表面に波を立てて見なければ現象しないですね。完全に白鳥(白馬)入蘆花となれば、普通の存在では意識できない基底があるだけですね。 章末の完全への希求関係のコメントを有り難う御座いました。 私はこのことについては、実は問題にしておりませんでした。 No.2さんへの補足で少し触れましたが、【質問の“完全”というタームは多分に価値付加的な言語ではありますが。私自身は実は、ヒンドゥ哲理の勉強と精進の中での思い浮かびでしたので、神の創造にかかる創造ということを課題の一つにしております。そういうことで、完全者の投影である創造は完全であり、我らはその完全であり、且つ、全体にして部分だということなわけです。そういう存在、完全存在は創造者にも創造内にもその何物にも完全であり、且つ、閉じる事はない。不完全なるが故に完全。完全なるが故に不完全である。という思いからの質問でした。だから有限は同時に無限である。無限以外の存在はない。という思考なんです。】 なお更に 【私達ってなんですか?居るんですか?どうやって其処に存在しているんですか?そして何処へ行ってるんですか?所詮、創造者が自己の意識を自己のフィルムに通して遷している映像なんでしょう?私達は神の中にしかいない。神自身である、という思想です。ですからそのようにしていればいい。殊更に希求することなく、完全でしょう。】 私は、実はこんなことにどうしてもらえるかどうかを、質問したのです。 多分、私達の会の会員は同意する人もいるかも知れません。 Self-Realization Fellowshipという会ですが。でも一人として同じ信仰や生き方をしている人はおりませんから。 そしてみな、同じ信仰であり同じ人なんです。 一(いつ)にして多数。自分は違うと思っても、一定の意識からみれば、違わない。 蟻さんたちはみな同じ蟻さん。しかしそれぞれのありは異なる個体。 ということでしょう。 たった一人のグルの教えを精進しながら、姿かたちは無論、どの人も同じ信仰も行もしていません。 共通っていう括りは無意味でして、違うのです。どの人の“決定”も違うのです。世界が。 同じことば、タームでありながら。色もvibrationも内容も。でも同じなんです。 類似ではない。ここらあたりは、神のフィルムの摩訶不思議ですね。

その他の回答 (11)

回答No.1

「閉じているか開いているか」を問うという事は、それは 有限な存在性である事が前提です。 ところがそうした有限性は、量子的な相補的不確定性 に基づいており、絶対化において無限不確定(=無)に 還元されるもので、観察において、階層現象表面的に 捉える事によって、存在化する事が分かっている。 その「相補的な不確定性」とは、存在とは通常、時空的 な定位と、そこにおける性質の2つを具備する事で成り 立っていると考えられるところ、その一方しか備わらない =「ある性質を完全に特定すると、その位置が全く不明 になる」という事なのです。 そのような奇妙な事が起きる原因は、元々そうした外的 存在性が本質的ではない事を示唆しています。 全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づ いており、無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、 無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識可能性の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に 無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パタ ーン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての 宇宙を認識するのです。 その「自我仮説=記憶=過去=時間的流れ」と「時空仮説= 予測=未来=空間的広がり」の相補分化において、相対論 的四次元時空(ミンコフスキー空間)における時・空軸の 等距離点に「ライトコーン」と呼ばれる、0の界面を生じます (時・空が虚数関係にあるから)。 「ライトコーン」と呼ぶのは、それこそが光の軌跡だからです。 「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補 として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」 という無の射影として、存在は生じていると言えます。 換言すれば、無いとは分からない事が有なのです。 元々無いものが、開いているか閉じているかと問う事に、 本質的な意味はありません。 有限と無限を具有しているのですから(内包された無限)。 確定した実体を扱う物理が、完結した公理系を成すために、 その確定性を相殺する不確定性原理が必要であったように、 また、公理系が無矛盾であるためにはその公理系では 完結しない(真とも偽ともつかない)不完全な公理の導入が 必須だという不完全性定理のように。

krya1998
質問者

お礼

有り難う御座いました。 psytexさんのご回答を勉強するのに、浅学菲才で頭の活動の鈍い私は相当時間をかけました。 そして、更にお教えを賜ることを願って、補足を書きました。どうもご多忙か、あまり意味性を受け取ってくれなかったようで、今のところまだ再度のご訪問は戴いておりません。 psytex先生のご回答が難しいのは、その深い思索と該博な学識に私がついていかれないこともありましょう。 それと、やはりpsytex先生は、表現において、率直にいって、伝えるという工夫が多少欠落していないでしょうか。 また、観念とか思索というものは、どうしても気持ちであり、単にことば表現で全てがすむわけではありませんので、psytex先生にはことばを超えた内容が髣髴としてきて、表現が晦渋になるのかもしれませんね。 本件については、私としてもう少し熟成をさせながら、再度みなさまのお教えをお願いしたいと存じます。 有り難う御座いました。

krya1998
質問者

補足

psytexさん、詳細で程度を低めない素晴らしいご回答を有り難う御座います。 弁解することになりますが、46年、福祉の単科大学の図書館職員で、労組のアジテーターでしかなかったもので、こういう本格的な論述を理解する世界で私は76年の人生を生きてまいりませんでした。再度、お教えを賜れればなによりに存じます。 ★「閉じているか開いているか」は有限な存在性である事が前提です。 質問者:はい。以下、私の理解の確認と、ご説明のお願いを致します。 ★そうした有限性は量子的な相補的不確定性に基づいており、絶対化において無限不確定(=無)に還元される。 質問者:“絶対化(において)”ということが理解できません。(主語は、“有限性”ですね。) ★観察において、階層現象表面的に捉える事によって、存在化する事が分かっている。 質問者:“階層現象表面的”ということが理解できません。つまり、絶対化において無限不確定に還元した有限性が、階層現象表面的に存在化するのですね。それが観察されるのですね。無から存在化するということですね。 ★その「相補的な不確定性」とは: 存在とは⇒通常、時空的な定位と、そこにおける性質の2つを具備する事で成り立っていると考えられる。ところ、その一方しか備わらない 質問者:時空的な定位を持つ存在の2性質とは、時空ということですね。そして時空の一方しか備わらない。ということですね ★=「ある性質を完全に特定すると、その位置が全く不明になる」という事なのです。 質問者:2性質の内の1性質完全特定するということですか? 存在の2性質とは時空のことだという受け取りが間違っているのですね。ここのフレーズ に来まして、結局、私は理解ができていないのですね。 ★そのような奇妙な事が起きる原因は、元々そうした外的存在性が本質的ではない事を示唆しています。全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており、無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 質問者:文章的には理解できます。(1)ただ確率波動性というご説明と(2)無限に詰め込むということが理解できません。存在に無限につめこむのですか?何を詰め込むのかですか? ★この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、認識可能性の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 質問者:(1)「絶対無=不確定性無限」という闇的な無限に対して、認識可能をさせる断面となる、仮定的運動を想定導入するという事でしょうか?(2)“相対的に無の風は光”とは、絶対想定断面において、無の風が相対的に光となるということですね。(3)無の風とは詩的な表現のように思えますが、やはり理解できません。(4)そして“認識体”とは認識主格の意識であって、認識対象客体ではないのですね。 質問者:次のフレーズは上記のことが理解できてから、再度精読します。 実は、判らないのです。無論、敷衍してご説明いただけるとありがたいです。 ★その「自我仮説=記憶=過去=時間的流れ」と「時空仮説=予測=未来=空間的広がり」の相補分化において、相対論的四次元時空(ミンコフスキー空間)における時・空軸の等距離点に「ライトコーン」と呼ばれる、0の界面を生じます(時・空が虚数関係にあるから)。「ライトコーン」と呼ぶのは、それこそが光の軌跡だからです。 ★「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、存在は生じていると言えます。 質問者:(1)時空とは仮説であって、時空というものがあるということではない。という意味でしょうか?それを、疑問(自我仮説)の相補として生じた時空仮説という表現をされているのでしょうか?(2)存在は「本当はない」。しかし無の射影として生じている、ということでしょうか? ★無いとは分からない事が有なのです。 質問者:無いとは、(何か)判らない事がある。つまり無いということがある、という意味でしょうか? ★元々無いものが、開いているか閉じているかと問う事に、本質的な意味はありません。有限と無限を具有しているのですから(内包された無限)。 質問者:仰せのお教えではそうなるでしょう。 ★確定した実体を扱う物理が、完結した公理系を成すために、その確定性を相殺する不確定性原理が必要であったように、また、公理系が無矛盾であるためにはその公理系では 完結しない(真とも偽ともつかない)不完全な公理の導入が必須だという不完全性定理のように。 質問者:物理は確定した実体を扱い、それは完結した公理系を成そうとする。 そのためには確定性を相殺する不確定性原理が必要である。 そして公理系が無矛盾であるためには、不完全性定理のような、その公理系では完結しない(真とも偽ともつかない)不完全公理の導入が必須である。ということでしょうか?